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直接国民と接すること―象徴天皇の在り方 [今上陛下]

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嵯峨天皇の写経について、皇太子でいらしたときの2017年2月23日の御誕生日の記者会見の中で、今上陛下が語っておられます。

この記者会見は、前年2016年(平成28年)8月に上皇(当時は天皇陛下)が象徴天皇のあり方についてのビデオメッセージを御発表された翌年の2月、直近のお誕生日の会見でした。

☆☆☆

“陛下[上皇陛下]は,おことばの中で「天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べられました”

“私も,阪神淡路大震災や東日本大震災が発生した折には,雅子と共に数度にわたり被災地を訪れ,被災された方々から直接,大切な人を失った悲しみや生活面での御苦労などについて伺いました。”

“そうした機会を通じ、直接国民と接することの大切さを実感しております”

“このような考えは、都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。”

“昨年の8月,私は,愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に,戦国時代の16世紀中頃のことですが,洪水など天候不順による飢饉きんや疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が,苦しむ人々のために,諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰(しんかん)般若心経(はんにやしんぎよう)のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。”

“そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として,徳を行き渡らせることができず,心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。”

“災害や疫病の流行に対して,般若心経を写経して奉納された例は,平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め,鎌倉時代の後嵯峨天皇,伏見天皇,南北朝時代の北朝の後光厳天皇,室町時代の後花園天皇,後土御門天皇,後柏原天皇,そして,今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。”

”私自身,こうした先人のなさりようを心にとどめ,国民を思い,国民のために祈るとともに,両陛下がまさになさっておられるように,国民に常に寄り添い,人々と共に喜び,共に悲しむ,ということを続けていきたいと思います。私が,この後奈良天皇の宸翰(しんかん)を拝見したのは,8月8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが,図らずも,2日続けて,天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。”

(「皇太子殿下の記者会見 会見年月日:平成29年2月21日」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/9

☆☆☆

「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)」について、平成28年9月22日に、私のブログでも、書かせていただきました。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/archive/201609-1

政治的発言にならないようにと、渾身の力を込めて国民にメッセージを発せられた上皇陛下のお気持ちを思うと、「皇室典範の改正」について、あれから4年半が過ぎたのに未だ解決していないことに、深い悲しみを覚えます。


第52代・嵯峨天皇の御代は、藤原氏の勢力争いの中で、「薬子の変」が起こりました。そのような難しい時代においても、疫病に際して、写経によって国民に御心を寄せられた嵯峨天皇のおすがたは、一貫しておられ、そのお心を象徴天皇のかたちで、上皇陛下、今上陛下が受け継いでいらっしゃいます。

上皇陛下、今上陛下の震災やコロナ禍に際して、国民に御心を寄せられていること、災厄の去ることと希望をもって明るい将来を思い描くように激励して下さること、絶え間なく祈ってくださっていることを、尊くありがたいことと感謝申し上げます。

今日も読んでいただき、ありがとうございました。
皆様にとって良い一日でありますようにお祈り申し上げます。


ご参考:

該当する、皇太子殿下(当時)のお言葉の一部を謹写させていただきます。

☆☆☆

“象徴天皇については,陛下が繰り返し述べられていますように,また,私自身もこれまで何度かお話ししたように,過去の天皇が歩んでこられた道と,そしてまた,天皇は日本国,そして日本国民統合の象徴であるという憲法の規定に思いを致して,国民と苦楽を共にしながら,国民の幸せを願い,象徴とはどうあるべきか,その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。

陛下は,おことばの中で「天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べられました。私も,阪神淡路大震災や東日本大震災が発生した折には,雅子と共に数度にわたり被災地を訪れ,被災された方々から直接,大切な人を失った悲しみや生活面での御苦労などについて伺いました。とても心の痛むことでしたが,少しでも被災された方々の痛みに思いを寄せることができたのであればと願っています。また,ふだんの公務などでも国民の皆さんとお話をする機会が折々にありますが,そうした機会を通じ,直接国民と接することの大切さを実感しております。

