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この3か月を振り返って [ブログについて]

DSC_0638朝顔紫20201010blog.JPGブログを再開して約3か月と3週間、経ちました。
その期間について、振り返ってみたいと思います。

ブログ再開の時、目標を立てました。
天皇陛下のことを気楽に話題にできるようにしたいということと、安定的な皇統継承のため、皇室典範改正について考えたいというのが目標でした。

天皇の御製(御歌)を糧にして、これらの目標に近づきたいと思って、再開したブログでした。

どこまで、その目標に近づけたでしょうか。


【目標】その1

天皇陛下のことを気楽に話題にするという目標ですが、ブログを読み返すと、何だか固い内容になっているという気がします。尊敬の念を失わずに、天皇陛下・皇室に誰もが親しめるような文章にするのが、今後の課題です。

天皇陛下のことを友達に話すと「変な人」に見られるという声を聞いたことがあります。ちょっと残念な思いです。「変な人」に見られない日本に早くなってほしいと思います。

昨日、皇室カレンダーを購入しました。小さなお店ですが、そこの御主人(たぶん戦前生まれ)に、私が「毎年カレンダーを買っている」と話したら、実に嬉しそうに「家に帰ったら巻いてあるカレンダーをすぐに開いて、所定の場所にかけてください。巻いたままだとクセがつくから」と、何回も説明してくださいました。(ここにも、素直に天皇陛下と御皇室を尊敬している方がある)と、嬉しくなりました(^^)

この御主人のように、素直な自然な形で、天皇陛下と御皇室のことを、気楽に話題に出来ると良いなと思います。何も特別なことではないのに、ついかまえてしまうのは、敗戦の後遺症なのでしょうか。そのために、無理せず、気を長くして語っていこうと思います。

多くの日本人が、天皇陛下を「敬して遠ざける」のではなく、「敬して親しむ」となるのが、第1の目標です。

私のように学者でも何でもない、一人のアマチュアが、天皇への親しみと敬意をこめて、色々と思うところ、気が付いたことを書いていくことに、意味があると思います。

「なんだ、この程度のシロウトがいろいろ書いているのだから、自分も思ったことを、気楽に、話したり書いたりしてみようかな」と思う人が、もっと増えてほしいと思います。


【目標】その2

2番目に、心に決めていた目標は、歴史上の8人・10代の女性天皇とその御父君、夫君など、女性天皇に近縁の天皇の御製(御歌)を学ぶことを通して、女性天皇・女系天皇について理解を深めることでした。


8人・10代の女性天皇は以下の通りです。

第33代・推古天皇
近縁の皇太子:聖徳太子

第35代・皇極天皇・第37代・斉明天皇(重祚)
近縁の天皇:天智天皇

第41代・持統天皇
近縁の天皇:天武天皇

第43代・元明天皇

第44代・元正天皇

第46代・孝謙天皇・第48代・稱徳天皇(重祚)
近縁の天皇:聖武天皇、淳仁天皇

第109代・明正天皇(御歌は残されていない)
近縁の天皇:後水尾天皇

第147代・後櫻町天皇
近縁の天皇:後桃園天皇

8人・10代の女性天皇が果たされたお役目のアウトラインを学び、御歌を通して、自分なりにそのお心の一端に触れることができたと思います。

御歌と御経歴を学んだことで、気付いたことが何点かあります。

1、皇位継承に当り、近代では直系優先が重視され、第119代・光格天皇以来、今上天皇まで、直系継承が続いている。(直系=父から子への継承、傍系継承=兄から弟への継承)
2、 皇位継承においては、父方が天皇であるということだけが重視されていたのではない。母方が天皇であることも重視されていた。
3、 女性天皇は、歴史上重要な役目を果たされていた(単なる「中継ぎ」のお役目ではない)。

それぞれの項目ごとに、今後も、少しずつ書いて行きたいと思います。


【当ブログ宛のコメントについて】

筆者は、アマチュアなので、勘違いや、事実の間違いがあると思います。気が付いた方は、ご遠慮なく、コメントをお寄せください。ご意見、ご感想も歓迎いたします。

コメントは筆者が承認しなければ公表されないように設定されています。できるだけ公表するつもりですが、筆者の判断で公表を控えさせていただく場合がありますので、その点は、どうぞご了承ください。

公表を希望しないけれども、筆者宛てにご意見を述べたい場合は、公表されたくない旨を明記して、メールを出すつもりで、コメントを下さい。その場合、コメントは公表いたしません。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって良い一日でありますようお祈り申し上げます。


タグ:皇室
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天皇の御歌(50)―第108代・後水尾天皇(4) [後水尾天皇(明正天皇)]

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今日は、第108代・後水尾(ごみづのを)天皇の御歌について学びます。4回目です。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)
御在位:1611~1629(16歳~34歳)
です。(1617年まで、御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇の院政は1629~1680年(34歳~85歳)の51年間

御父君、第107代・後陽成院崩御の時の「題知らず」の御歌です。

なお、後水尾天皇の生母は、大河ドラマ「麒麟がくる」に登場する、関白・近衞前久の娘の近衞前子で、後陽成天皇の女御として入内しています。そのことを、ちょっと念頭において、ドラマを鑑賞したいと思います。

☆☆☆

“後陽成院崩御、御いたみの御歌八首の次に、「又」として載せたる「題不知」御製十四首の中に(同右(元和三年ー一六一七ー御年二十二歳))

夕暮は いとどさびしき いろそへて 風にみだるゝ 庭のもみぢ葉

もみぢ葉を さそひつくして 吹く音は 木々にさびしき 夕嵐かな

かきくれぬ わかれし 今朝の面影の 立ちはなれぬも 落つる涙に

みちしばの 露の玉の緒 消えねたゞ 今朝のわかれに 何残るらむ

散りしくを また吹きたてて 夕風の 紅葉を庭に のこさぬもうし“

(pp232)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

コトバの意味

いとど:ますますはなはだしい

夕嵐(ゆふあらし):夕方に吹く強風

かきくれぬ(掻き暮れぬ):「かきくれる」は心が暗くなる。悲しみに沈む。

みちしばの(道芝の):道ばたに生えている芝草。また、 雑草

玉の緒:生命、いのち

うし(憂し):つらい。苦しい


1首目。夕暮は、ますますさびしい色彩を帯びて、庭に散り敷いた紅葉の葉が、風に乱れている

2首目。紅葉の葉を、持ち運ぶ強い夕風の音が、木々にさびしく、吹き渡っていく

3首目。悲しみに沈んで別れた、今朝の父君の面影が、心から去らずに、涙となって落ちて行く

4首目。道端の芝の露のようにはかない生命よ、ただ消えないでおくれ、(父君との)今朝の別れに何が残るだろうか

5首目。庭に散り敷いた紅葉の葉を、夕風がまた吹きたてて、残さず飛ばしてしまうのを見るにつけても、別れをつらく思う

母君、近衛前子(後陽成の女御の中和門院)は、豊臣秀吉の「猶子」とのことです。
また、羽柴秀吉は、天正13年(1585年)、近衛前久の「猶子」となっています。

「猶子(ゆうし)」という言葉がよく出て来ます。「養子」に似ていますが、現代と、平安時代・戦国~江戸時代の使い方とは、意味合いが色々と違っているようです。ややこしいので、時間をかけて、丁寧に学んで行きたいと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。

今日は良く晴れて気持ちの良い日でした。皆様、どうぞお健やかにお過ごしください。

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上皇后陛下の御誕生日を祝して [美智子さま]

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少し日が過ぎてしまいましたが、10月20日は、上皇后陛下・美智子さまの86歳のお誕生日でした。遅ればせながら、心よりお祝い申し上げます。ますますお健やかな日々を、お過ごしくださいますよう、深く祈念申し上げます。

上皇后陛下が、皇后でいらしたころ、もう20年近く前になりますが、皇居清掃奉仕に伺った際に、ハプニング的に、わずか1、2メートルの至近距離でお目にかからせていただいたことがあります。その時のことを思い出すと、奉仕員一同が感動の涙で目を赤くしていた光景を思い出し、今でも胸がいっぱいになります。

美智子さまのご著書『橋をかける』は、折にふれて、本棚から取り出し、読んで、生きる力と明日への希望を与えていただいています。

今日は感謝の思いを込めて、上皇后陛下・美智子様の御歌を学ばせていただきます。

宮内庁ホームページから転載いたしました。一部、ふりがな、字間など、手を入れていますが、文章はそのままです。

☆☆☆

(平成二十五年歌会始御歌)

皇后陛下御歌

天地(あめつち)に きざし来たれる ものありて 君が春野に 立たす日近し

昨年二月の冠動脈バイパス手術の後陛下にはしばらくの間 胸水貯留の状態が続いておすぐれにならず、皇后さまは「春になるとよくおなりになります」という医師の言葉を頼りにひたすら春の到来をお待ちでしたこの御歌はそのようなある日あたりの空気にかすかに春の気配を感じとられ、陛下がお元気に春の野にお立ちになる日もきっと近い、というお心のはずむ思いをお詠みになったもの

(平成二十七年歌会始御歌)

皇后陛下御歌

来(こ)し方に 本とふ文(ふみ)の 林ありて その下陰に 幾度(いくど)いこひし

丁度林の木陰で憩うように、過去幾度となく本によって安らぎを得てこられてきたことを思い起こされ、本に対する親しみと感謝の気持ちをお詠みになったもの。


(平成三十年歌会始御歌)

皇后陛下御歌

語るなく 重きを負(お)ひし 君が肩に 早春の日差し 静かにそそぐ

天皇陛下は、長い年月、ひたすら象徴としてのあるべき姿を求めて歩まれ、そのご重責を、多くを語られることなく、静かに果たしていらっしゃいました。この御歌は、そのような陛下のこれまでの歩みをお思いになりつつ、早春の穏やかな日差しの中にいらっしゃる陛下をお見上げになった折のことをお詠みになっていらっしゃいます

(平成三十一年歌会始御歌)

皇后陛下御歌

今しばし 生きなむと思ふ 寂光に 園(その)の薔薇(そうび)の みな美しく

高齢となられ時にお心の弱まれる中、一(ひと)夕、御所のバラ園の花が、寂光(じゃっこう)に照らされ、一輪一輪浮かび上がるように美しく咲いている様(さま)をご覧になり、深い平安に包まれ、今しばらく自分も残された日々を大切に生きていこうと思われた静かな喜びのひと時をお詠みになっています

(宮内庁ホームページ「歌会始 お題一覧(昭和22年から)」)
https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/odai.html

☆☆☆

それぞれ、詳しい説明書きがありますが、少しずつ感想を述べます。

平成二十五年の御歌
この前年が、天皇陛下(現上皇陛下)の心臓のバイパス手術だったのですね。ご入院中、ご入院後も、恢復されるまで、どんなにか、お心づかいされたことでしょう。上皇陛下も、美智子さまが御そばにいらしたことでどんなに心強かったことかと、拝察申し上げます。

平成二十七年の御歌
「本」のことを、「ふみのはやし」と詠まれています。他の天皇陛下か、皇后陛下の御歌でも「ふみのはやし」という言葉があったとおもいますが、私の好きな言葉です。読書は昔の人の心を偲び、今の自分の生き方を見直すうえでも、人生の宝物ですね。

平成三十年の御歌
「重きを負ひし」は、天皇陛下が、国民のすべてを負っておられるような気がして、読むごとに言葉に出来ない感謝の思いがあふれます。少しでもご負担が軽くなられるよう、国民としてお答えできればと思います。

