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天皇の御歌(54)―第15代・応神天皇 [応神天皇]

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今日も、第15代・応神天皇の御歌を学びます。3回目です。

御在世:200~310(崩御・110歳)
御在位:270~310(70歳~110歳)

☆☆☆

“三十一年(300)の秋八月(はつき)、「枯野(からの)と名(なづ)くるは、伊豆国(いづのくに)より貢(たてまつ)れる船なり。是(これ)朽(く)ちて用ゐるに堪へず。然れども久(ひさ)に官用(おほやけのもの)と為りて、功(いたはり)忘(わす)るべからず。何(いか)でか其の船の名を絶たずして、後葉(のちのよ)に伝(つた)ふることを得む」とのたまふ。群卿(まへつきみたち)、……其の船の材(き)を取りて、薪として塩(しほ)を焼かしむ。……焼きし日に、餘燼(あまりのもえくひ)有り。その燃えざることを奇(あやし)びて、獻(たてまつ)る。天皇(すめらみこと)、異(あやし)びて琴に作らしむ。其の音(ね)、鏗鏘(さやか)にして遠く聆(きこ)ゆ。其の時に、天皇、歌(みうたよみ)して曰はく、

枯野(からの)を 鹽(しほ)に焼き 其(し)が餘(あまり)
琴に作り 掻き弾くや 由良(ゆら)の門(と)の 
門中(となか)の 海石(いくり)に 觸(ふ)れ立つ
なづの木の さやさや

(*なづの木=水の中につかってゐる木、海藻のことか)(日本書紀、巻第十))”(p25)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

伊豆の国:かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

由良の門:紀伊半島と淡路島の間の海峡。

海石(いくり):海中の岩。

なづの木:水につかっている植物(葦、萱)、海藻

文の説明と御歌の解釈

応神天皇の御代31年(300)の秋の8月(旧暦、新暦では8月下旬から10月上旬ごろ)枯野(からの)と名付けられたのは、伊豆の国から献じられた船であった。この船が古くなって使い物にならなくなった。けれども公用に功績があったものだから、どうしたらこの船の名を後世に残すことができるだろうと、天皇が仰せられた。群臣は…その船の材木を燃やして塩を焼かせた…焼いたときに燃え残りの木が出た。燃え残ったのを不思議に思って、天皇に奉った。天皇も不思議に思われて、その木材で琴を作らせた。琴の音は冴えて遠くまでよく聞こえた。その時に天皇は歌を詠まれた。

枯野(からの)の船の廃材を塩焼きに使ったら、その材が燃え残ったので、琴を作って爪弾(つまび)いたら、由良の海峡の真ん中にある、海中の岩に触れて立つ、水に浸かった草のように、さやさや、と音を立てたよ

感想:

天皇が愛用された献上船が、すっかり傷んでしまって用済みとなりました。船の功績を讃えて、何とかその名前を残せないかと思われたが、その方法が思いつかないまま、船は塩焼きの焚き木に使われることになりました。ところが全部燃えるはずの木材の一部が、不思議なことに燃え残ってしまったので、その木材を、天皇に奉りました。天皇も不思議に思われたので、その木材で琴を作らせたら、琴の冴えた美しい音色が由良の海峡まで、響き渡ったので、御歌を詠まれたとのことです。琴の名前は枯野(からの)となって、船の名が残ったのでしょう。

船にも、後世に名前を残してあげようと、人間のように見ているところが、素敵だと思います。

私も、海岸で船の行き交うのを見ていたことがありますが、じっと見ていると用途によって、形や大きさが様々で、色や形が楽しいです。商船同好会という商船模型を作る人々もあるようですが、少し、その気持ちが分かる気がします。

御歌の「なづの木の さやさや」で終わる、ことばの響きがきれいです。海の中の石、海水に浸かった草、どちらも船の「からの」にとっては、日ごろ親しんだ懐かしい石、忘れられない草木の擦れる音だったことでしょう。そんな船の身になりかわって、歌われているお優しい御歌だと思います。船にもいのちがあるのを感じておられたのですね。

今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって、素晴らしい秋の日でありますようお祈り申し上げます。

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天皇の御歌(53)―第15代・応神天皇 [応神天皇]

