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天皇の御歌(75)―第124代・昭和天皇(3) [昭和天皇]

20220503blog DSC_2068.JPG昭和天皇を思い起せば、先の大戦のことを思わずにいられません。今のウクライナの戦闘にも思いがつながります。爆撃に苦しむ住民の皆さん。戦争には、それぞれに国の言い分があります。ロシアにはロシアの言い分が、ウクライナにもしかり。けれども相手国の領土に侵攻して、戦闘員でもない住民を脅かし命や財産を奪うことは、自国の正当性をいくら述べても、越えてはいけない一線を越えたと言わざるを得ないと思います。

90路を超えた母は戦争経験者です。会いに行くたびに、必ず空襲の話を聞かされます。「小さな子供たちがクウチュウ、クウチュウと恐がって泣いていた、今の日本は、戦争が無くて本当にありがたい」と何度聞かされたことでしょう。

ウクライナでは、どれだけ幼い子供たちが空襲におびえて泣いているかと思うと、胸が痛みます。

昭和天皇の平和の祈りに思いを致し、停戦が実現し、ウクライナに平穏な日々が戻ることを祈らせていただきます。

[昭和天皇]
御在世:1901―1989(崩御・87歳)
御在位:1926―1989(26歳~87歳)



☆☆☆


(昭和6年―1931―御年31歳)
*9月、満州事変起る

社頭雪
ふる雪に こころきよめて安らけき 世をこそいのれ 神のひろまへ

(昭和8年―1933―御年33歳)
*国際連盟脱退

朝海
天地の 神にぞいのる朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を
(p399)

(昭和15年―1940―御年40歳)

迎年祈世
*日独伊三國同盟締結。大政翼賛会發足

西ひがし むつみかはして榮ゆかむ 世をこそいのれ としのはじめに
(p400)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


[言葉の意味]

朝なぎ:夜間の陸風が日中の海風に交代する時刻に,風がやんで静かになる現象。(コトバンク)

[感想]

1首目「ふる雪に心をきよめて、神の御前に安らけき世をいのられる」

2首目「天地の神々に、朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世をいのられる」

3首目「西洋も東洋も、仲むつまじく手を取り合って榮えていく世をいのられる」


暖房の無い神の御前で、冷たい雪に心を浄めていのられる。
満州事変、国際連盟脱退、日独伊三国同盟、次々に大戦への道が推し進められる世をご覧になりながら、祈り続けられる昭和天皇のお姿。

特に、3首目は、イギリスを訪問されて、英国王室とも交流のあった昭和天皇におかれては、イギリスを敵に回す国際連盟脱退、三国同盟は痛恨の極みでいらしたことと思います。世界の行く末が見えるのに、戦争の勢いが止められず、ただ祈られることしかなかったのでしょう。

平和への祈りは、最近の敬宮愛子内親王殿下の、中学ご卒業作文を思い起こさせられます。


☆☆☆

“何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。
そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。”
(産経新聞2017/3/22 「卒業記念文集の作文「世界の平和を願って」全文」)
https://www.sankei.com/article/20170322-LWNVTS255BM47HUSW5WI2BUT3Y/3/

☆☆☆


上記は、愛子様の中学ご卒業の作文の一部です。曾祖父でいらっしゃる昭和天皇の、平和への祈りが、魂の奥底深く、15歳の中学生でいらっしゃる愛子様に受け継がれていることに、皇室の重厚な伝統を感じます。

ウクライナの戦闘が早期に終了すること、世界で紛争に苦しむ人々に平和な日々が訪れることを、微力ながら祈らせていただきます。


今日も、読んでいただき有難うございました。
皆様にとって、平和な心豊かな毎日であられますよう、お祈り申し上げます。
タグ:愛子様
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天皇の御歌(74)―第124代・昭和天皇(2) [昭和天皇]

20220430blog DSC_1182.JPG昨日、4月29日は「昭和の日」でした。もともと昭和天皇のお誕生日でしたが、1989年に崩御された後、みどりの日という祝日になり、 2007年、祝日に関する法律の改正によって,新たに昭和の日となりました。

御在世:1901―1989(崩御・87歳)
御在位:1926―1989(26歳~87歳)

昭和天皇の御在位期間は62年で、飛鳥時代以降の天皇では、最長とされています。飛鳥時代以前は、御在位期間について、複数の説があり、不確定要素が多いとのことです。御在位期間が、歴史の記録において、はっきりしている天皇では、最長ということなのですね。(nippon com)

https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00423/


今日は、昭和天皇をしのび、ご業績を讃え、感謝の気持ちとともに、御製をまなばせていただきます。

☆☆☆

“(昭和20年―1945―御年45歳
*沖縄陥落、ポツダム宣言受諾。連合軍の占領下に入る

社頭寒梅
風さむき しもよの月に世を祈る ひろまへ清く うめかをるなり

終戦後の御製
國柄を ただ守らんといばら道 すすみゆくとも いくさとめけり
(p401)


(昭和23年―1948―御年48歳)
*極東軍事裁判判決、A級戦犯死刑

悲しくも たたかひのためきられつる 文の林を しげらしめばや

たゆまずに すすむがををし 路をゆく 牛の歩みの おそくはあれども
(p403)


