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天皇の御歌(69)―第121代・孝明天皇(6) [孝明天皇]

DSC_167720210609blog.JPG今日は第121代・孝明天皇の御製を学びます。6回目です。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)

先日の「青天を衝け」では、禁門の変が起こり京の市街が延焼し、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊に下関が砲撃され(四国艦隊下関砲撃事件)、皇室にとっても、長州藩にとっても苦難の時でした。

その年に孝明天皇が、国の災いをはらい除く祈願のために、宇佐八幡宮に奉納された御製を学びます。

☆☆☆

“(文久四年、元治元年―1864―御年34歳)
*長州兵上洛、蛤御門の変おこる。四か国連合艦隊、下関を砲撃
(中略)

詠五十首和歌(5月21日甲子(きのえね)の例に依て―元治元年の干支は甲子―勅使を宇佐八幡宮に遣し神宝御衣及び宸筆(しんぴつ)の御製を奉り給ひて、特に外患を祈攘し給ふ)

梅雨
長くとも かぎりはありぬ 梅の雨 さりとて晴れよ 異國(ことくに)のうさ

夏祓(なつはらい)
身につもる うきをば今日に 夏はらへ いざや 涼しき よを渡らなむ

径(こみち)の薄(すすき)
ほそくとも すぐなる路に まねけかし 秋風帯ぶる 花すゝきぞも

叢虫(くさむらのむし)
草むらの くさぐさ物を おもふとは 蟲さへ知りて 音(ね)にや 鳴くらむ

(中略)

戀笛
笛竹の よをかさねけり いつしかは あな嬉しとも 吹(ふき)ならしてん 

(中略)

神祇(じんぎ)
奉(たてまつ)る そのみてぐらを 受(うけ)まして くにたみやすく なほ守りてよ”

(pp339~340)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


[言葉の意味]

蛤御門(はまぐりごもん)の変:禁門(きんもん)の変。元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。

祈攘(きじょう):払い除く祈願

宸筆(しんぴつ):天子が自身で書いたもの。天皇の自筆。天皇の直筆。

みてぐら:「御手座(みてぐら)」の意という。「みてくら」 とも》神に奉納する物の総称。布帛(ふはく)・紙・玉・兵器・貨幣・器物・獣類など。また、のちには御幣をもいう。幣束。幣帛(へいはく)。ぬさ。


[大意]

元治元年5月21日に、天皇はまれた50首の和歌を詠まれ、勅使を宇佐八幡宮に遣わされ、神宝の御衣と天皇ご直筆の御製を奉り給いて、特に外患(外国の禍)が払いのけられることを祈願し給いました。

1首目、長くても梅雨はかぎりがあるだろう。それにしても異国による思いにまかせぬつらいことも、晴れてほしいものだ

2首目、身に積もるつらいことこそ、今日の夏の祓いで払いのけて、さあ涼しい世をわたろうではないか

3首目、細くてもまっすぐな道に招いておくれ、秋風を帯びた花すすきこそは。

4首目、草むらが生い茂るように、あれやこれや物をおもうのを、虫でさえ知っていて、色々な声でにぎやかに鳴くのであろう

5首目、竹笛が節(よ)を重ねるように世を重ねれば、いつのまにか、ああ嬉しいと吹きならすことができる日が来るだろう。そうあってほしいものだ

6首目、神に奉った奉納物、幣帛をお受けいただき、国と民が安寧であるよう、いっそうお守りくださいませ


[感想]

大河ドラマを見ながら、日本人同士が戦う内戦とは何と悲しいものかと思いました。 四か国の連合艦隊に攻撃された下関の人々は生きた心地がしなかったであろうと思いました。

その年に孝明天皇が50種の和歌に託して、宇佐八幡宮に、外国の災いが払いのけられるようにと祈願されたことは心強いことだったでしょう。御歌は、観念的でなく、雨、ススキ、虫、笛の音など情景描写に祈りを託されて、自然のすべての中に神をみておられることを拝しますと、「しきしまのみち」が、日本人の豊かな心の源なのだとあらためて思いました。

天皇のお心に習い、自然の美しさに眼を向けて、どんな困難があってもめげることなく、前進して参りたいと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。
急に暑くなってきましたので、皆様お身体にお気をつけて、お健やかにお過ごしください。

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天皇の御歌(67)―第121代・孝明天皇(5) [孝明天皇]

