天皇の御歌(27)―第35代皇極天皇・第37代斉明天皇 [皇極天皇・斉明天皇]
3回目になりますが、
第35代・皇極天皇・
重祚して
第37代・斉明天皇の
御歌を学びます。
御在世:594~661(崩御68歳)、
御在位642~645年(49歳~52歳)
重祚して
御在位655~661年(62歳~68歳)
☆☆☆
“岡本天皇(おかもとのすめらみこと)(註・皇極―斉明―天皇のことであるが、夫君であられた舒明天皇といふ説もある)の御製(おほみうた)一首 荓(ならび)に短歌
神代より あれ繼ぎ來れば 人多(ひとさは)に 國には滿ちて あぢ群(むら)の 去來(かよひ)は行けど わが戀ふる 君にしあらねば 晝は 日の暮るるまで 夜は夜の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠(い)も寝(ね)がてにと 明かしつらくも 長きこの夜を
反歌
山の端(は)にあぢ群騒き行くなれどわれはさぶしゑ君にしあらねば
淡海路(あふみぢ)の烏龍(とこ)の山なる不知哉川(いさやがは)日のころごろは戀ひつつもあらむ (以上、萬葉集、巻第四)“
(p42)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆☆
あぢ群(あぢむら):アジガモ(トモエガモ)の群れ
トモエガモは、写真を見ると、オシドリのような頭をしたきれいなカモです。
長歌:
神代より代々次いで来た、多くの人が満ちている国に、アジガモの群れが空を行き来してのどかな風景であるけれども、そこに私の恋うる貴方様がいらっしゃらないので、昼は日の暮れるまで、夜は夜の明ける直前まで、貴方様のことを思って、眠ることができずに、明けてしまいました、この長い夜が。
短歌
山の端にアジガモの群れが鳴きながらにぎやかに飛んでいきますが、そこに貴方様がいらっしゃらないので私は寂しいです。
滋賀県彦根市の大堀山は、昔は「鳥籠山(とこやま)」と呼ばれ、壬申の乱で、大海軍と朝廷軍がこの辺りで戦ったのが「鳥籠山の戦い」とのこと。不知哉川(いさやがは)は、鳥籠山の横を流れていた川です。いさや、いざやという掛詞になっていて「さあどうなのか」という意味になるとのことです。
淡海に通う道の鳥籠山(とこやま)の横に流れる不知哉川(いさやがは)に「さあどうなのか」と問われれば、日頃もあなた様を恋い慕いつつ過ごしましょうか。
彦根駅には、この歌の歌碑があるそうです。
☆☆
“平成21年(2009年)12月に彦根駅東口に設置した石碑には、その歌の意味として「淡海路の鳥籠の山を流れる不知哉川の名のように、さあどうなのでしょう。この日頃もあなたを恋い慕いつつ過ごしていましょうか」とある。”
(『滋賀彦根新聞』2019年5月6日)
http://shigahikone.blogspot.com/2019/05/blog-post_6.html
☆☆
彦根駅にそのような歌碑があるとは知りませんでした。パソコンでバーチャルな旅行ができて楽しいです。
皇極天皇が即位した年(642年)は6月から日照りが続き、農業に必要な水が涸れて人々は困り果てていました。村々の神職が祈っても、蘇我蝦夷の勧めで、百済大寺で多くの僧に『大雲経』を読ませたけれども、翌日小雨がパラパラ降っただけでした。
こうして、天皇自身が、飛鳥川の上流に出向き、四方を拝して、天を仰いで雨を祈ったところ、たちまち雷が鳴り、大雨が降り始め、そのまま5日間降り続けて農作物の危機は救われました。これによって人々は皇極天皇を称賛して「至徳(いきおい)まします天皇(すめらみこと)」と呼んだと言います。
天皇の祈り(言葉)の力は、天候も味方するといいますが、「至徳の天皇」と称賛の記録が残っているのは、それを信じた民の素直な心の表れですね。民とともにある天皇の祈りに、天が味方したのでしょう。
今日も読んでいただき有難うございました。
少しずつ涼しくなりましたが、今日も一雨降ってほしいです。
皆様にとって良い一日でありますように。
第35代・皇極天皇・
重祚して
第37代・斉明天皇の
御歌を学びます。
御在世:594~661(崩御68歳)、
御在位642~645年(49歳~52歳)
重祚して
御在位655~661年(62歳~68歳)
☆☆☆