平成三十一年の御歌
上皇后陛下が、全力で、全身全霊で、御在位中の天皇陛下(現在の上皇陛下)をお支えしてきたお姿が感じられます。やっと重荷を下ろしていただくことができて、上皇陛下との安らかな時間をお持ちになることができて、本当に良かったと思います。

譲位のご決断をされた上皇陛下の先見の明、御覚悟が正しかったことが、あらためて思われます。


また、宮内庁ホームページには、上皇后陛下の御近況が発表されています。

(宮内庁ホームページ「上皇后陛下のご近況について(お誕生日に際し)(令和2年)」
https://www.kunaicho.go.jp/joko/press/r021020.html


発表によれば、毎日微熱がおありのようで、心配です。

“今年5月以降,ほぼ毎日,午後にお熱が37度を超え,翌朝に平熱に戻る原因不明の症状がおありで,今も続いています。”

お引越しの準備のお疲れではないかとのことです。また、“左手指のご不自由がおあり”でピアノを弾くのに御不自由のようです。それでも、

“今まで出来ていたことを授かっていたこととお思いになるのか,お出来にならないことを「お返しした」と表現され,受け止めていらっしゃるご様子です。”

と、授かっていたことを「お返しした」と、いつものことながら、どこまでも、御自分の御修行と申しますか、お辛いことも、人生に前向きな言葉に置き換えて、表現されていることに、頭が下がります。

ご散歩のときに

“もしかして「アマビエ」が描かれた飛行機が空港に近い仮御所上空に飛ばないかと,大きな音がする空を見上げられたりすることもおありです。”

とのこと。

いつまでも童心を失わない、美智子さまのお心にほのぼのといたします。

天皇・皇后両陛下ご一家も同様ですが、上皇・上皇后陛下も、新型コロナのために国民の国内移動が制限されている中で、例年の御静養にはお出かけにならずに、御所の中でひっそりと過ごされています。

東日本大震災の時も、都民と同じ時間に、皇居の電気を止めて、共に停電の時間を過ごされたことも思い出されます。

古代の仁徳天皇の「民のかまどがにぎわうまでは、税金をとらない」とのお話を思い起こさせます。

上皇后陛下・美智子様のお言葉は、いつでも羅針盤となって、苦しい時哀しい時、そこから抜け出すきっかけを与えてくださいました。

これからも、上皇陛下と御一緒に、幾久しく、今の楽しく心安らかな歳月をお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げます。


今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にも、豊かな秋の実りがありますよう、お祈り申し上げます。

タグ:上皇陛下
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天皇の御歌(49)―第108代・後水尾天皇(3) [後水尾天皇(明正天皇)]

DSC_0662白花20201020blog.JPG今日も、第108代・後水尾(ごみずのお)天皇の御歌を学びます。3回目です。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)
御在位:1611~1629(16歳~34歳)
です。(1617年まで、御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇は御退位後も院政をお執りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)、51年間に及びました。

今日の御歌は御年37歳の時のものです。後水尾天皇の御譲位は34歳の時ですから、譲位後3年目、第109代・明正天皇の御代の時に詠まれている御歌です。

☆☆☆

“峰照射(寛永九年―一六三二―御年三十七歳)

明くる夜を 残す影とや 木のくれの 繁き尾上に ともしさすらし(聖廟御法楽)

秋里(同右)

秋さむき おのがうれへや わびかはす 暁ちかき しづがいへいへ(聖廟御法楽)

寄社祝(同右)

九重の ためならぬかは まもれたゞ 天津やしろも 国津やしろも(聖廟御法楽)

停年月(同右)

なかぞらに 月やなるらむ 呉竹のすぐなる影ぞ まどにうつれる

速(同右)

あづさ弓 いるにも過ぎて としごとに こぞ(去年)にさへ似ず 暮るる年哉(かな)

(pp232~233)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味

峰:「み」は接頭語。「ね」は山の頂。山を神域とみていう語》、山の頂上。山頂。

影:かげ 【影・景】 (日・月・灯火などの)光

木のくれ(このくれ):木の暗れ・木の暮れ、木が茂ってその下が暗くなること。また、その時節・所。

尾上(おのえ、おのうえ、おがみ):「峰 (を) の上 (うへ) 」の意、山の上、山頂のこと。 また日本の苗字、地名。

ともし:ともし火。灯火。 明かり。

さす:「点す」、「射す」、まっすぐに光が照り入ること

わび:わびしく思うこと。気がめいること。気落ち。悲観。嘆き。悩み。

かはす:互いに通わせる。 やりとりする。

しづ:身分の卑しい。

しづがいへいへ:身分の卑しい人の家々

聖廟(せいびょう):聖人をまつった廟。日本では菅原道真をまつった廟。 特に京都の北野天満宮をいう。

御法楽:仏法を味わって楽しみを生じること。神仏を楽しませること。(「法楽歌」は、神仏に捧げる短歌)

九重(ここのへ):(ものが)九つ重なっていること。また、幾重にも重なっていること。 宮中。皇居。内裏(だいり)

かは:だろうか

天津やしろ、国津やしろ:天津神の社、国津神の社
*天津神は高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称、国津神は地(葦原中国)に現れた神々の総称

なかぞら:空の中ほど

あづさ弓:枕詞、弓を引き、矢を射るときの動作・状態から「ひく」「はる」「い」「いる」にかかる

1首目。夜が明けて灯火が残っているが、木の茂ったところの先に、峰を照らす日光がほのかに射してきた 

2首目。秋の里で、秋の寒さに自分の心配ごとをわびしく語り合っているのだろうか。身分の低い人の家々では。

3首目。宮中のためだけでなく、天津神のやしろも、国津神のやしろも、わが国を守り給えと祈る

4首目。空の中ほどに月があらわれたのだろうか。呉竹(くれたけ)のまっすぐな影が障子窓に映っている。

5首目。弓を射るように、年ごとに、去年と同じでなく、速くも年の暮れになってしまったことよ


徳川幕府の天皇の権威を、幕府の権力を強めるために利用する計画について、昨日、①外戚策と②法度で天皇を縛る、という2つの方法を取ったと書きました。昨日は②の「法度」で天皇を縛る方法について述べました。①の外戚策とは、後水尾天皇に、第2代将軍・徳川秀忠の娘和子(まさこ)を入内させたことを指します。

将軍・秀忠と江(ごう。お江与の方、崇源院(すうげんいん))の間に生まれた和子(まさこ)が6歳の時、1612年から御水尾天皇にとつぐための朝廷と幕府の交渉が始められましたが、なかなかまとまらず、1620年にやっと輿入れが実現しました。後水尾天皇は26歳、和子は14歳でした。

和子は聡明で心の優しい女性で、後水尾天皇との仲は、円満でした。

が、この結婚の後、9年後(1629年)に、紫衣事件が起こり、後水尾天皇の前ぶれなしの突然の譲位が執り行われました。

1629年(寛永6年)11月8日のことでした。当日の朝、朝廷からの口頭による連絡で、正式の装束を着用して御前に集められた貴族たちに、天皇の譲位が伝えられました。貴族たちにも、寝耳に水のできごとであり、もちろん幕府への通知は一切なく、譲位は決行されました。(高森明勅著『日本の十大天皇』pp359~360)

後水尾天皇の譲位の理由について、『細川家資料』には、幕府に報告書を提出した細川忠興の証言として、次の5つが挙げられています。

1、 貴族らに官位をさずけるにも、幕府の介入があって思うにまかせないこと。
2、 財政の収入・支出とも幕府にガッチリにぎられていること。
3、 皇室担当の武家の役人があまりの財源を天皇につかわせないどころか、私腹をこやすために民間に貸し付けて金利をむさぼっていること。
4、 紫衣事件へのいきどおり。天皇の勅許が一挙に70、80もくつがえされたこと。
5、 「隠し題」

「隠し題」とされた5、は、正妻である和子以外、つまり側室が生んだ子どもたちが、生まれたはしから、所司代が手を回して殺したということでした。

所司代:江戸時代に、京都に置かれた職。朝廷に関する事務や、京都・近畿(きんき)地方の民政などをつかさどった。京都所司代

むごい話ですが、当時の上流武家のあいだではふつうにおこなわれていたようです。

後水尾天皇の御子は、和子との結婚以後、譲位するまでのあいだ(1620~1629年)、5人生まれていますが、すべて和子の御子ばかり。ところが、譲位後は、側室から合計22名もの御子が次々と生まれています。どう見ても不自然で「隠し題」は事実だったと判断されます。しかしこのような残酷な風習は皇室や貴族のあいだにはありませんでした。天皇にとって耐え難いことだったにちがいありません。

この5つの理由によって、天皇の〝レジスタンス〟としての譲位の決意はゆるがぬものでした。

以上は、前掲書『日本の十代天皇』(pp365~368)を参考にさせていただきました。

なお、10月17日のブログで、中宮和子との間のお子様を6人と書きましたが、7人(2男5女)の誤りでした。17日の文章も訂正しましたので、ご了承ください。


話が横に飛びますが、日本の平成30年度(2018年度)の年間人工妊娠中絶数は、公式発表で16万2千人とのことです。文明国として憂うべきことですが、後水尾天皇の御ことを学ばせていただきながら、色々と調べたところ、江戸時代も、薬による中絶や誕生後間もない嬰児殺しは少なくなかったことを知りました。現代だけの問題ではないことを、考えさせられました。


江戸幕府の朝廷抑圧の問題について取り上げましたが、行き過ぎがあったとしても、江戸幕府の徳川家康も、二度と戦国時代に戻る事のない太平の世を築こうと、必死であったことと思います。その努力を後世の人間が一方的に断罪することはできませんが、問題点を学び、現代に通じるものがあれば、その知識と経験を生かすことは、必要であると思います。


今日も読んでいただき有難うございました。

今日は、朝は冷えましたが、秋晴れの気持ちの良い一日になりそうです。お元気にお過ごしください。

タグ:明正天皇
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「立皇嗣の礼」と眞子内親王のご結婚について [皇室典範改正]

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秋篠宮文仁殿下の「立皇嗣の礼」が11月8日に行われることになりました。








“秋篠宮さまが事実上の「皇太弟」に相当する皇嗣となられたことを内外に宣明する「立皇嗣の礼」が11月8日に行われることも、正式に決まった。”
(文春オンライン10月16日配信)

文春オンラインが、“事実上の「皇太弟」”と書いているのを見て、不謹慎ながら「結婚式と披露宴をしますが、婚姻届は出せません。事実婚です」と言われた気がしました。

個人の結婚ならいざ知らず、天皇陛下に関わる重要なことを、「事実上」の皇太弟として、正式な法的な裏付けもなしに、国の内外に宣明するという、日本国政府・日本国民の頭の中は、いったいどこまで付け焼刃的になっているのかと、腹立たしく思います。

先日、書いた通り、立皇嗣の礼は、日本の歴史上、前例のない儀式であり、現時点で行う意味は全くありません。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-08-12

今後、皇室典範が改正されて、愛子さまが女性皇太子になられれば、「皇嗣」は、その時点で変更になります。

仮に、本気で秋篠宮殿下に、次の天皇陛下になっていただくことを確定したいのならば、今の皇室典範には「皇太弟」の条文がありませんから、国会で早急に議論して、典範を改正して、「皇太弟」の御身分を皇室典範に明記してから、「立皇太弟の礼」を執り行うのが、正当な筋道だと思います。

典範が改正されないまま、将来変わるかも知れない皇嗣を内外に宣明する「立皇嗣の礼」は、一部議員と国民のご機嫌取りの、政治的配慮なのでしょう。

日本国憲法でも、皇室典範でも条文に手を付けずに、解釈を拡大していい加減な運用をする、日本人の悪しき習慣を、今こそ見直さないと、取り返しのつかないことになります。

立皇嗣の礼が終われば、眞子様のご結婚の話が進むのではないかと話題になっています。眞子内親王の小室圭氏とのご結婚について、文春オンラインの記事などでは、ご結婚に否定的なコメントを書いている人々がいますが、この人たちに、果たして、眞子様のご結婚について、とやかく言う資格があるのだろうかと、自分のことを振り返ってもらいたいと、思います。

