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天皇の御歌(39)―第40代・天武天皇 [天武天皇]

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今日は時代をさかのぼって
天武天皇の御歌を読みます。

御在世:622~686(崩御・65歳)
御在位:673~686(52歳~65歳)

一昨日23日午後8時からの、NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』「日本のかたちを決めた女帝 持統天皇の真実」を視聴して、持統天皇のスケールの大きさにあらためて感動しました。持統天皇は夫であられる天武天皇の御位と古代国家統一確立の事業を継承されて、現代に通じる多くの功績を遺されました。(再放送は30日午前8時からあります。)

天武天皇は、第34代・舒明天皇の第三皇子で、第38代・天智天皇の御実弟であられ、母君は同じく第35代・皇極天皇(斉明天皇)です。壬申の乱(672)の後、大和の明日香浄御原宮で即位せられました。これに先立ち、朝鮮半島の白村江戦いにおいて、わが軍が唐と新羅の連合軍の前に完敗(663年)し百済が滅亡し、対外関係から内政に政治の頂点が移った時期に、天智天皇のあとを継がれた天武天皇は、内政の諸秩序を鋭意整えるかたわら、「国史編纂」にも意を注がれました。「古事記」は、天武天皇のご意向を反映し、約三十年後、第43代・元明天皇の御代に完成しました。

☆☆☆

“天皇の御製歌(おほみうた)

み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は零(ふ)りける
 その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如
 隅(くま)もおちず 思ひつつぞ來(こ)し その山道を“
(p47)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

この御製は(萬葉集巻一・二五)に集録されています。この御歌について、山口悌治氏は次のように解釈しています。

☆☆

“(大意)

み吉野の耳我の嶺に、やむ時もなく雪が降りついでゐる。間断なく雨が降りつゞいてゐる。その雪がやむときもなく降りついでゐるやうに、その雨が絶え間もなく降りつゞいてゐるやうに、たゞいちづに思ひ続けながら、羊腸たる山道をひたすら思ひに沈みながらやって来たことである、その羊腸たる山道を―といふほどの意。 “(p245)

(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』、日本教文社)

☆☆☆

言葉の意味

み吉野:「み」は美称。み熊野というのと同じ。

耳我の嶺(みみがのみね):今日所在ははっきりしない。飛鳥から吉野へ超える竜在峠近傍の峰の一つであろうと言われている。

時なくそ:時なしに。 絶えず。

間なくそ:間隔を置くことなく。絶え間なく。

隈も落ちず:隅は道の隅で、道の曲り角のこと。曲がり角ごとに一つも落とすことなく。ここでは「絶えず」と同じく、絶え間なくの意。

思ひつつぞ來し:片時も心を離れぬ思いに沈みつつ来た。

羊腸:羊の腸のように、山道がいく重にもくねり曲がっているさま。


この絶え間ない思いは、出家して吉野の山にこもられた天武天皇のお心を占めていた今後の国のあり方、そのためのご自身の身の振り方であったのでしょうか。

壬申の乱は、御兄君・天智天皇の御崩御の後、間もなく天武天皇の挙兵によって起こりました。

その原因について、複雑なものがあるようですが、高森明勅氏の『日本の十大天皇』では、天智天皇による皇位継承のあり方の見直し、それまで自然だった兄弟、姉弟継承を見直して、「直系継承」の確立を考えておられたので、天智天皇のお心を察した大海人皇子が一度は身を引いたものの、大友皇子を戴く近江朝廷が天武天皇を討伐しようとしているとの誤解により、偶発的に起きたのではないかと述べています。

いずれにしても、叔父と甥が骨肉相争い、甥の大友皇子・弘文天皇が命を失うという痛恨の出来事でしたが、この悲劇がかえって、古代統一国家の確立をおしすすめる結果につながりました。そこが歴史の不思議なところでもあります。

悲惨な出来事はないのがよいに決まっていますが、どんなことが起きようと、起きてしまったことを踏み台として、いっそうの飛躍を目指すことができるのが、人間の強さ、たくましさでもあることを、教えられます。個人でもそうありたいものです。

今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって希望に満ちた一日でありますようお祈り申し上げます。

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