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天皇のお言葉(1)―第44代・元正天皇 [元正天皇]

20220324 blogDSC_2040.JPG昨年まで、『古事記』、『日本書紀』を読みました。『日本書紀』は神代から持統天皇までの記録です。その後に『続日本紀』が続くので、持統天皇の次はどうなるのか知りたくなり、『続日本紀』を読み始めました。

久しぶりに、歴史上の天皇のお言葉を題材に文章化することに緊張を覚えます。なるべく抵抗なく、天皇のお言葉を語りたいと思っていますが、口に出さない、文字化しない時間があくと、私でも、知らない間にハードルができることを、考えさせられます。何ごとも、続けることが大切なのですね。


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“『続日本紀』は、『日本書紀』についで編纂された、いわゆる勅撰(天皇の名による編纂)の史書である。”(pⅴ)
(編注 直木考次郎他 『続日本紀1』(全4巻)東洋文庫 457)

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『古事記』、『日本書紀』は書き下し文でしたが、『続日本紀』は、口語訳なので、だいぶ勝手が違います。好奇心だけで、ともかく読み始めました。読み慣れてくると、なかなか興味深い内容です。

第44代・元正天皇の御歌は、これまで当ブログでも3回、取り上げました。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/archive/c2306218719-1

元正天皇は、第43代・元明天皇の皇女で、第40代・天武天皇の御孫にあたられます。
御在世:680~748(崩御69歳)、御在位:715~724(36歳~45歳)です。

第40代・天武天皇の皇太子だった草壁皇子が早逝され、皇太子たる、草壁皇子の皇子(後の第42代・文武天皇)が幼かったため、天武天皇のお后、持統天皇が御位を継がれました(第41代)。しかし、第42代・文武天皇は即位後3年で亡くなられたので、草壁皇子のお后・文武天皇の母君・天智天皇皇女であられた阿閉皇女(あへのひめみこ)が、第43代・元明天皇として御位につかれました。元明天皇が譲位なさりたかった715年、文武天皇の御子の首皇子(おびとのみこ)が15歳と若かったため、文武天皇の姉である氷高皇女(ひたかのひめみこ)が即位され、第44代・元正天皇となられました。

元正天皇の御在位は9年間でした。そのあと、首皇子が、24歳で御位を継がれて、第45代・聖武天皇となられました。

元正天皇の御在位中の詔(みことのり)では、災難が起こった年のお言葉が心に響きます。養老五年(721)2月に地震があるなどの不思議な兆候があったときの詔です。

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“癸巳(十六日)(中略)
朕は徳が少なく、民を導く充分な才能もない。早朝から起きて〔その方策を〕求め、夜寝についても〔このことを〕思い続けている。身体は宮中の奥深い中にあっても、心は人民のもとにある。汝らに〔政治を〕任せなければ、どうして天下〔の民〕を導いてゆくことができようか。〔ついては〕国家のことで、万事に有益なことがあれば、必ず〔朕に〕奏上するように。もし〔朕が〕聞きいれないようなことがあれば、何度でも厳しく諫めてほしい。汝らは〔天皇の〕面前では服従し〔たように見せかけ〕て、退出した後で陰口をいわないようにせよ。
甲午(十七日)〔天皇が次のように詔した。
世の諺(ことわざ)では、申年には常に災いがあるというが、これはそのとおりである。去る庚申の年(養老4年=720年)には、天の咎めの印がしばしば現れ、洪水と旱魃が両方ともおこり、庶民はさすらい没落して、秋の収穫も不作で、国中が騒然となり、総ての人が苦労した。(中略)
古い典籍に尋ねてみると、王者の政令が事にそぐわない時に、天地が〔それを〕きびしく戒め責めて、咎めのしるしを示すのだとある。あるいは道に外れた行いがあるために、天災がおこっているのであろうか。今、汝ら臣下の者たちは、高位にあり任務も重大である。どうして忠誠を尽くさないでよかろうか。故に、〔朕の出す〕政令に不都合なことがあれば、総て上申し、〔それを〕遠慮して避けてはならない。まっすぐに考えていることを総て表し、隠してはならない。朕が〔その上申書を〕自ら読むつもりである。
そこで公卿たちは、この話をうけたまわって退出し、各々所管の漢詩に命じて意見を言上させた”(pp226~227)

