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天皇の御歌(17)-第41代 持統天皇 [持統天皇]

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今日も持統天皇の御歌(おうた)で、3回目です。

梅雨明けまであと少し。そんな梅雨明けにふさわしいさわやかな御歌です。


☆☆☆

“天皇(すめらみこと)の大御歌(おほみうた)

春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(たへ)の 衣乾(ほ)したり 天の香久山

(萬葉集、巻第一)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

今日の解説も、昨日同様、山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』から、拝借いたします。


☆☆☆

“春だ春だと思ってゐたら、あゝ夏がやって来たんだなあ ―- 天の香具山のほとりには、今日は一ぱいに白い衣がほしてある。初夏の陽をうけて実に鮮明に照り映えてゐるではないか ―- というほどの意。”(p277)

(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』p276 日本教文社)

☆☆☆

この御歌は、一部の文字が変えられて、『新古今集』に入れられ、百人一首にも取り入れられています。百人一首で、なじんでいる人が多いと思いますが、以下の『新古今集』の改作を御読みください。

私としましては、万葉集の元の御歌の方が、力強く、夏の光のまぶしさが、新鮮な感じがいたします。百人一首の方が、優雅だとも言えますが、私は素朴な万葉調が好きです。


☆☆☆

“春過ぎて 夏来にけらし 白たへの 衣ほすてふ 天の香具山”(p277)

(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』p276 日本教文社)

☆☆☆


コトバの入れ替えは次の通りです。

「来たるらし」→ 「来にけらし」

「衣ほしたり → 「衣ほすてふ」


直接体験ではない、間接的な表現になっているのは、百人一首の選者の時代には、もう「衣を干す」習慣が廃れていたから、見たことが無いということで、「衣が干してある」を「衣を干すという」伝聞調に変えたそうです。


和歌を詠んだ当時のままでなく、後世の他人(選者)の感覚で書き換えるというのは、著作権保護が厳しくなっている現代の感覚からしますと、何だか不自然な気がしますが、それが、百人一首の時代のならわしだったのでしょう。おおらかだとも言えます。


今でも、外国の例ですが、絵画の世界で、修復を依頼されて、元のキリスト像の面影なく、書き換えてしまった話もありましたね。まあこれは極端な例ですが。

改作が出るということは、元の御歌の人気が高く、当時も親しまれた名歌だったということなのでしょう。後世の人による改作は、作者本人のものではないということだけは、心に留めたいと思います。


持統天皇は、それまでの飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)から、694年、藤原京に遷都されました。

藤原京は、初の本格的な唐風の壮麗な都城で、それまで天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例だったものが、694年の遷都から710年の平城京遷都まで、16年間、3代の天皇に続けて使用された宮となりました。


刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令が制定され、政治機構の拡充とともに国の内外に律令国家の成立を宣する意味合いがあったとのことです。


この時代は、伊勢の神宮(三重県)の第1回式年遷宮(内宮690年、外宮692年)や、大嘗祭の実施(691年)(それまでも大嘗祭はありましたが、この時から、一世一代の祭儀として「践祚大嘗祭」と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備されたとのことです)なども、大きな御事績とのことです。


☆☆

“持統天皇の場合、先にも触れた重要な実績の『飛鳥浄御原令』で、「日本」国号が法的には初めて正式に採用されたと考えられる。だから、「日本」最初の天皇は持統天皇、つまりこれまた女帝だったことになる。“

(高森明勅著『歴史で読み解く女性天皇』p157 ベスト新書)

☆☆


それまでは、「日本」国号、「天皇」という呼称は、法的に正式に採用されていなかったとのこと、日本の飛鳥時代後期、689年に制定された体系的な法典、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の、日本の歴史における、重みを考えさせられます。


世間には、歴代の女性天皇は「中継ぎ」に過ぎない、と女帝を軽視する論調の評者もあるようですが、「中継ぎ」だとしても、持統天皇の時代の御事績は、男性天皇に少しも見劣りしません。それどころか、女性天皇だったからこそ、力強く、大胆に推進できたということもあるのではないかと思います。

先入観にとらわれないで、大胆に政策を推し進める、けれども決して皇室の伝統をないがしろにしない、皇統の継承と、日本国の連続性を大切にする、そんな力強い、過去の女性天皇の御姿が浮かんで参ります。

