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天皇の御歌(13)-第116代 桃園天皇 [桃園天皇]

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今日も、桃園天皇の御歌を読ませていただきます。
なんと夢中で読むうちに、桃園天皇が5回になりました。
今回で、桃園天皇は一応終わりにしようと思います。

御年17歳~20歳までの御歌です。








☆☆☆


“九月盡夕(宝暦七年 ― 一七五七 ― 御年十七歳)

入相の こゑないそぎそ 長月も 今日ばかりなる あきのゆふべは“

(p292)


“祝(宝暦八年 ― 一七五八 ― 御年十八歳)

神代より 世々にかはらで 君と臣の 道すなほなる 國はわがくに“

(p293)


“寄道祝言(宝暦十年 ― 一七六〇 ― 御年二十歳)

さかえゆく 道ぞかしこき 天地の かみのまもりの やまと言の葉”
(道御伝授竟宴御会)

(p293)


(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


☆☆☆


「入相」は「入相の鐘」の略。
「入相の鐘」は「日暮れ時(日の沈むころ)に寺でつく鐘」

「長月」は「9月」

「道御」は「鎌倉時代の僧(1223-1311)」

「伝授」は「学問・宗教・ 芸道などの奥義 (おうぎ) や秘事を伝え授けること」

「竟宴」は「酒宴」

「かしこし」は「すぐれている 恐れ多い 貴い」など、深い意味があることばです。


1首め。日暮れ時の鐘よ 急がないでおくれ 9月最後の日の秋の夕暮れなのだからという 夕暮れの風情を詠われていると思います。

2首め。神話の神代から わがくにでは 君と民がすなおに力を合わせて 変わることなく 道を行ってきたという御歌です。

3首め。奥が深くて、そのまま、読んでいただきたいという感じです。

日本には言霊信仰があり、やまと言の葉によって、天地の神のまもりを受けて、世の中の道が栄えていくということを詠まれていると思います。
言葉は、運命を作るとも、言われます。読むこと、書くこと、大切にしてまいりたいと思います。


御歌を読み始めたときは、予想していなかったことですが、「宝暦事件」(宝暦八年(1758年)「明和事件」(明和三年(1776年))について、勉強することになりました。

日本古来のすなおな道を守り通して来られた皇室、宮中に対して、感覚のずれている「唐心(漢意とも書く、 からごころ)」の江戸幕府が、様々に干渉してきたことを、これまでも、ばくぜんと知っていました。

こうした、江戸幕府の皇室、宮中への具体的な抑圧策を読むと、ずいぶんと失礼な行いを重ねて来たものと、腹立たしくなります。治安を守りたいという幕府の願いがあったこととはいえ、欠礼と、行き過ぎが重なり、のちの倒幕につながっていったのだと思いました。

ひるがえって、今日の、安倍自民党政権のあり方も、江戸幕府に負けず劣らず、皇室に対して失礼を重ねているのではないかと思う節があります。

皇統継承の男系男子固執、皇位継承問題検討の先延ばしは、その「からごころ」である、男尊女卑に基づく、安倍自民党政権による失礼なふるまいの典型であると思います。


とはいえ、これはあくまで私の個人的意見ですから、世の中にいろいろな意見があってよいと思います。よろしかったら、ご遠慮なく、コメントをお寄せください。

御皇室への尊崇の念を失うことなく、しかし、皇室にいろいろな意味で、多くの国民が思いを寄せて、話題にすることは、礼儀をわきまえてさえいれば、必要なことではないかと思います。もっと、御皇室の事を話題にしたらよいと思うのです。


今日も、読んでいただいてありがとうございました。

今日は少し日が射して来ました。洗濯物がよく乾きそうです。

皆様にとって、充実したよい一日でありますように。


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天皇の御歌(12)-第116代 桃園天皇 [桃園天皇]

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桃園天皇に魅せられて、今日も、御歌(おうた)を詠ませていただきます。

☆☆☆


“簾外燕(宝暦六年 ― 一七五六 ― 御年十六歳)

春はまた 小簾(おす)の外(と)ちかく つばくらめ 古巣ありとや 行き歸るらむ


聴(宝暦六年 ― 一七五六 ― 御年十六歳)

身の恥も 忘れて人に なにくれと 問ひ聞く事ぞ さらにうれしき“

(p291)


“七夕管弦(宝暦六年 ― 一七五六 ― 御年十六歳)