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今日も第121代・孝明天皇の御歌を学びます。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)

「近世日本国民史」百巻の著者である徳富蘇峰は、孝明天皇が、「維新の大業を立派に完成した其力」と以下の様に述べています。


☆☆☆

“孝明天皇が、当時の破局的な内外諸情勢に際して、常に国民の上に御心を馳せつつ「澄まし得ぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」の御歌に拝せられるごとき捨身の大御心をもって、時局に相対され、しかも賢明な御措置を次々に打たれたことについては、「近世日本国民史」百巻の著者である徳富蘇峰が、「孝明天皇和歌御會記及御年譜」の「序」に次のやうに書いてゐることにつきてゐると思ふ。

「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない。又当時の志士でもない。畏多(おそれおお)くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。――しかるに維新の歴史を研究する人々は元勲(げんくん)とか何とか言って、臣下の働きを彼此(かれこれ)申すが、この運動の中心とならせられた孝明天皇に感謝し奉ることのないのを、はなはだ遺憾と思ふのである。……実は私も歴史を書くまでは、孝明天皇が左程(さほど)まで国のために御尽くし遊ばされたことを、充分には承知しなかったが、今日に至って実に恐入(おそれい)って居る。……孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御蔭(おかげ)であることを知らねばならぬ。」
と。実に適切な指摘である。”(pp317~318)

“さて、ここに謹選申上げた御製は、今日われわれが知りうる天皇ご在世中の御製総計一、二四五首の中からのものであるが、その一首一首に大御心のほどが御歌の高いリズムを伴って伝はってくるごとき思ひがする。事実、当時の大名・志士たちの中には、これらの御製の一首を伝へ聞くことによって、大御心を感受し、大御心にお応へ申し上げてその心懐を和歌に詠み上げたことなどが、いくた史実の上に記されてゐる。それゆゑに、幕末日本の動乱の実相を孝明天皇の御製を中心に学ぶことは、幕末史のみならず、歴史教育の上においても、決して軽視してはならぬ要点であると思はれる。”
(p321)

“たやすからざる世に武士の忠誠のこゝろをよろこびてよめる(十月九日守護職・松平容保(かたもり)に宸筆の御製を賜ふ)
和らぐも たけき心も 相生の まつの落葉の あらず栄えむ

武士(もののふ)と こゝろあはして いはほをも つらぬきてまし 世々のおもひで”
(p339)

述懐
天がした 人といふ人 こゝろあはせ よろづのことに おもふ*どちなれ(*どち=仲間)

述懐(九月十日春日社御法楽の和歌)
さまざまに なきみわらひみ かたりあふ 國をおもひつ 民おもふため”

(pp340~341)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


「孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。」

宸翰(しんかん):天皇自筆の文書のこと。 宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。

孝明天皇は、自筆の文書で親王、関白などを激励され、明治維新の道を切り開かれました。幕末動乱の時代を日本が乗り切ることが出来たのは孝明天皇なくして語ることができないと小田村寅二郎氏も述べています。

その一端に触れるだけでも私など浅学菲才の者は大海を目前にした小魚のように呆然とするばかりです。それでも御製を通して少しずつそのお心を理解して参りたいと思います。

[言葉の意味]

元勲(げんくん):明治維新に大きな勲功のあった人をいう。当初西郷隆盛(たかもり)、木戸孝允(たかよし)、大久保利通(としみち)らをさし、彼らの死後は伊藤博文(ひろぶみ)、黒田清隆(きよたか)、山県有朋(やまがたありとも)、井上馨(かおる)、大山巌(いわお)らも呼称された。1892年(明治25)成立の第二次伊藤内閣は、この5人に後藤象二郎(しょうじろう)も加え元勲総出の内閣といわれた。(コトバンクより)

駆使(くし):1 追いたてて使うこと。こき使うこと。「使用人を駆使する」、2 自由自在に使いこなすこと。「最新の技術を駆使する」(goo辞書)

鞭撻(べんたつ):強い励ましをこめて厳しく指導すること。(weblio辞書)

心懐(しんかい):心に思うこと。意中。

松平容保(かたもり):幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主(実質的に最後の藩主)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。(Wikipedia)

相生(あいおい)の松:雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。松は永遠や長寿を象徴することから、相生の松は特に縁結びや和合、長寿の象徴とされる。能『高砂』では、高砂の松と住吉の松とが相生の松であるとし、夫婦和合をうたっている。(Wikipedia)

