SSブログ

古事記神話について―神話と歴史の区別(2) [歴史]

DSC_0456赤い菊20200927blog.JPG
先般、8月27日に、神話と歴史の区別という文章を書いたところ、質問をいただきました。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-08-27

私が神武天皇は神話であり、歴史ではないと書いたことに対して、それではあなたは神武天皇架空説を支持していて、神武天皇の実在を信じないのかというのが、質問の内容でした。

「歴史」ではないと書いたことに対して、神話を否定的に見ていると決めつけられたことにちょっと驚きました。しかし、そう受け取る人があったのは、私の書き方に、言葉が足りない所があったのでしょう。

「歴史的な証拠がない」と述べたことが、「架空である」となるのだろうかと、確認するため、「架空」の意味を辞書で調べてみました。

架空:根拠のないこと。また、事実に基づかず、想像によってつくりあげること。また、そのさま。

「架空」は、実在しない、根拠がないことが、断定される場合をいうようです。私は「実在しない」と断定したつもりはありませんでした。証拠がないから、実在したともしないとも断定はできませんが、それでも実在を信じたいというのが、私の考えです。


8月27日のブログで、私は以下のように述べました。


☆☆

現代において、『古事記』は神話であり、歴史ではありません。戦前では日本神話が全て正史であると教育されていて、弥生以前の研究をするのはタブーであるという風潮があったとのことです。

戦後はその反動もあり、考古学が盛んになったようです。「神話」は、時の権力者がでっちあげたものという見方もあり、神話が極端に軽視されていた時代もありました。

しかし、「神話」には、日本人の夢や理想が語られているので、心を豊かにする文学として、親しみ大切にして行きたいと私は思います。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-08-27

☆☆

確かにこれだと、神話が軽視されていることに対する、私の立場が曖昧かも知れません。

私は神武天皇を「実在が証明されていない」とも書きましたが、それは学問的に証明されていないと述べたまでで、「実在を信じるか」と聞かれたら、神話の一言一句そのとおりでなかったかも知れないが、「神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」と言われる方が日本を建国したという、古代の人々の言い伝えを私は素直に信じています、と答えます。古事記神話を編纂された時代の人々が、自分たちの都合の良いように勝手にでっちあげた架空の人物であるとは、決して思いません。

いつぞや聞いた話で、北極圏のイヌイットの話だったかと思います。ある西洋の学者が、昔からの口伝えで先祖の歴史を伝承してきたイヌイットにインタビューしたところ、先祖がマンモスと戦った話が含まれていたので、考古学と、イヌイットの伝承が奇しくも一致していることが証明されたという話を聞いたことがあります。

文字の無い時代に口承で、先祖代々、伝え続けられてきたことは、文字がある時代と同様に、あるいはそれ以上に丁寧に、細部を大切にして、伝承されてきたと、私は思います。

古事記の神話編纂に際しても、稗田阿礼という口伝えの伝承者からの話を聞いて編集したのですから、最も重要な建国神話の人物「神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」についても、間違いの無いよう、伝承されたままに出来る限り精確に語られたことを疑っていません。九州をはじめとする日本各地に、神武天皇東征に関わる様々な地名や伝説が残されているのも、記紀の記述を裏付けていると思います。

しかし、井戸からシッポのある人間が出て来たり、神と人が混然となっていたり、神武天皇の年齢が今の計算に合わないことなど、現代人の基準から言えば、言葉通りのことがあったと言い切ることにも無理があり、ある程度、象徴的に脚色された部分があるのは否定できません。だから、科学的な意味での「歴史」だと云えないけれども、「神話」であることそのものに、大いなる価値があると述べたいです。


神話について小田村寅二郎氏は次のように述べており、私も全く同感です。


☆☆☆

“なほ、神武天皇をはじめ三、四世紀までの天皇方は、全く架空に創られた人物であるかのごとき説が一般に信じられてゐるやうである。たしかに、天皇の御生誕御崩御の年月については、記紀の記載通りに信じられないところもあるが、だからといって、それがすべて後世の讖緯説による創作であるときめつけることには、まだ問題が残されてをり、その他、天皇の御事業についても、これを単なる創作として軽々しく否定することは許されないと思ふ。さらに以下にかゝげる御製がその天皇ご自身のものか否かについても、決定できない場合もあるが、かりに作者についてその間に微妙な変化が行はれてゐるにしても、それは決して恣意的なものではなく、長い民族の伝承の中に生まれた、古代の人々の表現である以上、われわれは、記紀が成立した当時の人々が信じてゐた伝承を、すなほに受けとって読んでゆくべきであると思ふ。”

(pp17~18)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


☆☆☆

「記紀が成立した当時の人々が信じてゐた伝承を、すなほに受けとって読んでゆく」という心でありたいと思います。「すなほに受け取って読んでゆく」のは、神武天皇の御製に限ることなく、記紀の記述全般についても、言えることです。そこに古代の先祖の魂と現代の子孫の魂の触れ合いがあります。


余談ですが、生長の家の谷口雅春氏は、存在の根本生命は“コトバ”であり、「存在」は「コト」であり、言葉と事は、“言事不二(ごんじふじ)”であると言われています。

“コトバ”が「存在」の根本にあるということ、運命は言葉が作るということ、色々と考えさせられます。

「神話」という生き生きとした言葉によって、日本国の魂が支えられていることを思うと、先祖の伝承を、大切にいとおしんで学んで行きたい、そこから何らかの教訓を得て、よりよい人生を送りたいと思うのは、その国に生まれた人間の自然な気持ちだと思います。


人間は、“コトバ”によって自分の人生を築いていきます。絶望のどん底で、もうだめだと思ったときでも、友人や家族の希望に満ちた一言によって、活気を取り戻すことができます。逆もありますが、そうならないよう、人に元気を与える言葉を発せられるように努めたいと思います。

コトバの使い方で、身近な話ですが、買い物で支払いのとき、何かのはずみで自分の気持ちが沈んでいるかなと思うときほど、「レジ係の、この人はいい人だ」と心の中で繰り返すようにしています。

コロナウィルスが騒がれているときにレジに立つこと自体がストレスかも知れないのに、そういう仕事をしてくれていることを思うと、普段以上に感謝の思いが湧いてきます。「私の前にいるこの人はいい人です」と、心で唱えると、自然にその人の良いところが見えて来て、自分の気持ちも楽になります。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。

皆様にとって良い人々に囲まれた楽しい一日でありますようお祈り申し上げます。


タグ:皇室
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(40)―第106代・正親町天皇 [正親町天皇]

DSC_0322白小さい花20200927blog.JPG
今日は一気に時代を下って
第106代・正親町天皇の
御歌を学ばせていただきます。

御在世:1517~1593(崩御・77歳)
御在位:1557~1586(41歳~70歳)

大河ドラマ「麒麟がくる」
が再開されました。

大河ドラマの主人公、明智光秀が活躍した時代の天皇が正親町天皇です。大河ドラマ「麒麟がくる」では、坂東玉三郎さんが正親町天皇を演じておられます。玉三郎さんが、映像として大河ドラマに出演したのは初めてとのことが、意外でした。声のみの出演があったのでしょうね。


第106代・正親町 (おほぎまち) 天皇は第105代・後奈良天皇の第一皇子です。
御奈良天皇の御代は、皇室の財産が極限状況に衰微した御代であり、紫宸殿の築地(塀)が破れ、内侍所(現在の皇居の賢所にあたる)の燈火が、2キロ離れた三条大橋から見えたという話があったことには前に述べましたね。