(編注 直木考次郎他 『続日本紀1』(全4巻)東洋文庫 457)

*****

「国家のことで、万事に有益なことがあれば、必ず〔朕に〕奏上するように。もし〔朕が〕聞きいれないようなことがあれば、何度でも厳しく諫めてほしい。」「〔朕の出す〕政令に不都合なことがあれば、総て上申し、〔それを〕遠慮して避けてはならない。まっすぐに考えていることを総て表し、隠してはならない。」と、公卿の提言を求めておられます。

当時の天皇は、今日と違って、政治の実権を持っておられる為政者でした。臣下に、忌憚のない意見を求められ、政治に反映させるという、1300年前の女性君主の堂々たるお言葉に、感銘を覚えました。


今日も読んでいただき有難うございました。

昨日、緑地に散歩に行ったら、ガマガエルの卵がありました。あたたかさが続けば、近々、おたまじゃくしの群が見られるでしょう。

皆様に、希望に溢れた日々が訪れますよう、お祈り申し上げます。
タグ:続日本紀
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天皇の御歌(31)―第44代・元正天皇 [元正天皇]

DSC_0308ウツギモドキ0904blog.JPG
今日も元正天皇の御歌を
学びます。今日で3回目です。

元正天皇は
第43代・元明天皇の皇女、
第40代・天武天皇の御孫、
御在世:680~748(崩御69歳)、
御在位:715~724(36歳~45歳)

写真は御歌の「ホトトギス」に関連して卯の花を探したけれど、手元に無かったので、似た花を選びました。何の花でしょう。

☆☆☆

“先の太上天皇(おほきすめらみこと) (註・元正天皇)の御製の霍公鳥(ほととぎす)の歌一首

霍公鳥 なほも鳴かなむ もとつ人
 かけつつもとな 吾(あ)を哭(ね)し泣くも (萬葉集、巻第二十)

(*もとつ人=昔なじみの人、*かけつつ=心にかけて)

左大臣・長屋王(註・高市皇子の御子で、天武天皇の御孫。七二九年藤原氏の陰謀の犠牲となって薨去)の佐保の宅(いへ)に聖武天皇、御在(おほましま)して肆宴(とよのあかり)きこしめす。太上天皇(おほきすめらみこと) (註・元正天皇)の御製歌(おほみうた)一首

はだすすき 尾花逆葺(さかふ)き 黒木もち
 作れる 家(いへ)は萬代(よろづよ)までに (萬葉集、巻第八)“

(p53)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


1首目は、ほととぎすよ、もっと鳴いておくれ。去年も来て鳴いてくれた懐かしい鳥よ、おまえをこんなに心にかけているのに、一声ばかりで去ってしまって、私を泣かせるとは、酷いではないかというほどの意。

「もとつ人(懐かしい人)」は、元正天皇の御父君の草壁皇子か、弟君の文武天皇のことかも知れないと解釈する人もあります。夜中や、明け方にも鳴くので、近しい亡き人を思う心に結びついたのでしょう。夜、静まりかえった中で、キョッキョッキョと響き渡る鳴き声の余韻が、亡き人を思い出させます。

霍公鳥(ほととぎす)は、杜鵑、不如帰と色々な漢字があります。カッコウ目カッコウ科の夏鳥で、5月~9月に見られるとのこと。この辺で見た記憶はありません、鳴き声は「「キョッキョキョキョ」と鋭い声で鳴くので、「東京特許許可局」とか「テッペンカケタカ」と聞こえるそうです。古来から日本では愛され、萬葉集では額田王が「古(いにしへ)に恋ふらむ鳥」と詠み、清少納言は『枕草紙』第四十一段で、鳥の中で最も素晴らしいとしています。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の川柳も有名です。

(参考資料:とりのなんこ著『とりぱん大図鑑』講談社)

「夏は来ぬ」の歌では「卯(う)の花の、匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて 」と歌われていますね。卯の花は「ウツギ」というそうです。


ホトトギスの姿を見たことがありません。歌声は聞いているかも知れないけれどもよく分かりません。Youtubeで聞くと、ウグイスにやや似ているので、ウグイスだと思って聞き流していたかも、知れません。来年は意識して聞いてみようと思います。

余談ですが、わが家の近くの緑地では夏でもウグイスの声を聴くことができます。父が愛した散歩コースなので、ウグイスを聴くと亡き父のことを思い出し、励まされているような気がします。小さな鳥なのに、声が力強くて、勇気を与えられます。