どち:仲間(なかま)。連れ。
*接尾語の「どち」は、〔名詞に付いて〕…たち。…ども。▽互いに同等・同類である意を表す。「貴人(うまひと)どち」「思ふどち」「男どち」

参考「どち」は、「たち」と「ども」との中間に位置するものとして、親しみのある語感をもつ。


[大意]

徳富蘇峰文中:

「澄まし得ぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」

澄ますことが出来ない濁り水にたとえ私の身が沈んだとしても、すべての国民を濁り水で汚してはならないとのご決意を詠っておられます

1首目

互いに和する心と、勇猛な心とが、二つの株が同じ根から出る松のように一つとなれば、その葉が落ち葉にならない(青々として枯れない)ように、世も栄えるだろう

2首目
武士と(内裏、宮中が)こころを合わせれば、きっと固い岩を貫いて、時代を越えて遺る思い出となるはずだ

3首目
天下の人という人、すべての人々が心を合わせて、すべてのことを考える仲間であってほしいと切に願います

4首目
さまざまに泣いたり笑ったりして、語り合うのも国をおもいつつ、民をおもうからです


[感想]

「澄まし得ぬ…」は、終戦時の昭和天皇の大御心を思い出します。己の身はどうなってもよいから、国民の苦しみを除きたいとの大御心にただただ有り難く拝するのみです。

1首目は、和する心と勇猛な心の二つがそろってこそ、世が栄える道が必ず開けるとの御歌です。勇猛な心よりも、和する心を先に詠われているところに、歴代天皇の平和を愛する大御心が感じられます。

大河ドラマ『八重の桜』で見た松平容保率いる会津藩の孝明天皇を仰慕する心が偲ばれます。会津は明治維新では本当に気の毒な役回りだったと思います。

2首目は、「公武合体」ということになるのでしょう。武士と朝廷が心を合わせて明治という激動の時代を乗り越えたことがしのばれます。明治維新では多くの戦いがありましたがそれでも国が亡びることなく今日まで続いている原動力が孝明天皇の「和する心」にあったことを思わせられます。

3首目は、明治時代の自由民権運動に見られるように「人という人」が「万事を考える」その種子であるように思います。明治天皇の五か条の御誓文、第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」につらなるお考えを平易なお言葉で表されていると思います。

4首目は、孝明天皇が現実に親しい臣下と泣いたり笑ったり、国を思って語り合われた情景を詠まれたのでしょう。意見の対立を嘆かれたことも、意気投合して笑い合ったこともあったのでしょう。「泣きみ笑いみ」に孝明天皇の実感がこもっていて畏れ多いことですが、親しみと共感を覚えます。人は一度けんかしないと仲良くなれないよ(本気で向かい合わないと心の底から仲良くなれない)と教えてくれた友人があります。孝明天皇はお立場上、「けんか」という荒っぽいことはなかったでしょうが、「泣きみ笑いみ」に、人間らしさを感じて、実際にはどういう光景であったのだろうと、想像がふくらみます。


今日も読んでいただき有難うございました。
和やかな一日をお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げます。
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天皇の御歌(66)―第121代・孝明天皇(4) [孝明天皇]

DSC_160020210526blog.JPG今日は第121代・孝明天皇が、御子様、明治天皇の御歌を御添削されたことについて学びます。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)

第121代・孝明天皇は、第122代・明治天皇の御父君であらせられます。天皇ご在世中の御製は1,245首とのことです。

御子様、122代・明治天皇は御一生を通じて10万首近くの御詠草を残され、不世出の歌聖と崇められましたが、その御幼時に孝明天応から和歌創作の手ほどきをお受けになり、親しく御添削を受けられたそうです。


☆☆☆

明治天皇が御年7、8歳の頃、父帝・孝明天皇に御機嫌伺ひに参上されるごとに、父君から和歌の習作が課せられ、親王が詠進されるのを待ってはじめて御父・孝明天皇は御子・親王にお菓子をお与へなさったことが、「明治天皇記」に見えてゐる。皇室に古来から踏み続けられた「しきしまのみち」の道統は、ここでもまた孝明天皇から明治天皇へと、御親(みずか)らの全心身的ご努力によって伝へられていったのである。萬世一系の皇位の相承と、「しきしまのみち」が絶えることなく踏み続けられたこととの深い関連性を、改めて切実に見る思ひがするのである。
孝明天皇が、お子様(後の明治天皇)の御歌にどのように御添削なさったかの一例を左にご紹介しておきたい。