正親町天皇も御即位されて数年間は、国内の騒乱が激しく、御所の修理、日常の経費の御調達さえお困りになられました。天皇の践祚(せんそ)の後、足かけ四年目、永禄三年(1560年)に、中国地方の毛利元就父子の献上金によって、ようやく即位の儀式が行われました。

践祚:天皇の地位をうけつぐこと

朝廷が経済的極貧から救済されるのは、織田信長が天下を平定したのちのことです。
織田信長は永禄十年(1567年)美濃の斎藤龍興(たつおき)を破り、この年十月、正親町天皇は信長に対して「御料所興復の勅(みことのり)」を下され、信長はこれを拝受して、翌永禄十一年(1568年)足利義昭を擁し、新将軍として足利幕府を再興し、皇居の造営に従事しました。信長の皇居造営の志は、豊臣秀吉にも受け継がれました。

織田信長が、本能寺で明智光秀の急襲に遭い自刃したのは、正親町天皇の御在位30年間のうち、26年目の事でした。(天正十年(1582年))


☆☆☆

“ 叢(くさむら)の蛍(ほたる)

しげりそふ 草の葉がくれ 飛ぶ蛍
 露にひかりの みだれてぞ行く

夕立

なるかみの たゞひととほり 一さとの
 風もすゞしき 夕立のあと

 秋夕

それとなく すゞろに物の かなしきは 
 色かはりゆく 秋の夕ぐれ

 庭紅葉

秋はみな 一木(ひとき)が上も のこりなく
 うつろひかはる 軒のもみぢ葉

 初冬

花に見し 千草も寂し 枯れて行く
 野邊(のべ)のけしきに 冬は來にけり

(中略)(以上、正親町院百首)“

(pp216~217)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味

すゞろ:あてのないさま。また、これといった理由・目的のないさま。漫然。

1首目。しげり合っている草むらの葉に見え隠れして飛ぶ蛍よ、露に蛍の光が宿っては、乱れるように揺れている

2首目。雷が鳴ってひと時に去り、暑かった里に涼しい風が吹いていく、夕立のあとは。

3首目。それとなく、わけもないのに、もの悲しく思われる。濃い緑が枯れ葉色に、徐々に変わっていく秋の夕ぐれは。

4首目。秋はみな、一本の木の上から下まで、すべての葉が落ちて、うつろい変わっていく、軒のもみぢの葉は。

5首目。つい先ごろまで、秋の花が見えて、多くの草が茂っていたのに、みな枯れて行く。野辺の景色に、冬が来たのだなあと思う。


どの御歌も息をのむような美しさです。どこまで味わえるかということで、書き直しを試みましたが、難しい言葉はなく、そのまま味わっていただけばよいと思います。

「すゞろに」、「なるかみ」、「もみぢ葉」、日本語の美しい響きが心に沁みます。


今日も読んでいただき有難うございました。

雨続きでしたが、明日、明後日は晴れるそうです。皆様にとって晴れやかな一日でありますようお祈り申し上げます。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(39)―第40代・天武天皇 [天武天皇]

DSC_0445blueflower20200925blog.JPG
今日は時代をさかのぼって
天武天皇の御歌を読みます。

御在世:622~686(崩御・65歳)
御在位:673~686(52歳~65歳)

一昨日23日午後8時からの、NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』「日本のかたちを決めた女帝 持統天皇の真実」を視聴して、持統天皇のスケールの大きさにあらためて感動しました。持統天皇は夫であられる天武天皇の御位と古代国家統一確立の事業を継承されて、現代に通じる多くの功績を遺されました。(再放送は30日午前8時からあります。)

天武天皇は、第34代・舒明天皇の第三皇子で、第38代・天智天皇の御実弟であられ、母君は同じく第35代・皇極天皇(斉明天皇)です。壬申の乱(672)の後、大和の明日香浄御原宮で即位せられました。これに先立ち、朝鮮半島の白村江戦いにおいて、わが軍が唐と新羅の連合軍の前に完敗(663年)し百済が滅亡し、対外関係から内政に政治の頂点が移った時期に、天智天皇のあとを継がれた天武天皇は、内政の諸秩序を鋭意整えるかたわら、「国史編纂」にも意を注がれました。「古事記」は、天武天皇のご意向を反映し、約三十年後、第43代・元明天皇の御代に完成しました。

☆☆☆

“天皇の御製歌(おほみうた)

み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は零(ふ)りける
 その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如
 隅(くま)もおちず 思ひつつぞ來(こ)し その山道を“
(p47)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

この御製は(萬葉集巻一・二五)に集録されています。この御歌について、山口悌治氏は次のように解釈しています。

☆☆

“(大意)

み吉野の耳我の嶺に、やむ時もなく雪が降りついでゐる。間断なく雨が降りつゞいてゐる。その雪がやむときもなく降りついでゐるやうに、その雨が絶え間もなく降りつゞいてゐるやうに、たゞいちづに思ひ続けながら、羊腸たる山道をひたすら思ひに沈みながらやって来たことである、その羊腸たる山道を―といふほどの意。 “(p245)

(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』、日本教文社)

☆☆☆

言葉の意味

み吉野:「み」は美称。み熊野というのと同じ。

耳我の嶺(みみがのみね):今日所在ははっきりしない。飛鳥から吉野へ超える竜在峠近傍の峰の一つであろうと言われている。

時なくそ:時なしに。 絶えず。

間なくそ:間隔を置くことなく。絶え間なく。

隈も落ちず:隅は道の隅で、道の曲り角のこと。曲がり角ごとに一つも落とすことなく。ここでは「絶えず」と同じく、絶え間なくの意。

思ひつつぞ來し:片時も心を離れぬ思いに沈みつつ来た。

羊腸:羊の腸のように、山道がいく重にもくねり曲がっているさま。


この絶え間ない思いは、出家して吉野の山にこもられた天武天皇のお心を占めていた今後の国のあり方、そのためのご自身の身の振り方であったのでしょうか。

壬申の乱は、御兄君・天智天皇の御崩御の後、間もなく天武天皇の挙兵によって起こりました。

その原因について、複雑なものがあるようですが、高森明勅氏の『日本の十大天皇』では、天智天皇による皇位継承のあり方の見直し、それまで自然だった兄弟、姉弟継承を見直して、「直系継承」の確立を考えておられたので、天智天皇のお心を察した大海人皇子が一度は身を引いたものの、大友皇子を戴く近江朝廷が天武天皇を討伐しようとしているとの誤解により、偶発的に起きたのではないかと述べています。

いずれにしても、叔父と甥が骨肉相争い、甥の大友皇子・弘文天皇が命を失うという痛恨の出来事でしたが、この悲劇がかえって、古代統一国家の確立をおしすすめる結果につながりました。そこが歴史の不思議なところでもあります。

悲惨な出来事はないのがよいに決まっていますが、どんなことが起きようと、起きてしまったことを踏み台として、いっそうの飛躍を目指すことができるのが、人間の強さ、たくましさでもあることを、教えられます。個人でもそうありたいものです。

今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって希望に満ちた一日でありますようお祈り申し上げます。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(38)―第50代・桓武天皇 [桓武天皇]

DSC_0532朝顔紫0923blog.JPG
今日も第50代・桓武天皇
の御歌を学びます。

第50代・桓武天皇
御在世:737~806(崩御・70歳)
御在位:781~806(45歳~70歳)

☆☆☆

“延歴二十年(801)春正月丙酉(ひのえとり)、曲宴あり、是の日雪ふり、上歌ひたまはく

梅の花 こひつつをれば 降る雪を
 花かも散ると 思ひつるかも

延歴二十二年(803)三月庚辰(かのえたつ)(二十九日)、遣唐大使葛野麿・副使石川道益に餞(はなむけ)を賜ひ、宴設の事、一に漢法に依る。酒酣(たけなは)にして上、葛野麿を御床の下に喚びて酒を賜いて歌ひたまはく