PICT1788お酒20201112blog.JPG今日も、第15代・応神天皇の御歌を学びます。2回目です。

御在世:200~310(崩御・110歳)
御在位:270~310(70歳~110歳)

昨日のブログでは応神天皇の御在世・御在位期間を間違えて掲載しており、本日訂正いたしました。深くお詫び申し上げます。

それにしても、御寿命が110歳、即位されたのが70歳でそれ以後110歳まで天皇であられたというのは、御年齢などの細部は史実と言い切れず、伝承であろうと思いますが、それで応神天皇の実在が否定されるわけではありません。そのお名前の方は実在されただろうし、その伝承が、古代の人々の心に生き続けて、今日まで生き生きと語り伝えられていることを大切にしたい、そういう気持ちで、学ばせていただきます。

 応神天皇の時代は、大和朝廷の勢力が、内外に飛躍的に発展した時期で、朝鮮半島の百済の国から貢物(みつぎもの)があり、これに対して、天皇は「品物もよいが、賢い人がいたら、そういう人をいただきたい」とご希望になり、それに応じて百済王から「王似(おに)」という学者が派遣されてきました。王似は、「論語(ろんご)」十巻(とまき)、「千字文(せんじもん)一巻(ひとまき)を日本に伝え、あわせて、機織・造酒などの大陸文明が、日本に伝来することになりました。

言葉の意味

論語:中国の思想書。20編。孔子没後、門人による孔子の言行記録を、儒家の一派が編集したもの。四書の一。

四書:「大学」「中庸」「論語」「孟子」の4 部の書。五経と並んで儒学の基本となる書。

千字文:子供に漢字を教え、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩。 1000の異なった文字が使われていて、全て違った文字で、一字も重複していない。

機織(はたおり):機で布帛を織ること。 また、その人。

造酒(ぞうしゅ):酒を醸造すること。 酒造。

☆☆☆

“天皇(すめらみこと)、百済(くだら)の国に、「若(も)し賢(さか)しき人有らば貢上(たてまつ)れ。」と科(おほ)せ賜(たま)ひき。故(かれ)、命(みこと)を受けて貢上(たてまつ)れる人、名は和邇吉師(わにきし)(註・王仁(わに))。即ち論語十巻(とまき)、千字文一巻(ひとまき)を是の人に付けて即ち貢進(たてまつ)りき。……又、酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦(また)の名は須須許理等(すすこりども)、参渡(まひわた)り来(き)つ。故(かれ)是の須須許理、大御酒(おほみき)を醸(か)みて獻(たてまつ)りき。是に天皇、是の獻(たてまつ)りし大御酒に宇羅宜(うらげ)て(註・心が浮き浮きされて)御歌(みうた)曰(よ)みしたまひしく、

須須許理が 醸みし御酒(みき)に 我(われ)酔(ゑ)ひにけり
事無酒(ことなぐし) 笑酒(えぐし)に 我(われ)酔(ゑ)ひにけり(以上、古事記、中巻)”(pp24~25)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味

大御酒(おほみき):神や天皇などに奉る酒

うらげ:「すゞろに心おもしろく、浮キ立ツを云と聞こゆ」(古事記伝)

事無酒(ことなぐし):コトナグシはコトナグクシの約で、憂鬱なことなどを慰めてくれる酒の意。

笑酒(えぐし) :ヱグシは飲めば微笑まずにいられない酒の意であろう。

*クシはクスリなどと同根の語で、霊妙なもの。ここでは酒のこと。

言葉の意味、解釈については、以下のネットを参考にさせていただきました。
(「千人万首」「応神天皇」
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/oujin.html


詞書と御歌の解釈:

天皇が百済の国に「もし賢い人があるなら、その人を私にいただきたい」とおおせられた。その命を受けて、百済から派遣された人があり、その名を和邇吉師(わにきし)と云った。論語十巻と千字文一巻も、その人と一緒に献上された。…また酒の醸(かも)し方を知っている人、名を仁番(にほ)、亦(また)の名は須須許理等(すすこりども)(すすこりが徒弟を連れて)、百済から海を渡って参った。この須須許理は、神や天皇などに奉る酒を醸して、天皇に献上した。その時、天皇は、この奉られた神酒を手に、心おもしろく浮き浮きとされて、御歌をよまれた

