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天皇の御歌(61)―第51代・平城天皇(2) [平城天皇]

DSC_106020210304blog.JPG今日も第51代・平城天皇の御歌を学ばせていただきます。

御在世:774―824(崩御・51歳)
御在位:806―809(33歳~36歳)

第51代・平城天皇は、退位された後に、寵愛されていた藤原薬子とその兄の藤原仲成(なかなり)の強い要請により、大同5年(810年)9月6日、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って、平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った事件を起こしました。これを「薬子の変」と申します。

もともと、藤原薬子(くすこ)は、平城上皇がまだ皇太子、安殿親王(あてしんのう)でいらしたときに、安殿親王のもとに薬子の長女が官女(女官)になったとき、幼少の長女の付き添いとして宮仕えに上がったのですが、娘を差し置いて自身が安殿親王に寵愛されるようになりました。

 安殿親王の父君、第50代・桓武天皇はお怒りになって薬子の追放を命じられ、薬子の夫である中納言藤原縄主(ただぬし)を春宮太夫(春宮坊)に任命されました。薬子の出入りを禁じるためだと言われています。

春宮坊:(東宮坊 とうぐうぼう、みこのみやのつかさ)は、日本古代の律令制において、皇太子の御所の内政を掌った機関である。皇太子の御所の内政を掌りました。

つまり藤原縄主が、安殿親王のお近くに仕えたということです。

平城天皇は、延暦25年(806年)3月17日に父帝・桓武天皇が崩御されると同日に践祚。践祚後、薬子を尚侍(ないしのかみ)として手元に戻す一方、薬子の夫である藤原縄主を従三位に昇進させ大宰帥として九州に赴任させました。

尚侍:(ないしのかみ):日本の律令制における官職で、内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名。

内侍司:(ないしのつかさ):天皇に側仕えし、臣下が天皇に対して提出する文書を取り次ぎこと、天皇の命令を臣下に伝えること(内侍宣)などをした

女官の中で、天皇の秘書のような職務でしょうか。

「薬子の変」の結果、薬子は毒を仰いで自殺し、兄仲成も殺されました。平城上皇は、剃髪して仏門に入られました。


今日は、平城天皇の御製で恋の御歌を学ばせていただきます。


☆☆☆

“「奈良御集(ならぎょしゅう)」から”

そめなくに 我に移れる 妹(いも)が香(か)の
 ゆらゆらこゝに こゝら匂(にほ)へる

人こそは さはに多かれ 息のをに
 あやしくのれる 妹にもある哉(かな)

片戀(かたこひ)に 死にするものにし あらませば
 千度(ちたび)ぞ我は 死に返らまし

(p63)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味:

そめなくに:しみこませたわけでもないのに

さはに:たくさんの

息のをに:いのちがけで、いのちの綱として

あやしく:不思議に、珍しく、並々でなく

のれる:告る、宣る 


[大意]

1首目:
しみこませたわけでもないのに、私に移った貴女の香りが、ゆらゆらここに、かしこに匂いたっている

2首目:
人というものは、無数に大勢あるのに、いのちがけで、並々ならぬことを言う貴女であることよ

3首目:
片思いに死んでしまうというものであるならば、千遍でも私は死を繰り返すでしょう


[感想]

どの御歌も激しい恋の御歌で、現代の愛の歌の歌詞といってもおかしくないような言葉ですね。読んでいて顔が赤くなりそうです。

平城天皇の薬子への恋は一途であったのでしょう。

2首目の「のれる」はひらがなで書かれていて、「告る、宣る」なのか「乗る」なのか、判断が付きませんでしたが、一応「告る、宣る」の解釈をとりました。

もし「乗る」であれば、「いのちの綱として、不思議にその綱に乗っている貴女」と解釈することもできます。「乗る」の方が、視覚的に興を覚えます。


3首目の、千遍でも…というのは、元の歌が万葉集にあります。

笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(おほとものやかもち)に贈った二十四首の相聞歌のうちの一首です。

“思ふにし死(しに)するものにあらませば千遍(ちたび)そわれは死に返(かへ)らまし

巻四(六〇三)

恋に思い悩むことで死ぬのであれば千回でも私は死を繰り返すでしょう”

「思ふにし」が「片戀に」なっている以外は、ほとんど同じです。

後に源氏物語が生まれた背景にこのような現実の王朝の恋物語があったのでしょう。

昔のことですから、現代の基準で、当時の恋愛観について、あれこれ申しあげることは控えたいと思います。

それでも、薬子の場合は夫が地位のある人であった上に、権力争いにまで発展してしまったので、多くの奥様を持つことができた平安時代でも、秩序を乱すということで、厳しく処断されたのでしょう。

こういう難しいことを経て、それを乗り越えて国政を立て直された、第52代・嵯峨天皇の御心痛と御努力がしのばれます。

今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって穏やかな一日でありますようお祈り申し上げます。

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天皇の御歌(60)―第51代・平城天皇 [平城天皇]

DSC_108120210303blog.JPG今日は、第51代・平城天皇(へいぜいてんのう)の御歌を学ばせていただきます。

御在世:774―824(崩御・51歳)
御在位:806―809(33歳~36歳)

平城天皇は、第50代・桓武天皇の第一皇子であられ、第52代・嵯峨天皇の兄君であられます。ご病気のため同母弟の嵯峨天皇に御位を譲られました。
御在位は3年間という短い期間でした。