此の酒は おほにはあらず 平(たひ)らかに
 歸り來ませと いはひたる酒

葛野麿、涕涙(ているい)雨の如し、宴に侍る群臣流涕せざるはなし(以上、日本紀略)“

(p62)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

葛野麿:藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ)

石川道益:(いしかわのみちます)

おほにはあらず:大にはあらず。大はおおざっぱ、いいかげんの意味。


第一首目。梅の花を見たいと願っていたので、雪が降るのを、梅の花びらが散ったと思ったことよ。

梅の開花はまだかと待ちわびているところに、ふわふわと白い小雪が舞って来たのを見て、ふと梅の花びらかと思ったという御歌です。

第二首目。この酒はいいかげんなものではなく、道中が平らかで、無事に帰って来られるようにと、神が斎い給うお酒ですよ。

遣唐使に遣わされる藤原葛野麿に天皇御自らお酒を賜りながら、無事に帰る事を神に祈られた御歌です。御歌を聞いた葛野麿は涙を流し、同じ宴に侍っていた群臣も皆涙を流しました。葛野麿を思う御優しさのあふれた御歌です。

葛野麿は803年4月に唐に向かいますが、暴風雨のため渡航不能となり、翌804年、最澄、空海とともに、再度出帆します。色々困難がありましたが、翌805年には、唐の第十二代皇帝・徳宗に拝謁し、その子第十三代皇帝・順宗の即位にも遭遇し、無事使命を果たして帰国したそうです。良かったですね。

桓武天皇の皇位継承にあたり、初めて、「剣・爾」をうけつぐ「践祚(せんそ)の儀」が「即位式」に先立って行われました(781年4月、践祚(せんそ)の儀=3日、即位式=15日)「剣・爾」とは「三種の神器」のうちの剣(草薙剣の分身)と玉(八尺瓊曲玉)です。この時の儀礼の形は、先般、今上陛下が行われた「剣爾等承継の儀」と、ほぼおなじ形で、現代まで1000年以上も基本の形を変えずに今日まで伝わってきたそうです。

日本の歴史の奥深さをここにも感じます。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとってすがすがしい一日でありますようお祈り申し上げます。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(37)―第50代・桓武天皇 [桓武天皇]

DSC_0444白と紫0920blog.JPG
今日は、第50代・桓武天皇
の御歌を学びます。

第50代・桓武天皇
御在世:737~806(崩御・70歳)
御在位:781~806(45歳~70歳)

桓武天皇は、台9代・光仁天皇の第一皇子。御年45歳で皇位に就かれ、その後26年在位されました。はじめ首都を、京都に近い山背(山城)の長岡京に遷され(七八四)、のち京都(平安京)に遷されました(七九四)。小学生の時、年号を覚えるために「鳴くよウグイス平安京」と暗唱しましたが、これが平安時代の始まりです。

内政においては、坂上田村麻呂が「征夷大将軍」(註・これがわが国における「征夷大将軍」の称号のはじまり)に任ぜられて(七九七)、蝦夷を平定した(八〇一)。外交面では、七九五年に渤海国に使いを派遣することがありました。

佛教に対する天皇の御信仰は篤く、七八三年には、私に佛寺を造る事を禁止されると共に、最澄(傳教大師)・空海(弘法大師)を重んぜられました。最澄は比叡山に延暦寺を創建(七八八)し、空海と共に支那(唐)に渡りました(八〇四)。翌八〇五年、最澄は帰国して天台宗を伝へ、空海は一年おくれて、八〇六年(桓武天皇崩御後、平城天皇に代わられてから)に帰国して眞言宗を伝へました。

桓武天皇の時代までは、都(天皇のお住まいになる所)は、何回も遷都されました。平安京に遷ってからは、明治になるまで都が同じ場所にあったことは、考えて見たらとても不思議なことです。794年から1869年まで、まさに千年の都(1075年間)でした。

☆☆☆

“延歴十五年(七九六)四月丙寅(ひのえとら)の曲宴(註・天皇が宮中で臣下に宴を賜ふこと)に歌ひたまはく、

今朝の朝明(あさけ) 汝(な)をといひつる 時鳥(ほととぎす)
 今も鳴かぬか 人の聞くべく

延歴十六年(七九七)年十月癸亥(みづのとゐ)、曲宴に酒酣(たけなは)にして歌ひたまはく

此の頃の 時雨(しぐれ)の雨に 菊の花
 ちりぞしぬべき あたらその香を

延歴十七年(七九八)八月庚寅(かのえとら)、北野に遊猟して伊達親王(註・桓武天皇の第四皇子)の山荘に御し、飲酒高会したまひ、時に日暮る。天皇歌ひたまはく

今朝の朝け 鳴くちふ鹿の 其の聲を
 聞かずばいかじ 夜は更けぬとも(以上、類聚国史)“

(pp61~62)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

曲宴(きょくえん):宮廷などでの、正式でない内輪の宴会

朝明(あさけ):朝早く、東の空の明るくなるころ。 「あさあけ」の変化した語。夜明け

時雨(しぐれ):秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨

ちりぞしぬべき:「し」は「為(す)」の連用形。散ることをするな→「散ってはならない」。

あたら:《形容詞「あたら(可惜)し」の語幹から》惜しくも。もったいないことに。あったら。

高会(こうかい):盛大な会合。盛んな宴会。盛宴。

鳴くちふ:鳴くという

類聚国史(るいじゅこくし、るいじゅうこくし):編年体である六国史の記事を、中国の類書にならい分類再編集した歴史書。菅原道真の編纂により、892年(寛平4年)に完成・成立した。

1首目。今朝の夜明けに汝をと鳴くという時鳥は、今も鳴かないのだろうか、人が聞いているからか。

時鳥が鳴くのを、長鳴くといい、汝(な)が鳴く、(汝は親しみを込めた呼び方)と言う、恋の歌が古今集にあります。そういう恋心に重ねて、鳴き声が聞こえないだろうかと期待されるお心なのでしょうか。時鳥と云うのは身近な鳥で、その鳴き声に人間の様々な思いが託されていたのですね。


2首目。このごろの時雨のために菊の花よ、散ることをしないでおくれ。せっかくの芳香が惜しいから。

桓武天皇が遷都直後の宴席で詠まれた和歌です。この歌が貴重なのは「菊」が詠まれた最初の歌とされていることです。 万葉集に登場する「百代草」という名で詠まれた植物がおそらくそうではないかとされていますが、菊という名で詠まれた記録はないそうです。

http://blog.livedoor.jp/rh1-manyo/archives/52553015.html



3首目。今朝の夜明けに鳴くという鹿の、その声をぜひ聞きたいものだ、たとえ夜が更けたとしても。

この御歌を詠み給うたとき、たちまち鹿の鳴き声が聞こえたので、天皇は欣然として喜ばれて、群臣たちに歌を和するよう命じたという話が伝えられているそうです。御歌にこたえるかのように、タイミングよく鹿が鳴くとは、何とも楽しいお話ですね。

(参考:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanmu2.html)

時鳥、鹿、それぞれの鳴き声、菊の芳香に思いを託した豊かな世界が広がっています。


ところで『大仏開眼』の中で、演じられていた伎楽の赤い顔のお面を見て、お酒について、思った事があります。赤いお面は、たぶん「酔胡王」で酔った姿だそうです。

桓武天皇の御歌の中に「曲宴」、「高宴」の席での御歌があります。 称徳天皇のときは肆宴(とよのあかり)という宴もありました。

肆宴(とよのあかり):豊の宴。宴会。主として宮中で催される酒宴。「とよ」は豊かに満ち足りていることを表わして褒める意がある。「あかり」は酒を飲んで顔色が赤らむこと。