このような考えは,都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。昨年の8月,私は,愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に,戦国時代の16世紀中頃のことですが,洪水など天候不順による飢饉きんや疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が,苦しむ人々のために,諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰(しんかん)般(はん)若(にや)心(しん)経(ぎよう)のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般(はん)若(にや)心(しん)経(ぎよう)は岩瀬文庫以外にも幾つか残っていますが,そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として,徳を行き渡らせることができず,心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。災害や疫病の流行に対して,般若心経を写経して奉納された例は,平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め,鎌倉時代の後嵯峨天皇,伏見天皇,南北朝時代の北朝の後光厳天皇,室町時代の後花園天皇,後土御門天皇,後柏原天皇,そして,今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。私自身,こうした先人のなさりようを心にとどめ,国民を思い,国民のために祈るとともに,両陛下がまさになさっておられるように,国民に常に寄り添い,人々と共に喜び,共に悲しむ,ということを続けていきたいと思います。私が,この後奈良天皇の宸翰(しんかん)を拝見したのは,8月8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが,図らずも,2日続けて,天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。”
「皇太子殿下の記者会見 会見年月日:平成29年2月21日」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/9

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言葉の意味

宸翰:(しんかん)は、天皇自筆の文書のこと。宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。


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天皇の御歌(59)―第52代・嵯峨天皇(2) [嵯峨天皇]

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今日も昨日に続き嵯峨天皇の御歌を学ばせていただきます。

御在世:786―842(崩御・57歳)
御在位:809―823(24歳~38歳)




☆☆☆

弘仁4年(813)夏4月甲辰(きのえたつ)、皇太弟(註・次の第53代・淳和(じゅんな)天皇)南池に幸(みゆき)し、文人に命じて詩を賦せしめたまふ。天皇和して曰(うたひたま)はく

時鳥(ほととぎす) 鳴く聲聞けば 歌主と
ともに千代(ちよ)にと 我も聞きたり(以上、日本逸史)

(p64)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味:

賦せしめる:賦するは漢詩などを作ること。漢詩などを作らせる。

歌主:(うたぬし)歌の作り手。 和歌の作者。

日本逸史:(にほんいつし)江戸中期の歴史書

[御歌の大意]

弘仁4年(813)夏4月甲辰(きのえたつ)、皇太弟(註・次の第53代・淳和(じゅんな)天皇)が南池に幸(みゆき)されて、文人に命じて詩(漢詩)を詠ませられました。嵯峨天皇は、その漢詩にお答えになり、御製を詠われました。

時鳥の鳴く聲を聞くと、和歌の作者である皇太弟の貴方と私が、永遠に一緒であると歌っているように聞こえます。


[感想]

昨日の御製は、御兄君の第51代・平城天皇にフジバカマを奉った時の御製で、今日の御製は、御弟君(皇太弟)、後の第53代・淳和天皇に、時鳥に託して、御弟君と共に皇室を永遠に支えたいとの御製だと拝察申し上げます。

しかし、仲睦まじい御製を交わした御兄君、第51代・平城天皇が、御退位後に平城天皇の譲位に反対していた仲成・薬子兄妹の強い要請を容れ、嵯峨天皇にかわって政権の掌握を図るという事件が起こりました。これを「薬子の変」と申します。薬子の変では、嵯峨天皇に機先を制せられて、平城上皇は政権掌握に失敗されて剃髪して仏門に入ります。その後も、平城上皇は、特に罰を受けることなく、上皇相応の待遇を受けられたとのことです。

この「薬子の変」により、嵯峨天皇の皇太子とされていた、平城上皇の御子様である高岳(たかおか)親王は皇太子を廃されてしまい、出家されます。高岳親王に代わって、嵯峨天皇の異母弟、大伴(おおとも)親王(後の淳和天皇)が皇太弟になられました。

そういう複雑な背景の中で、皇室の弥栄の深い祈りを込められた御製であるかと、拝察申し上げます。


嵯峨天皇は、御自ら般若心経を写経されたとのことです。天皇自筆の文書のことを宸翰と言いますが、宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいうそうです。