2首目は、ススキを逆葺きして、皮のついた木材を使った新築の建物は、いつまでも長持ちしますようにとの御製。

左大臣の長屋王(ながやのおほきみ)が佐保に建てた作宝楼(さくほろう)という屋敷に太上天皇と聖武天皇が行幸されて、新築のお祝いの宴で詠われたものとのことです。

「はたすすき」は、穂の出る前の皮をかぶった状態の薄(ススキ)
「逆葺く」は、草を普通とは逆に使って屋根をふく、穂先を下に向けて葺くこと
「尾花」ススキの花穂。形状が獣の尾に似ていることによる名
「黒木」皮のついたままの木材
「室」四方を囲い閉じた部屋や建物

ススキは繁栄を願う意味があるとのこと。お月見の時も、ススキを飾るのはその意味なのでしょうか。長屋王の変で薨去されたことを思うと、長屋王の御霊を思って、萬葉集に収録されたのかもしれません。長屋王は反乱の疑いをかけられますが、無実だったようです。


建物の有様、ススキや黒木が、詳しく詠われているのが、面白いですね。NHKの「ふるカフェ系 ハルさんの休日」で、ハルさんが古民家の建築の細部を語りますが、昔の人の色々な知恵と工夫が凝らされていることを、聴くのが楽しいです。それと同じような興味を覚えます。

『とりぱん』は、東北地方に住む、野鳥をこよなく愛するのとりのなんこさんの漫画ですが、野鳥の生態がよく分かります。野鳥観察の手ほどきにもなりました。


今日も読んでいただき有難うございました。

台風が近づいているようです。どうぞお気をつけて、良い週末をお迎えください。


参考資料:

・とりのなんこ著 『とりぱん大図鑑』 講談社

・やまとうた和歌
 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gensyou2.html


タグ:野鳥
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天皇の御歌(30)―第44代・元正天皇 [元正天皇]

DSC_0523百日紅0902blog.JPG今日も昨日に引き続き、
元正天皇の御歌を学ばせて
いただきます。元正天皇は
第43代・元明天皇の皇女、
第40代・天武天皇の御孫、
御在世:680~748(崩御69歳)、
御在位:715~724(36歳~45歳)
です。





☆☆☆

“山村に幸行(いでま)しし時、先の太上天皇(おほきすめらみこと)(註・元正天皇)の陪従(へいじゅ)の王臣に詔りたまはく、それ諸王卿等(おほきみまへつきみたち)、和(こた)ふる歌を詠みて奏(まを)すべしとのりたまひて即ち御口號(みくちでう)したまはく、

あしひきの 山行きしかば 山人(やまびと)の
 朕(われ)に得しめし 山つとそこれ(山つと=山のみやげ)

舎人親王(とねりのみこ)の、詔(みことのり)に応(こた)へて和(こた)へ奉る歌一首
「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰」(萬葉集、巻第二十)


御製の歌一首(左大臣橘卿の宅に在(いま)して肆宴(とよのあかり)きこしめし時)

橘(たちばな)の とをの橘 彌つ代にも 吾(あれ)は忘れじ この橘を

(*とをの橘=たわむばかりに実った橘、左大臣・橘諸兄を指す) (萬葉集、巻第十八)“
(pp52~53)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

第1首目は、山に行ってみたら、山人がこのような山の山つと(土産)を、私にくれましたよという御歌で、元正太上天皇は、諸王や臣下に、これにこたえる御歌を望まれました。

それにこたえて舎人親王が、次のように御歌で答えました。

「山に行かれたという、仙人(山人)のような太上天皇は、どのようなお心で山にいらしたのでしょう。土産を差し上げた山人とは村の山人ですか。」

山人は、仙人のことでもあるので、仙人のような元正太上天皇が、山人からお土産をもらわれたというのはどういうことなのでしょう、と舎人親王は詠います。

どんなお土産をいただかれたのでしょうね。美しい花の枝なのか、山で採れた山菜なのか、猪や鹿の肉なのか、私どもが知る術もありませんが、素朴なお土産を喜ばれた元正上皇のご様子が目に浮かびます。