須須許理(すすこり)が醸したお酒に私は酔ってしまった、よく効く薬のように憂鬱なことをはらって、慰める酒に、飲めば微笑まずにいられない酒に、私は酔ってしまったよ

感想

詞書によれば、日本に論語と千字文が入ってきたのは、3世紀後半~4世紀前半ということですね。仏教の伝来は私が小学生の頃、「ほっとけほっとけゴミ屋さん」として538年と習っていました。儒教のことは記憶になかったのですが、仏教よりも100~150年ほど前に、王似(わに)が日本に伝えたという伝承があったことを今回初めて意識しました。

『論語』は、日本人の日常生活の中に浸透しています。母がよく口にしていた言葉に「己の欲せざる処を人に施すことなかれ」でした。「自分が人からされて嫌なことは、人に対してするな」という意味ですが、これも論語の中の言葉です。

儒教が本格的に日本に伝わったのは、第26代・継体天皇の御代で513年、百済より五経博士が渡日して以降とのことです。儒学の基本は四書五経で『論語』は、その一部ですが、それでも当時の日本人の目には新鮮な学問と映ったことでしょう。

書の手本となる千字文については、初耳でした。あるいは習っていても、右から左へ頭の中を通過していったのでしょう。千文字の漢字が一つの重複もなく、漢文の長詩になっているとのことで、「いろは歌」が漢字で千文字の詩になっているようなもので、これまたびっくりしますね。

Wikipediaによれば、ところが、千字文が成立したのは6世紀前半(梁 (502–549) の武帝の時代)とのこと、4世紀前半に王仁(和邇吉師(わにきし))が百済から持参したとの日本書紀の記述と矛盾を生じます。この時期的な矛盾について“記事自体をただの伝説であると捉えられたり、いくつかの事実を反映しているという意見や、別の千字の文が伝えられた”という意見があるそうです。私は“別の千字の文が伝えられた”というのが、夢があるように思いますが、その辺りは今後の考古学の研究の成果を待ちたいです。

機織りや造酒の大陸文明も、応神天皇の時代に伝わったとのこと、それまでも機織りや造酒が無かったわけではないと思いますが、飛躍的な工夫が凝らされた造酒、機織り技術だったということなのでしょう。大陸の造酒であれば、漢方薬の知識など生かした、格段に美味しい御酒ができたのだろうと思います。天皇がそれを大いに喜ばれたというのが、御歌にあらわされていて、ほのぼのとした感じがいたします。

{コトナグシ}=事無くする薬、とか、「エグシ」=笑いの薬とか、お酒を讃えられて、酒を醸した須須許理(ススコリ)も、さぞ嬉しかったことでしょう。

日本人はお酒飲みに寛大と言われますが、大御酒が神や天皇に奉る酒であったという、日本の歴史に基づくものなのでしょう。私自身はお酒に弱く、ほとんど飲めないのですが、日ごろ無口だが、お酒を飲んで朗らかになる人と同席するのは、嫌いではありません。健康に良い飲み方は「百薬の長」として、大目に見たいと思います。私も、寝る前に梅酒をお湯割りするとよく寝られると勧められていただいたので、それを飲んで、身体を温めたいと思います。

今日も読んでいただき有難うございました。

今日一日が素晴らしい一日でありますように。
朝晩、寒くなってまいりました。寝るときは暖かくしてお休みください。

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天皇の御歌(52)―第15代・応神天皇 [応神天皇]

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今日は第15代・応神天皇の御歌を学びます。

御在世:200~310(110歳)
御在位:270~310(70歳~110歳)

応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)と申し上げ、第14代・仲哀天皇の第四皇子で、母君は、仲哀天皇の后、神宮皇后です。

神功皇后は「皇后」で、天皇ではないのですが、日本書紀には「天皇」との記述があり、明治時代までは、一部史書で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていたとのことです。そこで、女性天皇に準じて学びたいと思いまして、神功皇后の時代背景を知るために、お子様の応神天皇を先に学ぶことにしました。

応神天皇の3代前、第12代・景行天皇の御代に、皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征・征西があり、大和朝廷による国内の統一がほぼ達成せられました。