“岡本天皇(おかもとのすめらみこと)(註・皇極―斉明―天皇のことであるが、夫君であられた舒明天皇といふ説もある)の御製(おほみうた)一首 荓(ならび)に短歌
神代より あれ繼ぎ來れば 人多(ひとさは)に 國には滿ちて あぢ群(むら)の 去來(かよひ)は行けど わが戀ふる 君にしあらねば 晝は 日の暮るるまで 夜は夜の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠(い)も寝(ね)がてにと 明かしつらくも 長きこの夜を
反歌
山の端(は)にあぢ群騒き行くなれどわれはさぶしゑ君にしあらねば
淡海路(あふみぢ)の烏龍(とこ)の山なる不知哉川(いさやがは)日のころごろは戀ひつつもあらむ (以上、萬葉集、巻第四)“
(p42)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆☆
あぢ群(あぢむら):アジガモ(トモエガモ)の群れ
トモエガモは、写真を見ると、オシドリのような頭をしたきれいなカモです。
長歌:
神代より代々次いで来た、多くの人が満ちている国に、アジガモの群れが空を行き来してのどかな風景であるけれども、そこに私の恋うる貴方様がいらっしゃらないので、昼は日の暮れるまで、夜は夜の明ける直前まで、貴方様のことを思って、眠ることができずに、明けてしまいました、この長い夜が。
短歌
山の端にアジガモの群れが鳴きながらにぎやかに飛んでいきますが、そこに貴方様がいらっしゃらないので私は寂しいです。
滋賀県彦根市の大堀山は、昔は「鳥籠山(とこやま)」と呼ばれ、壬申の乱で、大海軍と朝廷軍がこの辺りで戦ったのが「鳥籠山の戦い」とのこと。不知哉川(いさやがは)は、鳥籠山の横を流れていた川です。いさや、いざやという掛詞になっていて「さあどうなのか」という意味になるとのことです。
淡海に通う道の鳥籠山(とこやま)の横に流れる不知哉川(いさやがは)に「さあどうなのか」と問われれば、日頃もあなた様を恋い慕いつつ過ごしましょうか。
彦根駅には、この歌の歌碑があるそうです。
☆☆
“平成21年(2009年)12月に彦根駅東口に設置した石碑には、その歌の意味として「淡海路の鳥籠の山を流れる不知哉川の名のように、さあどうなのでしょう。この日頃もあなたを恋い慕いつつ過ごしていましょうか」とある。”
(『滋賀彦根新聞』2019年5月6日)
http://shigahikone.blogspot.com/2019/05/blog-post_6.html
☆☆
彦根駅にそのような歌碑があるとは知りませんでした。パソコンでバーチャルな旅行ができて楽しいです。
皇極天皇が即位した年(642年)は6月から日照りが続き、農業に必要な水が涸れて人々は困り果てていました。村々の神職が祈っても、蘇我蝦夷の勧めで、百済大寺で多くの僧に『大雲経』を読ませたけれども、翌日小雨がパラパラ降っただけでした。
こうして、天皇自身が、飛鳥川の上流に出向き、四方を拝して、天を仰いで雨を祈ったところ、たちまち雷が鳴り、大雨が降り始め、そのまま5日間降り続けて農作物の危機は救われました。これによって人々は皇極天皇を称賛して「至徳(いきおい)まします天皇(すめらみこと)」と呼んだと言います。
天皇の祈り(言葉)の力は、天候も味方するといいますが、「至徳の天皇」と称賛の記録が残っているのは、それを信じた民の素直な心の表れですね。民とともにある天皇の祈りに、天が味方したのでしょう。
今日も読んでいただき有難うございました。
少しずつ涼しくなりましたが、今日も一雨降ってほしいです。
皆様にとって良い一日でありますように。
天皇の御歌(26)―第35代皇極天皇・第37代斉明天皇 [皇極天皇・斉明天皇]
今日も昨日の続きで、
第35代・皇極天皇、
重祚され
第37代・斉明天皇の御歌を学びます。
御在世:594~661(崩御68歳)、御在位642~645年(49歳~52歳)
重祚して御在位655~661年(62歳~68歳)
愛孫健王(たけるのみこ)を8歳で亡くされた斉明天皇は、御悲しみを癒すために、紀の国の温泉にお出ましになられました。しかし、旅先でも愛しい孫のことが片時も心を離れることが無かったようです。その思いを叙情豊かに詠われました。
☆☆☆
“天皇、時時に唄ひたまひて 悲哭(みね)す。同四年冬十月(かむなづき)、紀温湯(きのゆ)に 幸(いでま)す。天皇、皇孫健王(みまごたけるのみこ)を 憶(おもほし)いでて、愴爾(いた)み 悲泣(かなし)びたまふ。 乃(すなは)ち 口號(くつうた)して 曰(のたま)はく、