2005年に小泉政権の「皇室典範に関する有識者会議報告書」が提出されて以来、皇室典範の改正は保留になっています。それから、15年も経つのに、政府及び国民は、怠慢にも、この問題を放置してきました。政府に、苦情を言わない、無関心な国民にも、重大な責任があります。

その結果、何が起こっているかといえば、結婚適齢期を迎えられた秋篠宮家のお二人の内親王方、同様に三笠宮家、高円宮家の女王方のお立場も、宙に浮いたままになっています。

①ご結婚により、臣籍降下して、一般人になられるのか。
②皇族として、女性宮家の当主になられるのか。

国会議員は、なぜわが身に置き換えて考えないのでしょう。適齢期の娘さんがある議員も、娘さんがめでたく結婚された議員も何人かあるでしょう。一般国民もそうでしょう。自分の娘さんが、同じ不安定な立場だったら、親として心配でたまらず、早く何とかしなければと思うに違いありません。

結婚によって一般人として生きるのか、それとも国民に無私の心で尽くす皇族のお立場を保たなければならないのか、この大きな違いにどれだけ、お若い内親王方が悩んでおられるかとの想像力が働かないのでしょうか。考え始めると、苦しさと申し訳なさで、胸がいっぱいになります。

皇室典範改正が国会で決定されることになっているうえ、皇族方は政治的な御発言が封じられています。御自分たちの意思ではどうすることもできない状態に置かれています。


国民は、実は自分たちのなすべきことをしていないことを分かっていて、内心自責の念に駆られている。その自責の念が、ゆがんだ形で、秋篠宮家バッシングに向かっているのではないかと、心理学的な、深読みをしたくなってしまいます。


国民としての自分のなすべきこと、すなわち「政府に対して皇室典範改正の検討を速やかに開始せよ」と声を上げることを、実行してからでなければ、眞子内親王のご結婚のことをとやかく言う資格はないと言えます。

まずは、眞子内親王のお立場を確定するのが、第一です。女性宮家を創設し、その当主になっていただきたいというのが、私の願いです。

それがかなわないなら、せめて、政府は今後とも女性宮家は創設しないでも、皇統継承を必ず安定させるという実施可能な方策を国民に示して、一刻も早く、そのように、典範改正の決議をしてください。そういう「方策」があればの話ですが。そして眞子様に、後顧の憂いなく、一般人としてお幸せになっていただくのも、一つの方法です。

なお、小室圭氏の御母堂の問題が話題になっていますが、冷静に見ると、どうもそこに、バイアスがかかっている、偏見と作為がある気がしています。

そもそも、仮に御母堂に問題があったとしても、その息子である小室圭氏まで、バッシングすることは、常識的に考えても、正しいとは思えません。

御母堂のいわゆる「借金問題」にしても、借用証がなければ法律的に「贈与」であるのが明らかであるのに、マスコミがあえて「借金」にコトバをすり替えているところに、この問題を声高に問題に仕立てた人々の作為を感じます。

先日、NHKで野口英世の話がありましたが、野口英世は、篤志家から、多額の学資の援助を、繰り返し受けて、あそこまでの成功を修めたとのことでした。援助された学資を野口英世は返済していないと思います。

そういうことは世間ではよくあることで、小室圭氏の御母堂が、訴え出た元婚約者の男性をそういう善意の篤志家だと思い込んでいたとしたら、そのことを誰が責められるでしょうか。また、贈与だと信じていたものを、いきなり借金だと言われたら、「そうではないでしょう」と、私でも、文句を言うと思います。

さらに、元婚約者と称する人が、匿名で、しかも皇族とのご結婚がはっきりしたタイミングで、贈与でなく借金だったと、小室氏の結婚を邪魔するような形で、世間に公にするという行為自体が、私には信じられません。

もし、私がその人の立場であれば、借用証がないのに「返してほしい」と言い立てることはしません。口約束で「返すから」と言われていても、借用証なしで渡したお金は、相手が返せなかった場合でも、取り立てはしないつもりで貸します。返してくれたらラッキー、というくらいの気持ちです。その代わり、自分の生活設計上、無理になる金額を貸すことはしません。

まして、相手の息子が、皇族と結婚するかもしれないという話が持ち上がっていたら、その幸運を祝福して、仮に借用証があったとしても、その時は請求せずに、結婚式が無事に終わって、相手の環境が落ち着くまで、待ちます。借用証もないのに、このタイミングで、相手に請求するなど、恥ずかしくて、絶対に考えられないことです。

私は何でもかんでも陰謀論に見立てるのは好きではありませんが、あのタイミングでの公表は、眞子様を結婚させたくない人々の陰謀ではないかと、疑いたくなります。

眞子様をバッシングしている人は、その陰謀に乗せられて、踊らされているのではないかと、一度たちどまって、考え直す必要があるのではないでしょうか。

愉快な話題ではありませんが、日本国民の身勝手さが目に余るので、あえて書くことにいたしました。

眞子様のご結婚に異議を申し述べるなら、国民としての義務、眞子様のお立場を、安定したものにして差し上げるという、大切な義務を果たし終わってからにしてください。


歴代天皇の御歌を学ぶうちに、私の信念は、ますます固まってまいりました。

現在の、側室制度の無い日本では、男系男子のみの皇位継承は、不可能です。

女性天皇、女性宮家の創設、双系天皇(父方、または母方が天皇)を公認する、ことしか方法は残されていません。

今の天皇陛下直系の愛子さまが、皇太子になられるのがベストです。

いずれにしても、政府は一刻も早く、皇室典範改正を、真剣に議論して、早急に、結論を出していただきたいです。その結論は、天皇陛下に安心していただける結論でなければならないことは言うまでもありません。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって有意義な一日でありますよう、お祈り申し上げます。秋篠宮家・眞子内親王のご多幸を願っています

タグ:秋篠宮
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天皇の御歌(48)―第108代・後水尾天皇(2) [後水尾天皇(明正天皇)]

DSC_0623紫花20201017blog.JPG今日も第108代・後水尾(ごみづのを)天皇の御歌を学びます。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)、御在位:1611~1629(16歳~34歳)
(1617年まで御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇は退位後も院政をお執りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)51年間に及びました。

昨日は、徳川幕府の朝廷蔑視と抑圧策について、『歴代天皇の御歌』から引用させていただきました。

昨日述べた幕府の朝廷抑圧策の項目を書き出してみます。

1、 幕府の朝廷抑圧策
○皇居への、幕府の藩兵の駐屯(天皇並びに公卿らの厳しい監視)
○皇族御一人を上野輪王寺座主(ざす)として江戸に迎える(朝廷に対する人質)
○禁中並びに公家衆諸法度(きんちゅうならびにくげしゅうしょはっと)」の制定(1615年)

徳川家康は、天皇の地位そのものを否定してしまわないことを大前提に、天皇の権威については、幕府の権力を強めるために活用し、利用する計画を立てました。

その方法として、①外戚策、②「法度(おきて)」で天皇を縛る、という、2つの策を採用しました。

②の「法度」で天皇を縛る、ことによって、前回述べた紫衣事件が起こりました。

幕府は「法度」により、天皇の宗教的権威を規制しました。

規制の一つは、元号の制定です。元号は、古代以来、かならず天皇によって定められる形式がうけつがれてきました。「法度」では天皇の元号制定権を否定していませんが、「シナの前例のうちからよいものを選ぶように」(第8条)という制限を設けた上、実際の改元は、幕府の同意や、発意でなされました。

さらに、天皇の宗教方面への栄典授与などの権限を、「法度」の第17条などによって、制約しました。

☆☆

“「紫衣を許される寺の住職は、以前は極めてまれだった。ところが近年はやたらと天皇によって許されている。これは僧の序列をみだし、公的なあつかいをうける寺院の名を汚すことによもなる。大変けしからんことだ。これからは、権力があり、経験をつみ、高い評価をうけた者だけにすべきである」(第17条)
さらに諸寺院を統制する「法度」が、これにつづいて出されています(ひとくくりに「元和令(げんなれい)」といわれる。)“

(高森明勅著『日本の十代天皇』(p350) 幻冬舎新書)

☆☆

寺院統制の法度が、江戸幕府により、実行にうつされたのが「紫衣事件」です。

僧侶の紫衣の着用は、それまで天皇の勅許によって、許されていました。ところが、幕府が、勅許については、事前に幕府の同意が必要だと言い始めたのです。天皇の勅許は、古代以来、伝統的に認められてきた権限ですから、後水尾天皇は、法度制定後も、以前の通り、幕府の同意を得ることなく、独断で勅許をつづけていました。

これに対して幕府は強権を発動し、1615年以降の紫衣勅許の取り消しを命じたのです。これによって、すでに発せられていた多数(70~80件)の勅許が、取り消されることになりました。

「綸言汗(りんげんあせ)のごとし」といって、君主がいったん表明した言葉は、身体から出た汗がふたたび体内にもどらないように、もとにもどることはないと言われていた時代に、その「綸言」が何十件もくつがえされるという「前代未聞中の未聞」の出来事は、後水尾天皇にとって耐え難い屈辱でした。

この事件が、後水尾天皇の突然の御譲位の理由の一つとなりました。

以上の説明は、(高森明勅著『日本の十代天皇』)を参考にしています。


これらの時代背景に思いを馳せながら、後水尾天皇の御製から御心をしのばせていただきます。


☆☆☆

“後陽成院崩御後、御追善の御製八首の中に(元和三年―一六一七―御年二十二歳)
(中略)

うけつぎし 身の愚(おろか)さに 何の道も 廃(すた)れ行くべき 我が世をぞ思ふ 

社頭祝(寛永二年―一六二五―御年三十歳)

松の葉は ちりうせずして すみよしや 守るもひさし 敷島のみち

いのりおく いま行く末も かぎりなく 猶ふきとほせ 五十鈴川かぜ

(孟冬の頃、式部卿宮御典)

(pp231~232)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

第1首目。天皇の位を受け継いだ、わが身の愚かさ未熟さに、どの道もすたれて行くのではないかと、我が世を思うことよ

第2首目。常緑の松の葉が散って、なくなってしまうことがないように、すみよし(住吉)の神がいつまでも久しく、敷島のみちを守ってくださることであろう

第3首目。祈ります、いまから末長くいつまでも、五十鈴川の神代の昔からの川風が、ますます吹きとおっていくように、神の御心が世に吹きとおって行くことを。


1624年、34歳の後水尾天皇は、興子(おきこ)内親王(明正天皇)に御位を譲られました。明正天皇は7歳~21歳まで、御位につかれました。

第109代・明正天皇
御在世:1624~1696(崩御・74歳)
御在位:1629~1643(7歳~21歳)

後水尾天皇と、徳川2代将軍・秀忠の娘である和子(まさこ)中宮との間には2男5女の7人のお子様がありましたが、男子の皇子方は、幼いうちに亡くなっていたため、女子の興子内親王が御位を継がれることになりました。

“「禁中並びに公家衆諸法度」の第六条に「女縁者の家督相続は古今一切これ無き事」”すなわち、「女性の縁者の家督相続を、古今(過去も今も)、一切ないことにする」という、女性が一切、家督相続をしてはいけないという条文がありました。

