天皇の御歌(57)―第123代・大正天皇(4) [大正天皇]
昨日、12月25日は大正天皇例祭でした。大正15年(1926)大正天皇が崩御された日で、毎年、宮中三殿の皇霊殿にて、同祭が執り行われ、東京・八王子市の武蔵陵墓地(むさしりようぼち)にある大正天皇の御陵(ごりょう)、多摩陵(たまのみささぎ)でも祭典が行われます。
御在世:1879―1926(崩御・48歳)
御在位:1912―1926(34歳~48歳)
大正天皇の御歌は、繊細で心にしみいる御製です。明治天皇のおおらかさ、昭和天皇の明るさに比べますと、夕方のやわらかな光というような、静けさと安らかさを感じます。私の主観ですが…。
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“(明治時代)(御詠年月、未詳の部)
沼津御用邸にて庭前の松露を拾ひて
はる雨の はるるを待ちて 若松の
つゆよりなれる 玉ひろひつゝ
その松露を節子(註・後の貞明皇后)に贈るとて
今こゝに 君もありなば ともどもに
拾はむものを 松の下つゆ” (pp378~379)
“(大正3年―1914―御年36歳)
北海道夕張なる若鍋炭山の爆発しける時
うもれたる國のたからを ほる人の
あまたうせぬと きくぞかなしき
久留米病院に侍従武官をつかはして負傷したる軍人を慰問せしめけるとき
とくいえて 皆もとの身に かへらなむ
いたで負ひたる 武士(もののふ)のとも” (p386)
“野径
學び舎は 遠くあるらむ 朝まだき
野道をいそぐ うなゐ子のむれ” (p390)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
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言葉の意味
松露(しょうろ):イグチ目ショウロ科に属するキノコの一種。安全かつ美味な食用菌。現代では、マツ林の環境悪化に伴い産出量が激減、市場には出回ることは非常に少ない。
侍従武官:大日本帝国憲法下において、天皇に常時奉仕し軍事に関する奏上の伝達等に当たった日本軍の武官
とくいえて:早く恢復して。
朝まだき:夜が明けきらない早朝
うなゐ子:うない髪にした子供。元服前の少年。わらべ。幼いこども。
うない髪:髪を首のあたりに垂らして切りそろえた髪型。
第1首目、第2首目
後のお后、貞明皇后・節子様とのご結婚前に詠まれた御歌です。
春雨の晴れるのを待って、若い松の根元に生えた松露、松のつゆから生まれた小さなキノコを拾いました。
その松露を節子様に贈るからと詠まれた御歌
今ここに君(節子様)がいたらならば、一緒に拾っただろうに、この松の下の小さな露のようなキノコを
3首目、北海道夕張群の若鍋住山が爆発事故を起こした時の御製です。
埋もれている国の宝である石炭を掘る人が、多く命を失ったと聞いて、まことに悲しいことだ。
4首目、久留米病院に侍従武官を遣わして負傷した軍人を慰問させたときの御製です。
早く恢復して元の身体に戻ってほしいものです、負傷した勇ましい兵士のともよ。
5首目、学校が遠いのだろうか、朝早くから野道をおそろいの幼子の髪型の子供たちが大勢、先を急いでいる。
[感想]
最初の2首は、若い松の下で松露のキノコを拾われて、婚約中(?)の節子様に届けてあげよう、一緒に拾えたらどれほど楽しいことだろうとの、若々しく初々しいお心が感じられます。
「松のつゆ」の言葉がしみじみと美しく感じられます。
3首目は、炭鉱の事故に御心を寄せられるお気持ちが詠われています。こういった炭鉱夫のみなさまが時には犠牲を払いながら、大正の産業発展を支えて来られたことが偲ばれます。
4首目は、第一次世界大戦の開戦の年ですから、戦争に出陣して、負傷した兵士が病院で治療を受けているところに、侍従武官を遣わして、お見舞いされた時の御製です。大正時代も、大きな戦争がありました。
1921年のワシントン会議においては軍備制限が求められるなど、激しい変動期を経験されたのが大正天皇でした。御政務の総攬は10年という短い年月でしたが、その間の御心労は、私などに想像もつかないことばかりです。
漢詩の御詠草を1367首、残されているとのことです。御製は465首ですが、兵士のこと、和布(わかめ)をとる漁師のこと、学校に通う幼子、民に寄せられるお気持ちの細やかさに、御製を拝誦するたびに深く心うたれ、しみじみと大正天皇のことが思われます。
今日も読んでいただき有難うございました。
年末になりました。寒いですが、お身体にお気をつけてお過ごしください。
天皇の御歌(3)-第123代 大正天皇 [大正天皇]