(昭和33年―1958―御年58歳)

赤間神宮ならびに安徳天皇陵に詣でて

水底に 沈み給ひし遠つ祖(おや)を 悲しとぞ思ふ 書(ふみ)見るたびに
(pp407~408)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味:

しもよ:霜夜。霜の降りる寒い夜。(weblio)

ひろまへ:広前。御前。▽神仏の前の尊敬語(weblio)

國柄(くにがら):《古くは「くにから」とも》1 国家の成り立ち。国の状態。
(中略) その国や地方に特有の持ち味。「お―が表れる」(コトバンク)

文の林(ふみのはやし):
ぶん‐りん【文林】 の解説 1 文学者の仲間。文苑。文壇。「儒家―」 2 詩歌・文章などを集めたもの。詩文集。文苑。(goo辞書)

赤間神宮:赤間神宮(あかまじんぐう)は、山口県下関市にある神社である。旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。(Wikipedia)


[大意]

1首目
風が冷たく 霜が降りる夜の月に世の行く末を祈っている神の御前に 清らかな梅の香りがただよってきます

2首目
日本の国のあり方をただ守るために、いばらの道を進むことになるけれども、戦争をとめたのです

3首目
悲しいことに、戦争のためにずたずたに切られてしまった、詩歌、文章の豊かな林を、ふたたび、しげらせなければ

4首目
決して休むことなく、前に進む姿が雄々しい。道をゆく牛の歩みは、ゆっくりだけれども、確実です。

5首目
海の底に入水して沈んでしまわれた遠いご先祖でいらっしゃる安徳天皇のことを、(神宮に置かれた?)書を見るたびに、悲しく思います


[感想]

1首目、2首目は終戦の年の御製です。

1首目は、梅の季節ですから、1、2月頃でしょう。霜が降りるほどの夜、冷たい社殿の中で、神の御前に日本の将来を祈られる昭和天皇。ふと香ってきた梅の香は、天皇を励まされる天地の神からのメッセージだったのかも知れません。

2首目は、昭和天皇の固い御決意。この時は、死をもいとわない、どんな苦労でも耐え忍ぶという御決意でいらしたことと拝察申し上げます。その御決意が、その後の日本の奇蹟的な立ち上がりの支柱になったのだと思います。

3首目を読みながら、萬葉集から始まって、数々の勅撰和歌集が平安時代に編纂され、伝承されてきた日本の「文の林」の豊かさを思います。文の林、豊かな日本語の蓄積が、日本のあり方を、見えない所で形作り、支えているのだと思います。戦争やアメリカの占領によって、日本語が軽視され、日本文化が軽んじられる時期が、長く続いたことを思うと、それを予見される御製のような気がいたします。「文の林をしげらしめばや」は、今にも通じるお言葉だと思います。

4首目。牛は、歩みはゆっくりですが、重い荷を背負っても、堂々と黙々と文句を言わずに、たゆみなく前進します。その雄々しい姿にならって、急がなくてもよいから、弱音を吐くことなく、堂々と前進しなさいと、昭和天皇に激励していただいたような気がいたします。

5首目は、山口県下関市にある、安徳天皇をお祀りした赤間神宮を訪ねられての御製です。

大河ドラマはちょうど平家の壇ノ浦の戦いにさしかかると思いますが、その戦いで、800年前に亡くなられた幼い安徳天皇を遠い祖(みおや)と詠まれた昭和天皇のおことばが、予想外でした。天皇なので、昔の幼い天皇でも「みおや」と拝まれる感覚でいらっしゃるのですね。日本の歴史は奥が深いと思います。御製を詠まれた時の詳しい説明はありませんが、昭和天皇が、赤間神宮に行幸なさったときに、神宮に納められている安徳天皇の御事が書かれた文章をご覧になられ詠まれた御製ではないかと、拝察申し上げます。

赤間神宮はまだ行ったことがありませんが、いつか行ってみたいです。竜宮城のような美しい神宮だとのことです。
https://www.fugu-sakai.com/shimonoseki/karato/akama/


今日も読んでいただき有難うございました。
昭和天皇の御製を拝読して、昭和をなつかしく思い出しました。
みなさま、どうぞ実り多い連休をお過ごしください。
タグ:昭和の日
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天皇の御歌(65)―第124代・昭和天皇―「昭和の日」 [昭和天皇]

DSC_149520210429blog.JPG今日は「昭和の日」です。

コトバンクには、「昭和の日」が次のように説明されています。

『国民の祝日の一つ。4月 29日。昭和天皇の誕生日であったが,1989年の死去に伴いみどりの日として制定された。 2007年国民の祝日に関する法律の改正によって,みどりの日は5月4日に変更され,4月 29日は新たに昭和の日となった。「激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす」ことをその趣旨としている。』



2007年に「みどりの日」から「昭和の日」になりました。


激動の昭和を国民と共に乗り越えて来られた昭和天皇様を思いますと胸に迫る思いがあります。昭和天皇様に感謝と尊敬の意を込めて、御製を学ばせていただきます。

御在世:1901―1989(崩御・87歳)
御在位:1926―1989(26歳~87歳)