母君、神功皇后は朝鮮半島新羅に出征せられ、その間、応神天皇は神功皇后の胎中にあらせられたことから、「胎中天皇」とも言われました。



☆☆☆

“あるとき、天皇(すめらみこと)、近つ淡海(ちかつおうみ)の国に越え幸(い)でましし時、宇遅野(うぢの)の上(ほとり)に御立(みたち)したまいて、葛野(かづの)を望(みさ)けて歌曰(うた)ひたまひしく、

千葉(ちば)の 葛野(かづの)を見れば 百千(ももち)足(だ)る
家庭(やには)も見ゆ 國の秀(ほ)も見ゆ
(*百千たる=民家が満ち栄へてゐる)
とうたひたまひき。

(中略)(以上、古事記、中巻)”

(pp23~24)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味

近つ淡海:琵琶湖(びわこ)。 また、琵琶湖のある所の意で、近江(おうみ)の国(滋賀県)の古名。 近い淡海(=湖)の意。 「あふみ」は「あはうみ(淡海)」の変化した語。

宇遅野(うぢの):「宇遅」は今の京都府宇治市。

上(ほとり):付近

千葉:葛野の枕詞。「葉がたくさん繁る」という意を籠めた讃め詞

葛野(かづの):京都府宇治市の西

望(みさ)ける:遠く見やる。眺望する。

百千足る:十分に満ち足りている。

國の秀(くにのほ):国のすぐれた所。具体的には山に囲まれた平坦な広い土地を言う。

言葉の意味、解釈については、以下のネットを参考にさせていただきました。
(「千人万首」「応神天皇」
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/oujin.html


詞書と御歌の解釈:

ある時、天皇が近江の国に行幸されたとき、宇治のあたりに御立ちになって、葛野を遠く見渡しながら、歌われました。

葉がたくさん繁る葛(かつら)のように緑豊かな葛野を見れば、十分に満ち栄えている家々が見えるし、山に囲まれた広々とした美しい平野も見えるよ


感想:

これは「国見」の御歌だと思いました。

国見:天皇や地方の長 (おさ) が高い所に登って、国の地勢、景色や人民の生活状態を望み見ること。もと春の農耕儀礼で、1年の農事を始めるにあたって農耕に適した地を探し、秋の豊穣を予祝したもの。

天皇が高いところに上って、葛野の原や、各家の情景を歌い、良い言葉でほめたたえて、秋の豊かな実りと土地、人々の繁栄を祈ることが、古代から行われてきました。

現代に置き換えれば、天皇が日本各地に行幸されて、行く先々の土地や産業を見て、人々を励まし、ほめたたえることに、その伝統はつながっています。


日本武尊の御歌

『倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し』
(大和は国の中でも最もよいところだ。重なり合った青い垣根の山、その中にこもっている大和は美しい)

も、望郷の歌ですが、国をほめたたえる「国見」に相通ずる御歌とも思えます。


第34代・舒明天皇の御製

“大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ
天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば
国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ
海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ
うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は"

“大和には多くの山があるけれど とりわけ立派な天の香具山 その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国は”
 (http://manyou.plabot.michikusa.jp/yamatoniha.html

も、有名な国見の歌です。


私の実家は丘の上にあり、入居した頃は、建っている家がまだ少なかったので、2階の窓から丘の下の平地まで広く見渡すことができました。

晴れた日に窓から遠くを見ながら、「倭は国のまほろば~」とか「大和には群山あれど~」などと、一人で両手を広げて、家族には聞こえないような音量で、叫んでいました。「国を祝福する」「住んでいるところに感謝する」思いを込めて……。 実に気持ちがよかったです。

皆さんも、旅行に行ったときなど、山の上や丘の上で、周りに人のいないことを確かめて、この御歌を、目に見える土地や住人への祝福と感謝の思いとともに、朗誦してみたらいかがでしょう。爽快な気分になれますよ!

今日も読んでいただき、有難うございました。

秋晴れの日差しが気持ちのいい日です。皆様にとって快適な一日でありますよう、お祈り申し上げます。

註:ご在世と御在位期間を、昨日(11月11日)間違えて記載したので、本日(11月12日)に訂正いたしました。不注意をお詫び申し上げます。どうぞご了承ください。
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