徳川家康・秀忠が制定した「女性の家督相続は古今にない」との「法度」を、後水尾天皇があっさり破られたわけですが、興子内親王が、徳川将軍・秀忠の直系の御孫であられたため、幕府は何も言いませんでした。

じつは、譲位の前に、天皇は譲位の希望を幕府に伝えており、将軍の家光は「まだ早すぎる」との態度だったものの、その返事に「女帝は昔もめでたい例が多かった」との一文が含まれていたので、後水尾天皇は、ある種の手ごたえを感じて、譲位を決行されたようです。(『日本の十代天皇』p362)

偶然の産物とは言え、「女帝でよい」と譲位をご決断された、後水尾天皇の「法度破り」について、いささか痛快な気がいたします。明正天皇にはお気の毒な気もいたしますが、幕府のかたくなな男尊女卑思想に縛られない自由さを感じます。


今日も読んでいただき有難うございました。

冷たい雨が降っています。皆様どうぞ着る物を暖かくして、お身体に気を付けてお過ごしください。


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天皇の御歌(47)―第108代・後水尾天皇(1) [後水尾天皇(明正天皇)]

DSC_0729ダルマ20201016blog.JPG
今日は、第108代・後水尾(ごみづのを)天皇の御歌について学ばせていただきます。

御在世:1596~1680(崩御・85歳)
御在位:1611~1629(16歳~34歳)
です。
(1617年まで、御父・後陽成天皇の院政)


御水尾天皇は御退位後も院政をお取りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)、何と51年間に及びました。

御水尾天皇の院政期間:(第109代・明正天皇、第110代・後光明(こうみょう)天皇、第111代・御西(ごさい)天皇の各御在位全期間、第112代・霊元天皇御在位の3分の2まで)

実のところ、私は、御水尾天皇ではなく、御水尾天皇から御位を譲られた、女帝であられる第109代・明正(めいしょう)天皇の御歌を学びたかったのです。

明正天皇の御歌を学べば、日本の歴史上8人、十代の女性天皇の御歌を一通り、学んだことになります。

しかし、第109代・明正天皇の御製は、残されていませんでした。そこで父君の第108代・後水尾天皇を通して、明正天皇のことを学ばせていただくことにしました。

明正天皇は、
御在世:1624~1696(崩御・74歳)
御在位:1629~1643(7歳~21歳)
です。

第109代・明正天皇は、なぜ御製を残されなかったのでしょう。明正天皇の御在位期間は7歳~21歳でした。御幼少で即位されたとはいえ、同じ年齢の7歳で即位され22歳で崩御された第116代・桃園天皇は、御年8歳から御歌を詠まれ、短いご生涯でも、462首の御歌を残されています。御退位の後、74歳までご存命であられた明正天皇が、御製を1首も残されなかったことには、それ相応のわけがあったと思わずにいられません。

第108代・御水尾天皇は、第107代・後陽成天皇の第三皇子。16歳で践祚せられました。しかし後陽成上皇は崩御されるまで7年間、院政をお執りになられました。御水尾天皇も、34歳で、徳川幕府の専断に堪忍の緒を切られて突如御譲位になられましたが、御譲位された明正天皇から霊元天皇の御在位の3分の2の時期まで、4代の天皇の御代、51年間の長期にわたって、院政を続けられ、御年85歳で亡くなられました。

さらに、御水尾上皇の院政の後を継がれた第112代・霊元天皇も、御水尾天皇と同じ年齢の34歳で御譲位され、そのあとの東山天皇、中御門天皇の御二方の御代に、46年の長期にわたって院政をおとりになられ、御年70歳でお亡くなりになられました。後陽成院、御水尾院、霊元院、この御三方による院政存続の意義は、きわめて注目すべきことです。

『歴代天皇の御歌』の編者は、このことを

「徳川幕府の朝廷蔑視に対するご歴代の天皇方の、皇位継承と皇位保持についての、血のにじむやうな御心懐に基づくものと拝察すべきではなからうか」

と書かれています。

御心懐:お心に思うこと

徳川幕府の朝廷蔑視について、『歴代天皇の御歌』に次のように書かれています。

現代にも通じる非常に重要な内容だと思うので、長文になりますが、引用させていただきます。

前半3分の1ほど(p220)は、御水尾天皇の一代前、第107代・後陽成天皇の御代の説明です。後半(pp229~231)は、第108代・御水尾天皇の御代の説明です。
横書きにしたため、年号等数字の一部を、漢字でなく、算用数字といたしました。

☆☆☆

“後陽成天皇の御在位期間の後半3分の2は、徳川家康ならびに秀忠が登場する時期である。これより先、家康は、天正十八年(1590)江戸城に入って、秀吉に対決する本拠を確立、秀吉の死後3年目、慶弔五年(1600)には関ヶ原の合戦で勝利を収め、慶長八年(1603)に征夷大将軍に任ぜられることになり、こゝに徳川幕府は名実共に樹立し、以後慶応三年(1867)まで十五代・二百六十五年間存続することになった。その後家康は、京都に二条城を築き、己の武威を誇ると共に、朝廷に対して皇居を守護するという名目で、最も信頼するに足る藩兵を駐屯せしめ、厳に天皇ならびに宮中の公卿らの行動を監視させ、また皇族の御一人を上野輪王寺の座主(ざす)として江戸にお迎えし、これをもって朝廷に対する人質(ひとじち)とする挙に出た。さらに宮中に対しては、慶長二十年(1615)日本政治史上かつて類を見ない内容を盛りこんだ「禁中並びに公家衆諸法度(きんちゅうならびにくげしゅうしょはっと)」を制定して弾圧を制度化し、さらに「武家諸法度」(同年)によっていかなる大名も、幕府の許可なくして宮廷に奉伺することを厳禁したのである。これらの「法度」は、将軍職を秀忠に譲ったあとではあったが、未だに家康の存命、施政中の所業であった。(p220)

さて、御水尾天皇の御代のことに戻るが、践祚されて4年目の慶長十九年(1614)の「大阪冬の陣、その翌年の「大阪夏の陣」によって豊臣家は完全に亡びる。さらに後陽成天皇の項で述べた通り、慶長二十年(1615)幕府は「武家諸法度」を定めて武家に対するきびしい規制を強ひると共に、「禁中方御条目(きんちゅうがたごようもく)十七箇条」(別名「禁中並びに公家衆諸法度」)なるものを朝廷に押しつけた。かくて天皇から征夷大将軍に任ぜられている臣下が、逆に天皇に対して規制の文書を押しつけるといふ前代未聞の暴挙が起きたのである。しかもその法度の第一条は、「天子御藝能之事。第一御学問也」――天皇は御学問をなさらなければならぬ――と書き出されてゐるばかりか、「和歌は光孝天皇よりいまだ絶えず、綺語たりといへども我が国の習俗なり。棄て置くべからず……」とあった。だが光孝天皇は第58代目の天皇であられるが、その天皇から和歌をお詠みになってをられる、などとは無智も甚だしい。神武天皇以降、どれだけ多くの天皇方が、和歌を「しきしまのみち」としてその道を御つとめ遊ばされたことか。そればかりではない。幕府の「法度」は、和歌のことを「綺語たりと雖も」といふ。「綺語」とは、「巧みに表面だけを飾った言葉」、或ひは佛教が「十悪の一」とする「真実にそむいておもしろく作った言葉」といふ意味しかない。いづれにしてもそれは「しきしまのみち」として和歌が、日本の文化の中核を貫いてきた事実――まごころの表白――とは、全く正反対の意味であらう、しかもそれにつゞけて「棄て置くべからず」と書かれてゐるのであるから、家康・秀忠の皇室に対する不遜さは、こゝに極まると言へるのではなからうか。

やがて、六年後の元和六年(1620)には、二代将軍・徳川秀忠は、娘和子(まさこ)を皇室に入れ、その四年後の寛永元年(1624)には天皇は、和子を皇后とせられた。こういった御水尾天皇の忍耐強い御姿勢の折、高僧として名高い澤庵和尚に、天皇が紫衣(しえ)(註・勅許によって賜はる紫色の僧衣)を賜はった。これに対し幕府は、紫衣の「濫授」だとしてこれを奪ひ、さらに澤庵和尚を罰するという暴挙にさへ出た。天皇はいたくこのことに逆鱗あらせたまうたが、幕府が寛永六年(16629)、朝幕融和のためとの名目で春日局(三大将軍徳川家光の乳母)を参内させた直後、御水尾天皇は「葦原やしげらばしげれおのがまゝとても道ある世とは思はず」と詠まれて、突如、第二皇女、興子(おきこ)内親王(当時七歳)に位を御譲りになってしまはれた。ここで注意しておきたいことは、興子内親王は、二代将軍・秀忠の娘であった和子(皇后)のお生みになられた方であること。いま一つは、先に述べた「禁中並びに公家衆諸法度」の第六条に「女縁者の家督相続は古今一切これ無き事」とあり、これは公家についてのことではあらうが、皇室についても当然類推されるやうな書き方になってゐることである。すると、御水尾天皇が興子内親王といふ女の方に位を御譲りになられたといふことは、當然幕府に対しる御憤りのさまざまな意味が込められてゐたと言へよう。そして「法度」に抵触するやうな御水尾天皇のこの御行為を、幕府が不問に附したかげには、次の天皇が幕府の血縁の方であられたといふことから、自分に都合がよければ、自ら作った「法度」に抵触しても意義を申し立てない、といふ幕府の態度であったことはいなみ得ないであらう。(中略)
ついでながら一言加へると、さきの興子内親王は、天皇の位を継がれて第109代・明正天皇(女帝)となられた、御年七歳で践祚、御在位十五年ののち、二十一歳で御譲位、七十四歳まで、御存命であられたが、御歌は残されてゐない。御践祚、御譲位ともに御水尾上皇のご意向によることゝ拝せられる。(pp229~231) “

“御位ゆづらせたまへるとき(寛永六年―一六二九―御年三十四歳)(中略)

― 一説に澤庵和尚を東堂に被勅□時、東部(註・幕府)より申し返す故に、本院へ御譲りの時、云々として―

葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまゝ とても道ある 世とは思はず“
(p232)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

御水尾天皇への幕府の朝廷蔑視、専断がこれほど酷いものとは知りませんでした。戦国の世を終わらせ、安定した世を築きたいとの徳川家康と江戸幕府の願いからとは言っても、皇室の歴史や伝統への無知、無理解に発する行き過ぎた政策には、憤りを覚えずにいられません。

徳川幕府の政策のマイナス面は、今日の一部国民に見られる、男尊女卑思想、皇室の政治利用、天皇は御簾の奥で祈っているだけでよいという閉鎖的な皇室を望む論調に、相通ずるものがあます。非人道的な政策は、時代の進歩とともに是正されなければならないと思わずにいられません。

御製について


葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまゝ とても道ある 世とは思はず

葦原は、元々小漁村に過ぎなかった江戸を暗喩する言葉でもあるとのこと。

江戸の幕府は、自分の好き勝手に、茂って栄えるがよい。私にはとても道義のある世の中とは思えない、というほどの意。

後水尾天皇の御憤りが感じられます。

「しきしまのみち」に対する幕府の無智と無理解に驚かされます。

○「しきしまのみち」は「第五十八代・光孝天皇より未だ絶えず」???

 神武天皇以来残されている第五十七代までの天皇の御製を、全部、なかったことにしようというのでしょうか??
 一体、何を根拠に、こんな無教養な文章を公にしたのか理解に苦しみます。

○「綺語たりといへども」のいいぐさにも、驚くばかりです。
 
綺語:「綺語」とは、「巧みに表面だけを飾った言葉」、或ひは佛教が「十悪の一」とする「真実にそむいておもしろく作った言葉」といふ意味

 “神武天皇以降、どれだけ多くの天皇方が、和歌を「しきしまのみち」としてその道を御つとめ遊ばされたことか。”

和歌―しきしまのみちが、日本の文化の中核を貫いてきた事実、まごころの表白であること、ご歴代天皇が「道」として和歌を詠まれ御心を修養されたこと、神様への真剣な祭祀、そういった歴史の積み重ねをなんだと思っているのか!!