それにこたえた舎人親王の御歌もストレートでなく、お洒落ですね。

おやおや、元正上皇様は、すでに仙人(山人)のようなお力をお持ちで、仙女のようにお美しいのに山にいらして、同じ山人からおみやげをいただかれたのですか。それはどのようなお心なのでしょうと、上皇の美しさと神秘な力を讃える御歌を詠んでいます。

私事ですが、私の数少ない登山のときのことを思い出します。山に登りますと自然に溶け込んだ気がして、草笛を作って吹いたり、岩の上を飛び歩いたりして、いつもと違ったのびのびとした自分になれた気がしました。

元正上皇も同じような伸び伸びした思いをされたのかも知れません。その生き生きとした嬉しそうなご様子を見て、舎人親王が讃えたように思われます。

舎人親王は、萬葉集に三首の歌が収録されていて、歌の名人でもあったようです。『日本書紀』編纂の主宰者を任されていたので、文芸の才能のある親王だったのでしょう。


2首目は、橘諸兄の家に招かれた宴の席で、橘諸兄と橘氏を讃える御歌です。

橘の、たわむばかりに実った橘のように栄える橘氏、いつまでも私は、橘諸兄のことを忘れませんよ、というほどの御歌でしょうか。

橘諸兄は、奈良時代の皇族・公卿で、敏達天皇の後裔で初名は葛城王、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となりました。萬葉集の選者だったという説があり、7首の歌が収録されています。


舎人親王について、私が不思議に思ったのは、「舎人(とねり)」は、「古代、天皇・皇族の身辺で御用を勤めた者」とのことですが、役職名である「舎人」を、なぜ「舎人」を御自分のお名前にされたのかということでした。

今回、ネットでいろいろ見て、yahoo知恵袋の答えがそうなのかと思えるものでした。

それは大化の改新以前の「部(べ)」に、「舎人部(とねりべ)」という部があり、それを治めた皇子だったということからではないかという答えでした。

「部」は、大和政権に属した人々の集団で、朝廷・皇族・豪族の支配のもとに労力や貢物を提供したとのこと。品部、馬飼部など職能によって名前がつけられたので「舎人」の集団だったのでしょう。それを治める皇子ということで「舎人親王」と名乗られたらしいです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14144508949?__ysp=6IiO5Lq66Kaq546LIOOBquOBnCDoiI7kuro%3D

舎人親王が編纂された『日本書紀』は養老4年(720年)に完成したと伝わっています。


『古事記』は文庫本1巻なので、持ち歩いて読み返して来ましたが、『日本書紀』は岩波文庫版を買って読み始めたのですが、5巻もあったので、2巻の途中で挫折しました。たとえ1回でも、何とか読み通すのが目標です。


今日も読んでいただき有難うございました。

昨日から少し涼しくなり、虫の声もにぎやかになってまいりました。早く心地よい秋になると良いですね。

皆様も、どうぞ楽しい一日をお過ごしください。

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天皇の御歌(29)―第44代・元正天皇 [元正天皇]

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このところ、過去の女性天皇の御歌を主に取り上げていますが、それには理由があります。

ブログを読んでいただいていれば見当がつくと思いますが、愛子さまに皇太子になっていただきたいのが、一つの理由です。女性天皇の時代がどういう御治世だったのか、歴史から学んで、他人の意見の受け売りではなく、過去の女性天皇がどのような役割を果たされたのか自分で確かめようと思いました。

女性天皇は「中継ぎ」に過ぎないとか、男子男系のみで天皇家は継承されて来たことを強調して、女性天皇、女系天皇に反対する人があります。

一方、女性天皇推進、女系天皇容認の人々は「中継ぎであったとしても、果たされた役目は重いものだった」「女系天皇と呼べる天皇が歴史上存在した」と述べています。

そのことを自分で納得したいと思い、推古天皇、皇極天皇、持統天皇、元明天皇と、順番は前後しましたが、学んで参りました。

その流れで、今日は元正天皇の御歌を学ばせていただきます。

元正天皇は、第43代・元明天皇の皇女で、第40代・天武天皇の御孫にあたられます。
御在世:680~748(崩御69歳)、御在位:715~724(36歳~45歳)です。

元正天皇の御代には、舎人親王(とねりのみこ)が『日本書紀』を献上しておられます(720年)。舎人親王は、天武天皇の皇子で、元正天皇の叔父君にあたり、『日本書紀』編纂の主宰者であられました。天武天皇以来の歴史編纂のご遺志を受け継いだものと云えます。「養老律令」が出来たのもこの時代でした(718)。「養老律令」は「大宝律令」に続いて制定された律令で廃止法令が出されなかったため、形式的には明治維新まで続きました。