水害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。今日の雨があまり強くなりませんように。
今日も大正天皇の御歌を読みます。
いずれも、下記書籍からの引用です。引用の末尾に各掲載ページを載せています。
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
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“(大正四年 ― 一九一五 ― 御年三十七歳)”(p386)
“ 海
あげ潮に 風さへそひて 相模がた よせくる波の あらくもあるかな
和布(わかめ)
白波の あらひしわかめ 今日もまた わが夕みけに もて参るらむ(*みけ=御饌、天皇の御食事)
浪あらき いその岩間に あまの子が 和布刈るらし 船よするみゆ
鷲
いづくより わたりきにけむ ものすごき あら磯崎に 立てる大わし“
“(大正五年 ― 一九一六 ― 御年三十八歳)
簾外蛍
夕立の なごりかわかぬ 高殿の をす(簾)に蛍の ひとつすがれる“
(p387~389)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
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最初の御歌四首は、海を詠まれています。
一首目は、相模の海で、上げ潮の上、風が強いので、荒い波が寄せては返す。
浪の音が聞こえてくるような御歌です。
二首目、三首目は、和布の御歌。
ご夕食に献上された和布、春の和布の青々とした新鮮さは格別の風味があります。
海にいらしたときに、和布を採る船をご覧になられ、あの和布だったろうかと、波の荒いところで、一心に和布を刈っていた海の漁師(海女?)に思いをはせておられます。
四首目の鷲は、波の荒い磯(海)のみさきに止まる鷲の姿をご覧になられて、詠われたのでしょう。波の激しさに負けない堂々たる雄々しいワシの姿が想像できます。翼を力強く広げてどこから飛んできたのかと。
五首目の、御簾の外側に すがるようにとまっている蛍の、いじらしい様子を、詠んでいらっしゃいます。夕立に降られて湿り気の残った御簾に、少し弱ったようすで、とまっているのでしょう。小さな蛍に思いを寄せられる、お優しい大正天皇の御心がしのばれます。
大正天皇の御在位は一九一二年~一九二六年、御年三十四歳~四十八歳でした。
大正天皇の解説には、次のように書かれています。
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“大正天皇の御治世は十五年間であったが、その御晩年は御健康を害せられ、大正十年(一九二一)からは、皇太子(今上天皇)が摂政として政務をお執りになられたので、統帥と政務を総攬せられた期間は約十年間であられた。しかし、その間の御精励については、侍従・藤波言忠の記録によると
「午前六時比(ごろ)に御起床。午前九時半より十時までの間に御学問所へ出御。而して百般の政務をご覧ありて或いは拝謁又は召されて御對話(午後も政務)……午後八時には両陛下御一緒に晩餐を召す。十一時に御寝所に被為入(いらせらる)。」
とあり、大正初期の国事多端の政事・軍事に、専心御精励遊ばされたことをうかがひ知ることができる。
この時期における我が国内外の情勢を見ると、まことに変動ただならぬ時期であった。すなはち、大正三年(一九一四)、ヨーロッパにおける英・独両国の対立を遠因として勃発した第一次世界大戦の開戦に当り、日本は日英同盟の盟約に基いて八月にこれに参戦、志那大陸の山東省にあるドイツ領青島(チンタオ)を攻略、わが海軍もまたドイツ領であった南洋群島を占領、さらにその後は地中海にまで艦隊を派遣して連合国の一員として活躍した。かくて六年後、大正八年(一九一九)六月のフランスのベルサイユで調印された平和条約によって、日本は山東省におけるドイツ権益の継承と、赤道以北の南洋群島の委任統治権を獲得することになった。しかし日本がほとんど無傷のまま強大国になりかけてきたことについて、米・英・仏諸国の関心が急に高まり、二年後(一九二一)のワシントン条約においては、わが国のアジア大陸における既得権益の中国への返還や、シベリアからの撤退など、世界列強の威力の前に、やむなく後退を迫られることになった。“(p374~375)