宸翰をWikipediaで調べますと、歴代天皇の書では、国宝に指定されている御宸翰がたくさんあります。

お恥ずかしながら今まで意識したことがありませんでしたが、歴代の天皇が多くの書の作品を残して来られたことは、私には新鮮な驚きです。

いつぞや、東京国立博物館で国宝になっている嵯峨天皇の御宸翰を拝見したと思いますが、機会がありましたら、また拝見したいと思います。


嵯峨天皇のお子様は系図などによれば49名の皇子皇女がいらしたと言われます。そのため多数に姓を賜り臣籍降下させました。その子孫が嵯峨源氏とのことです。49名の皇子皇女とは、現代では想像もできないことですね。

☆☆☆

“皇子皇女が多数おり[11]、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。”
(「嵯峨天皇 Wikipedia 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87

☆☆☆


今日も読んでいただき有難うございました。
今日が皆様にとって心豊かな一日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:今上陛下
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天皇の御歌(58)―第52代・嵯峨天皇 [嵯峨天皇]

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今日は第52代・嵯峨天皇の御歌を学ばせていただきます。
御在世:786―842(崩御・57歳)
御在位:809―823(24歳~38歳)

今上陛下は、先日のお誕生日の会見で、天変地異、疫病の蔓延などの困難な時期に不安定な世を鎮めたいと大仏を作られた聖武天皇、般若心経を書写された平安時代の嵯峨天皇に始まり,戦国時代の後奈良天皇,正親町天皇など歴代の天皇のことを次のように述べておられます。

☆☆☆

“日本の歴史の中では,天変地異や疫病の蔓(まん)延など困難な時期が幾度もありました。これまでの歴代天皇のご事蹟(せき)をたどれば,天変地異等が続く不安定な世を鎮めたいとの思いを込めて奈良の大仏を作られた聖武天皇,疫病の収束を願って般若心経(はんにやしんぎよう)を書写された平安時代の嵯峨天皇に始まり,戦国時代の後奈良天皇,正親町天皇など歴代の天皇はその時代時代にあって,国民に寄り添うべく,思いを受け継ぎ,自らができることを成すよう努めてこられました。“
(「天皇陛下お誕生日に際し(令和3年)」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/43

☆☆☆


拙ブログでは、聖武天皇、御奈良天皇、正親町天皇の御歌は学ばせていただきましたが、嵯峨天皇の御歌はまだ学んでいなかったので、今日は、第52代・嵯峨天皇の御歌を学ばせていただきます。

☆☆☆

嵯峨天皇は、第50代・桓武天皇の第二皇子で、第51代・平城天皇の御弟君。天皇御治世のはじめには「薬子の変」などがあって、政情不安の時であったが、後、天皇の御努力によって、その波も治まり、平安初期における文化の隆盛期を迎へた。天皇は、漢詩に秀でてをられ「凌雲集」などを撰ばしめられた他、書を良くせられ、空海・橘逸勢(たちばなのはやなり)と共にわが国三筆の一人と称せられる。
内政においては、御即位間もなく「蔵人所(くらうどどころ)」を置き(810)、重要文書を取り扱はさせられ、検非違使(けびいし)を置いて(816頃)、京都周辺の治安維持に当たらせられた。なほ、814年には渤海(ぼっかい)国から来貢(らいこう)の挨拶使が来てをり、816年には空海が高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を創建してゐる。
(御陵墓は、京都市右京区北嵯峨朝原山町にあり、嵯峨山上陵(さがのやまのへのみささぎ)[円墳]と申し上げる。)

大同2年(807)九月乙巳(きのとみ)、(御兄弟にあたる平城(へいぜい)天皇が)神泉苑に幸(みゆきま)しし時皇太弟(註・後の嵯峨天皇)頌歌して云はく

宮人の 其の香(か)に愛(め)づる ふぢばかま
君のおほ物 手折りたる今日

(p64)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味:

『凌雲集』:(りょううんしゅう)は、平安初期の日本最初の勅撰漢詩集。1巻。嵯峨天皇の命により、小野岑守 (おののみねもり) ・菅原清公らが撰。弘仁5年(814)成立。延暦元年(782)から弘仁5年までの作者24人の詩91首を収める。凌雲新集。

三筆:(さんぴつ)著名な3人の能書家の意であるが,一般には平安時代初期の書家の代表として空海,嵯峨天皇,橘逸勢 ( たちばなのはやなり) の3人をさす。

蔵人所(くらうどどころ):蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。

令外官:(りょうげのかん)律令制において,令に規定されていない官をいう。律令時代,令に規定されたほかに新たに設けられた官職。奈良時代に置かれた内大臣・中納言(ちゅうなごん)・参議,平安初期の関白・蔵人(くろうど)・勘解由使(かげゆし)・検非違使(けびいし)など。平安以後実権を振るった。

検非違使:(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「 非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」の意。

頌歌:しょうか。ほめうた。ほめたたえる歌。賛歌。

宮人:(みやひと、みやびと)宮中に仕える人。多くは女官をさす。

ふぢばかま:藤袴(ふじばかま)キク科の多年草。
https://www.hana300.com/fujiba.html

おほ物:「おほ」は、大きい、広大な、意を表す。また、偉大なもの、貴ぶべきものを表す。
(天皇に奉るふぢばかまの花を、貴い物と、表わしたと思われる)

[御歌の大意]

宮中の人がその香(かおり)を愛でた藤袴(ふじばかま)を、天皇に奉る貴い贈り物として、手折りましたよ、今日この日に。


[感想]

この御製と対になる御製を、第51代・平城天皇が詠まれています。嵯峨天皇は平城天皇の同母弟であられます。兄君に美しく香りのよい花を献上される喜びを詠まれています。

藤袴は、花の色が藤(ふじ)色で、 花弁の形が袴(はかま)のようで あることから、この名前になり、全体に桜餅のような香りがするとのこと。神経痛に効く薬草(入浴剤)でもあるそうです。秋の七草でもあります。開花期は8~9月とのことです。


今上陛下が「嵯峨天皇が般若心経を書写された」と言われたことについて、2018年に嵯峨天皇の写経が初公開されたことを日本経済新聞が報道しています。皇太子でいらした今上陛下は、2017年の御誕生会見で嵯峨天皇の写経のことを話していらっしゃいました。

60年に一度開封する儀式があるのですが、一般公開はありませんでした。この年は、写経から1200年の節目に当たり、史上初めての一般公開だったそうです。儀式には、高円宮妃久子さまと絢子さまらが出席されたとのことです。金泥は墨より重いので、写経するのがたいへんとのこと、嵯峨天皇の疫病退散の御祈りが、ひと筆ごとに込められたこととしのばれます。

(「嵯峨天皇の写経を初公開 京都・大覚寺、平安の三筆」日本経済新聞 2018年10月1日https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35961070R01C18A0CR8000/


写経が奉安されている京都の大覚寺の案内文「大覚寺とは」には、次のように書かれています。
大覚寺は元々嵯峨天皇の離宮であったという、嵯峨天皇にゆかりの深いお寺なのですね。

☆☆☆

“弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。 正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。 平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。 嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)である。 弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。”

““弘仁9年(818)の大飢饉に際して嵯峨天皇は、弘法大師の勧めにより一字三礼の誠を尽くして般若心経を浄書され、その間、檀林皇后は薬師三尊像を金泥で浄書、弘法大師は嵯峨院持仏堂五覚院で、五大明王に祈願した。このときの宸筆・般若心経は、60年に一度しか開封できない勅封心経として現在も大覚寺心経殿に奉安されている。”

(「大覚寺とは」https://www.daikakuji.or.jp/about/

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京都に行けたら、参詣したいと思います。

今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって素晴らしい一日でありますよう、お祈り申し上げます。