吹く笛も かきなす琴も 秋かぜに しらぶるこゑを 星やめづらむ
(七夕御会)“

(p292)


(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


☆☆☆


「小簾」は「小さいすだれのこと」

「めづらむ」(めづる)は、「好む、愛する」ことです。

今日の御歌は、分かりやすいものばかりです。

1首めの、つばめは、前の年に巣をかけたところに、安全であれば毎年、巣を作ります。
宮中の、小さいすだれの外は、その毎年、巣をかけるところになっていたのでしょう。

私の家の近くでも、一戸建ての家のガレージに毎年、巣を作るつばめがいます。その家の人も優しい人で、つばめの巣作りを許しているらしく、下のコンクリートに、フン除けのシートが敷いてあるだけで、毎年、口を大きく開けた燕の子供が、チイチイとにぎやかで楽しませてもらっています。

親ツバメは、虫を捕まえては、絶え間なく巣に出入りしています。無心な姿に、春の喜びが感じられます。

2首め、「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」とことわざがありますが、知らなかったことを、恥をかえりみず、聞く、新しいことを学ぶ喜びを詠っておられます。お若い時なので、自然なことです。

我が身を省みて、いくつになっても、分からないことは素直に人に聞くという、新鮮な気持ちは忘れたくないものです。

3首め、七夕の笛を吹き、琴をかきならす、七夕の様子です。七夕が「秋かぜ」というのは、ちょっと不思議です。
幸い、星空が見えて、人々の歌う声も、空に広がっていく、星も、そんな楽し気な人々の祝う様子をみそなわして、喜んでいらっしゃることだろう、そんな光景が思われます。


今日は、あまり難しいことを考えずに、御歌のひびきを楽しませていただきました。

今日も、読んでいただき、有難うございました。

今日が皆様にとって、心豊かな一日でありますように。

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天皇の御歌(11)-第116代 桃園天皇 [桃園天皇]

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今日も、第116代 桃園(ももぞの)天皇(ご在世 1741~1761年、 御在位1747年~1762年(御年7歳~22歳))の御歌(おうた)を詠ませていただきます。

桃園天皇の御父君の、第115代 櫻町(さくらまち)天皇は、御年28歳の時に、桃園天皇に御譲位され、その3年後、31歳の若さで崩御(逝去)されました。譲位の背景には、櫻町天皇の、それまで280年廃絶せられていた「新嘗祭」の復興などの御行動に、幕府がおそれをなして、勝手に天皇の御退位を考えたことが、反映されてのことだそうです。江戸時代の幕府の、御皇室へのさまざまな抑圧について、考えさせられます。


☆☆☆


“櫻(寛延三年 ― 一七五〇 ― 御年十歳)

のどかなる わが九重の さくら花 さかり久しく 見るぞうれしき“

(p290)


“閑居燈(宝暦三年 ― 一七五三 ― 御年十三歳)

友とのみ かゝぐる影も 小夜更けて いとゞ淋しき 窓のともし火“

(p290)


“樵夫(宝暦四年 ― 一七五四 ― 御年十四歳)

夕まぐれ 山路をとほく かへるさに 歌ふきこりの 聲ぞさびしき

(p291)


(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


☆☆☆


「九重」は「宮中。皇居。内裏」のことで、皇居のある「都(みやこ)」を指すこともあります。

「影」は「(日・月・灯火などの)光」の意味です。

「小夜更けて」は「夜が更けて」の意味です。「小夜」と詠むと響きが美しいですね。

「いとゞ」は「いよいよ」

「夕まぐれ」のまぐれは「目暗」とのことで、「夕方の薄暗いころ」のことです。

「かへるさに」の「帰り道に、帰る途中に」の意味です。



第1首めは、のどかな宮中の桜の花が今を盛りと、咲いているさまを、詠まれています。
桜の開花期間は、ほんの1週間から10日ですが、その華やかは今も昔も変わらないでしょう。
もっとも、ソメイヨシノは、江戸後期からよく見られるようになったとのことなので、宮中の当時の桜が、山桜であれば、ソメイヨシノより花が少なめの、清楚な風情だったかも知れません。

この年に、あたかも桜が散るように、御聡明であられた御父君 櫻町天皇が、32歳の若さで崩御されました。桃園天皇にとって、お心に残る、桜だったのではないでしょうか。

第2首めは、ご友人と二人きりで、ともし火をかかげて、語り合っておられますが、夜が更けるにつれて、ともし火も細くなり、ふとさびしさを覚えられる、そんな光景が浮かびます。しみじみとした中に、桃園天皇の孤独なお心が感じられます。