“一方、大正デモクラシーといはれる思潮の波は、大正初期から次第に勢力を増し、明治時代のわが国民性であった質実剛健の気象を次第に変質させ、大正十一年(一九二二)には、秘密結社としての日本共産党がソビエートのコミンテルン日本支部として生まれ、無産労農階級の解放と天皇制廃止を目標にして、非合法活動を開始するに至った。そしてその翌大正十二年(一九二三)には、関東大震災が起こり、その大災害は、全壊十二万戸、全焼四十五万戸、死者十四万人を算するといふ前古未曾有の意劇を伴なふと共に、その暮には、難波大助といふ共産主義者の、摂政宮殿下のお車に対する発砲事件さへ起きるに至った。”(p376)
“大正天皇は、かうした激しい変動期に当面された方であられただけに、御政務を総攬されたのは、十年の短い期間であったとはいふものの、その間の御心労がいかがばかりのものであられたかは、お察し申すも畏れ多いきはみである。”(p376)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
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固い内容になってしまいました。私自身、大正時代について、これまであまり学んだことがなかったので、この機会に少しずつ、学んで参りたいと思います。
大正天皇のご苦労をしのび、御皇室が末長く続くこと、御皇室の弥栄を、祈らせていただきます。
今日も、読んでいただき、ありがとうございました。
今日が皆様にとって、安らかな一日でありますように。
天皇の御歌(2)-大正天皇 まことの心 [大正天皇]
今日も、大正天皇の御歌を読みます。
いずれも、下記書籍から引用しています。引用末尾は、同書の掲載ページです。
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
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“(大正三年 ― 一九一四 ― 御年三十六歳)
*昭建皇太后崩御。第一次世界大戦おこる
をりにふれて
おしなべて 人の心の まことあらば 世渡る道は やすからましを“
(p385)
“大正七年 ― 一九一八 - 御年四十歳)
*シベリアに出兵。第一次世界大戦終る
月前陳思
さやかなる 月にむかへば なかなかに こころぞくもる 昔しのびて
天の下 くまなくてらす 秋の夜の 月を心の かゞみともがな
家
外國(とつくに)の さまをうつせる 家もあれど 白木づくりぞ ゆかしかりける”
(p390)
“(大正九年― 一九二〇 - 御年四十二歳)
猫
國のまもり ゆめおこたるな 子猫すら 爪とぐ業は 忘れざりけり“
(p392)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
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〈感想〉
第一首めは、 概して 人の心の まことがあれば 世の中の生活も やすらかであるのに とのご嘆声でしょうか。
まことの心 とひと言で申しますが、「まこと」を尽くすのは、凡人には簡単ではない。それでも努力するところに意義ありと、精進したいものです。
まことは、「まる」、「こと」に通じて、八方円(はっぽう まるい)いことだと、読んだことがあります。
日本人は、「忠」、「孝」と分けないで、すべて「まこと」であると考えていたというのです。
主君にまことを尽くす、両親にまことを尽くす。
問題も、争い事も、すべてを円く収めるという、「まこと」は、奥が深いと思います。
第二首目の、“こころぞくもる”と詠まれた大正天皇は、どのようなことで、お心をくもらせていらしたのか、病弱でいらした大正天皇は、国の事でも、御身辺のことでも、お心を悩ませることも多かったのだろうと拝察いたします。
一方、第三首め“天の下 くまなくてらす 秋の夜の”の御歌は、さやかな月の光、澄みわたる秋の夜空が、目の前に広がります。
私自身の月の思い出は、月をあおぎながら、永遠に美しいものはどこにあるのかと天に向かってつぶやいていた、思春期の頃を思い出します。
あの頃は、天皇陛下のことを何も知らなかった。天皇陛下のことを教えていただいて、これほど美しい生き方をされている方々があったのかとの喜びに満たされました。 御皇室をいただく感謝を思います。
第四首め。大正天皇は、フランスなど西洋の文化がお好きだったそうですが、ここでは、“家屋”について、“白木づくり”のゆかしさ、心ひかれるなつかしさを 詠われています。
西洋の自由な空気へのあこがれもありつつ、日本の昔ながらの建築も、なつかしく思われたのでしょうか。