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幸くいませ―幸せであること [今上陛下]

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高森明勅氏の2月25日のブログ「一つ一つの務めを大切に」を拝見して、直系のお子様が皇位を継がれることは御祖父君、御父君であらせられる天皇陛下の背中を見てお育ちになられた方が皇位を継承されることになるゆえに、「直系継承」に大切な意味があることを考えさせられました。


☆☆☆

“天皇陛下はお誕生日に際しての記者会見で、
敬宮(としのみや、愛子内親王)殿下が今年12月に成人を
迎えられることに関連して、以下のようにおっしゃった。

「今後、成年皇族として公務に当たっていくことになりますが、
感謝と思いやりの気持ちを持って、一つ一つの務めを大切に
果たしていってもらいたいと思います」と。”

“このおことばに接し、今から40年ほど前の、
まだ皇太子にもなっておられなかった当時のご発言を思い出した。
陛下はこのようにおっしゃっておられた。

「(大学ご卒業後)これから先はいろいろな公務が確かに
多くなると思うのですが、当面は皇族として、公務として与えられたこと
一つ一つを大切にしていきたいと思っています」
(昭和57年3月15日)と。”

“ご公務(お務め)の「一つ一つを大切に」されるお気持ちは、
まさに一貫して揺らぐことがない。”

“これは、昭和天皇と上皇陛下のなさりようから間近で学びながら、
ご自身が実際にご公務のご経験を重ねられる中で、
より深く心に刻まれたことだろう。”

(「一つ一つの務めを大切に」高森明勅氏ブログ、2001年2月25日
https://www.a-takamori.com/post/210225

☆☆☆

天皇陛下が御公務を大切にされ、いつも国民に寄り添い、目に見えない形で国民の精神を支えて下さっているおすがたに、感謝の思いをあらたにいたしました。

また、次のご文章にも感動いたしました。


☆☆☆

“更に、次のようなご表現も。

「国民を思い、国民に寄り添う点で、災害で被災された方々、障害者や高齢者、あるいは社会や人々のために尽くしてこられている方々にも心を寄せ、ねぎらい、励ましていくことはとても大切なことです。それは、私と雅子二人の自然な気持ちであるとともに、皇室として

大切な務めであるとも思います」と。


皇室の務め“だから”国民に心を寄せるのではなく、何よりもそれがご自身の「自然な」お気持ちであるということ。それを率直にお述べになっておられる。”

(「一つ一つの務めを大切に」高森明勅氏ブログ、2001年2月25日
https://www.a-takamori.com/post/210225

☆☆☆

今上陛下の御言葉はそのまま、上皇陛下の御言葉を思い起こさせます。

拙ブログ「日本書紀「天壌無窮の神勅」を読み解く」2020-12-13で、このことを書かせていただきました。

☆☆☆

“☆行矣(さきくませ):さきく【幸く】(副詞) 無事に。つつがなく。 それに助動詞の「ませ」がつく形です。 日本書紀では 行矣。つつがなく、幸せに、その任をつとめなさい。

さきくませは、幸くいませ、ですから、天皇ご自身も幸福になるようにと、天照大御神が祝福されていると考えました。これは平成28年8月8日の上皇陛下(当時は天皇陛下)のお言葉の一節から思いつきました。


“皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。”
(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

大変な重責を負いながら「幸せなことでした」と言われたお言葉に深く感銘いたしました。
天皇にも皇室の皆様にも、幸福であっていただきたい、心からそう思います。”

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-12-13

☆☆☆

国民の幸せを天皇陛下、皇室の方々がいつも願ってくださっている、それが天皇陛下、皇室の方々の御幸福でもある、そんな日本を大切にしてまいりたいと思います。

今日も読んでいただき、有難うございました。
今日が皆様にとって、祝福された一日でありますよう、お祈り申し上げます。

タグ:皇統継承
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天皇陛下の御誕生日をお祝い申し上げます [今上陛下]

