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天皇の御歌(23)―第105代後奈良天皇(2週間を振り返って) [後奈良天皇]

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この2週間を振り返って心に残った御歌は第105代後奈良天皇の以下の2首です。

(後奈良天皇の御在世は1496年~1557年、62歳で崩御、御在位は1526年~1557年(御年31歳~62歳))

☆☆☆

“神祗(大永元年―1521)

宮柱(みやはしら) 朽ちぬちかひを たておきて 末の世までの あとをたれけむ

(御奈良院御製集拾遺)“(p210)


樹陰照射

ともしたて 歸るますらを 木隠れに しるべばかりの 月はもるらむ

(御奈良院御製集拾遺)“(p211)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)




(1首目について高森明勅氏の解釈)
“日本の神々は、「宮柱」によって象徴される天皇の地位(皇位)がけっして「くちぬ」、つまり永遠に安泰であるという「ちかひ」をたてて、末代までかわらぬ姿を示し、模範をのこされたことよ”(P333)

(高森明勅著『日本の10大天皇』幻冬舎新書)

☆☆☆

(私の解釈)
2首目 ともし火を立てて帰ってきたますらおたち。樹の間からともし火が見えるのは山で作業していた樵(きこり)でしょうか。まぶしいほどではないがやさしい月の光が、ますらおを導くかのように樹の間からそっと照らしている光景が、目に浮かびます。ますらおに向けられた後奈良天皇の御気遣いとお優しさと同じまなざしを感じます。かすかな月の光は、困難な中の後奈良天皇を導く神の光でもありましょう。そんなほのかな希望を感じる御歌です。

1首目について、御奈良天皇の御代は皇室の財政がもっとも衰微した年と言われ、後奈良天皇は歴史上もっとも貧しかった天皇だと言われます。そのような時代でも決して希望を失わず永遠を見つめられて皇室を後世につながれた天皇の御姿に「天皇畏るべし」という重みを感じました。

2首目の月の光に照らされた樵の姿に寄せられた天皇さまの優しさと思いやりに月の光のような清らかさ、春の日差しのような温かさを覚えます。
このような自然の美しさへの歴代天皇のまなざしが私はとても好きです。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様の日々が安らかでありますようお祈り申し上げます。

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天皇の御歌(22)―第105代 後奈良天皇(3) [後奈良天皇]

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今日も、第105代 後奈良天皇の御歌(おうた)を謹写します。
(御在世:1496年~1557年、御在位:1526年~1557年(御年31歳~62歳))

一昨日、学んだ御歌の1首目の解釈ですが、高森明勅氏の著書に解釈が載せてあるのを、今朝、見つけました。私の解釈は少し間違っていました。あらためて高森氏の解釈を載せさせていただきます。

☆☆☆

“神祗(大永元年―1521)

宮柱(みやはしら) 朽ちぬちかひを たておきて 末の世までの あとをたれけむ

(御奈良院御製集拾遺)“(p210)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


(高森氏の解釈)
“日本の神々は、「宮柱」によって象徴される天皇の地位(皇位)がけっして「くちぬ」、つまり永遠に安泰であるという「ちかひ」をたてて、末代までかわらぬ姿を示し、模範をのこされたことよ”(P333)

(高森明勅著『日本の10大天皇』幻冬舎新書)

☆☆☆


私は、「宮殿の柱がしっかり立つように、天皇としての朽ちることのない誓いを立てて、後世に長く、跡を残し続けようということ」と書いて、主語を後奈良天皇と解釈したのですが、主語は「日本の神々」だったのですね。より時間の幅の広い御歌であったわけです。

今日は、さらに2首の御歌を謹写します。


☆☆☆

“寄夢述懐(天文十一年―1542―大神宮御法楽千首)

いさむるも ありしながらに たらちねの 幾たび夢の 昔をか見し


田家秋夕(同)

夕つゆの 外面(とのも)にひろき 千町田の をしねいろづく 秋やさびしき“(p211)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

たらちね= 母、両親

ありしながらに = ご在世の折のままに

外面 = 外側

をしね = 稲


1首目 ご在世の折のままに諫められる母宮の夢を、昔のように幾たびも見たことか

2首目 御所の外にある、夕べの露の降りたひろい千の区画の田んぼに、稲が色づく秋はさびしいものだ

というほどのことでしょうか。


亡くなられた母宮に諫められる夢を見ることが何回もあって、ご在世の折のことが懐かしく思い出されるということだと思います。母に諫められたことは、いつもでも心に残り、自分を形作ってきたというのは、私ども庶民も同じ思いですね、

御所の外に、水田が広がっている光景。稲が色づくのは、豊作であれば楽しみだと思うのですが、天皇の御心には民を苦しめる疫病などの心配事が去来していたのでしょうか。秋の寂しさを見ておられます。


後奈良天皇の御治世代は戦国時代への突入期でした。

西に毛利元就、東に甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信がありました。
天文十二年(1543)ポルトガル商人が種子島に日本にはじめて鉄砲を伝来させ、同じ年に織田信秀(信長の父)は、皇居の修繕に意をそそいだとのことです。

弘治元年(1555)、武田信玄と上杉謙信の川中島の決戦があり、中世の終わりが目前になります。

後奈良天皇の第一皇子が、第106代 正親町天皇です。

NHK大河ドラマの明智光秀の時代が、その時代に当たります。8月末になるそうですが、再開が楽しみです。


今日も、読んでいただき有難うございました。

今日一日が皆様にとって、素晴らしい一日でありますようお祈り申し上げます。


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天皇の御歌(21)―第105代 後奈良天皇(2) [後奈良天皇]

