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天皇の御歌(28)―第43代元明天皇 [元明天皇]

DSC_0500紅白小花0824blog1.JPG今日は第43代・元明天皇の
御歌(おうた)を学びます。

御在世:661~721(崩御61歳)、
御在位:707~715(47歳~55歳)

元明天皇は第三十八代・
天智天皇の第四皇女。
天武天皇、持統天皇の皇子
草壁皇子の妃(きさき)で
第42代文武天皇の母君です。


25歳で崩御された文武天皇の御遺言によって、文武天皇の子、首皇子(おびとのみこ)(のちの聖武天皇)に確実に皇位を伝えるために即位されました。文武天皇(子)から元明天皇(母)への継承という、異例の皇位継承でした。

天武天皇直系の孫に皇位を継がせるための“中継ぎ”としての即位と云えますが、御治世の実績においては、めざましいものがあります。和同開珎(わどうかいちん)の鋳造(708年)、平城京への遷都(710年)、また天武天皇のご遺志による『古事記』を完成させました(712年)。
この頃になると、国内の鉱産資源の開発が進んで、巻頭の武蔵国秩父郡から熟銅が産出され、和銅(それまでは銅は外国から入っていたので、和銅の語が作られたのであろう)が献上され、和同開珎が鋳造されたとのことです。


☆☆☆

“御製(おおみうた)
ますらをの 鞆(とも)の音すなり もののふの
 大臣(おおまへつきみ) 楯(たて)立つらしも

[参考] 御名部皇女(みなべのひめみこ)(元明天皇の同母姉)の和(こた)へ奉(まつ)る御歌「わが大君 ものな思(おも)ほし 皇神(すめかみ)の継ぎて 賜へる 吾が無けなくに」

和銅三庚戌(かのえいぬ)(七一〇)の春二月、藤原宮より寧樂宮(ならのみや)に遷(うつ)りましし時に、御輿(みこし)を長屋(ながや)の原(奈良県、天理市のあたり)に停(とど)めて遥かに古郷(ふるさと)を望みて詠(よ)みませる御歌(みうた)

飛鳥(とぶとり)の 明日香(あすか)の里を 置きて去(い)なば
君があたりは 見えずかもあらむ(以上、萬葉集、巻第一)“
(pp50~51)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆
鞆(とも)は、矢を放ったあとに弓の弦が腕などに当たるのを防ぐ防具のこと。
楯(たて)は、矢、石、剣などによる攻撃を防ぐための武具のこと。

1首目は、天皇の即位を祝うために兵士たちが弓の弦を打ち鳴らしたり楯を立てたりする様子の勇ましさが詠われています。この歌は元明天皇の即位の儀式の際に詠まれたと考えられています。

参考にあげられた御名部皇女(みなべのひめみこ)の御歌は、「お仕え申し上げる大君よ、ご心配なさいますな。皇祖の神が、あなた様に次いでこの世に下し賜わった、私という者がお側にいるではありませんか。」という意味です。

皇祖神は天皇の祖先の神、天照大神のことです。
姉君なのに、「あなたに次いで」というのは、臣下としてのへりくだりの表現だそうです。

天皇の即位の御歌に和して、姉君が妹の天皇を励ます御歌とのことで、妹君を御支えしますよという姉君の御歌は、元明天皇の前途の憂いを払拭する、心強いお言葉だったことと拝察いたします。

2首目は、飛ぶ鳥の明日香の里を置いて奈良に遷都したので、貴方様のいらしたあたりは見えなくなってしまうかも知れませんというほどの意味。

この御歌は説明書きによれば、元明天皇の御代ですが、一説には持統天皇の御歌とも言われているそうです。

いずれにしましても、新しい都に遷るにあたり、古郷を離れて行く寂しさを詠う歌は萬葉集には何首かあります。天皇が変わられるたびに遷都があった古代ならではの御歌のお気持ちは、今のように代替わりがあっても都が変わらない時代には想像するに余りあります。

天理市西井戸堂町大門の山辺御県坐神社に歌碑があり、奈良県明日香村 雷丘の南西 甘樫丘の前飛鳥川沿いにも、歌碑があります。どちらかに旅行してみたいものです。

今日も、読んでいただきありがとうございました。

また熱くなってまいりましたが、ニュースではセミの声が小さくなってきたと言い、昨夜はコオロギの声が聞こえました。秋はいつの間にかそこまで来ています。

今日も、皆様にとってお健やかな一日でありますように。

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