山越えて 海わたるとも おもしろき 今城のうちは 忘らゆましじ 其一(それひとつ)
水門(みなと)の 潮(うしほ)のくだり 海(うな)くだり 後ろも暗(くれ)に 置きてか行かむ 其二(それふたつ)
愛(うつく)しき 吾(あ)が若き子を 置きてか行かむ 其三(それみつ)
秦大蔵造萬里(はだのおほくらのみやつこまろ)に 詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「斯の歌を傳へて、世に忘らしむこと勿れ」と のたまふ。(以上、日本書紀、巻ニ十六)“
(pp41~42)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆
“(大意その一)
飛鳥の都から紀州の牟婁の温湯に行くには、山々や谷々を越え、はるばる海を渡って行くのであるが、たとひどんなに遠く都を離れても、山々や海岸の風向がどんなに美しくあらうとも、いとしい吾が孫が葬られてゐる今城の墓所(おくつき)が片時も心から離れず、心がいっぱいで、今城(いまき)を忘れることなど、たうていできないであらう。“(pp173~174)
“(大意その二、その三)
いとしいあの孫をひとりぼっちに置き去りにして、塩の流れにのって、実を渡って、牟婁の湯へいかうというふのか。ああ年歯もゆかぬあはれにいじらしいあの子をたゞ一人置き去りにして行かふといふのか、後髪をひかれる切ない想ひで、わたしの心は真暗だ。“(p174)
(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』、日本教文社)
☆☆☆
1首目の「おもしろき」は、古くは「深く心をひかれる、限りなく懐かしく慕わしい」という場合にも使われるそうです。
「忘らゆましじ」に、忘れることは決してできないだろうという、強い思いが表れています。
悲しみを忘れるための、温泉の御幸でも、御孫健王を忘れることができない絶え間ない悲しみを詠われています。
斉明天皇の御陵は越智崗上御陵(おちのおかのえのみささぎ)とのことです。
https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/index.html
(35又は37をクリックしてください)
斉明天皇御陵に参拝したことはありませんが、参拝された、上記『万葉の世界と精神』の著者・山口悌治氏によれば、何百段か石段を登る中腹に愛孫・大田皇女(おおたのひめみこ)の御陵があり、登りつめた斉明天皇の御陵には、愛孫健王のほかに、斉明天皇の皇女・間人皇女(はしひとのひめみこ)も合葬されているとのことです。愛娘1人と愛孫2人を抱くように永眠されてゐる斉明天皇の愛情深い御人格がいまもそこに息づいているかのようです。
御陵は、山口悌治氏の著書を読んでから、いくつか巡らせていただき、その清涼な雰囲気に魅せられました。古代の天皇の御陵を巡ってから、飛鳥・奈良時代の万葉集歌を読むと、時代を超えて伝わって来る生命感が伝わってくるような気がいたします。機会があればまた行ってみたいです。
今日も読んでいただき、有難うございました。
雨が降って少し涼しくなるかと思います。今日が皆様にとって元気の出る一日でありますようお祈り申し上げます。
第35代・皇極天皇、
重祚され
第37代・斉明天皇の御歌を学びます。
御在世:594~661(崩御68歳)、御在位642~645年(49歳~52歳)
重祚して御在位655~661年(62歳~68歳)
愛孫健王(たけるのみこ)を8歳で亡くされた斉明天皇は、御悲しみを癒すために、紀の国の温泉にお出ましになられました。しかし、旅先でも愛しい孫のことが片時も心を離れることが無かったようです。その思いを叙情豊かに詠われました。
☆☆☆
“天皇、時時に唄ひたまひて 悲哭(みね)す。同四年冬十月(かむなづき)、紀温湯(きのゆ)に 幸(いでま)す。天皇、皇孫健王(みまごたけるのみこ)を 憶(おもほし)いでて、愴爾(いた)み 悲泣(かなし)びたまふ。 乃(すなは)ち 口號(くつうた)して 曰(のたま)はく、
山越えて 海わたるとも おもしろき 今城のうちは 忘らゆましじ 其一(それひとつ)