『養老律令』に先立ち、701年に制定された『大宝律令』に収録された「継嗣令」には「皇兄弟と皇子は、みな親王とせよ。(女帝の子も、また同じ)」と規定されています。(女帝の子も、また同じ)の文言は、手本とされた唐の「封爵令(ほうしゃくりょう)」には、「皇兄弟と皇子は、みな親王とせよ。」としか書かれておらず、日本独自に変更・加筆した文言です。ほんの一言ですが、「女帝」の即位を前提とした日本と、「女帝」の即位を前提としない唐との違いが、明確に現れています。

この大宝律令に基づき、元正天皇は、元明天皇という「女帝の子」として(内)「親王」となりますから、「内親王」として、天皇に即位されたと解釈できます。

元正天皇は、天武天皇の皇子である草壁皇子を父とし元明天皇を母とする皇女ですから、父親は皇子で、天皇ではありません。男性天皇の皇女でない元正天皇が「内親王」として、天皇を継承されたのは、「女帝の子」という規定に基づくものということになります。

『続日本紀』では母の元明天皇に触れていないとのことですが、『続日本紀』はシナ男系主義の強い影響を受けているため後代の史書としてそのように記述しているのであり、御即位当時の『大宝律令』に拠れば、女帝から皇女への継承で、女系継承という見方ができます。歴史というものを、御即位当時の人の視点で見るなら、確かに女系継承と言えると私も思います。
(参考文献:高森明勅著『歴史で読み解く女性天皇』 ベスト新書)

日本はシナの男尊女卑の影響を受けましたが、シナに比較すると、家の継承等について、双系(父方、母方の双方の系統)を重視する伝統があります。 男尊女卑文化の流入の強い影響を受けながら、その背後に日本由来の双系重視の伝統が常に息づいており、歴史の節目節目にその姿を表出します。

前置きが長くなりましたが、元正天皇の御歌を謹写します。

☆☆☆

“天平十五年(七四三、次の聖武天皇の御代)、群臣を内裏に宴し、皇太子(註・後の孝謙天皇)、親(みずか)ら五節(ごせち)を舞ひたまふ。右大臣、橘宿禰諸兄(たちばなのすくねもろえ)、詔(みことのり)を奉じて太上天皇(おほきすめらみこと)(註・元正天皇)に奏(まを)す。因(よ)りて御製歌(おほみうた)に曰(のたま)はく

そら見つ 大和(やまと)の國は 神故(かみから)し
 貴(たふと)くあるらし 此の舞ひみれば

天つ神 皇孫(みま)の命の 取り持ちて
 此の豊御酒(とよみき)を 齋(い)み獻る(続日本紀)“(p52)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

そら見つ:大和にかかる枕詞。虚空から見た、空に満つるなど、神が空からヤマトを見ているという観念のあらわれとみることができるとのことです。
(國學院大學デジタルミュージアム、
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68645

五節は、朝廷で、「大嘗祭(だいじやうさい)」「新嘗祭(しんじやうさい)」のとき、四人(大嘗祭では五人)の舞姫による舞を中心にして行われた行事とのこと。

この場合は、聖武天皇の即位から15年後なので、新嘗祭でしょう。皇太子(後の孝謙天皇)は、25歳の時でした。美しくご成長された女性皇太子が、父君のためにお祝いの気持ちを込めて舞われたのでしょう。

1首目、虚空から見る大和の國は神ゆえにこそ 尊くあるのだろう この舞をみればそう思えます。

2首目、天の神の皇孫であられる天皇のご統治に この美酒を、身を清めて謹んで奉ります。

とういう感じでしょうか。

皇孫は、太上天皇の御孫であられる皇太子のことかと最初思ったのですが、「皇孫」という言葉は、天つ神と対になって「天皇」を表すとのことでしたので、そう解釈いたしました。

御子息の聖武天皇の治世を讃えると同時に、御孫・皇太子の成長をみそなわして、前途を祝う、元正太上天皇のお心がしのばれます。


今日も読んでいただき有難うございました。

今日一日が素晴らしい一日でありますよう、お祈り申し上げます。


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