ある時、親王(明治天皇の御幼時)は

あけぼのに かりかへりてぞ 春の日の こゑをきくこそ のどけかりけり

と書かれて天皇にお差し出しになられた。天皇は、この作品の中でいくつかの点にすぐお気づきになられた様に拝せられる。おそらくその一つは「春の日のこゑ」といふのは、正確ではない、「こゑ」は「いきもののこゑ」であってこそ「こゑ」だとお考へになられたのではなからうか。また、「あけぼのにかりかへる」といふのも、折角この作品の中に「春の日の」とあるのだから、「春の日のあけぼの」と詠む方が、いっそう具体的とお考へになられたのであらうか。第三句の「春の日の」を一番最初に移され「あけぼのに」の前に「空」を入れて「春の日の空」と一層具体的な情景の表現に改めてをられる。そして第二句の「かりかへりてぞ」といふ「ぞ」をもっと正確に詠むようにとの御配慮からか、「かりかへるこゑ」(雁が帰りながら鳴いてゐるこゑ)と御添削を進められ、

春の日の 空あけぼのに かりかへる こゑぞきこゆる のどかにぞなく

と御自筆で御添削なさってをられるのである。この一例にみる御添削を以上の様に私が評しまつることは、まことに畏れ多いことであるが、くりかへしくりかへしこの二首を比較して味はってゐると、御添削といふ作業を通して、御父君が御子様の御歌を現実体験に、より一層近づけた表現にする様にと、大変に緊張したお心で御添削なさってをられることに気づかれて来る。
 われわれ人間の心といふものは、ともすれば、自分が見た情景や、体験した事柄などをありのままに表現しないで、つい観念的に表現してみたり、概念的に走ってまとめてみたりするものであるが、それをより正確な、体験のままの言葉で表現する努力が、「しきしまのみち」の大切な修行のやうである。それが素直に出来るやうになることは、とりもなほさず、相手が大自然であれ、人間であれ、要するに相手そのものを正確に把握することを意味するのであって、このことは人間社会における人生観上の修行としても、政治に携わる者の基本的な心構へから言っても、人の上に立つべき者には一番大切な心の素養を意味することにほかならない。それは皇室に伝承された「しきしまのみち」の奥義に通ずることであらうと思はれる。いまだ三十歳にも及んでおられなかったであらう若き父君が、将来祖国日本の命運を御担当になる宿命を持ってをられる御子に対しての、たとへやうもない御期待を背景とした御添削であって、単に和歌が上手になる様にといふ意味での御添削ではなかったことが、しみじみと偲ばしめられる所である。

(pp321~323)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


「人間の心といふものは、ともすれば、自分が見た情景や、体験した事柄などをありのままに表現しないで、つい観念的に表現して見たり、概念的に走ってまとめてみたりする

「より正確な、体験のままの言葉で表現する努力が『しきしまのみち』の大切な修行」

「相手が大自然であれ、人間であれ、要するに相手そのものを正確に把握する」

そのように和歌が詠めて文が書ければ、自分の思いが深まり、心が鎮まるのだと思います。そのような文章が書けているのだろうかと思うと、まだまだほど遠いし、文章を書きながら、心のどこかが干からびているように感じる時もあります。

その様な時に天皇の御歌を拝読しますと、生き生きした何かがよみがえってきます。自分が見た情景や、体験した事柄などをありのままに表現するということが、心を整えるのだと思います。

日々の努力を積み重ねることで少しでも歴代天皇の御歌の世界に近づけるように、御製を学び続けて参りたいと思います。


今日も読んでいただきありがとうございました。
皆様が心豊かな日々を過ごされますようにとお祈り申し上げます。

タグ:明治天皇
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天皇の御歌(64)―第121代・孝明天皇(3) [孝明天皇]

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今日も、第121代・孝明天皇の御歌を学びます。3回目です。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)


最初に当時の時代背景、「攘夷論」と「開国論」の違いについての説明文を学びます。

文頭に「これらの諸国」とあるのは「和親条約」を調印した相手国、米国、ロシア、フランス、オランダ国のことです。


☆☆☆

“これらの諸国は、表では日本に開港の決意を促し、日本の啓蒙に援助の手を差し伸べてゐるかの如くであったが、内実は、各国それぞれに日本国土日本国土への勢力扶植を、虎視たんたんとして狙ってゐたのである。この時期の日本は、文字通り一歩誤れば、支那の二の舞を踏んで西欧諸国に蹂躙される危機にさらされていたのである。