第3首めは、うす暗い夕方になって、樵夫(きこり)が山仕事を終えて、何人か連れ立って、山を降りる道すがら、歌う声が聞こえてくる、その歌が哀調を帯びていたのでしょう。


今日は、しみじみとした御歌が主になりました。


江戸時代後期の幕府との難しい関係の中での、御皇室、天皇陛下の御苦悩も、歴史上の一つの側面として、「しきしまの道」を通して、学んで参りたいと思います。

ちょうど今の私の気持ちをあらわすのにぴったりの、明治天皇の御歌が、明治神宮の、今月のカレンダーに、掲載されていました。


☆☆☆

明治天皇御製

いにしへの 書(ふみ)の林を わけてこそ あらたなる世の 道もしらるれ

古典を読み、昔のことを研究してこそ、新しい世の中のあるべき道も、おのずから見えてくるものです。

(「明治神宮カレンダー」令和2年版 明治神宮)

☆☆☆

「歴史を学ぶことは自己を学ぶこと」は、私の、座右の銘にしたい、大好きな言葉です。

ちょうど、高森明勅氏が、今日付けのブログにて、以下の言葉を“大川周明の『国史読本』(昭和6年刊行)からの引用”として、紹介されています。


☆☆

「歴史はまさしく吾等の如実(にょじつ)の姿を知るべき鏡であり、
歴史を学ぶことは真個の自己を知る所以(ゆえん)である。
真個の自己を知ることなくしては、正しき行動も固(もと)より
不可能である」

(「2020.7.17 06:00 日本書紀編纂1300年の日本教師塾」「ゴー宣ネット道場」)
https://www.gosen-dojo.com/blog/27199/

☆☆


歴史は吾等の姿を知る鏡であり、歴史を学ぶことは真の自己を知る根拠であり、真の自己を知らなければ正しい行動はできないという、強い言葉です。


私のように、のんびり生きてきた人間には、高すぎる目標ですが、少しずつでも、この目標に近づけたらよいな、と思っています。


今日も、読んでいただき、有難うございました。

梅雨が続きます。

皆様、お身体に気を付けて、今日一日、お元気にお過ごしください。

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天皇の御歌(10)-第116代 桃園天皇 [桃園天皇]

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今日も、昨日にひき続き、第116代 桃園天皇(ご在世1741~1761年、御在位1747年~1762年(御年7歳~22歳))の御歌(おうた)を詠ませていただきます。


☆☆☆


“夕立(宝暦二年 ― 一七五二 ― 御年十二歳)

見るがうちに 雲重りて なるかみも やがて過ぎゆく 夕立の空
(なるかみ=雷)“

(p290)


“禁中花(宝暦五年 ― 一七五五 ― 御年十五歳)

ことしげき 世をも忘れて あかず見む 雲井の庭の 花のさかりは“

(p291)


“萬民祝(宝暦六年 ― 一七五六 ― 御年十六歳)

天が下 なべての民の たのしみも 我がよの春に わきてうれしき
(御会始)“

(p291)


(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


☆☆☆

「ことしげき」の意味は「多忙である」とのこと。

「雲井」は「宮中、皇居のあるところ」の意味です。

「我がよの春」は、「人生などにおける絶頂期、最も充実していたり、最も物事が思い通りに進んでいる時期、またはそのような状態」の意味。

「天が下」は、「この世界」「日本全国」の意味です。

「わきて」は、「とりわけて」の意味です。

第1首めは、見る見るうちに、黒雲が重なって、雷が鳴ったかと思うと、やがて過ぎてゆく夕立の空を詠っておられます。夏の夕方、誰もが、空をむくむくと覆う黒雲、ゴロゴロとなる雷、しかし、ほどなく、何事もなかったかのように穏やかな空に代わり、時間の経過とともに、雲の隙間から空が見えたりする。そんな光景が、浮かんで参ります。


第2首めは、多忙な御政務の合間に、宮中のお庭に立たれ、お心の和む、色とりどりの花々に、いつまでも、こうして見ていたいとの、天皇のご様子がうかがわれます。

第3首めは、お祝いの席で、日本全国のすべての民のたのしみが、充実して盛んな有様を、とりわけうれしいことであると詠まれた「国と民を誉める歌」ということになるのでしょうか。16歳のお若い天皇陛下の、充実したお心が感じられます。