ということで、手前味噌ですが、愛子さまに、ぜひ皇太子になっていただきたいとの一国民としての思いが、いっそう強まりました。


今日も読んでいただき有難うございます。

梅雨が続き、コロナの心配など、色々なことがあるかと思いますが、皆様の今日が、良い日でありますよう、心よりお祈り申し上げます。



今日使用した参考資料:

○山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』日本教文社

○「藤原京 ― Wikipedea」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC

○高森明勅著『歴史で読み解く女性天皇』ベスト新書

以上


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天皇の御歌(16)-第41代 持統天皇 [持統天皇]

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今日は持統天皇の御歌(おうた)を読みます。持統天皇の御歌は2回目です

昨日の朝は、なぜか夢の中に、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」という言葉が目の前にチラチラして、調べたらこういうことでした。

☆☆

“天武天皇がまとめようとしていた古代国家の基本法典である「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が施行されたのも、この年(689年)だった。”

(高森明勅著『歴史で読み解く女性天皇』P154 ベスト新書)

☆☆


「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)には、以下のように説明されています。


☆☆
“飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。令22巻。律令のうち令のみが制定・施行されたものである。日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。”
(「飛鳥浄御原令 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%B5%84%E5%BE%A1%E5%8E%9F%E4%BB%A4

☆☆


どうやら、寝る前に読んだ高森明勅氏の本の影響で、689年には飛鳥浄御原律令が施行されという言葉が、寝ている間、頭脳の中で、リフレインを繰り返していたようです。


なお、「律令」というのは、律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当するとのこと、刑法よりも、行政法が先に制定されたのですね。


飛鳥浄御原令は、この後、大宝律令、養老律令と変化して、最後の養老律令は、廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続したとのことです。その息の長さにおどろきました。

日本は、平安時代から、明治時代に至るまで養老律令を存続させたように、法律を長く持ち続ける国柄があるのでしょうか。

私の唐突な思いつきですが、現代でも日本国憲法がなかなか改正されないのは、こんな先祖伝来の習慣があって、そういう体質の国なのかと、ふと思いました。


今日の御歌は、天武天皇が崩御(ご逝去)されたときに詠われた御歌です。ちょっと寂しいけれど、肉親との別れは、誰にでもいずれ訪れることですね。


☆☆☆

一書に曰(い)はく、天皇(すめらみこと)崩(かむあが)りましし時の大上天皇(おおきすめらみこと)の大御歌(おほみうた)二首(*持統天皇は御譲位の後、大上天皇の称号でお称び申し上げた)


燃ゆる火も 取りて裹(つつ)みて 袋には 入ると言はずや 面(おも)知らなくも

北山に たなびく雲の 青雲の 星離(さか)り行き 月を離(さか)りて

(以上、萬葉集、巻第二)

(p49)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


御歌の今日の解説は、山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』から、お借りします。


☆☆☆

“燃ゆる火も、取って包んで紙の袋の中に入れることができるといふではないか。そんな奇蹟すらも行はれるのに、どうして、神去りましたわが大君に再びお会ひできる道を、知ってゐると言ってくれないのか”

“北の山のあたりにたなびいてゐる雲、その青雲が、いつか北の山を離れ、星を離れ、月を離れて遠ざかって行く。そのやうに、あなた様がだんだん遠く、いよいよ遠く離れて行っておしまひになる。ああ、どうすることもできないのであらうか“

(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』p276 日本教文社)

☆☆☆


1首めは、燃える火を紙の袋の中に入れることができるという伝承が、当時あったのでしょうか。今は聞きませんね。

もう会うことのできない天武天皇に、もう一度でもお会いできるすべはないものだろうかという、切ないお悲しみが伝わって参ります。


2首めは、北山という地名が吉野にあるので、もしかしたら、持統天皇は、その北山のあたりを見つめながら、壬申の乱の前に、天武天皇とご一緒に、ひっそりと過ごされた吉野山中での日々を、思い出されていたのではないかと拝察いたします。

その北山から、天武天皇の魂であるかのような青雲が、星(皇子孫、重臣たち)を離れ、月(持統天皇))を離れて、いよいよ遠ざかって行かれる、そのような思いを詠われたと存じます。天空にとどまる山、星、月と、流れて遠く消えていく青雲のはかなさ、美しさが心に残ります。