水門(みなと)の 潮(うしほ)のくだり 海(うな)くだり 後ろも暗(くれ)に 置きてか行かむ 其二(それふたつ)
愛(うつく)しき 吾(あ)が若き子を 置きてか行かむ 其三(それみつ)
秦大蔵造萬里(はだのおほくらのみやつこまろ)に 詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「斯の歌を傳へて、世に忘らしむこと勿れ」と のたまふ。(以上、日本書紀、巻ニ十六)“
(pp41~42)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆
“(大意その一)
飛鳥の都から紀州の牟婁の温湯に行くには、山々や谷々を越え、はるばる海を渡って行くのであるが、たとひどんなに遠く都を離れても、山々や海岸の風向がどんなに美しくあらうとも、いとしい吾が孫が葬られてゐる今城の墓所(おくつき)が片時も心から離れず、心がいっぱいで、今城(いまき)を忘れることなど、たうていできないであらう。“(pp173~174)
“(大意その二、その三)
いとしいあの孫をひとりぼっちに置き去りにして、塩の流れにのって、実を渡って、牟婁の湯へいかうというふのか。ああ年歯もゆかぬあはれにいじらしいあの子をたゞ一人置き去りにして行かふといふのか、後髪をひかれる切ない想ひで、わたしの心は真暗だ。“(p174)
(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』、日本教文社)
☆☆☆
1首目の「おもしろき」は、古くは「深く心をひかれる、限りなく懐かしく慕わしい」という場合にも使われるそうです。
「忘らゆましじ」に、忘れることは決してできないだろうという、強い思いが表れています。
悲しみを忘れるための、温泉の御幸でも、御孫健王を忘れることができない絶え間ない悲しみを詠われています。
斉明天皇の御陵は越智崗上御陵(おちのおかのえのみささぎ)とのことです。
https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/index.html
(35又は37をクリックしてください)
斉明天皇御陵に参拝したことはありませんが、参拝された、上記『万葉の世界と精神』の著者・山口悌治氏によれば、何百段か石段を登る中腹に愛孫・大田皇女(おおたのひめみこ)の御陵があり、登りつめた斉明天皇の御陵には、愛孫健王のほかに、斉明天皇の皇女・間人皇女(はしひとのひめみこ)も合葬されているとのことです。愛娘1人と愛孫2人を抱くように永眠されてゐる斉明天皇の愛情深い御人格がいまもそこに息づいているかのようです。
御陵は、山口悌治氏の著書を読んでから、いくつか巡らせていただき、その清涼な雰囲気に魅せられました。古代の天皇の御陵を巡ってから、飛鳥・奈良時代の万葉集歌を読むと、時代を超えて伝わって来る生命感が伝わってくるような気がいたします。機会があればまた行ってみたいです。
今日も読んでいただき、有難うございました。
雨が降って少し涼しくなるかと思います。今日が皆様にとって元気の出る一日でありますようお祈り申し上げます。
天皇の御歌(25)―第35代皇極天皇・第37代斉明天皇 [皇極天皇・斉明天皇]
今日は第35代・皇極天皇・重祚して
第37代・斉明天皇の御歌を学びます。
ご在世:594~661(崩御68歳)、
御在位642~645年(49歳~52歳)
重祚して
御在位655~661年(62歳~68歳)
皇極天皇は、第34代・舒明天皇の皇后で、第38代・天智天皇、第40代・天武天皇の御母君でした。皇極天皇の時代には、聖徳太子の御子山背大兄王御一家が蘇我入鹿により、御一族全員が御自害に追い込まれました。その2年後、中大兄皇子が、藤原鎌足と共に、入鹿を誅伐せられたのが大化の改新でした。
大化の改新を機に退位せられた皇極天皇は、十年後に重祚され斉明天皇となられました。御即位後658年孝徳天皇の皇子・有間皇子が誅せられるという悲劇が起こります。658年阿倍比羅夫を派遣して蝦夷を征討、さらに粛清(イシハセ、蝦夷以外の北方民族)を討って大和民族の勢威は北方におよびました。そのあと、朝鮮半島で百済が新羅に攻められ、救援を求めてきたのに対し、中大兄皇子をはじめ群臣を率いて新羅征討軍を起こして御親征になられたが、途中九州の朝倉宮(福岡県)に御駐留の折、御病気で崩御せられました。(御陵墓は、奈良県高市郡高取町にあります。)