☆☆☆

“(昭和21年―1946―御年46歳
*新日本建設に関する詔書發布。極東軍事裁判開廷

戦災地視察(註・2月19日神奈川県を御巡幸、これより御巡幸全國に及ぶ)”

戦(たたかひ)の わざわひうけし 國民を おもふ心に いでたちて來ぬ

わざわひを わすれて われを出むかふる 民の心を うれしとぞ おもふ

國をおこす もとゐとみえて なりはひに いそしむ民の 姿たのもし


皇居内の勤労奉仕者

をちこちの 民のまゐきて うれしくぞ 宮居のうちに 今日もまたあふ”

(pp401~402)

“昭和22年―1947―御年47歳)”

帝室林野局移管

うつくしく 森をたもちて わざはひの 民におよぶを さけよとぞおもふ

こりて世に いだしはすとも 美しく たもて森をば 村のをさたち
(*こりて=木を伐って)”
(p402)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


初めの3首は、昭和天皇の全国御巡幸を詠まれた御製です。

昭和天皇の全国御巡幸
https://ironna.jp/article/1303

4首目は、皇居勤労奉仕(現在の皇居清掃奉仕)の初めの時の御製です。
https://fng.or.jp/koukyo/2019/07/02/post_248/

5、6首目は、皇室の御料林が国有財産となり、帝室林野局が廃止になった時の御製です。

言葉の意味

御料林(ごりょうりん):明治憲法下で皇室財産であった森林

帝室林野局(ていしつりんやきょく):

『戦後の編入
GHQによる宮内省組織の縮小要求や農林省との林野行政を巡る対立を避けるための「林政統一」論に押される形で1947年3月31日に帝室林野局は廃止され、残された御料林は翌4月1日付で農林省林野局(後の林野庁)管轄の国有林に編入された。』(Wikipedia 「帝室林野局」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E6%9E%97%E9%87%8E%E5%B1%80

[御製について]

昭和天皇の御製は分かりやすいお言葉なのでそれぞれの大意は省かせていただきます。

1~4首目は、昭和天皇とお迎えした民の心、お応えする青年団の心の通い合いが生き生きと感じられます。

5首目は、森の木々を伐採し過ぎると水害などの元になるので、美しく森をたもってほしいとの御製、6首目は、それまで皇室の管理下にあった御料林が国有林になるに当たって、管理を託された村のをさ(長)、地域の首長に、利益を得るために森林を伐採することがあっても、森全体を美しくたもってほしいとの願いを託された御製だと思います。

[感想]

戦災地視察が、戦災で傷ついた人々の心にどれほど希望の灯をともし、その後の戦後復興につながったことかと、当時が偲ばれます。

特に感慨を覚えるのは、共産党系の一団が、天皇のひとことで全員泣きだし、後に天皇制護持論者に転向したとの記事です。

☆☆

九州巡幸のさいの24年5月22日、佐賀県基山町の因通寺境内の戦災孤児収容施設「洗心寮」をお訪ねになった。住職、調寛雅(74)が父から引き継いで運営しており、多くはフィリピンなどからの引揚孤児。天皇は「お健やかにね」と子供たちの頭をなでられ、山門を後にされた。

 このとき、調にはひとつ気になることがあった。沿道にシベリア帰りの共産党系の一団が戦争責任を追及しようと待ち構えていたのだ。

 だが、天皇のひとことが、心配を吹き飛ばす。彼らの前で立ち止まられてリーダーのMに「長い間、外国で苦労をさせて申し訳ない。これからは日本再建のためにしっかり頑張ってほしい」と帽子を取られた。Mに感動の衝撃が走った。全員泣き出し、後に天皇制護持論者に転向した。
https://ironna.jp/article/1303?p=3

☆☆

同様の話が、九州だけでなく各地で起こったことと、聞いております。陛下のご慈愛あふれるひとことに、共産党系の人々、天皇制反対の人々が、一度に天皇制護持論者になってしまうことに深い感慨を覚えます。

平成の御代においても、同じことが各地で起こったのだと拝察申し上げます。ご慈愛あふれる大御心は、平成の御代になって上皇・上皇后様の、震災、水害の被災地ご訪問、海外の戦没者慰霊の旅になって引き継がれ、令和の天皇・皇后さまにも引き継がれています。

皇居勤労奉仕は、宮城県栗原郡青年団の自発的な荒廃している皇居内外の清掃奉仕を許してほしいとの申し出から始まりました。占領下にあって、身の危険をかえりみずに、清掃奉仕を発願した宮城県栗原郡青年団に、深く敬意を表します。昭和天皇様のお喜びも一入であったことと拝察申し上げます。

私も皇居清掃奉仕に何回か参加いたしましたが、その感激も、宮城県の青年団から初まったことを思い起こし、あらためて当時の青年団と関係者の皆様に、感謝を表したいと思います。

御料林が国有林になった時の御製は、上皇様、天皇様の全国植樹祭における、国民と共に、森林を大切になさる御心につながっていると拝察申し上げます。

今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって良い祝日でありますよう、お祈り申し上げます。

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