お酒を飲んで顔色が赤らんでいること、豊かに満ち足りた食事、そこで楽しく和歌を交わすということが、君臣の親愛の情を交わす場であり、時には神事の後の直来でもあったのだろうと推察申し上げます。

日本人は酔った人に寛大だと言われますが、良いお酒の飲み方というのはこういうことなのかなと何となくほのぼのとした思いになりました。


今日も読んでいただき有難うございました。
秋めいて参りました。秋の花を楽しめる季節ですね。
夏の疲れが出ないよう、皆様お健やかにお過ごしください。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(36)―第47代・淳仁天皇 [淳仁天皇]

DSC_0495白花0917blog.JPG今日は、第47代・淳仁天皇
の御歌を学びます。

第47代・淳仁天皇
御在世:733~765(崩御・33歳)
御在位:758~764(26歳~32歳)

淳仁天皇は、第四十代・天武天皇の御子の舎人親王の第七皇子、即ち天武天皇の皇孫です。第46代・孝謙天皇は、淳仁天皇に譲位されましたが、孝謙上皇との不和が起こり、孝謙上皇・道鏡と対立した藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))の乱により、仲麻呂が斬罪に処せられ、淳仁天皇は淡路島に流され(764)、配流先(淡路島)で翌年、崩御されました。

御在位期間は6年間、33歳で御崩御という御不運な天皇でいらっしゃいましたが、孝謙天皇との関連で学ばせていただき、御霊様の御心の安らかであられますよう、お祈り申し上げたいと思います。

皇太子の時のお名前は大炊王(おおいおう、おおいのおおきみ)です。

☆☆☆

“天平宝字元年(七五七)十一月十八日、内裏にて肆宴(とよのあかり)きこしめす歌二首のうち、皇太子(ひつぎのみこ)(註・淳仁天皇)の御歌

天地を 照らす 日月の極(きはみ)無く
あるべきものを 何をか思はむ

(萬葉集、巻第二十)“
(p58)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


天地:世の中

日月:年月

御歌の意味。天と地(世の中)を照らす日と月(年月)が尽きることが無いように、皇位も極まりないものなのに、なぜものが思われるのだろうか、思い悩むことなど無いはずなのに。

皇太子の御歌としては、戸惑い、ためらいが感じられる御歌です。

萬葉集巻二十には、この皇太子大炊王(おおいおおきみ)の御歌に応える藤原朝臣(藤原仲麻呂)の歌が、集録されています。


☆☆☆

“いざ子ども たはわざなせそ 天地の
堅(かた)めし国ぞ 大和島根は

右の一首は、内相藤原朝臣の之を奏(まを)せり“

https://manyoshu-japan.com/9091/

☆☆☆

内相藤原朝臣:藤原仲麻呂

いざ子ども:さあ、皆の者(目上から目下、同僚に呼びかけるときのことば)

たはわざ:たわけた仕業

大和島根:日本の島々

和歌の意味。さあ、皆の者よ、たわけたことをしてはならない、天地の堅めた国であるぞ、この大和の島々は。

翌年に皇位を継がれる皇太子の御歌にしては、ためらいが感じられます。それに応えて藤原仲麻呂が、肆宴(とよのあかり)に集っている人々に、反乱など起こしてはならない、大和島根は、神が堅め給うた国なのだからと呼びかけて、皇太子を激励する和歌です。


萬葉集巻二十を編纂したのは大伴家持ですが、この御歌を収録した時は、すでに藤原仲麻呂は斬罪に処せられ、淳仁天皇は流されて崩御されています。そのことを念頭に置いていたのでしょう。


NHKBSの『大仏開眼』後編を鑑賞しました。衣装がきれいでした。人間模様も文字だけで読むよりもイメージが湧きやすかったです。

気になったのは安積(あさか)親王が藤原仲麻呂の命を受けた玄昉に毒殺される場面です。安積(あさか)親王が17歳で急死されたのは事実ですが、仲麻呂に殺されたというのは、そういう説があるというだけだそうです。

番組は吉備真備が主人公で、潔癖な真備と、権力に動かされやすい仲麻呂の対立が描かれていました。孝謙天皇・稱徳天皇もとても潔癖な方でいらしたようで、その点、石原さとみさんが好演していたと思います。

女性が皇太子になられたことも、一度出家した天皇が重祚されたことも、当時の歴史上初めてのことでした。皇室のあり方は、固定されたものではなく、新しい試みにチャレンジする融通性があることが、このことからも感じられます。

史上初めて皇位を継がれた第33代・推古天皇、初めて独身で女帝から皇位を継がれた第44代・元正天皇、初めて皇太子になられた第46代・孝謙天皇、女性天皇だけたどっても、「初めて尽くし」です。

畏れ多いことですが、愛子さまが皇太子になられ、めでたくご結婚されてから天皇になられたら、日本の歴史上初めて、配偶者のいらっしゃる女性天皇になられるかも知れないとの、期待をふくらませています。

もちろん、このようなことは私の勝手な空想で、大前提は敬宮愛子内親王の御幸福であり、それが最重要事であるのは、言うまでもありません。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

タグ:女性天皇
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(35)―第46代・孝謙天皇、第48代・稱徳天皇 [孝謙天皇・稱徳天皇]

DSC_0481コスモス0914blog.JPG
今日は、第46代・孝謙天皇
重祚して第48代・稱徳天皇
の御歌を学びます。

第46代・孝謙天皇
御在世:718~770(崩御53歳)
御在位:764~758(32歳~41歳)

第48代・稱徳天皇(重祚)
御在位:764~770(47歳~53歳)


第46代・孝謙天皇は、第45代・聖武天皇の第二皇女。758年(天平宝字二年)大炊王(第47代・淳仁天皇)に譲位されたが不和になり、764年に淳仁天皇が廃されたため、重祚され、第48代・稱徳天皇となられました。

孝謙天皇の御代には、東大寺大佛殿竣工(751年)、大佛開眼供養(752年)、鑑真の来朝(754)、「正倉院北倉」に聖武天皇の御遺品が光明皇太后によって収蔵される(756年)などの事がありました。

我が国最初の漢詩集「懐風藻」の成立が751年、「萬葉集巻二十」にある防人の歌を大伴家持が収録したのが755年、ともに孝謙天皇の時代のことでした。

☆☆☆

“天平勝宝二年(七五〇)九月、従四位高麗(こま)朝臣福信に勅して、難波(なには)に遣はし、酒肴を入唐使藤原朝臣清河(ふじわらあそみ きよかわ)等に賜ふ御歌一首。短歌を幷(あは)せたり

そらみつ 大和の國は 水の上は 土行く如く
 船の上は 床(とこ)に坐(を)る如(ごと)
 大神の 鎭(しづ)むる國そ 四(よつ)の船
 船の舳(へ)並べ 平安(たひら)けく 早(はや)渡り來て
 返言(かへりごと) 奏(まを)さむ日に
 相飲まむ酒(き)そ この豊御酒(とよみき)は

反歌一首

四(よつ)の船はや 還(かへ)り來(こ)と 白香著(しらかつ)け 
朕(わ)が 裳(も)の裾(すそ)に 鎭(いは)ひて 待たむ
(以上、萬葉集、巻十九)