68歳で、それも女性天皇が、征討軍の先頭に立たれたということが信じられません。今でしたら、九州旅行はなんでもないことですが、古代の交通の不便な時に、奈良から移動されるだけでも大変なことだったと思います。神功皇后もそうですが、固い御決意と御自覚のほどがうかがわれます。
☆☆☆
“斉明天皇4年(658)五月(さつき)に、皇孫健王(みまごたけるのみこ)歳八歳(みとしやつ)にて薨(う)せましぬ。今城谷(いまきたに)の上に、殯(もがり)を起てて収む。天皇(すめらみこと)、本より皇孫(みまご)の有順(みさをか)なるを以て、器重(ことにあが)めたまふ。故(かれ)、不忍哀(あからしび)たまひ、悼み慟(まど)ひたまふこと極めて甚(にへさ)なり。群臣(まへつぎみ)たちに詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「萬歳千秋(よろづとせちあき)の後に、必ず我が陵(みささぎ)に合せ葬(はぶ)れ」とのたまふ。廼(すなは)ち作歌(うたよみ)して曰(のたま)はく、
今城なる 小丘(をむれ)が上に 雲だにも
著(しる)くし立たば 何か歎(なげ)かむ 其一
射ゆ鹿猪(しし)を 認(つな)ぐ 川上(かはへ)の若草の
若くありきと 吾(あ)が思(も)はなくに 其二
飛鳥川(あすかがは) 漲(みなぎ)らひつつ行く水の
間(あひだ)もなくも 思ほゆるかも 其三“ (p41)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆
(大意)
(1首目)
“いとしさひとしほのかわいい孫の健の王を葬り収めた今城の谷の丘の上に、せめて雲だけでもはっきりと立ち昇ってくれるならば、その雲をいとしい孫の形見と思って心を慰め、悲しみを忘れようものを。”
(3首目)
“飛鳥川をみなぎりつつ流れて行く水が、とぎれることなく流れ続けてゐるやうに、幼くして死んでいった可愛い孫のことが、たえ間もなく思ひ忍ばれて忘れることができない”
(pp171~172)
(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』、日本教文社)
☆☆☆
2首目 弓を射られた鹿や猪の後をたどっていくと川のほとりに出る。そこに芽生えたばかりの若草のようにあの子が幼すぎたとは思わないが、それでも私は悔やまれる。
健王は8歳まで育ちました。 話すことが不自由だったとのこと、病弱だったのでしょうか。そうであればやっとここまで育ったという思いもあったのでしょう。
1首目 雲を亡き人に見立てるのは、持統天皇の「たなびく雲の青雲の」もそうでした。天武天皇が月や星を置いて離れて行く様子を詠っていました。万葉の人には、雲が亡き人の魂に見えたのかも知れません。
私は父のお墓参りに行くと、よく蝶に出会います。先日は、お墓参りに行った翌朝、ごみ捨てに外に出たとき、地面にひらひら舞う影が見えて、見上げると黒いアゲハ蝶が空のかなたに飛んでいきました。父が喜んでくれたのかと嬉しくなりました。
2首目は、8歳という年齢は若草よりも育っているということで、七歳にして男女同席せずという言葉もあるように、幼児から小児に成長したという古代人の感覚は、今でも七五三で七歳が一つの節目として同じ感覚が続いているのだと思います。
それでも愛しい孫のことが絶え間なく思い出されるのは身体が弱いだけにひとしお可愛かったのでしょう。何だか分かる気がいたします。人が人を愛するというのは体力とか知的能力とかいうことだけでなく、魂と魂の触れ合いという、言葉にならないものがあるのだと思います。
今日も読んでいただき、有難うございました。
今日も暑いですが、もう少しの辛抱ですね。皆様にとって良い一日でありますように。
第37代・斉明天皇の御歌を学びます。
ご在世:594~661(崩御68歳)、
御在位642~645年(49歳~52歳)
重祚して
御在位655~661年(62歳~68歳)
皇極天皇は、第34代・舒明天皇の皇后で、第38代・天智天皇、第40代・天武天皇の御母君でした。皇極天皇の時代には、聖徳太子の御子山背大兄王御一家が蘇我入鹿により、御一族全員が御自害に追い込まれました。その2年後、中大兄皇子が、藤原鎌足と共に、入鹿を誅伐せられたのが大化の改新でした。