と、本日、筆者は、徳川家康と秀忠に怒り心頭ですヽ(`Д´#)ノ

しかし、アンガー・コントロールも大切。ということで、深呼吸を十回。

とりあえず、日ごろの笑顔に戻りました(^^)

怒るのは身体によくないので、後に持ち越さないようにしましょう。(*^^*;)

長文になりましたので、その他の文章の解説と感想は、次回以降といたします。


今日も読んでいただき有難うございました。

人生万事塞翁が馬、人生苦もあり、楽もある。

なるべく良いことを多く見つけて、今日を楽しくお過ごしください。

タグ:明正天皇
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干し柿を作っています [料理]

わが家の恒例の干し柿を今年も作りました。出来上がりは3週間後の予定です。

庭の柿の木から渋柿を4日前に収穫しました。今日は、皮をむいて、ベランダに干しました。

カビたり、虫がつかないためには、もう少し外の気温が下がってからの方がよいのですが、今年は夏の猛暑のせいか、柿が赤くなるのも、葉が落ちるのも、例年より早かったので、10月10日の収穫になりました。去年は10月20日過ぎまで、待ったと思います。

今年は、9月終わりごろから赤くなり初め、既に熟柿になって落ちてしまった実が多く、干し柿にできたのは、50個でした。多い時は、100個近く作った年もありました。50個くらいがちょうどよいです。


作り方

DSC_0709むき柿blog.JPG1、 収穫時には、写真の通り、T字型に枝を残します。

2、 T字型の枝を折らないように気を付けて皮をむきます。

3、鍋に湯を沸かし、熱湯に5秒くらい漬けます。消毒と皮をむいた時のくずを落とすためです。

4、ヘタを持って、焼酎に漬けます。焼酎入れは、柿が一個ずつ入る茶碗サイズの深皿を使いました。


DSC_0712吊るし柿blog.JPG5、T字型の枝を利用して、一つずつ、ひもを懸けます。




6、1本のひもに10個ずつつけて、横棒から吊るします。横棒は、園芸用の細いポールを使っています。





DSC_0713傘干し柿2020blog.JPG



7、今日は雨が降りそうなので、雨除けのため、傘を用意しました。晴れが続く時は、傘を取って、天日にあてます。あまり直射日光にあてなくても良いのですが、まったく陽に当てないと、カビが生えやすくなるので、適度に調整します。







今日の作業はここまでです。


今後の予定

8、約1週間後、皮が乾いて来たら、やさしく柔らかく揉みます。皮を破らないよう気を付けて。

9、その5日~1週間後、芯まで柔らかくなるように全体をもみほぐします。

10、2週間くらい経てば、柔らかめですが、食べられます。2週間目は、色も、オレンジ色できれいです。長期保存したいときは、3週間くらい干します。3週間干すと色が黒っぽくなります。

11、昨年は、やや固めに仕上げて3週間後に仕上げとしました。固めに干すと、冷蔵でも3か月以上、保存がききます。

12、柔らかめに仕上げた場合は、そのままだと冷蔵なら1~2週間くらいだと思います。わが家はすぐに冷凍してしまいます。冷凍すると1ケ月以上、OKです。(内緒話ですが、わが家はうっかり入れたまま忘れていた1年以上前の柔らか目の柿を食べましたが、味は変わっておらず、美味しかったです。これは万人にお勧めしませんので、保存期間は、各人の責任でご判断下さい。)


干し柿作りは、ここ10年ばかりのわが家の年中行事です。

味は良いのですが、色が黒くて見かけが今ひとつさえないため、人様に分けていません。家族でおいしくたべています。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって、楽しい一日でありますようお祈り申し上げます。

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天皇の御歌(46)―第106代・正親町天皇 [正親町天皇]

DSC_0638朝顔紫20201010blog.JPG
今日も
第106代・正親町天皇の
御歌を学ばせていただきます。
3回目です。

御在世:1517~1593(崩御・77歳)
御在位:1557~1586(41歳~70歳)
です。

織田信長が、天正十年(1582年)京都の本能寺で自刃したのは、正親町天皇御在位30年間のうち、26年目のことでした。その後は、豊臣秀吉が頭角を現し、山崎の合戦、賤(しず)ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどを経て、天正十三年(1585年)四国を平定しました。 秀吉は天皇から従一位関白の位に任ぜられました。秀吉は関白の職を拝して、伊勢神宮遷宮の復興に努めました。

伊勢神宮の御遷宮は、天武・持統天皇の代に開始されて以来、ほぼ20年に一回、実施されていましたが、外宮は永享6年(1434年)、内宮は寛正3年(1462年)を最後に、御遷宮が途絶えていました。

織田信長も、天正十年(1582年) 、内宮、外宮の両宮に対して、造営費用3000貫の寄進を行っていましたが、本能寺の変により、御遷宮の実施は先送りになっていました。

天正十三年(1585)、正親町天皇の御意思を受けた秀吉の尽力により、内宮と外宮の御遷宮が、晴れて実施されることになりました。

豊臣秀吉は天下統一のあと、信長の皇居造営の志を継いで、内裏(皇居)の修造も実施しました。修造とはいいながら、ほとんど全殿舎の改築であったとのことです。

正親町天皇が、秀吉の尽力をお喜びになられたことが、天正十四年の御製から拝せられます。また秀吉も打てば響くように、和歌で天皇にお答えする素直さが見受けられます。

秀吉の絶頂期は、天正十六年、後陽成天皇*が聚楽第*に行幸された時でした。

後陽成天皇:第107代・後陽成天皇。第百六代・正親町天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第一皇子。

聚楽第:天正 13 (1585) 年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。天正16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる (→聚楽行幸記)。8年後に取り壊される。

この時、正親町上皇から関白豊臣秀吉に御製を賜り、秀吉も和歌を奉っています。

☆☆☆

“天正十四年(一五八六)二月十四日、豊臣秀吉参内の後、禁庭の桜花の木陰に暫時佇み、飽かず眺めて帰館せり。
正親町天皇、この秀吉の雅興を聞こし召され、二十六日、その花の枝に

立ちよりし 色香ものこる 花盛り ちらで雲ゐの 春やへぬべき

の御製を添へて賜ふ。秀吉、勅使をお待たせして、即時に申上げたる御返歌
(忍びつゝ 霞とともに ながめしも あらはれにけり 花の木のもと)
(以上、川田順「戦国時代和歌集」)

天正十六年(一五八八)四月、内のうへ(後陽成天皇)聚楽第に行幸ありける日、桜の御所(註・正親町上皇)、御製冊にかきて関白(豊臣秀吉)の許へおくらせ給ひける

萬代に またやほよろづ 重ねても なほかぎりなき 時はこのとき

(秀吉の御返歌 ― 言の葉の 浜のまさごは つくるとも 限りあらじな 君がよはひは)

同じとき、還幸の後、関白より内(註・後陽成天皇)に奏したりける歌(註・「時を得し 玉の光の あらはれて みゆきぞ今日の もろ人の袖」)どもをきこしめして

うづもれし 道もたゞしき 折にあひて 玉の光の 世にくもりなき

(以上、聚楽第行幸記)“

(pp217~219)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味

参内:宮中に参上すること。

禁庭:皇居。宮中

雅興(がきょう):風雅な興趣。風流なおもむき。雅趣

雲ゐ:大空、天上、雲、はるかに離れたところ、宮中、皇居。

冊:短冊

萬世(よろずよ):限りなく長い年月、永久、永遠。

やほよろづ:数が極めて多いこと。

還幸(くゎんかう):天皇が出先から帰ることの尊敬語。 [反対語] 行幸(ぎやうがう)

もろ人:もろもろの人、多くの人。

玉:宝石


[大意]

天正十四年(1586)2月14日、豊臣秀吉が宮中に参上したのち、皇居の庭の桜の花の木陰にしばらくの間、佇み、飽きない様子で花を眺めてから、帰って行きました。
正親町天皇は、秀吉の桜花を愛でる雅に興味を寄せていた話をお聞きになられ、12日後の26日に、桜の花の枝に、御製を添えて、秀吉に賜りました。


先日、あなたが立ち寄った色香が残る盛りの桜花が、まだ散らないように、宮中の春も穏やかに、年月を経てほしいものだ

秀吉は勅使(天皇のお使い)をお待たせして、その場で御返歌を詠み、お使いに託しました。

(天皇様の御ことを忍びながら、霞のかなたのこととながめておりましたが、桜花が開くように桜の木のもとに、目の前にあらわれられて、間近に拝することができました)


天正十六年(1588)4月、後陽成天皇が聚楽第に行幸された時に、正親町太上天皇は、御製を短冊に書いて、関白豊臣秀吉のところへ給われました。

永遠に、またさらに長い年月を重ねても、なお限りない(喜ばしい)時は このときです

(秀吉の御返歌 ― 言の葉の数多くが尽きることがあっても、君(上皇、天皇)の御寿命は尽きることがありません)

同じとき、天皇が聚楽第から皇居に御帰りになられた後に、関白秀吉が奉った和歌、(「時を得て、宝石のような天皇の御光が世の中に明らかになり、今日天皇がお出ましになり、大勢の人々が袖を振って喜んでいます」)を、正親町上皇がお聞きになられて、御歌を詠まれました。

うずもれていた道も、正しく善い時節にあうことができて、天皇の玉の光も、世の中にくもりなく照り輝きます。


この年、後陽成天皇は御年17歳、御祖父の正親町太上天皇は72歳でした。長年、宮中で窮乏を耐え忍んで来られ、国の行く末を案じておられたた正親町上皇の御喜びと御安堵はいかばかりだっただろうと、拝察申し上げます。

その正親町上皇の御心に応えて、当意即妙の和歌をお返しする秀吉の人間的魅力もいかんなく発揮されています。感激や喜びを素直に表現する人柄だったのでしょう。


今日も読んでいただき有難うございました。

秋を通り越して急に冷え込んでまいりました。皆様もどうぞ、着る物を調整して暖かく、お健やかにお過ごしください。

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天皇の御歌(45)―第106代・正親町天皇 [正親町天皇]

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大河ドラマ「麒麟がくる」
つながりで、
代106代・正親町天皇の
御歌を学ばせていただきます。
2回目です。

御在世:1517~1593(崩御・77歳)
御在位:1557~1586(41歳~70歳)



「麒麟がくる」では、御所の築地が派手にこわれているシーンがありましたね。本当にあのようだったのでしょうか。永禄十年(1567年)10月に、正親町天皇が「ご料所*興復の勅*」を出されたとのことだったので、どういう内容の勅(みことのり)だったのか知りたかったのですが、ネットでは情報が見つかりませんでした。織田信長が京に上るにあたり、事前に勅をいただいていたという話は、興味深いことです。