(*白香=麻や楮(こうぞ)の類を細かく裂いて白髪の様にして神示に使ったもの
 *鎭ひて=身をつゝしんで) “

(pp55~56)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

高麗(こま)朝臣福信:高倉福信(ふくしん)。高句麗(こうくり)王族と伝承される背奈(せな)福徳の孫。聖武天皇から桓武天皇まで6代の天皇に仕えました。

藤原朝臣清河(きよかわ):750年遣唐大使に任ぜられ,752年吉備真備(きびのまきび)らとともに入唐。帰国の途中安南(アンナン)に漂着,再び長安に帰り,以後唐朝に仕えて高官となり、帰国できず在唐のまま没しました。

そらみつ:やまとにかかる枕詞。空から見た

船の舳(へ):船のへさき

四(よつ)の船:遣唐使の船。通常、一行が4隻の船に分乗したところからいう。

返言(かへりごと):使者が帰って報告すること。

高麗(こま)朝臣福信(ふくしん):

裳(も)の裾(すそ):衣服の裾

鎭(いは)ひて:けがれを避け、身を清める。忌み慎む。

長歌は、神仏が空から見守り給う大和の國は水の上でも土の上を行くように、船の上でも床に座る如く安定した、大神の治め守る國である、遣唐使の四艘の船も、船のへさきを並べて平安に早く海を渡り、還ることができて、報告できるその日に、一緒に酒を飲みましょう。この美味しい御酒を、というほどの意。

反歌は、四艘の船が早く帰って来られるように神の印に白香を束ねて船に着けて、私も衣の裾に、けがれを避け、身を清めて、忌み謹んで待ちましょう、とのこと。

反歌の「裳(も)の裾(すそ)に」が、今一つ、よく分かりません。これは私の勝手な解釈ですが、連想したのは、ルネサンス以前のキリスト教の絵において聖母マリアが広い衣の中に人々を包み込んでいる描写でした。清浄な衣を身に着けること、神がその衣に人々を包み込んで守るという思いが、東西共通してあるのかも知れないとふと思いました。

このときの遣唐使・藤原清河(きよかわ)が結局、日本に帰国できないまま唐で没し、天皇と豊御酒を酌み交わすことができなかったことを思うと、切ない気持ちになります。当時の遣唐使は、帰国できない人もある、命がけの使いだったのですね。


天皇の重祚(ちょうそ)、二度天皇になられることは、日本全史を通じて2回だけあり、2回とも女性天皇であられました。(皇極・斉明天皇と、孝謙・稱徳天皇)

重祚後の稱徳天皇は、僧侶の道鏡を重用され、いわゆる道鏡事件が起こりました。
発端は「道鏡を天位につけたならば、天下太平ならん」、との九州の宇佐八幡宮の神託が都に届けられたことでした。稱徳天皇は、御信頼の厚い和気広虫(わけのひろむし)に神託の再確認を命じられ、姉の広虫に代わって弟の和気清麻呂が宇佐に出向きました。

和気清麻呂が「わが国ひらけてより以来(このかた)、君臣さだまりぬ。臣をもちて君とすることは、いまだあらず。天津日嗣(あまつひつぎ)(皇位の継承者)は必ず皇諸(皇統)を立てよ。無道の人はすみやかに掃(はら)い除くべし」との神託を受けて帰ってきたことにより、道鏡の即位は阻止されました。

宇佐八幡宮のホームページに、「和気清麻呂とご神託」という説明文が掲載されています。
http://www.usajinguu.com/wake/

「道鏡事件」については色々な解釈があるようで、事は複雑です。いずれにしても、「皇位の継承者は必ず皇統を立てる」ことが、広く人々の心に刻まれた出来事であったことと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。

だんだん秋らしくなってきました。暑さ寒さも彼岸までの言葉の通り、涼やかな秋を迎えたいと思います。

皆様もどうぞお元気にお過ごしください。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「愛子さま皇太子への道」-「みんなで詠もう 愛子さま 百人一首」に入選、九歌仙に選ばれました [愛子さま]

DSC_0535朝顔ピンクblog.JPG



梅雨が長くて開花の
遅れていた朝顔が
ようやく開き始めました。
うれしいです。



7月16日に、表題サイト
「愛子さま皇太子への道」の企画
「みんなで詠もう 愛子さま 百人一首」
に和歌を投稿いたしました。

一昨日、9月11日に「百人一首」完成版の発表がありました。

https://aiko-sama.com/hyakunin-isshu

めでたく百首のうちの1首に入選できました。さらに有り難いことに百首のうち「九歌仙」「拾壱秀歌」計20首の中の「九歌仙」の一首に選んでいただきました(*^^*)
(筆名はカタカナの「タルト」です)

イラストは別途応募されたリカオンさんのイラストをつけていただきました。ハト、トカゲ、ヘビ、トナカイ、キツネ、クマ、鳥や虫や動物たちが、楽しそうに女性天皇の元に集うイラストです。すべての生き物を愛される愛子さまがよく表されていますね。

コンテンツ運営メンバーの皆様、選定作業も色々と難しいこともあったでしょう。ボランティアでサイトを運営されている皆様に、深く感謝申し上げます。

以下が投稿した和歌と説明文です。

☆☆

(敬宮愛子内親王は、)“御父君の慈しみ、御母君のお悲しみを、すべて心の糧にして、皇位についていただくことで、優れた天皇陛下になられることと存じます。その第一歩として、愛子さまが皇太子になられることを切願いたします。

慈愛満つ 日嗣の皇女(ひつぎのみこ)の笑みあふれ 栄える御代の 美しきかな“

(「みんなで詠もう 愛子さま 百人一首」
https://aiko-sama.com/hyakunin-isshu

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-07-16-1

☆☆


「愛子さま 皇太子への道」では、次の企画「愛子さま ご成長アルバム」写真の人気投票(9月6日で募集は終了)の結果発表があります。

こちらは投稿しませんでしたが、「ご成長アルバム」を今日見返しました。

https://aiko-sama.com/archives/album/album-1


「栴檀は双葉より芳し」と言われますが、愛子さまは幼いころからやはり常人とは違ったオーラを発しておられ、王は「十善の徳」を積んだ人であるということですが、敬宮愛子内親王は、生まれながらに王者の風格をお持ちだと思いました。天皇は国民と共にあることを思えば、一国民としても、今上陛下、皇后陛下、将来の皇太子・愛子内親王を、おこがましいことですが、出来る限りお支えして参りたいと、あらためて決意を固めています。

今日も読んでいただき、有難うございました。

涼しくなってまいりました。夏の疲れが出ないよう、皆様もお元気にお過ごしください。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(34)―第45代・聖武天皇 [聖武天皇]

DCP00067鴨0910blog.JPG今日も聖武天皇の御歌を
学びます。3回目です。

御在世:701~756(崩御56歳)、
御在位:724~749(24歳~49歳)

昨日は雁の話だったので、
雁の写真を探しましたが、
手元になかったので、カモで代用します。モドキですみません。


☆☆☆

“左大臣長屋王の佐保の家に御在(おほましま)して肆宴(とよのあかり)きこしめす天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)一首

あをによし 奈良の山なる 黒木もち 
作れる室(いへ)は 座(ま)せど飽(あ)かぬかも

(中略)

左大卿葛城王等(かつらぎのおほきみら)に姓橘氏(たちばなうぢ)を賜(たま)ひし時の、御製歌(おほみうた)一首 (天平八年-七三六)

橘は 實さへ花さへ その葉さへ
 枝(え)に霜ふれど いや常葉(とこは)の樹 

左大臣橘朝臣の宅に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)きこしめす時太上天皇(註・聖武天皇)の御歌(天平勝宝四年-七五二)