第五首目。大正天皇の身近に仔猫がいたのでしょうか。 「国防」を、爪を研ぐ仔猫から、お詠みになる、軽妙なユーモアが感じられます。 仔猫でも身を守る術は知っている。国防と云う真剣なテーマなのに、なんだか、ほっといたします。
現在の天皇陛下(今上陛下)、皇后陛下は、犬を飼っておられます。
高価な血統書付きの犬ではなく、保護犬とのことです。
そこに、日本の皇室の、思いやりあるお心がしのばれます。
愛子さまは蚕を飼っておられます。皇后陛下 雅子様も、小学生の頃、虫の飼育がお好きだったとのこと。小さな生き物に愛を感じられるお二方に、親しみを感じます。
私は専門家でも研究者でもないので、間違って解釈しているところがあるかも知れません。
ご意見、ご感想のコメントを歓迎いたします。
今日も読んでいただき、有難うございました。皆様の日々が幸せで満たされますように。
天皇の御歌-大正天皇 [大正天皇]
日常生活の心の持ち方、安心は、御皇室の方々の御歌を読むことで得られる気がいたします。
そんなことから、今日は、歴代天皇陛下の御歌(おうた)を学ばせていただくことにします。
幸い、日本教文社発行の良書が手元にありました。
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』日本教文社)
同著において、編著者の小田村寅二郎氏は次のように書いておられます。
“「詩歌」とはまことに不思議なものであり、とくに「和歌」を介しての作者と読者とは、時空の隔たりを超えて心一つに通ひ合うことができさうである。”(p3 はしがき 小田村寅二郎)
詩歌、和歌を介して、時空の隔たりを超えて、歴代天皇陛下の御心を学ばせていただけるのはありがたいことです。
明治維新を乗り越えられた明治天皇、大東亜戦争前後の困難な時代に国民の大きな支えとなられた昭和天皇の偉大さを学ぶ機会が多いですが、大正天皇の事は、治世期間が短く晩年御病気になられたこともあり、あまり学んだことがありませんでした。
それで、今まであまり読む機会のなかった、大正天皇の御歌を、まず学ぶことにいたしました。
大正天皇の御歌を、謹んで書写いたします。
☆ ☆ ☆
“(御詠年月未詳)
旅順閉塞隊(りょじゅんへいそくたい)
大君に さゝげまつると をゝしくも ふねとともにや 身を沈めけむ“
“従軍者の家族を思ひて
御軍(みいくさ)に わが子をやりて 夜もすがら ねざめがちにや もの思ふらむ“
(p380)
“(大正三年 ― 一九一四 ― 御年三十六歳)(中略)
浪風(なみかぜ)は 立ちさわげども 四方(よも)の海 つひにしづまる 時もきぬべし
朝顔
朝がほの 花を見むとて あけぼのの なほほのぐらき 庭めぐりする
(p382)
雀
群雀(むらすゞめ) のきば近くも きてぞ鳴く 餌をやこふらむ 友や呼ぶらむ“
(p384)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8撥15日 第5版)
☆ ☆ ☆
始めの一首は、御詠年月未詳ですが、日露戦争時に詠まれたものでしょう。大正天皇は、御年十六歳から十七歳頃と拝察されます。
多感な少年時代に、旅順閉塞隊の活躍を耳にされ、その勇気を讃えながらも、作戦で命を落とした兵士に思いをはせ、お心を痛められたのでしょう。
細やかなお心づかいをされる天皇でいらしたことが思われます。
第二首目は、その留守家族に思いをはせられたものです。私事ですが、私の親族にも、日露戦争に従軍した人がありました。留守家族は、きっとこのように眠れぬ夜を過ごしたのでしょう。そうしてもたらされた平和のありがたさをかみしめています。
第三首め“浪風は”は、第一次大戦開戦時の御歌でしょうか。
この御歌で思い出されるのは、日露戦争開戦時(明治37年)の明治天皇の御歌です。
よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ
広く知られているこの御歌に呼応するような響きを持つ、第一次世界大戦開戦時の大正天皇の御歌は、“つひにしづまる 時もきぬべし” この戦も、必ずしづまる時がくるはずだとの強い御願いで結ばれています。切実な平和への思いが伝わって参ります。
第四首めの“朝顔”、第五首め“群雀(むらすゞめ)”は、そんな落ち着かない世情の時にも、身近な朝顔の開花をご覧になりたいと、早朝のお庭を散策され、あるいは軒端に集う雀の声に耳を傾けられる御歌です。
このように身近な植物、小動物を詠われる御歌に、天皇陛下の御日常が伺われほっとする思いです。
読んでいただき、有難うございました。皆様が、明るい日々を過ごされますように!