一方、この年、宝暦6年(1756年)は、後の「宝暦事件」の首謀者とされた公卿の竹内式部による、桃園天皇への直接進講(直接、御進講をさせていただくこと)が実現した年でもあります。

尊王論者であった竹内式部らは、この3年後に、京都所司代により、重追放に処せられます。

重追放は、江戸時代の「追放刑」の中で最も重いもの。
武士の場合は、犯罪地・住国および関八州・京都付近・東海道街道筋などに立ち入り禁止の刑とのこと。公卿のことは辞書にはありませんが、武士に準じたのであれば、京都付近立ち入り禁止ですから、その後、桃園天皇に、お会いすることはなかったと拝察申し上げます。

宝暦事件で、桃園天皇は、幼少の頃からの側近を失ってしまわれました。

そんなことが起こる前の、人生において物事が順調であった時期の御歌だと思うと、複雑な思いがいたします。


今日も、読んでいただき、有難うございました。

今日は、梅雨の合間で、晴れ間が見えて来ました。

皆様にとって、充実したよい一日でありますように。


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天皇の御歌(9)-第116代 桃園天皇 [桃園天皇]

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今日は、第117代 後桜町天皇の弟君でいらした、第116代 桃園天皇の御歌(おうた)を学びます。若くして亡くなられた桃園天皇の後に、後桜町天皇が、皇位におつきになりました。

桃園天皇の御在位は、御年7歳~22歳でした。

御年18歳の折り、「宝暦事件」が発生しました。京都に居た尊王論者らが、江戸幕府によって処罰された最初の事件とのことで、桃園天皇は御年18歳で、幕府から弾圧を受けられ、22歳で、御在位のままお亡くなりになられたとのことです。

ご苦労の多いご生涯であられたことと拝察申し上げます。

今回とりあげる御歌は、御年八歳、九歳、十二歳の時の御歌です。そんなお小さいころに作られた御歌かと、おどろきます。

“多少のことは御側近の人たちの御添削申し上げたこともあったと考へるべきであらうが、和歌のもつ「しらべ」や「風格」は決して文字や字句の添削などで一変し得るものではないのであって(中略)、ご成長なされての御歌を拝すれば、御幼時の御歌の「しらべ」「格調」が御生来のものであったことは、いっそう顕著にうかゞはれるである。”(p280)

編者がこう、書かれているように、御側近の御添削があったとしても、「しらべ」、「格調」は、御生来のものであったとのことを、学ばせていただきたいと思います。


☆☆☆


“池(寛延元年 ― 一七四八 ― 御年八歳)

秋の夜の ながむる空も くもりなく ひかりさやけき 池の月かげ“

(p289)


“水辺蛍(寛延二年 ― 一七四九 ― 御年九歳)

せきいるゝ 流れもきよき 鑓水に かげもすゞしく 蛍飛びかふ“

(p290)


“野菫(宝暦二年 ― 一七五二 ― 御年十二歳)

つゆながら 濃き紫の つぼすみれ 野邊の芝生に 今朝は摘ままし“

(p290)


(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


☆☆☆


第1首めは、池の水面に、月のすがたがさやかにくもりなく映っている光景が、そのまま伝わって参ります。すなおで、清らかな御歌だと思います。

第2首めは、蛍の飛び交うさまです。

「せきいるゝ」は、「水をせき止めて、別の流れに引き入れる」意味とのこと、「鑓水」は、庭園において、水を導き入れて流れるようにしたものとのことです。

夏の夜、御所の庭園に、外の川からか、泉からか、引き入れられた清らかな水のうえに、蛍が飛びかっている、涼やかな光景が目に浮かびます。

第3首めの、野菫の「つぼすみれ」は、スッと伸びた可憐な花です。写真を見ますと、小さいですが、その品のあるありさまは、小さな蘭の花のようでもあります。(当ブログの写真は、スミレの写真が手元になかったので、代用ですみません)
つゆで紫の色の増した、つぼすみれを、そっと摘んでみようという、御歌です。

どの御歌も、やさしく、みずみずしく、詠われています。

「栴檀は双葉より芳し」と申しますが、8歳~12歳の、天皇陛下の「しらべ」に、今日もさわやかな空気を感じさせていただきました。

今日も、ブログを読んでいただき、有難うございました。

今日一日が、皆様にとって、良い日でありますよう、お祈り申し上げます。


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