外(そと)にのみ 見てはありしを 今日見ては
 年に忘れず 思ほえむかも(萬葉集、巻第十九)“

(p55)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

1首目の言葉の意味

肆宴(とよのあかり):豊の宴。宴会。主として宮中で催される酒宴。「とよ」は豊かに満ち足りていることを表わして褒める意がある。「あかり」は酒を飲んで顔色が赤らむこと。

あをによし:奈良にかかる枕詞黒木:皮のついたままの木材

室:四方を囲い閉じた部屋や建物

1首目、
美しい奈良の山から採ってきた黒木を使って作ったこの建物は居心地がよく飽きないものだ

2首目の言葉の意味

常葉:常緑

2首目は、橘は実までも、花までも、その葉までも、枝に霜が降ることがあっても、枯れるどころかますます栄える常緑の木であるという御歌。

3首目は、遠くから見ていた家を今日は近くで見て、何年も忘れないで思うことだろうという意味。(しばらく会えなかった橘諸兄の家で親しく会えたことを、喜んで詠われたようです。)

1首目は、元正天皇の御歌でも詠まれていた長屋王の佐保の邸のことですね。聖武天皇も同じように長屋王の邸を讃える御歌を詠まれています。

『大仏開眼』は、長屋王の変の後の話でしたが、長屋王を陥れた藤原四兄弟が天然痘で病死したことが描かれていました。長屋王が無実の罪を着せられたことと重ねて、祟りと恐れられたとのことです。

2首目、3首目は、橘諸兄の橘氏のことを詠われています。『大仏開眼』を見ますと、皇族だった葛城王(かつらぎおう)が、臣籍降下されて橘姓を賜り、その橘諸兄を聖武天皇が頼みにしておられたことが描かれています。皇親勢力の政治が続いていたところに藤原氏が台頭してきた時代とのことで複雑な背景があるようです。歴史は奥が深いです。


今日も読んでいただき有難うございました。
残暑が厳しいですが、お身体にお気をつけてお過ごしください。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(33)―第45代・聖武天皇 [聖武天皇]

PICT0231黄色小花0908blog.JPG
今日も聖武天皇の御歌を
学びます。

御在世:701~756(崩御56歳)、
御在位:724~749(24歳~49歳)
です。





9月5日にはBSプレミアムで『大仏開眼』前編のドラマがありました。人間模様が興味深く、衣装が美しかったです。後編が12日にあるので楽しみです。


☆☆☆

“遠江守(とほつあふみのかみ)櫻井王(註・天武天皇の曾孫)天皇(すめらみこと)に「九月(ながつき)のその初雁(はつかり)の使(つかひ)にも思ふ心は聞こえ來ぬかも」と奉(たてまつ)る。天皇(すめらみこと)の賜へる報知(みこたへ)の御歌(みうた)一首

大(おほ)の浦の その長濱(ながはま)に 寄する波 
寛(ゆた)けく君を 思ふこの頃

天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)二首

秋の田の 穂田(ほだ)を 雁(かり)が音(ね) 闇(くら)けくに
 夜のほどろにも 鳴き渡るかも

今朝(けさ)の朝明(あさけ) 雁が音(かりがね)寒く 聞きしなべ
 野辺の浅茅(あさぢ)そ 色づきにける

(以上、萬葉集巻第八)

(p55)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味

1首目

遠江(とほつあふみ):琵琶湖(びわこ)を近江(ちかつあふみ:ちかつおうみ)に対して都から遠い浜名湖(はまなこ)のある国、遠江(とおとうみ)。今の静岡県の西部域。

守(かみ) :令制の官職。国司*(守、介、掾、目)の長官。

*国司:古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏


2首目、3首目

雁(かり):ガン。カモ目カモ科の水鳥のうち、ハクチョウ類を除いた大形の水鳥の総称。

初雁:秋になって最初に北方から渡ってきた雁

大の浦:静岡県磐田市の海岸にあった湖。天龍川、太田川の河道の変更と干拓により現存しない。

穂田(ほだ):秋になり、稲の穂が出そろった田。「秋の田の穂田を」は〈かり〉を導く序詞。

雁が音:ガンの鳴き声

闇(くら)けし:暗いのに

夜のほどろに:夜が明け始めるころ

朝明(あさけ):あさあけの音変化。夜明け

聞きしなべ:聞くにつれて、聞くとともに、聞くちょうどその時

浅茅(あさぢ):まばらに生えた、または丈の低いチガヤ。秋に葉先が紫に染まる。

1首目は、浜名湖(はまなこ)のある静岡県西部の遠江(とおとうみ)の国の国司の長官である櫻井王(さくらいのおおきみ)が、「九月に渡ってきた初雁を使わして私の気持ちを届けたいのですが」と詠んだ和歌に対して、聖武天皇が答えられた御製です。

静岡の大の浦の湖の長い浜に打ち寄せる波のように、ゆったりした頼もしいそなたを思っているこの頃である という程の意。

今だったら、琵琶湖のある近江と浜名湖のある遠江は一日で行き来できますが、昔は遠方の地だったのですね。遠い湖の国を治めている国司、近親者でもある櫻井王が天皇に思いを伝えたいという和歌に、私も思いを寄せていますよとこたえられた御製です。雁の群れに思いを託したり、湖の波のゆったりした様子を統治の有様に重ねたり、自然の鳥や湖にたとえて気持ちを伝える考え方が素敵だと思います。

2首目は、秋の田に穂がたわわに実り、刈穂も近くなったころ、雁の鳴き声が夜の明けきらぬ暗いうちから、響いているとの御歌です。雁も実りの秋に美味しいものを食べに行こうとして、早めに起きて餌をさがしに、ねぐらを出たのでしょう。

3首目、秋も深まり、冷え込むようになった明け方、雁の鳴き声を聞いていると、気温が低くなるのに合わせて、同じころに野原のチガヤの葉も紫に色づいていることだろうという御歌。「色づきにける」に、秋の紅葉の始まりの色を思わせられます。


ガンとカモの違いがよく分からなかったので、調べてみました。

以下のブログによれば、ガンは、カモより大きく、ハクチョウより小さいカモ科渡り鳥の総称。カモは主に夜間に活動するがガンは昼間に活動する。「ねぐら入り」と「ねぐら立ち」があり、V字飛行で雁が移動するのが見られるとのことです。また、カモの中にも、雁と呼ばれる種類があるそうです。なかなか複雑なようです。

(「ネイチャーエンジニア いきものブログ」「2020-01-11雁(ガン)の種類と魅力|ガンとカモは何が違う?雁行の由来になった鳥」
https://www.nature-engineer.com/entry/2020/01/11/090000#雁ガンと鴨カモの違い)


私は、雁の群れは記憶にありませんが、ムクドリの群れが朝夕、空を移動していくのは見たことがあります。また、一度限りでしたが、北海道の釧路でタンチョウヅルのV字飛行を目撃した感動は忘れません。飛行しながら、コーコーと鳴くのですね。雁も鳴きながら、飛んでいくのでしょう。一度、見て、聞いてみたいものです。


今日も読んでいただき有難うございました。

今日も皆様にとって良い一日でありますよう、お祈り申し上げます。

タグ:野鳥
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(32)―第45代・聖武天皇 [聖武天皇]

DSC_0502紫小花0906blog.JPG
今日は聖武天皇の御歌を
学びます。

御在世:701~756(崩御56歳)、
御在位:724~749(24歳~49歳)
です。


第43代・元明天皇は急逝された第42代・文武天皇の皇位を継ぎましたが、元明天皇の御意志を継いで文武天皇のお子様である聖武天皇のご成長を待たれたのが、文武天皇の姉君だった第43代・元正天皇でした。元正天皇は、聖武天皇の伯母君にあたられます。