*ご料所:中世には,室町幕府や戦国大名の直轄領をいい、近世では,江戸幕府の直轄領をさすこともある、おもに幕府が皇室に献上した土地とのことです。

*勅(みことのり):天子の命令。天皇の言葉。また、それを記した文書。


☆☆☆

“千鳥

沖つ風 しほみちくるや むら千鳥 たちさわぐ聲の 浦づたひ行く

寄雨恋

待ちわびし 心もしらで 夕ぐれの またかきくもり 雨になりゆく


羇旅

たびごろも 立ちし都をへだてつゝ 峰こえてまた 山ぞかさなる

述懐

うき世とて 誰をかこたむ 我さへや 心のまゝに あらぬ身なれば

祝言

なにの道 まさきのかづら 末つひに たえずつたへよ 家々の風

(以上、正親町御百首)“

(p217)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味

沖つ風:沖から吹いてくる風。

むら千鳥:群千鳥。群がっている千鳥。

羇旅(きりょ):たび、旅行。旅行を詠んだ和歌・俳句。

たびごろも:旅衣。旅装束。

まさきのかづら:真拆の葛。テイカカズラ、またはツルマサキの古名。上代、神事に用いられた。「長く」にかかる枕詞。 


第1首目。風が沖から吹いてきて、潮が満ちてきたのだろうか。群がる千鳥が、にぎやかにたちさわぐ聲が、浦から浦へ伝わっていくことよ。

第2首目。私が待ちわびている心が分からないのだろうか。夕ぐれになって、晴れるかとおもったら、また雲が厚くなって、雨になってしまった。

第3首目。旅装束をつけて、都を立ち、遠く隔たったところの、峰を越えてまた、さらに山が重なっている。

第4首目。憂いの多い世の中だといって誰のせいにもするまい。私自身が、思い通りに出来ない身なのだから。

第5首目。何の道にせよ、テイカカヅラがからみつきながら長く伸びるように根気よく、家々の特有の気風、流儀や作法などを、子孫に絶やすことなく伝えなさい。

第1首目、海でカモメの鳴き声はよく聞きますが、チドリはどんなかなと思って、You tubeで2種類、聞いてみました。チューイ!というような、なかなかかわいらしい声です。群れと云うより、1、2羽の聲という感じでした。群がってにぎやかに鳴くというほど千鳥が集まる光景は、今の日本のどこかで見たり、聴いたりできるのでしょうか。

第2首目は、雨に寄せての恋の歌ということなので、思いを寄せておられる女性に会いたいのに、雨がひどくなって会えなくなってしまったことを、嘆いていらっしゃる御歌ですね。現代の我々のように、気軽に、レインコートを着て傘をさして、服がぬれても良いから出かける、というわけにはいかなかったのでしょうね。空に向かって「私の恋心がわからないのか」と、歌で呼びかけるお気持ちが風流だと思います。

第3首目は、さりげない旅の御歌です。都を離れてどこに行幸されたのでしょう。峰を越えて、重なる山をご覧になる天皇さまの御心に去来するものはなんだったのでしょうか。

第4首目は、「憂いの多い世の中を人のせいにしない」ということですね。世の中の問題を人のせいにせずに、自分の身を振りかえって思いかえす、一見あきらめのようでもありますが、そのお言葉のうらに、耐え忍びつつ好転の時節を待つ、天皇さまの御心が感じられます。

第5首目、まさきのかづら(テイカカズラ又はツルマサキ)は、神事にも使われるおめでたいツル植物ですね。どんな困難にあっても、伸び続け、よりどころを見つけてしっかりとからみつき、ツルを伸ばしていきます。伸ばしたツルの先に花を咲かせ、実をつける。そんな植物のように、困難な中でも子孫に伝えるべき家風を伝え続けてほしい。「祝言」ということなので、結婚などのお祝い事のときに、その家が末長く栄えることを祈られる御歌と存じます。


世俗の事をいろいろ思うとき、御製(天皇陛下の御歌)を拝唱すると、別世界に入ったような気がいたします。

小田村寅二郎氏の「はしがき」には次のように書かれています。

☆☆☆

“『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首』と題した本書には天皇の御人数で一、九八八首を、厖大な御歌の中から編者両名が不徳・浅学を省みず、謹んでお選びし、こゝに集録させていたゞいたものである。御詠草の総数(明治天皇・約十万首、霊元天皇・約六千首、後柏原天皇・約四千首、をはじめ、編者が知りうる限りで、一千首以上を今日に残されてをられる方々が四十三方もおいでになられること)から見ると、ここに編した御歌の数は。ごくその一部分にすぎないことになる”
(p2)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


明治天皇の十万首を筆頭に、歴代天皇の御詠草*の数の多さに驚かされます。

明治天皇・約十万首
霊元天皇・約六千首
後柏原天皇・約四千首
一千首以上を今日に残してをられる方々が四十三方!

*詠草(えいそう): 詠んだ歌や俳諧を紙に書いたもの

歴代の天皇さまは、和歌を詠むことによって、浮き沈みの激しい俗世を離れて、どんなときでも永遠につながる世界を見つめておられた、「どんな暗闇であっても、明けない夜は無い」、「八方ふさがりでも、天の方向が開いている」、そんな風に思い、希望をもって生きていきたいと思わせていただきました。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。

皆様にとって、実り多き一日でありますようお祈り申し上げます。

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愛らしい野鳥たち―山本正臣さんの絵 [野鳥]

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庭に来たヒヨドリです。
和歌に出てくる鳥たち
ではありませんが、
野鳥つながりで、
この写真にしました。











10月4日の当ブログで学んだ、初代皇后・伊須氣依比賣(いすけよりひめ)の和歌では、鳥の名前が並んでいました。

胡鷰子(あめ)鶺鴒(つつ)  千鳥(ちどり) ま鵐(しとと)  何故(など)黥(さ)ける利目(とめ)

あめ つつ ちどり ましとと などさける とめ

「あめ、つつ、ちどり、ましとと」は、アマドリ(アメツバメ)、セキレイ、チドリ、ホオジロに該当するらしいとのことだったので、インターネットでそれぞれを検索すると、色々な写真を見ることができます。御歌の通り、どの鳥も目の周りに、メークアップしているような、黒い縁取りが入っていて、久米命の目の周りの入れ墨が想像できます。


野鳥と云うと、画家・山本正臣さんのスケッチを思い出します。山本正臣さんの以下のブログでは、上から3番目の「山本正臣ペン画集33 シギ・チドリ」の表紙絵が、チドリの仲間だと思います。

(「スケッチ感察ノート」2020年10月4日 https://hitakijo.exblog.jp/

山本さんのブログを時々見ていますが、名前が分からない落ち葉の種類を調べるときに、山本さんのもう一つのブログ「自然感察 *nature feeling*」(写真のブログ)で、名前を探したりしています。これほどたくさんの生き物の名前を詳しく調べておられることに感嘆いたします。

心が疲れたときは、山本さんのスケッチと写真を見て、気持ちをリフレッシュしています。自然の木の実、昆虫、花、葉っぱ、どれをとっても精妙で美しく、植物、昆虫など小さな生物に多くの種類があることを教えられ、まことにこの世は美しい!と、思わされます。

山本さんは、昨年まで毎年10月頃、一つの決まった画廊で個展を開いていられて、私もよく伺いました。山本さんから、1キロくらい離れたところから見ても鳥の種類が分かるというお話を聞いて、仙人のようだと思いました。小鳥への愛情あふれる絵は、どれも美しかったですが、長年利用されていた画廊が、昨年を最後に閉鎖されてしまい、今年は個展を開かれないようで残念ですが、よい時期に新しい画廊を見つけて個展を再開されますようにと、ひそかに期待し、ご活躍を祈っております。

小さな虫の精巧な形や何気ない動きの面白さ、小さい花の開いたばかりのつぼみの愛らしさ、紅葉の色の移り変わりの写真をじっと見つめると、いのちの不思議さに感動し、喜びが湧いてきます。


話が横に飛びますが、こういう生命の神秘的な働きは、人間の身体に目を移したときにも、感じられます。生まれて間もない赤ちゃんの花のつぼみに似た内から湧き出でる力、幼児のプリプリのほっぺや肌の美しさ、小さな体のどこから出るのかという声の大きさにも、感動しますが、長年使ってきた自分の身体でも、じっと見ているとまだまだ捨てたものではないと、感心します。

両手の各々5本の指、それぞれ不自由なく動き、色艶も悪くないし、足も、全盛期の時より動きにくいところもあるが、足指でグー・チョキ・パーもできるし、ふくらはぎも動かせば筋肉がついて、動きが滑らかになります。内臓は、多少、補修していますが、食べ物の制限はなく、無理をしない限り、何でもおいしく食べられます。肺も良く動いて、深呼吸も好きなだけできるのは、当たり前のようだけれども、その機能は、複雑でスゴイと思います。

ちょっとしたことで、この世に生きていて何の価値があるのだろうと、ふと心が沈むときがあります。そういう時は、外に目を向けて、無心に生きている野鳥、野草、虫たちを見つめると、人間も難しいことは、横に置いて、まずは生きて見よう、という気持ちが湧いてきます。

ただ無心に生きて行くという小さな生き物たちと同じいのちが、人間にも宿っています。黙っていても、心臓も、肺も、胃腸も無心に、人間を生かそう生かそうと、働いてくれています。それらのいのちに感謝して、命ある限り、生きがいのある日々を過したいと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。

今日は、良く晴れてさわやかな洗濯日和です。
皆様もどうぞ良い一日をお過ごしください。

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天皇の御歌(44)―初代皇后・伊須氣依比賣 [神武天皇]

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今日は、第一代・神武天皇の大后(おほきさき)、初代皇后・伊須氣依比賣(いすけよりひめ)の御歌を学びます。

伊須氣依比賣は「古事記」におけるお名前ですが、日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)いうお名前になっています。

以下の説明は、日本書紀と書いた一部を除いて「古事記」に拠ります。

伊須氣依比賣、すなわち比売多多良伊須氣依比賣(ひめたたら いすけよりひめ)は、神武天皇が橿原で即位されてから、大后、すなわち正式な皇后として迎えられました。神武天皇の御子様は、日子八井命(ひこやいのみこと)、神八井命(かむやいのみこと)、神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)の3人でした。

話は遡りますが、神武天皇は、東征にお発ちになる前に、故郷の日向で阿比良比賣(あひらひめ)を娶(めと)っておられ、阿比良比賣との間に、多藝志美美命(たぎしみみのみこと)、岐須美美命(きすみみのみこと)のお二人のお子様がありました。

日本書紀によれば、多藝志美美命(たぎしみみのみこと)は神武東征に同行され、父君とともに戦われたとのことです。古事記では、東征に同行されたことは書かれていません。

神武天皇が崩御されて後、多藝志美美命は、神武天皇の皇后だった継母の伊須氣依比賣を妻とされました。さらに弟たちである3人の御子たちを殺そうと謀(はか)ったので、伊須氣依比賣は憂い苦しまれて、次のような御歌によって3人の御子たちに、謀(はかりごと)を知らせました。


☆☆☆


“狭井河(さゐがは)よ 雲立ちわたり 畝傍山(うねびやま)
木の葉 騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす

畝傍山 晝(ひる)は雲とゐ 夕(ゆふ)されば
 風吹かむとぞ 木の葉騒(さや)げる“(p90)

(倉野憲司校注『古事記』岩波書店)


☆☆☆

1首目大意。狭井河に身を寄せている息子たちよ 雲が畝傍山に立ち渡って 木の葉がざわざわしている 風が吹きそうですよ

2首目大意。畝傍山の昼は雲がかかっているだけですが、夕方になると風が吹いて、木の葉がざわざわというでしょう

この御歌を聞いた御子たちは、多藝志美美命のはかりごとを知り、末弟の神沼河耳命は、次兄の神八井命と兵を率いて、多藝志美美命を討つように兄に勧めますが、兄は思い切ることができず、代わって、弟の沼河耳命が多藝志美美命を殺します。

兄の神八井命は、沼河耳命の功績を讃えて「私は兄だが敵を殺すことができなかった、お前は勇敢に殺すことができたので、天の下を治めてください。 私は、祭りを司ることによって、貴方様に仕えます」と言われました。