平城天皇は、桓武天皇の時代の参議を廃止され、観察使を設置されました。観察使は、806年に設置されましたが、810年に消滅しました。

平城天皇は、“即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治・経済の立て直しを行い、民力休養に努めた。”とWikipediaに書かれていますから、観察使の設置は、第50代・桓武天皇の政策の見直しの一環だったのでしょうか。810年は「薬子の変」の起きた年なので、平城上皇が政治に力を及ぼすことができなくなると同時に、「観察使」が消滅したようです。

平城上皇は、「薬子の変」では、平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出されました。しかし平城上皇の重祚は成らず、政権掌握は実現しませんでした。平城上皇は、剃髪して仏門に入られましたが、その後も、平城上皇の「太上天皇」の称号はそのままとされ、嵯峨天皇の朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)も受けておられました。

朝覲行幸:覲(きん)は謁見の意で、天皇が親である太上(だいじょう)天皇・皇太后の居所を訪問し拝謁すること。朝覲行幸とはそのために行幸、すなわち外出すること。嵯峨(さが)天皇の809年(大同4)8月に始まったとされ、平安時代に盛んになる。(コトバンク)

後世には、このような場合、上皇が島流しに遭うなど、厳しい御処遇を受けられていますが、この時の、御処遇はそれよりゆるやかであったのだと思いました。

☆☆☆

“平城天皇は、第50代・桓武天皇の第一皇子。御在位は、御病気のため早く譲位されたので短かったが、参議の廃止や観察使の設置などのことがあり、「奈良の帝」とも申し上げる。御退位の後、「薬子の変」(寵愛なさった藤原薬子の兄、仲成をも重用されたことから、この兄妹が天皇の重祚を計画して失敗)が起り、藤原閥族間の闘争の渦の中で、悲劇的な御生涯を終へられた。弘仁十二年(821)御年48歳の時に、空海から灌頂(註・佛弟子が一定の地位に進む儀式)を受けられた。
(御陵墓は、奈良市佐紀町にあり、楊梅陵(やまもものみささぎ)[円墳]と申し上げる。)

「奈良御集(ならぎょしゅう)」から

故郷(ふるさと)と なりにし奈良の みやこにも
色はかはらず 花さきにけり

大同二年(八〇七)九月乙巳(きのとみ)、神泉苑に幸(みゆきま)しゝ時、上、之(註・御弟君、後の嵯峨天皇)に和(わ)して歌ひたまはく

折る人の 心のまにま ふぢばかま 
うべ色深く 匂ひたりけり(日本逸史)
(p63)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味:

参議:(さんぎ)日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。

観察使:(かんさつし)平安初期の令外(りょうげ)の官。畿内(きない)・七道に派遣されて、諸国の状況や国司・郡司の施政を観察した。大同元年(806)に設置、弘仁元年(810)に消滅。

奈良御集:奈良の帝と称された平城天皇の御製集

[大意]

第1首目:
古びて荒れた里となってしまった奈良の都にも、昔と色は変わることなく花は咲いているのだった。

大同二年(八〇七)九月乙巳(きのとみ)、神泉苑に幸(みゆきま)しゝ時、平城天皇が、御弟君(後の嵯峨天皇)にお答えして詠われました。

第2首目:
手折ったあなたの心そのままに ふじばかまは なるほど深く良い香りがします


[感想]

第1首目は、平城天皇がお生まれになり、20歳まで住んでおられた平城京をなつかしまれる御歌です。
幼少時から多感な時期を過ごされた奈良の都に、思い出が尽きなかったのでしょう。


後世のことですが、明治天皇も16歳で東京に遷都されましたが、明治15年に、京都御所を懐かしまれる御製を詠んでおられることを思い出しました。

☆☆☆

夏草 
住みなれし わがふるさとは 夏草の深きところと なりにけるかも


ふるさととなりし都は 萩の戸の(7) 花のさかりも さびしかるらむ

 (7)[萩の戸は]清涼殿内の一室。ここの障子に萩が描かれていたのでこの名がある。

(明治神宮編『明治天皇御集 昭憲皇太后御集』p25 角川文庫)

☆☆☆

言葉の意味:

清涼殿:(せいりょうでん):
平安京内裏十七殿の一。紫宸殿 (ししんでん) の北西、校書殿 (きょうしょでん) の北にあり、東面する入母屋造 (いりもやづく) り九間四面の建物。天皇が日常住んだ所で、昼 (ひ) の御座 (おまし) 、夜 (よる) の御殿 (おとど) 、朝餉 (あさがれい) の間、石灰 (いしばい) の壇、弘徽殿 (こきでん) の上の御局 (みつぼね) 、藤壺 (ふじつぼ) の上の御局 (みつぼね) 、台盤所 (だいばんどころ) 、殿上 (てんじょう) の間、萩 (はぎ) の戸などの部屋がある。四方拝・叙位・除目 (じもく) などの公事 (くじ) も行われた。(goo辞書)


平城天皇の第2首目の、ふじばかまの御製は、先日、詠ませていただいた第52代・嵯峨天皇の、下記の御製にお答えして詠まれたものです。

“宮人の 其の香(か)に愛(め)づる ふぢばかま
君のおほ物 手折りたる今日”

“宮中の人がその香(かおり)を愛でた藤袴(ふじばかま)を、天皇に奉る貴い贈り物として、手折りましたよ、今日この日に。”

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2021-02-26


後の「薬子の変」のことを思うとこのように御兄弟、仲の良い歌を交わされたのにと、心が痛みます。それでも、そののちも、嵯峨天皇の真心が変わることなく、平城天皇を太上天皇として処遇され続け、朝覲行幸もなさったことに、どこか救われる思いがいたします。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって明るい一日でありますようお祈り申し上げます。

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