天武天皇直系で継承されたいという願いの元に、皇位はめでたく第44代・聖武天皇が継がれて、天平文化が花開きました。


なお、一昨日のブログで、「「もとつ人」は、元正天皇の夫君の草壁皇子か、お子様の文武天皇のことかも知れないという解釈する人もあります。」と書きましたが、元正天皇は、草壁皇子のお子様で、文武天皇の姉君なので、「夫君」、「お子様」は間違いでした。「元正天皇の父君、草壁皇子か、弟君の文武天皇」ということで、謹んで訂正いたしました。元正天皇は生涯不婚でいらっしゃいました。

聖武天皇は、第42代・文武天皇の御長男であられ、文武天皇は、第40代・天武天皇の御孫の草壁皇子の御子なので、聖武天皇は、天武天皇の曾孫にあたられます。

この天皇の頃から、藤原氏の勢力が強大になり、他方、支那東北地区の渤海国がはじめて日本に朝貢しました(728)。聖武天皇の皇后・光明皇后は、施薬院、悲田院(730)を置かれ、病弱者、困窮者の救済に献身されました。光明皇后の御父は藤原不比等です。

施薬院(療病院):薬局、病院
悲田院:病者、身寄りのない老人、孤児などのための、社会福祉施設

にあたるそうです。どちらも貧窮者を救う施設です。



聖武天皇は「鎮護国家」の大御心から、「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発せられ(741)、743年に「大佛鋳造の詔」を745年には東大寺建立の発願をせられました。

天平時代は、聖武天皇を中心としたこの時代であり、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴旅人(おおとものたびと)、山上憶良(やまのうえのおくら)などの歌人が輩出したのもこの時代でした。


☆☆☆

“天皇(すめらみこと)の、酒を節度使(せつどし)の卿等(まへつきみたち)に賜(たま)ふ御歌(みうた)一首。短歌を并(あは)せたり(天平四年、七三二)

食國(をすくに)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)に
 汝等(いましら)し 斯く罷(まか)りなば 平(たひら)けく 
朕(われ)は遊ばむ 手抱(たむ)きて 
朕(われ)は御在(いま)さむ 天皇朕(すめらわ)が
うづの御手(みて)以(も)ち かき撫でそ 勞ぎたまふ
うち撫でそ 勞ぎたまふ 還(かへ)り來(こ)む日
相飲まむ酒(き)そ この豊御酒(とよみき)は 

(右の)反歌一首

丈夫(ますらを)の 行くとふ道そ おほろかに
 思ひて行くな 丈夫(ますらを)の伴(とも) (萬葉集、巻第六)

天皇(すめらみこと)、酒人女王(さかひとのおほきみ)を思(しの)ひます御製歌(おほみうた)1首

道(みち)にあひて 咲(ゑ)まししからに 降る雪の
 消(け)なば消(け)ぬがに 戀ふとふ 吾妹(わぎも)   (萬葉集、巻第四)

(pp54~55)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


1首目の言葉の意味

節度使(せつどし):奈良時代(8世紀)に軍団を統轄するために設置された臨時の官職(令外官)

食國(をすくに):天皇の治めたまう國

遠(とほ)の朝廷(みかど):天皇の遠方の政庁、天皇の治める国の遠くへ派遣された官人

罷(まか)る:命じられて、都から地方へ行く。

かき撫でる:あたまを撫でる。旅人の平安を祈る意味があるそうです。

豊御酒(とよみき:酒の美称

1首目。私が治めている国の遠方にある政庁に、そなたたちがこのように行ってくれたら平安に私は遊んでいるだろう、手を組んでいられるだろう、天皇であるわたくしは、    手で髪かきなでねぎらおう、頭をなでてねぎらおう、そなたたちが帰る日に、酌み交わしたい酒である、このすばらしい神の酒を


2首目の言葉の意味

行くとふ道そ:行くという道である

おほろかに:いいかげん

伴(とも):一緒に

2首目。勇者の行くという道をおろそかに考えてはいけない、勇者たちよ。行く道をおろそかに考えるな勇者たちよ


3首目の言葉の意味

咲(ゑ)まし:微笑む

3首目。道で出くわして、私が微笑んだというだけで、雪のようにはかなく、今にも消えてしまいそうな思いで私を恋い慕っていると言う可愛いあなたよ。

酒人女王は、天武天皇の子である穂積皇子(ほづみのみこ)の孫娘だそうです。萬葉集では、微笑むことを「咲まし」と「花が咲く」漢字を使っているのが素敵だと思います。積もらずにすぐ消えてしまう雪のように、消え入りそうになっている酒人女王も愛らしいですね。


1首目、2首目は、節度使への激励の御製で、派遣される人々の平安を祈って、再会を楽しみに待つお心が詠われています。渤海国のこともあり、国内の九州地方の守りを固める必要があったのでしょう。日本は大陸から離れた島国でしたが、朝鮮半島の影響を受け、国の守りに気を配っていたことが思われます。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって平安な一日でありますよう、お祈り申し上げます。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(31)―第44代・元正天皇 [元正天皇]

DSC_0308ウツギモドキ0904blog.JPG
今日も元正天皇の御歌を
学びます。今日で3回目です。

元正天皇は
第43代・元明天皇の皇女、
第40代・天武天皇の御孫、
御在世:680~748(崩御69歳)、
御在位:715~724(36歳~45歳)

写真は御歌の「ホトトギス」に関連して卯の花を探したけれど、手元に無かったので、似た花を選びました。何の花でしょう。

☆☆☆

“先の太上天皇(おほきすめらみこと) (註・元正天皇)の御製の霍公鳥(ほととぎす)の歌一首

霍公鳥 なほも鳴かなむ もとつ人
 かけつつもとな 吾(あ)を哭(ね)し泣くも (萬葉集、巻第二十)

(*もとつ人=昔なじみの人、*かけつつ=心にかけて)

左大臣・長屋王(註・高市皇子の御子で、天武天皇の御孫。七二九年藤原氏の陰謀の犠牲となって薨去)の佐保の宅(いへ)に聖武天皇、御在(おほましま)して肆宴(とよのあかり)きこしめす。太上天皇(おほきすめらみこと) (註・元正天皇)の御製歌(おほみうた)一首

はだすすき 尾花逆葺(さかふ)き 黒木もち
 作れる 家(いへ)は萬代(よろづよ)までに (萬葉集、巻第八)“

(p53)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


1首目は、ほととぎすよ、もっと鳴いておくれ。去年も来て鳴いてくれた懐かしい鳥よ、おまえをこんなに心にかけているのに、一声ばかりで去ってしまって、私を泣かせるとは、酷いではないかというほどの意。

「もとつ人(懐かしい人)」は、元正天皇の御父君の草壁皇子か、弟君の文武天皇のことかも知れないと解釈する人もあります。夜中や、明け方にも鳴くので、近しい亡き人を思う心に結びついたのでしょう。夜、静まりかえった中で、キョッキョッキョと響き渡る鳴き声の余韻が、亡き人を思い出させます。

霍公鳥(ほととぎす)は、杜鵑、不如帰と色々な漢字があります。カッコウ目カッコウ科の夏鳥で、5月~9月に見られるとのこと。この辺で見た記憶はありません、鳴き声は「「キョッキョキョキョ」と鋭い声で鳴くので、「東京特許許可局」とか「テッペンカケタカ」と聞こえるそうです。古来から日本では愛され、萬葉集では額田王が「古(いにしへ)に恋ふらむ鳥」と詠み、清少納言は『枕草紙』第四十一段で、鳥の中で最も素晴らしいとしています。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の川柳も有名です。

(参考資料:とりのなんこ著『とりぱん大図鑑』講談社)