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今上陛下の61歳のお誕生日を心よりお祝い申し上げます。

今上陛下におかれましてはお健やかにお誕生日を迎えられたことを御慶び申し上げるとともに、御皇室の弥栄をお祈り申し上げます。

天皇陛下の御誕生日に際し、2月19日、赤坂御所で記者会見が行われました。

☆☆☆
“日本の歴史の中では,天変地異や疫病の蔓まん延など困難な時期が幾度もありました。これまでの歴代天皇のご事蹟せきをたどれば,天変地異等が続く不安定な世を鎮めたいとの思いを込めて奈良の大仏を作られた聖武天皇,疫病の収束を願って般若心経(はんにやしんぎよう)を書写された平安時代の嵯峨天皇に始まり,戦国時代の後奈良天皇,正親町天皇など歴代の天皇はその時代時代にあって,国民に寄り添うべく,思いを受け継ぎ,自らができることを成すよう努めてこられました。

その精神は現代にも通じるものがあると思います。皇室の在り方や活動の基本は,国民の幸せを常に願って,国民と苦楽を共にすることだと思います。そして,時代の移り変わりや社会の変化に応じて,状況に対応した務めを考え,行動していくことが大切であり,その時代の皇室の役割であると考えております。

国民を思い,国民に寄り添う点で,災害で被災された方々,障害者や高齢者,あるいは社会や人々のために尽くしてこられている方々にも心を寄せ,ねぎらい,励ましていくことはとても大切なことです。それは,私と雅子二人の自然な気持ちであるとともに,皇室としての大事な務めであるとも思います。この1年は,コロナ禍かに翻弄されてきました。愛する方を失ったご家族やご友人のお悲しみはいかばかりであったことでしょう。心から哀悼の意を表します。また,コロナ禍かの閉塞感からでしょうか,自ら命を絶つ人が増えていることも極めて痛ましいことで,皆で何とか防がなくてはなりません。その一方で,強い使命感を持って医療に取り組んできた方々や保健所などで現場の対応に当たってきた関係者を始め,高齢者や障害者など,社会的に弱い立場にある人々を支えてきた関係者や,子供食堂のような,困難な状況に置かれた子供たちを支援してきた関係者など,多くの方々からお話を伺う機会を得,皆さんの有り難い尽力に思いをより深く致しました。このような方々に対し,国民の間で感謝の念を広く共有することができた1年となりました。

このところ,新規感染者の数は,幸いにして全国的に減少傾向に転じているようです。また,新型コロナウイルスワクチンの接種も始まりました。今しばらく,国民の皆さんが痛みを分かち合い,協力し合いながら,コロナ禍かを忍耐強く乗り越える先に,明るい将来が開けることを心待ちにしております。”
(「天皇陛下お誕生日に際し(令和3年)」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/43

☆☆☆

今上陛下のお言葉を心に刻み、明るい将来が開けるという希望をもって、日々を過ごして参りたいと思います。

☆☆☆
“先日,私は雅子と共に「国連水と衛生に関する諮問委員会(UNSGAB)」満了5周年のオンライン国際会議に参加しましたが,その場でも感染対策としての水の重要性が話題になりました。感染拡大防止対策として,我が国では,いわゆる三密回避,マスク着用と並んで手洗いが当然のこととして行われていますが,世界には,手洗いに適した衛生的な水が満足に得られない地域もあります。

また,世界では,特に発展途上国を中心に,新型コロナウイルス感染症以外でも,結核,マラリア,HIV/エイズ,エボラ出血熱など,様々な感染症が非常に多くの人命を奪っています。これらの感染症を克服するには,一国のみの努力では不十分であり,国際的な協力が不可欠であることを改めて認識させられています。”
(「天皇陛下お誕生日に際し(令和3年)」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/43
☆☆☆

日本国内の東日本大震災のことはもちろんですが、海外の発展途上国にも思いを寄せておられることも心に残ります。

しばらくブログをお休みして、色々と考えておりましたが、再開したいと思います。

今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって、素晴らしい一日でありますようお祈り申し上げます。

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