(中略)

幕末の日本を説明するのに、攘夷論と開国論の二つの思想の対立があったとだけごく簡単に割り切ってしまって説明したり、さらには、それを解説して、前者を固陋なる保守派、後者を賢明なる進歩派としての価値判断の基準にしたりすることは、全く軽率きはまりないことであって、もしもこの様な教へ方が、今日の日本で流行してゐるとすれば、それはわが青少年を誤らしめるも甚だしいものであると思ふ。すなはち、当時攘夷論を唱へたといはれる人々―-孝明天皇をはじめ吉田松陰その他幕末の諸大名・志士たち――は、幕府側の主唱する開港論よりも。はるかに強い開国進取の気象(ママ)[気性?]、をその心中に蔵してゐたのであって、その志を達成するためには、先づ自国の独立を堅持できなくてはそれがかなへられないことを痛感してゐたので、あへて譲位を唱えたのであった。祖国日本の独立の堅持といふこの一点における深浅が、いはゆる攘夷論と開港論との分かれ目であったのである。当時諸外国に脅かされて無定見に条約締結にはいっていった幕府側の開港論を尊王攘夷派が徹底的に糾弾したのは、決して正しい開港に反対したのではなく、いはれなき屈従の故にで、あった。” (p319~320)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味など:

啓蒙けいもう):人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと。

扶植(ふしょく):勢力などを、植えつけ拡大すること。

固陋(ころう):古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。


[感想]

私が子供の頃には、攘夷派は外国人を嫌って国に入れたくなかった頭の古い人々、開国派は時代に先駆けて鎖国を解こうとした人々と教えられました。

しかし、そんな単純な図式で明治の歴史を捉えると、攘夷派が明治時代になって積極的に開国政策に取り組んだこととの、つじつまが合わなくなってしまいます。

攘夷派の本心は、開国の必要性を承知しながら、日本の自主独立を保とうというものでした。開国にあたって、時の幕府のように西欧諸国の言いなりになることを嫌ったのです。


これは今の時代にも通じることですね。

攘夷派のように、日本の自主独立を志すのか。
開国派のように、グローバル化を無定見に取り入れて、日本占領以来の米国従属体制を堅持し続けるのか? 憲法改正にも、関わってくる事柄です。


御製の学びに移ります。

☆☆☆

“(安政4年―1857―御年27歳)
樹蔭流水(閏5月11日新造の御茶室・聴雪に渡御。和歌当座御会あり)

ときは木の かげをながるゝ 水の音に 心すゞしき 庭のおもかな”

“寄世祝(6月17日)
天地と ともに久しく 世の中の すゑがすゑまで 安けくもあれ”
(pp334~335)


(萬延2年、文久元年―1861―御年31歳)
6月2日長門藩主・毛利義親の臣・長井雅樂(うた)を以て義親へたまひたる

國の風 ふきおこしても あまつ日を もとの光に かへすをぞ待つ”
(pp335~336)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味:

ときは木:常磐木。松や杉などのように、年じゅう葉が緑色の木。常緑樹。

庭のおも:庭面。庭の表。

長門藩:長州藩

毛利義親(もうり たかちか/よしちか):長州藩の第13代藩主(安芸毛利家25代当主)。幕末の混乱期に有能な家臣を登用し活躍させ、若い才能を庇護することで長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名。

長井雅樂(ながい うた):江戸時代末期(幕末)の長州藩士。公武一和に基づいた『航海遠略策』を藩主に建白。一般的な呼び名である雅楽は通称で、諱は時庸(ときつね)

『航海遠略策』(こうかいえんりゃくさく):は、江戸時代末期(幕末)に浮上した政治・外交思想。(詳細は文末の参考資料参照)


國の風:国風は、その国や地方独特の風俗や習慣。 くにぶり。

吹きおこす:① 風をおこす。 ② 吹いて火を燃えたたせる。

天つ日:天の日。太陽。日。


御歌の大意:

1首目

常緑樹の青々とした下蔭を流れる水の音に耳を傾けると心が涼しくなってくる庭の面です

2首目

天地とともに世の中がいついつまでも、末の末の御代までも安らかであってほしいものです

3首目

国(藩など)の風俗や慣習を吹きはらう風を起こして、太陽の光をもとのとおりにかえすのを待っています


[感想]