「夏は来ぬ」の歌では「卯(う)の花の、匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて 」と歌われていますね。卯の花は「ウツギ」というそうです。


ホトトギスの姿を見たことがありません。歌声は聞いているかも知れないけれどもよく分かりません。Youtubeで聞くと、ウグイスにやや似ているので、ウグイスだと思って聞き流していたかも、知れません。来年は意識して聞いてみようと思います。

余談ですが、わが家の近くの緑地では夏でもウグイスの声を聴くことができます。父が愛した散歩コースなので、ウグイスを聴くと亡き父のことを思い出し、励まされているような気がします。小さな鳥なのに、声が力強くて、勇気を与えられます。


2首目は、ススキを逆葺きして、皮のついた木材を使った新築の建物は、いつまでも長持ちしますようにとの御製。

左大臣の長屋王(ながやのおほきみ)が佐保に建てた作宝楼(さくほろう)という屋敷に太上天皇と聖武天皇が行幸されて、新築のお祝いの宴で詠われたものとのことです。

「はたすすき」は、穂の出る前の皮をかぶった状態の薄(ススキ)
「逆葺く」は、草を普通とは逆に使って屋根をふく、穂先を下に向けて葺くこと
「尾花」ススキの花穂。形状が獣の尾に似ていることによる名
「黒木」皮のついたままの木材
「室」四方を囲い閉じた部屋や建物

ススキは繁栄を願う意味があるとのこと。お月見の時も、ススキを飾るのはその意味なのでしょうか。長屋王の変で薨去されたことを思うと、長屋王の御霊を思って、萬葉集に収録されたのかもしれません。長屋王は反乱の疑いをかけられますが、無実だったようです。


建物の有様、ススキや黒木が、詳しく詠われているのが、面白いですね。NHKの「ふるカフェ系 ハルさんの休日」で、ハルさんが古民家の建築の細部を語りますが、昔の人の色々な知恵と工夫が凝らされていることを、聴くのが楽しいです。それと同じような興味を覚えます。

『とりぱん』は、東北地方に住む、野鳥をこよなく愛するのとりのなんこさんの漫画ですが、野鳥の生態がよく分かります。野鳥観察の手ほどきにもなりました。


今日も読んでいただき有難うございました。

台風が近づいているようです。どうぞお気をつけて、良い週末をお迎えください。


参考資料:

・とりのなんこ著 『とりぱん大図鑑』 講談社

・やまとうた和歌
 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gensyou2.html


タグ:野鳥
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇の御歌(30)―第44代・元正天皇 [元正天皇]

DSC_0523百日紅0902blog.JPG今日も昨日に引き続き、
元正天皇の御歌を学ばせて
いただきます。元正天皇は
第43代・元明天皇の皇女、
第40代・天武天皇の御孫、
御在世:680~748(崩御69歳)、
御在位:715~724(36歳~45歳)
です。





☆☆☆

“山村に幸行(いでま)しし時、先の太上天皇(おほきすめらみこと)(註・元正天皇)の陪従(へいじゅ)の王臣に詔りたまはく、それ諸王卿等(おほきみまへつきみたち)、和(こた)ふる歌を詠みて奏(まを)すべしとのりたまひて即ち御口號(みくちでう)したまはく、

あしひきの 山行きしかば 山人(やまびと)の
 朕(われ)に得しめし 山つとそこれ(山つと=山のみやげ)

舎人親王(とねりのみこ)の、詔(みことのり)に応(こた)へて和(こた)へ奉る歌一首
「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰」(萬葉集、巻第二十)


御製の歌一首(左大臣橘卿の宅に在(いま)して肆宴(とよのあかり)きこしめし時)

橘(たちばな)の とをの橘 彌つ代にも 吾(あれ)は忘れじ この橘を

(*とをの橘=たわむばかりに実った橘、左大臣・橘諸兄を指す) (萬葉集、巻第十八)“
(pp52~53)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

第1首目は、山に行ってみたら、山人がこのような山の山つと(土産)を、私にくれましたよという御歌で、元正太上天皇は、諸王や臣下に、これにこたえる御歌を望まれました。

それにこたえて舎人親王が、次のように御歌で答えました。

「山に行かれたという、仙人(山人)のような太上天皇は、どのようなお心で山にいらしたのでしょう。土産を差し上げた山人とは村の山人ですか。」

山人は、仙人のことでもあるので、仙人のような元正太上天皇が、山人からお土産をもらわれたというのはどういうことなのでしょう、と舎人親王は詠います。

どんなお土産をいただかれたのでしょうね。美しい花の枝なのか、山で採れた山菜なのか、猪や鹿の肉なのか、私どもが知る術もありませんが、素朴なお土産を喜ばれた元正上皇のご様子が目に浮かびます。

それにこたえた舎人親王の御歌もストレートでなく、お洒落ですね。

おやおや、元正上皇様は、すでに仙人(山人)のようなお力をお持ちで、仙女のようにお美しいのに山にいらして、同じ山人からおみやげをいただかれたのですか。それはどのようなお心なのでしょうと、上皇の美しさと神秘な力を讃える御歌を詠んでいます。

私事ですが、私の数少ない登山のときのことを思い出します。山に登りますと自然に溶け込んだ気がして、草笛を作って吹いたり、岩の上を飛び歩いたりして、いつもと違ったのびのびとした自分になれた気がしました。

元正上皇も同じような伸び伸びした思いをされたのかも知れません。その生き生きとした嬉しそうなご様子を見て、舎人親王が讃えたように思われます。

舎人親王は、萬葉集に三首の歌が収録されていて、歌の名人でもあったようです。『日本書紀』編纂の主宰者を任されていたので、文芸の才能のある親王だったのでしょう。


2首目は、橘諸兄の家に招かれた宴の席で、橘諸兄と橘氏を讃える御歌です。

橘の、たわむばかりに実った橘のように栄える橘氏、いつまでも私は、橘諸兄のことを忘れませんよ、というほどの御歌でしょうか。

橘諸兄は、奈良時代の皇族・公卿で、敏達天皇の後裔で初名は葛城王、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となりました。萬葉集の選者だったという説があり、7首の歌が収録されています。


舎人親王について、私が不思議に思ったのは、「舎人(とねり)」は、「古代、天皇・皇族の身辺で御用を勤めた者」とのことですが、役職名である「舎人」を、なぜ「舎人」を御自分のお名前にされたのかということでした。

今回、ネットでいろいろ見て、yahoo知恵袋の答えがそうなのかと思えるものでした。

それは大化の改新以前の「部(べ)」に、「舎人部(とねりべ)」という部があり、それを治めた皇子だったということからではないかという答えでした。

「部」は、大和政権に属した人々の集団で、朝廷・皇族・豪族の支配のもとに労力や貢物を提供したとのこと。品部、馬飼部など職能によって名前がつけられたので「舎人」の集団だったのでしょう。それを治める皇子ということで「舎人親王」と名乗られたらしいです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14144508949?__ysp=6IiO5Lq66Kaq546LIOOBquOBnCDoiI7kuro%3D

舎人親王が編纂された『日本書紀』は養老4年(720年)に完成したと伝わっています。


『古事記』は文庫本1巻なので、持ち歩いて読み返して来ましたが、『日本書紀』は岩波文庫版を買って読み始めたのですが、5巻もあったので、2巻の途中で挫折しました。たとえ1回でも、何とか読み通すのが目標です。


今日も読んでいただき有難うございました。

昨日から少し涼しくなり、虫の声もにぎやかになってまいりました。早く心地よい秋になると良いですね。

皆様も、どうぞ楽しい一日をお過ごしください。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。