大化の改新を機に退位せられた皇極天皇は、十年後に重祚され斉明天皇となられました。御即位後658年孝徳天皇の皇子・有間皇子が誅せられるという悲劇が起こります。658年阿倍比羅夫を派遣して蝦夷を征討、さらに粛清(イシハセ、蝦夷以外の北方民族)を討って大和民族の勢威は北方におよびました。そのあと、朝鮮半島で百済が新羅に攻められ、救援を求めてきたのに対し、中大兄皇子をはじめ群臣を率いて新羅征討軍を起こして御親征になられたが、途中九州の朝倉宮(福岡県)に御駐留の折、御病気で崩御せられました。(御陵墓は、奈良県高市郡高取町にあります。)
68歳で、それも女性天皇が、征討軍の先頭に立たれたということが信じられません。今でしたら、九州旅行はなんでもないことですが、古代の交通の不便な時に、奈良から移動されるだけでも大変なことだったと思います。神功皇后もそうですが、固い御決意と御自覚のほどがうかがわれます。
☆☆☆
“斉明天皇4年(658)五月(さつき)に、皇孫健王(みまごたけるのみこ)歳八歳(みとしやつ)にて薨(う)せましぬ。今城谷(いまきたに)の上に、殯(もがり)を起てて収む。天皇(すめらみこと)、本より皇孫(みまご)の有順(みさをか)なるを以て、器重(ことにあが)めたまふ。故(かれ)、不忍哀(あからしび)たまひ、悼み慟(まど)ひたまふこと極めて甚(にへさ)なり。群臣(まへつぎみ)たちに詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「萬歳千秋(よろづとせちあき)の後に、必ず我が陵(みささぎ)に合せ葬(はぶ)れ」とのたまふ。廼(すなは)ち作歌(うたよみ)して曰(のたま)はく、
今城なる 小丘(をむれ)が上に 雲だにも
著(しる)くし立たば 何か歎(なげ)かむ 其一
射ゆ鹿猪(しし)を 認(つな)ぐ 川上(かはへ)の若草の
若くありきと 吾(あ)が思(も)はなくに 其二
飛鳥川(あすかがは) 漲(みなぎ)らひつつ行く水の
間(あひだ)もなくも 思ほゆるかも 其三“ (p41)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆
(大意)
(1首目)
“いとしさひとしほのかわいい孫の健の王を葬り収めた今城の谷の丘の上に、せめて雲だけでもはっきりと立ち昇ってくれるならば、その雲をいとしい孫の形見と思って心を慰め、悲しみを忘れようものを。”
(3首目)
“飛鳥川をみなぎりつつ流れて行く水が、とぎれることなく流れ続けてゐるやうに、幼くして死んでいった可愛い孫のことが、たえ間もなく思ひ忍ばれて忘れることができない”
(pp171~172)
(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』、日本教文社)
☆☆☆
2首目 弓を射られた鹿や猪の後をたどっていくと川のほとりに出る。そこに芽生えたばかりの若草のようにあの子が幼すぎたとは思わないが、それでも私は悔やまれる。
健王は8歳まで育ちました。 話すことが不自由だったとのこと、病弱だったのでしょうか。そうであればやっとここまで育ったという思いもあったのでしょう。
1首目 雲を亡き人に見立てるのは、持統天皇の「たなびく雲の青雲の」もそうでした。天武天皇が月や星を置いて離れて行く様子を詠っていました。万葉の人には、雲が亡き人の魂に見えたのかも知れません。
私は父のお墓参りに行くと、よく蝶に出会います。先日は、お墓参りに行った翌朝、ごみ捨てに外に出たとき、地面にひらひら舞う影が見えて、見上げると黒いアゲハ蝶が空のかなたに飛んでいきました。父が喜んでくれたのかと嬉しくなりました。
2首目は、8歳という年齢は若草よりも育っているということで、七歳にして男女同席せずという言葉もあるように、幼児から小児に成長したという古代人の感覚は、今でも七五三で七歳が一つの節目として同じ感覚が続いているのだと思います。
それでも愛しい孫のことが絶え間なく思い出されるのは身体が弱いだけにひとしお可愛かったのでしょう。何だか分かる気がいたします。人が人を愛するというのは体力とか知的能力とかいうことだけでなく、魂と魂の触れ合いという、言葉にならないものがあるのだと思います。
今日も読んでいただき、有難うございました。
今日も暑いですが、もう少しの辛抱ですね。皆様にとって良い一日でありますように。