1首目。

新しく造られた茶室で和歌の会が開かれ、5月の新緑の時期に、その木陰をちょろちょろと流れる水の音に耳を傾けて涼しさを楽しまれる孝明天皇の御製。緊迫した世情を離れたつかの間の涼やかな時間をお過ごしになられたことを思うと心が和みます。

2首目。

(天地とともに久しく)「末が末まで」と繰り返されるお心持は如何ばかりだったことでしょう。一つ間違えば日本の国が西洋の国々に踏みにじられて大変な混乱が起こる。そのようなことにならないようにと祈られる大御心が切々と伝わって参ります。

3首目。

『航海遠略策』は『積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする「大攘夷」思想に通じる考えで、その精神自体は後の明治維新の富国強兵・殖産興業などにも影響を与えたとも言える』という策です。

孝明天皇は斬新なアイディアを進めるようにと、長井雅樂を遣わした長州藩主・毛利義親に御製でお答えになられました。新しい策を実行して日本を再び輝かせるようにと願われたのでした。

長井雅樂は、文久3年(1863年)長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられました。

幕末には、惜しい人材が処刑されたり、切腹を命じられたりしています。長井の切腹は二分された藩内を統一するという理由によるものでした。

明治維新に貢献した人々、とりわけ多くの人々を激励された孝明天皇のことの学びを重ねて、ご先祖のご苦労を偲びたいと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。
どうぞ良い休日をお過ごしください。


***

参考資料:

『航海遠略策』(こうかいえんりゃくさく):は、江戸時代末期(幕末)に浮上した政治・外交思想。後述するように長州藩の長井雅楽(時庸)が文久元年(1861年)頃に提唱したものが特に有名である。他に佐久間象山、吉田松陰や平野国臣ら先駆的な思想家も同様な主張をしていたが、具体的な建白書の形にし、政治運動にまで盛り上げたのは長井によるものである。異人斬りに象徴される単純な外国人排斥である小攘夷や、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破約攘夷ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする「大攘夷」思想に通じる考えで、その精神自体は後の明治維新の富国強兵・殖産興業などにも影響を与えたとも言えるが、この時点においては実行手段の具体性に欠け、また急速な尊王攘夷運動の高まりもあって、大きな政治運動となる前に挫折した。(Weblio辞書)


長井雅樂について(Wikipediaより)

文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤や久世らが坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。同年3月、再度入京したが、この頃には尊攘激派の台頭が著しく、岩倉具視や久坂らの朝廷工作もあり、長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、敬親により帰国謹慎を命じられた。同年6月に免職され、帰国。翌、文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。長井本人もこの措置には納得しておらず、また長井を支持する藩士はいまだ多くいたが、藩論が二分され、内乱が起きることを憂いて切腹を受け入れ、同年2月、萩城下、土原(ひじはら)の自邸にて、検視役正使国司親相の下に切腹した。享年45(満43才没)。長女・貞子は後に富岡製糸場で勤務した。

長井雅樂の辞世の句

今さらに何をか言わむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば
君がため捨つる命は惜しからで ただ思はるる国のゆくすえ

以上

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天皇の御歌(63)―第121代・孝明天皇(2) [孝明天皇]

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今日も、第121代・孝明天皇の御歌を学びます。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)


☆☆☆

“嘉永元年―1848―御年18歳)
女御入内の折の宸筆の御製(12月15日)
かげならぶ 千世のくれたけ 河竹の 根ざしふかくも なかにちぎらむ

(嘉永6年―1853―御年23歳)
*米使ペルリ浦賀に来航

春朝日(正月22日水無瀬宮御法楽)
天のはら ふりさけ見れば 朝日影 かすむも飽かぬ 春のいろかも

煙(9月8日当座御会)
朝な夕な 民のかまどの にぎはひを なびく煙に おもひこそやれ”
(pp324~325)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味:

女御(にょうご):後宮(こうきゅう)に入り天皇の寝所に侍した高位の女官のこと
*この日付で入内(宮中入り)された女御は後の「英照皇太后」(孝明天皇の准后(じゅごう))。

宸筆(しんぴつ):天子の直筆(じきひつ)。勅筆。宸翰(しんかん)