こうして、末弟の神沼河耳命が、第2代・綏靖天皇として御位につかれました。


この暗示的な歌のみで多藝志美美命の反乱を知ったとしたら直観力の鋭さに驚くばかりですが、もちろん日ごろからの何らかの話があったのでしょう。

日本書紀に書かれているように、東征で神武天皇に同行されたのであれば、その後の政務にも関わったでしょうし、自分は神武天皇の長子であるとの思いから、皇位を継ぎたい望みを持つことになったのでしょう。

しかし神武天皇が、出生地で娶(めと)った妻でなく、治める土地の神の血をひく伊須氣依比賣を正式な皇后とされたのは、大和の国を治めることを第一に考えられてのことではないかと思います。そこに、統治する土地との結びつきの強いお后との間に生まれたお子様に後を継がせるという、強い御意思が働いているように思われます。また、天皇および天皇に仕える人々が、次代の天皇になられる方の母方の血筋も重く見ていたとも云えるのではないでしょうか。日本の歴史においては、特に古代において、父方の血筋のみを重視してきたのではなく、母方の血筋も重要な意味を持っていたのではないかと思われます。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって穏やかな一日でありますようお祈り申し上げます。

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天皇の御歌(43)―第1代・神武天皇 [神武天皇]

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一昨日は十五夜だったので、小さい団子とススキを飾りました。月は肉眼ではよく見えたのですが、上手に撮れなかったので、写真はお供えだけです。晴れた空とお月様に感謝します。

今日も第一代・神武天皇の御製を学ばせていただきます。

御在世はB.C.711~B.C.585、御在位はB.C.660~B.C.585です。

今日は、相聞歌(戀愛の歌)を学びます。

天皇が即位された後の御歌で、文章は「古事記・中巻」所載に拠るものです。



☆☆☆

“七媛女(ななをとめ)(註・七人の乙女)高佐士野(たかさじの)(註・香久山近くの野原)に遊行(あそ)べるに、伊須氣依比賣(いすけよりひめ)其の中に在りき。ここに大久米命(おおくめのみこと)、其の伊須氣依比賣を見て、歌を以ちて天皇(すめらみこと)に臼(まを)しけらく、「倭(やまと)の高佐士野(たかさじの)を七行(ななゆ)く媛女(をとめ)ども誰をし枕(ま)かむ「とまをしき。ここに伊須氣依比賣は、其の媛女等(をとめども)の前(さき)に立てりき。乃ち天皇(すめらみこと)。其の媛女等(をとめども)を見したまひて、御心に伊須氣依比賣の最前(いやさき)に立てるを知らして歌を以ちて答臼(こた)へたまひしく、

かつがつも(註・まあまあの意) いや先立てる
 兄(え)(註・よい乙女、または、年上の乙女の意)をし 枕(ま)かむ

とこたへたまひき。……其の嬢子(をとめ)「仕へ奉らむ」と臼(まを)しき。是に其の伊須氣依比賣命の家、狭井河(さいかは)の上に在りき。天皇、其の伊須氣依比賣の許(もと)に幸行(い)でまして、一宿(ひとよ)御寝(みね)し坐(ま)しき。後に其の伊須氣依比賣、宮の内に参入(まひ)りし時(註・お后として後宮にはいられた時)、天皇(すめらみこと)御歌(みうた)よみしたまひけらく、

葦原(あしはら)の しけしき小屋に 菅畳(すがたたみ)
 いや淸敷(さやし)きて 我が二人寝(ね)し

(*しけしき= 荒れた、きたない)

とよみたまひき。”

(p20)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味。

伊須氣依比賣(いすけよりひめ):比賣多多良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)。母は三島溝咋(みしまみぞくひ)の娘の勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)、父は大和三輪山の大物主の神だったため、神の御子と謂われました。

かつがつ:ともかく。何はともあれ。不満足ながら。

しけしき:荒れた、きたない


簡単に解説します。

古事記に拠れば、神武天皇が大后(おほきさき)を探していた時に、大久米命が伊須氣依比賣の話を聞きつけ、七人の乙女が野原で遊んでいるところに天皇をご案内し「七人の乙女がおりますが、どの乙女を妻になさいますか」とお尋ねしました。天皇は、先頭の乙女が伊須氣依比賣だとお知りになったので、次のような御歌で答えられました。

とりあえず 先頭に立つ 一段と美しい年長の乙女と 枕を共にしようか

と答えました。……乙女は「天皇に仕え奉ります」と申し上げました。伊須氣依比賣の家は狭井河の上にあり、天皇は比賣の家に幸行(い)でられて、一夜枕を共にされました。後に、伊須氣依比賣が宮中に入内されたとき、天皇はその時のことを思い出されて御歌を詠まれました。

葦原の中にある粗末な小屋で、菅で作った清々しい畳を敷いて 二人で寝たことだったね

とよまれました。


神武天皇が即位されたのは51歳のときですから、伊須氣依比賣よりだいぶ御年上でいらしたと思います。即位があったのでふさわしい大后を迎える習わしがあったのでしょう。恋の歌といっても、余裕が感じられます。

美しい乙女を后にお迎えするのに、「とりあえず」とか、初めて一夜を過ごした家を「しけしき」とか、そこまでおっしゃらないでも、などと思ったりしますが、正直なことがかえってよいのかと思います。

「しけしき」は、ほめ言葉ではありませんが、その後に来る「いや淸敷(さやし)きて」の「淸(さや)」を引き立てています。真新しい菅畳の香が匂ってくるようです。

古事記では、天皇の使いで訪れた大久米命の入れ墨で強調された眼に伊須氣依比賣が驚いて、鳥の名前を連ねる和歌が収録されていますが、山の神の娘らしい野性味と、若々しい比賣の無邪気さ、愛らしさが感じられます。

胡鷰子(あめ)鶺鴒(つつ)  千鳥(ちどり) ま鵐(しとと)  何故(など)黥(さ)ける利目(とめ)

(大意)アメツバメ、鶺鴒(せきれい)、千鳥、それとも頬白(ほおじろ)のように、なぜそんなに入れ墨をした鋭い目なの

大久米命は答えます

媛女(をとめ)に 直(ただ)に遇はむと 吾が黥ける利目

(大意)あなたのような美しい乙女と直接会おうとして、私は入れ墨をした鋭い目なのです


相聞歌といっても、伊須氣依比賣が直接神武天皇に詠いかける和歌ではないところが、伝承されてきた歌謡ということを思わせられます。

「たたかひの歌」も「相聞歌」も「久米」氏の働きが詠われています。

久米氏は、『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があったとのことです。


伝承では2680年前のこと、想像しても気が遠くなりそうな年月です。それでも時を超えて、戦いの悲しみ恋の喜びを、現代の私たちが、御歌を通して味わうことができるというのは、素敵なことだと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。

秋も深まり、庭の柿が色づいて参りました。毎年、柿をつつきに来るヒヨドリが、声高らかに柿の梢のてっぺんで鳴いています。縄張り宣言をしているのでしょうか。

皆様にとって実り豊かな一日でありますよう、お祈り申し上げます。

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天皇の御歌(42)―第1代・神武天皇 [神武天皇]

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今日も、第一代・神武天皇の御製を学んで参りたいと思います。

御在世はB.C.711~B.C.585
御在位はB.C.660~B.C.585です。

今日も「たたかひの御歌」を学びます。2回目です。



☆☆☆

“土雲(つちぐも)を打たむとすることを明(あか)して、歌曰(うた)ひけらく、

忍坂(おさか)(註・奈良県忍坂村)の 大室屋(おほむろや)に
 人多(ひとさは)に 來(き)入り居(を)り
人多に 來入り居りとも みつみつし 久米の子が
頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 撃ちてし止(や)まむ
みつみつし 久米の子等が 頭椎 石椎もち 今撃たば良らし

とうたひき、如此(かく)歌ひて、刀を抜きて、一斉に打ち殺しき。(*頭椎、石椎=刀の柄頭がそれぞれ頭の形、石の形をしてゐるもの)


登美比古(とみびこ)(註・トミのナガスネビコ)を撃たむとしたまひし時、歌曰ひけらく、

みつみつし 久米の子等が 粟生(あはみ)(註・粟畑)には
 韮(かみら)(註・臭ひのするニラ)一巠 そねが巠
 そね芽繋(めつな)ぎて 撃ちてし止まむ

とうたひき、又歌曰ひけらく、


みつみつし、久米の子等が、垣本(かきもと)に 植ゑし椒(はじかみ)(註・山椒)
 口ひひく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ

とうたひき。又歌曰けらく、


神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)に 
這(は)ひ廻(もと)ろふ 細螺(しただみ)の
い這ひ廻(もとほ)り 撃ちてし止まむ


兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)を撃ちたまひし時、御軍(みいくさ)暫(しま)し疲れき。ここに歌曰ひけらく、

楯並(たた)めて 伊那佐(いなさ)の山(註・奈良県伊那佐村)の 樹の間よも
 い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥
 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助(すけ)に來(こ)ね

 (*鵜養が伴=鵜を使って魚を捕らへることを職として天皇に仕へる人々)”

(pp19~20)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


☆☆☆


言葉の意味

土雲:土雲(ツチグモ)は古事記での表記で、日本書紀では土蜘蛛。土蜘蛛、(つちぐも)は、上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。

大室屋:大きな、四周がきっちり囲われている部屋。

みつみつし:「久米」にかかる枕詞。「みつ」は「満つ」であるとも、「御稜威(みいつ)(=激しい威力)」で久米氏の武勇をほめたたえる語ともいうが、語義・かかる理由ともに未詳。

久米:久米部(くめべ)は古代日本における軍事氏族の一つ。『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。

這(は)ひ廻(もと)ろふ:這いまわる

細螺(しただみ):キサゴの古名。キサゴは本州、四国、九州の沿岸砂底に生息する巻貝。食用にもなる。

撃ちてし止まむ:「敵を打ち砕いたあとに戦いをやめよう」の意。敵を打ち砕かずにはおくものか。

楯並(たた)めて:楯 (たて) を並べて弓を射る意から、「射 (い) 」の音を含む地名「伊那佐 (いなさ) 」「泉 (いずみ) 」にかかる枕詞。

伊那佐(いなさ)の山:奈良県宇陀市街の南方にある山。宇陀盆地を流れる宇陀川沿いから見ると、ひときわ目を引く。

い行きまもらひ:「い」は、行くを強めることば。行ったり来たり守っていた


1首目。尾坂の大きな室に、人が多勢入ってきたぞ。多勢入ってきたが、人数も力も満ち満ちている久米の者どもが、柄頭(つかがしら)が槌の形の剣、石の形の剣を手に持って、敵を打ち砕き、戦いを終わらせよう

2首目。人数も力も満ち満ちている久米の者どもが、粟畑にある一本の韮(にら)の、その韮の芽も根もひとまとめに抜くように、敵を打ち砕き、戦いを終わらせよう

3首目。勇ましい久米の者どもが陣営の垣の下に植えた山椒を、口にして口中がヒリヒリ痛むような痛み、悲しみを、私は忘れない。敵を打ち砕き、戦いを終わらせよう

この戦いに先立つ、ナガスネビコのとの最初の戦いで、神武天皇の兄君・五瀬命(いつせのみこと)が命を落とされました。その時の痛み、悲しみを山椒の実の辛さ、ヒリヒリする痛みに重ねた御歌なのでしょう。