星が皇子、皇女、皇孫、重臣で、月が持統天皇、というのは私の勝手な解釈ですが、そういう感じがいたします。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって、穏やかな一日でありますようお祈り申し上げます。

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天皇の御歌(15)-第41代 持統天皇 [持統天皇]

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気分あらたに、今日は、飛鳥時代にさかのぼって、持統天皇の御歌(おうた)を読みます。


その前に「御歌(おうた)」という呼び方について、ひと言、説明いたします。

天皇がお詠みになられた「和歌」は、本来、御製(ぎょせい)と申し上げるのが正しい言い方です。

宮内庁のホームページでは、「歌会始」において、「御製」(天皇陛下)、「御歌」(皇后陛下、皇族)、「詠進歌」(一般人から宮中に差し上げられた和歌)に、言葉が分けられています。

ですから、天皇陛下の御歌の正式な呼び方は「御製」です。

このブログでは、しかし、学ばせていただいている書籍に基づいて、より親しみやすい「御歌(みうた)」を使うことにいたしました。

「御製」は、慎んで読ませていただくための心構えを整えるのに大切な呼び方だと存じます。

一方、天皇陛下や御皇室の和歌やお言葉を、もっと身近なものとして感じたい、その思いを皆様と広く共有したい、そんな思いから、『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』のタイトルに合わせて、「御歌(おうた)」と呼ばせていただくことにしました。


このことについて、前掲書の“編集にあたってのいくつかのノート”に、次のように記されています。

☆☆☆

“二、天皇がお詠みになられた「和歌」は、本来御製と申し上げるのが正しい言ひ方であるが、やゝ堅苦しい感じがしないでもないので、本書の表題には「歴代天皇の御歌(おうた)」と題させていたゞいた。古くは、「おうた」「みうた」双方の呼称もつかはれてゐるので。”
(p5)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

古くは「おうた」「みうた」双方の呼称も使われていたということで、「おうた」と呼ばせていただき、用語にとらわれずに、天皇陛下の御歌に、いっそう親しんでいただけたらと、思います。

それでは、第41代 持統天皇の御歌を、読みます。

持統天皇は、ご在世 645年~702年 58歳で崩御、 御在位 686年~697年の11年間でした。

第38代 天智天皇の皇女、第40代 天武天皇の皇后であられたかたです。

☆☆☆


天皇(すめらみこと)、志斐(しひ)の嫗(おみな)に賜ふ御歌(みうた)1首

不聽(いな)と言へど 強(し)ふる志斐のが 強語(しひがたり) このころ聞かずて 朕(われ)戀ひにけり

(萬葉集、巻第三)

(p49)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

「強語(しひがたり)」は、相手が聞きたがらないのにむりに話を聞かせること。

「志斐」は、飛鳥(あすか)時代の女官の氏または、名前とのことです。

「嫗(おみな)」は、年配の女性のこと。

もう聞きたくないというのに、どうぞ聞いてくださいと無理強いする、志斐の話だけれども、この頃聞かないので、なんだか恋しくなったので、聞かせてほしいという

この御歌は、実は中学か高校の教科書に載っていて、いっぺんで、好きになった御歌です、

この御歌と対になる、志斐(しひ)の嫗(おみな)の歌があります。


“志斐嫗の和(こたへ)奉る歌一首

いなと言へど 語れ語れと詔(の)らせこそ 志斐いは申せ 強語(しひかたり)と言(の)る(万3-237)“

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sii.html


いやだ、いやだと、申しますのに、天皇さまが語れ語れと、おっしゃるからこそ、私、志斐は語るのですよ。それを無理強いに語ったと言われるのは、あんまりでございます。

天皇にお仕えする女官の語りですから、歴史や宮廷の記録についての事だったかもしれません。それにしても、とうとうと話し続ける女性の姿と、その勢いに、少し疲労を覚えながらも、楽しんで聴いておられる天皇の御姿が目に浮かんで参ります。

君臣の境を超えて、女性の天皇陛下と、語りの達者な、年配の女官とのやりとりが、今でもありそうな気がして、天皇陛下が、雲の上のお人であるばかりでない、身近な御方であることに、親しみを感じました。


今日も読んでいただき、有難うございました。

今日が皆様にとって、新しい発見のある、楽しい一日でありますように。

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