かげ:(日・月・灯火などの)光。(人や物の)姿・形。

くれたけ:竹の一種。淡竹(はちく)。葉が細かくて、節(ふし)が多い。庭などに植える。清涼殿の前庭にも植えてあった。

河竹:①川のほとりに生えている竹。②まだけ、またはめだけの古名。
③②の、清涼殿の東側の庭の御溝水(みかわみず)のそばに植えてあるもの。◇「河竹」と書く。

千世:1000年のこと、あるいは抽象的に非常に長い年月を指す言葉。千代と同義。

根ざし:①地中に根を深く伸ばすこと。根の張りぐあい。

ちぎる:夫婦の約束をする


水無瀬宮(みなせぐう):水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。

天の原(あまのはら):1 広々とした大空。 2 日本神話で、天上界のこと。 高天原。

ふりさけ見れば:はるかに見渡す


朝日影(あさひかげ):朝日の光。朝日の色。

御会(ぎょかい):歌会あるいは宴会をうやまっていう語


御歌の意味:

1首目
清涼殿の庭に植えてある呉竹、河竹が深く根を張って並ぶ姿のように、いつまでも末長く仲睦まじい夫婦になろうではないか

2首目
広々とした青空をはるかにみわたせば 朝日の光がかすんでいる様子が飽きることのない春のいろであることよ

3首目
朝夕に民のかまどのにぎわいをなびく煙を見ると思いやられることだ


[感想]

1首目。女御(旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)、後の英照皇太后)は、この前年12歳で、3歳年上の東宮・煕宮(ひろのみや)統仁(おさひと)親王(のちの孝明天皇)の妃となられ、孝明天皇が16歳で践祚された年に13歳で入内されました。昔のことですから16歳といっても成人の御自覚を持たれて、孝明天皇は、末永く仲睦まじい夫婦になろうとの誓いを詠われたのでしょう。

2首目。「天のはらふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」は遣唐使阿部仲麿の和歌ですね。日本に帰ることなく唐で生涯を終えた阿倍仲麿。偶然なのか異国の使者ペリー提督来日の年でした。不思議な偶然の一致を思わせられる御歌です。

3首目。この御製は仁徳天皇の故事を思い出させます。「民のかまどはにぎわいにけり」と、煙が家々から立ちのぼる光景を御喜びになったことを思いつつ、御所の中から民の生活を思いやられた御歌です。

孝明天皇は夙子様の立后を望まれましたが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、嘉永6年(1853年)5月7日、夙子様は正三位・准三宮に上られました。準三宮は「準后」という皇后より下位の称号とのこと。江戸幕府は色々なことを干渉していたのですね。

嘉永3年(1850年)に第一皇女・順子内親王(1850年 - 1852年)、安政5年(1858年)に第二皇女・富貴宮(1858年 - 1859年)を出産されましたが、いずれも幼児期に夭折したため、万延元年(1860年)7月10日、勅令により中山慶子(なかやまよしこ)所生の第二皇子・祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王(当時9歳、後の明治天皇)を「実子」と称されました。明治天皇の嫡母(実母ではない)として皇太后に冊立されました。

孝明天皇崩御後、明治天皇即位後の慶応4年(1868年)3月18日、皇太后に冊立され、皇后を経ずして皇太后となられました。 

「明治日本を支えた養蚕」で、1873(明治6)年6月に、英照皇太后が昭憲皇太后と御一緒に富岡製糸場をご訪問されたことを当ブログで書かせていただきました。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2021-03-08

その時、私は英照皇太后を「孝明天皇の皇后」と書きましたが、正しくは「孝明天皇の准后(じゅごう)」でした。謹んで訂正させていただきます。

英照皇太后は能を好まれ、明治11年(1878年)には青山御所に能舞台が建てられました。明治14年(1881年)に誕生した日本最初の能楽堂「芝能楽堂」も、皇太后の鑑賞に供することが設立目的の一つだったとのことです。(Wikipediaより)

能は今や世界的に知られているそうです。まだ調べていないので確かではありませんが、その始まりは、もしかしたら英照皇太后だったのかと、想像が膨らみます。能を直接鑑賞したのは、靖国神社の奉納薪能の他、数えるほどですが、奥深く神秘的なところが好きです。

今日も読んでいただき有難うございました。
皆様どうぞお健やかに、楽しい週末を迎えられますよう、お祈り申し上げます。

タグ:英照皇太后
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天皇の御歌(62)―第121代・孝明天皇 [孝明天皇]