4首目。神風が吹く伊勢の海の大岩を囲むほどに這いまわるキサゴ貝のように 隙間なく、敵を囲んで打ち砕き、戦いを終わらせよう

5首目。楯を並べて敵に備え、伊那佐(イナサ)の山の木々の間を行き来して戦ったので、お腹がすいてしまった。島の鳥、鵜飼たち。助けに来ておくれ

山の中を行ったり来たりして疲れた兵士たちを、励まそうとして天皇が詠われた御歌です。

神武天皇の「たたかひ」の御歌が「久米歌」、「久米舞」となって、現代まで伝えられていることの意味を考えさせられました。国を平定するためには武力があり、立ち向かう敵を容赦なく討ち果たす。日本の建国の成り立ちに、そのような戦いがあったことを学ぶ意味は何だろうと思いました。

戦いで人々が見せた勇気、決断、そして痛みと悲しみ、そういうことのすべてが学びの種であると思います。古代の戦いは敵も味方も、それぞれの名前が残り、個性が遺憾なく発揮された「英雄物語」の側面もあります。

それでも戦いの描写を続けて読みますと、「戦いを重ねる人間の哀しさ」を、思わずにいられません。

現代における戦争は、どうでしょうか。兵器の発達とともに、それぞれの英雄の個性など、ミサイル一発で吹き飛ばされてしまう、非人間的な戦いの有様を思いますと、国と国との間の「戦争」は、各地における小規模な紛争も含めて、武器による殺し合いを無くして欲しいと切に願わずにいられません。

人間が「戦い」を好む心は、スポーツに昇華して、思う存分、発散したらよいと思います。ボクシングなどの格闘技でも、球技でも相手を殺傷することなく、「命がけで戦う」経験をいくらでも積むことができます。

友人の一人が「国と国との戦争は止めて、スポーツの試合で勝ち負けを決めたらよい」と云っていたことがありました。まさか、国と国との間の交渉事のあり方を、スポーツの勝敗で決めるわけにはいかないでしょうが、国と国との「対抗心」、「競争心」はスポーツを通して表現することができますし、思いっきり戦った後は、互いの健闘を讃えて、握手することもできます。

また、古代の人々の死生観は、現代人より生と死の距離が近く、「死」が身近であったようにも思われます。平和の中にいて、過去の戦いの歴史を学ぶ意味はそのあたりにも、あるのかも知れません。


2020-08-11付の当ブログで、上皇后・美智子さまの「争いの芽を摘み続ける努力」と、内親王・愛子さまの「日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないでしょうか」とのお言葉について書かせていただきました。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-08-11


皇室の2680年の歴史を背負っておられるお二方の、切実に平和を希求されるお言葉は、神武天皇建国の「たたかひの歌」を学んだことで、いっそう強く心に響く気がいたします。

平和のありがたさ、平和というものは黙って何もしないで築かれたものではない、ご先祖様、先人の皆様が努力を重ねて来られた結果であることを考えさせられます。 あらためて「日常生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやること」を心にとどめ、「平和」について、考えて参りたいと思います。


今日も読んでいただき、有難うございました。

皆様にとって幸せに満たされた一日でありますようお祈り申し上げます。


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天皇の御歌(41)―第1代・神武天皇 [神武天皇]

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今日は、第一代・神武天皇の御製を学んでいきたいと思います。


御在世はB.C.711~B.C.585
御在位はB.C.660~B.C.585です。







☆☆☆

“神武天皇は、神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と申し上げ、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあへずのみこと)の第四皇子です。「古事記」「日本書紀」によれば、神武天皇の御東征は、九州、日向国高千穂から美々津(みみつ)の港を船出せられ、豊後水道から今の佐賀関を経て、豊前(大分県)の宇佐、筑紫(福岡県)の岡水門(おかみなと)、安藝(広島県)、吉備(岡山県)を経、途中諸準備を整へられて、皇軍「久米の子」を満載した軍船は、瀬戸内海を東へと進み、明石海峡を通って浪速(なには)のみさき、「青雲の白肩津(しらかたのつ)」に到着。大和へ直行しようとされてトミのナガスネヒコの軍勢と戦はれたが破れ、兄君五瀬命(いつせのみこと)の戦死と云う悲劇にあわれました。そこで紀伊半島を迂回して、熊野から大和に向かう作戦を断行。(今日学ぶ御歌は、熊野から大和に向かわれた時のことです)その後数々の苦闘を経て大和平定に至り、皇居を、畝傍の橿原に定めら、御即位されたのが、わが国の紀元元年(B.C.660)となりました。

御製は、大和平定の折のたたかひの歌と、御即位の後の、相聞(戀愛)の歌があります。
今日は「たたかひの御歌」を学びたいと思います。

「たたかひの歌」ということですが、昨年の大嘗宮の儀の祝宴「大饗(だいきょう)の儀」でこの歌詞の「久米歌」に合わせて舞う「久米舞」が、女性の舞である「五節舞」とともに、宮内庁楽部によって披露されていたことを知りました。以下は東京新聞の記事です。

☆☆

“天皇陛下の即位に伴って行われる大嘗祭(だいじょうさい)の中心儀式「大嘗宮の儀」(十四~十五日)の参列者を招き、十六、十八の両日に開かれる祝宴「大饗(だいきょう)の儀」で、日本古来の雅楽の歌舞「久米舞(くめまい)」と「五節舞(ごせちのまい)」が、宮内庁楽部(がくぶ)によって披露される。いずれも大嘗祭など皇室の重要儀式で行われる。”

(東京新聞 Tokyo web 勇壮 華麗 祝いの舞 大嘗祭で披露 楽部の稽古大詰め
2019年11月8日 16時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=18877&pid=23897

☆☆

「久米歌」は長くなりますので、複数回に分けて学ぶことにいたします。

以下の御歌の引用は「古事記・中巻」に拠るものとのことです。

☆☆☆

“宇陀(註・奈良県宇陀郡)に兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)の二人有りき。故(かれ)、先づ八咫烏(やたがらす)を遣はして、二人に問ひて曰(い)ひしく、「今、天つ神の皇子幸(い)でましつ。汝等(なれども)仕(つか)へ奉(まつ)らむや」といひき。是(ここ)に兄宇迦斯、鳴鏑(なりかぶら)を以(も)ちて其の使を待ち射返(いかへ)しき。……待ち撃たむと云ひて軍(いくさ)を聚(あつ)めき。……然れども軍(いくさ)を得集めざりしかば、仕へまつらむと欺陽(いつは)りて、大殿(おほとの)を作り、その殿の内に推機(おし)を作りて待ちし時に、弟宇迦斯、先づ参向(まひむか)へて拝(おろが)みて臼(まを)しけらく、「僕(あ)が兄、兄宇迦斯……殿を作り、其の内に推機(おし)を作りて待ち取らむとす……」とまをしき。ここに道臣命(みちのおみのみこと)、……大久米命(おほくめのみこと)の二人、兄宇迦斯を呼びて、罵言(の)りて云ひけらく、「伊賀(いが)作り仕へ奉(まつ)れる大殿の内に、意礼(おれ)先づ入りて、其の仕へ奉(まつ)らむとする状(さま)を明(あか)し臼(まを)せ」といひて、……追ひ入るる時、乃(すなは)ち己(おの)が作りし押(おし)に打たえて死にき。……然して其の弟宇迦斯が獻(たてまつり)し大饗(おほみあへ)をば、悉(ことごと)に其の御軍(みいくさ)に賜ひき。此の時に歌曰(うた)ひけらく、(伊賀・意礼=いづれも「お前が」の意)


宇陀の 高城(たかき)に 鴫罠しぎわな)張る 我が待つや
 鴫(しぎ)は障(さや)らず いすくはし くぢら障(さや)る
 前妻(こなみ)が 肴(な)乞はさば 立枛棱(たちそば)の 實(み)の無けくを
 こきしひゑね 後妻(うはなり)が 肴(な)乞はさば 柃實(いちさかきみ)の多けくを
 こきだひゑね ええ しやごしや 此は伊能碁布曾(いのごふぞ)
 ああ しやごしや 此は嘲唉(あざわら)ふぞ

(pp18~19)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

八咫烏(やたがらす):八咫烏は、日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという導きの神。八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。
(参考資料:熊野本宮大社ホームページ。http://www.hongutaisha.jp/%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F/)


御歌に入る前の説明から書かせていただきます。

奈良県吉野の宇陀、宇迦斯(宇賀志村)に兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)という兄弟がいました。神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が「仕える気はないか」と八咫烏を遣わしますが、兄宇迦斯はぶんぶん音のする鏑矢で八咫烏を追い返します。 戦の準備をしようとするが兵が集まらない。そこで一計を案じて、「仕えますので私の御殿におこしください」と使いを出して、大きな御殿を作りますが、御殿には足を踏み入れると重しを付けた天井が落ちてきて殺されてしまう仕掛けを設けて待ち受けました。弟宇迦斯は、神日本盤余彦尊のところへ参り、兄の計略を伝えます。道臣命(みちのおみのみこと)と大久米命(おほくめのみこと)の二人は、兄宇迦斯を呼んで、「仕えるというその心を明らかにしなさい」と、御殿の中に追い込み、兄宇迦斯は自分の仕掛けに押しつぶされて死にます。弟宇迦斯は、大饗(おほみあえ)を設けて、神日本盤余彦尊の軍をもてなします。その時に歌われたのがこの歌です。


言葉の意味(御歌)。

高城:神武天皇が八咫烏に導かれて大和の国に入って来たときに、軍の休息のために築いたわが国最古の城跡。

立枛棱(たちそば):ソバノキの実が小さく少ないところから、「実のなけく」にかかる枕詞。

肴:酒を飲む際に添える食品。元々副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字を当てたことから、酒のための「な(おかず)」という意味。

柃(いちさかき):ヒサカキのこと。常緑高木でサカキでないがサカキの代わりになる。ヒサカキは実が多くつくので、柃實(いちさかきみ)は「多けく」にかかる枕詞。

こきしひゑね:「こきし」は下に言う「こきだ」と同じく「たくさん」の意であろうという。「ひゑ」は肉などを削ぎ取る意。たくさん(肉を)そぎ取ろう

こきだひゑね:たくさん(肉を)そぎ取ろう

伊能碁布曾(いのごふぞ):相手に攻め近づく時の声だぞ

嘲唉(あざわら)ふぞ:あざ笑う声だぞ

ええしやごしや、ああしやごしや:囃子詞(はやしことば)


御歌の意味。

宇陀の高城に鴫の罠を張っていたら、私が待っている鴫はかからず、思いもよらない鯨がかかった。
前妻がおかずを欲しがったら、肉の少ないところをたくさん剥ぎ取って与えるがよい。
後妻がおかずを欲しがったら、肉の多いところをたくさん剥ぎ取って与えるがよい。
ええ、しやごしや。これは相手に攻め近づく時の声だぞ。
ああ、しやごしや。これは、相手を嘲笑する時の声だぞ。


前妻は今で言えば、古女房、後妻は若い妻ということでしょう。現代人の感覚から見れば、古代のことで、複数の妻がいたことはともかく、食事に差をつけるなんて前妻がかわいそうと云いたくなるところですが、今ほど食料が豊富ではないので、これから子供を産み育てる若い妻に栄養のあるところを食べさせようという、当時の事情を反映したそのままを詠われたのだということでありましょう。コトバのリズムが、野性的で強さがあります。

昨年11月の祝宴「大饗(だいきょう)の儀」で「久米舞」として舞われていたというのが、私の大きな発見でした。初代・神武天皇の御歌です! 2600年以上の時を経て歌われ続けている、そのことだけで「すごいなあ!」と、感嘆いたしました。

今日も読んでいただき有難うございました。今日は十五夜でしたね。
秋晴れの日差しがさわやかです。皆様、どうぞお健やかにお過ごしください。

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