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今日は、第121代・孝明天皇の御歌を学びます。

NHKの大河ドラマ「青天を衝け」で幕末の「尊皇攘夷論」が描かれていますが、そのエネルギーの源であられたのが第121代・孝明天皇でした。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)

孝明天皇は、第120代・仁考天皇の第4皇子です。弘化3年(1840)御年16歳で践祚され、翌年秋に即位の礼を行わせられました。


☆☆☆

“天皇は以後20年間、幕末の急運を告げる内外諸情勢の中で、終始、独立不羈の御精神を以て幕府の施政・外交のあやまりなきを凝視された。そしてともすれば対外屈従に傾き勝ちの幕府に対し、これを叱咤激励し続けられたが、慶応2年(1866)12月13日、疱瘡(天然痘)に罹られ、御発病後10日余りにして12月25日、御在位のまゝ36歳の御若さで崩御せられた。”(p317)

“(御陵墓は、京都市東山区今熊野にあり、後月輪東山陵[円墳]と申し上げる。また、京都の平安神宮に祀られてをられる”(p324)


“(寛永7年、安政元年―1854―御年24歳)
*4月皇居炎上のことあり、幕府、米、英、露などと和親条約締結

 柳(6月11日神宮御法楽の和歌)
打ちなびく 柳のいとの すなほなる 姿にならへ 人の心は

寄地祝言(12月21内侍所御法楽)
かみわざの 天のみほこの雫より なりにし國ぞ すゑはひさしき

 同年の御製とて子爵六角博通所蔵の草書の中に見えたる
あさゆふに 民やすかれと おもふ身の こゝろにかゝる異國(ことくに)の船”

(pp325~326)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


寛永7年(1854)に皇居(京都御所)が炎上したことを、存じませんでした。同じ年に、米、英、露との和親条約が締結されました。

「青天を衝け」に描かれている通り、「勅許」(天皇陛下の御許可)を得ない条約締結だったので、水戸藩主・ 徳川斉昭が烈火のごとく怒っていましたね。

3月、日米和親条約
8月、日英和親条約
12月、日ロ和親条約

翌年安政2年(1854)には、
10月、日仏和親条約
12月、日蘭和親条約

が、いずれも勅許を得ずに調印させられてしまいました。幕府が外圧に屈して主体性なく条約を締結したのが、日本の独立を妨げるということで、尊皇攘夷派の強い反発を招いたのでしょう。

言葉の意味:

神宮:伊勢神宮のこと

法楽:和歌・芸能などを神仏に奉納すること。

うちなびく:草や髪などが、風になびく

柳のいと:細い柳の枝を糸にたとえていう語。 [季語] 春

第1首目
風になびく柳の細い枝はすなおです、人の心もその姿にならいましょう

第2首目
(日本は)神様のわざによって、天沼矛(あめのぬぼこ)から滴り落ちた雫より成りたった國ですから いつまでも久しいことでしょう

第3首目
朝に夕べに 民が安らかであれとおもう心に 異国の船のことが気にかかります

[感想]

難しい言葉は何もないので、私などが説明するのは恥ずかしいですが、天皇を敬いつつ、親しむという気持ちで、書かせていただきます。

「柳に雪折れなし」といいます。呉竹のようにまっすぐな心も大切ですが、ことに当たっては、素直でありながら柔軟な心が、物事の判断を誤らないこつであると思いました。

日本神話の、伊邪那岐命・伊邪那美命が、天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛(あめのぬぼこ)で、こおろこおろと大地をかき混ぜたところ、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)-日本列島‐になったという話です。神様がそのようになさって、お造りになられた国なので、いつまでも幾久しく栄えますとの祈りの御製です。

天皇は、朝も夕も、民の安寧と幸福を祈っておられます。その安らかさが異国によって破られる可能性があったのが、この時代でした。「青天を衝け」でも、清国が酷い目に遭っている絵が描かれた書物を渋沢栄一が手にしている場面がありました。日本も一歩、道を誤れば同じように蹂躙されるという事態が現実に迫っていました。

今日は16歳~36歳という若さで20年という御在位期間に、明治維新前夜の歴史の上で大きな役割を担われた孝明天皇の御製をあらためて拝読させていただきました。まだまだ学びが足りませんが、少しずつ勉強を重ねたいと思います。

今日も読んでいただき有難うございました。
生き生きした日々をお過ごしくださいますようお祈り申し上げます。


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