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今日も、第105代 後奈良天皇の御歌(おうた)を謹写します。
後奈良天皇の御在世は1496年~1557年、62歳で崩御。
御在位は1526年~1557年(御年31歳~62歳)です。

☆☆☆

“神祗(享保三年―1530)

いそのかみ ふるき茅萱(ちがや)の 宮柱(みやはしら) たてかふる世に 逢はざらめやは

(御奈良院御製集)


樹陰照射

ともしたて 歸るますらを 木隠れに しるべばかりの 月はもるらむ

歳暮

つもりては 老いとなりぬる 哀れをも 知らでや年の くれてゆくらむ

(以上、御奈良院御百首)


(御奈良院御製集拾遺)“(p210~211)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

いそのかみ: 「ふる」にかかる枕詞。 「石の上布留(いそのかみふる」(奈良県天理市石上付近の布留の地)に由来する。

茅萱(ちがや): かや。屋根をふく丈の高い草の総称 

ともし: ともし火

ますらお: 心身ともに人並みすぐれた強い男子


1首目 昔からある、ふるい茅萱で葺かれた、宮殿を建て替える世に逢えるのだろうか。

前回触れたように、紫宸殿の土塀が破れるほど傷んだ宮殿の修理ができない今の世にあって、御自分の治世の間に、修繕ができるのだろうかと、案じられての御歌と拝察いたします。
さびしい御歌ですが、悲惨さは感じられない、静かな後奈良天皇のまなざしが感じられます。


2首目 ともし火を立てて、帰ってきたますらおたち。樹の間からともし火が見えるのは、山で作業していた樵(きこり)でしょうか。まぶしいほどではないが、やさしい月の光が、ますらおを導くかのように、樹の間からそっと照らしている光景が、目に浮かびます。

昨日の、小さい田んぼを守って粗末な小屋で夜明かしするますらおに向けられた、後奈良天皇の御気遣いとお優しさと同じまなざしを感じます。

かすかな月の光は、困難な中の後奈良天皇を導く、神の光でもありましょう。そんなほのかな希望を感じる御歌です。


3首目 月日を重ねていつのまにか老いてしまった私のことを、知らぬかのように、歳は暮れて行くのだろう。

何歳の時の御歌か分かりませんが、62歳で亡くなられているので、晩年の御歌なのでしょうか。自分は年を取るが、年月はそういうことを知らぬように、流れていく世の無常を詠われているようですが、同時に小さな自己とかかわりなく世の中が進んで行くことは、希望でもあるように思われます。


飛躍しますが、後の時代の人々がその世の中でつつがなく過ごせるようにとの願いを、ご先祖の皆様は持ちつつ世を去って行かれた、そんなことをふと思いました。


天文九年(1540年)に、悪疫が流行したとのこと。後奈良天皇は45歳であられました。
こういった困窮の中にありながら、宮中で祈祷を行わせられ、御自筆で写経された金泥文字の般若心経を諸国一宮に奉納されて御祈願を続けられたとのことです。

このことを、天皇陛下は皇太子時代の2017年の御誕生日会見で、次のように話しておられます。


☆☆☆

“このような考えは,都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっゃったようです。昨年の8月,私は,愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に,戦国時代の16世紀中頃のことですが,洪水など天候不順による飢饉(きん)や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が,苦しむ人々のために,諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰(しんかん)般若心経(はんにやしんぎよう)のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般若心経は岩瀬文庫以外にも幾つか残っていますが,そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として,徳を行き渡らせることができず,心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。災害や疫病の流行に対して,般若心経を写経して奉納された例は,平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め,鎌倉時代の後嵯峨天皇,伏見天皇,南北朝時代の北朝の後光厳天皇,室町時代の後花園天皇,後土御門天皇,後柏原天皇,そして,今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。私自身,こうした先人のなさりようを心にとどめ,国民を思い,国民のために祈るとともに,両陛下がまさになさっておられるように,国民に常に寄り添い,人々と共に喜び,共に悲しむ,ということを続けていきたいと思います。私が,この後奈良天皇の宸翰しんかんを拝見したのは,8月8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが,図らずも,2日続けて,天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。”

(「宮内庁ホームページ」皇太子殿下お誕生日に際し(平成29年) 皇太子殿下の記者会見平成29年2月21日)https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/9

☆☆☆


「このような考え」はこのお言葉の前に話されていますが、直接国民にお会いする「象徴天皇」としてのお務めを指しておられると思います。


これに先立つ2012年、上皇陛下も、後奈良天皇の般若心経をご覧になられていたという記事もありました。

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/7110

御宸筆をご覧になられた上皇陛下は「大変だったんだよね」とつぶやき、定刻を越えるまでしばらくの間見つめておられたとのことです。

天皇陛下のお言葉によれば、後奈良天皇だけでなく、嵯峨天皇、後嵯峨天皇、伏見天皇、後光厳天皇、御花園天皇、と土御門天皇、後柏原天皇も、疫病の流行の際には、般若心経の写経を奉納されたのですね。

後奈良天皇の時代は、後奈良天皇以前の天皇の時代もそうですが、江戸時代の天皇はご生涯の大半を御所の中で過ごされました。

直接庶民の生活を知ることはできませんが、庶民の幸せを願う思いを文字に込めて、財政困難な中で金の文字を使用した写経をされました。金泥文字は、普通の墨よりも重たくて筆が進みにくい、その写経を全国24か所の一の宮に奉納され、心身ともに力を尽くされたことを思うと、そのお祈りの深さが思われます。


天皇陛下が皇居から出られて、全国御巡幸されるようになったのは、明治以来のことです。
明治以来、天皇陛下の御姿を庶民が拝する機会が出来て、平成の御代からは、天皇・皇后両陛下が式典等、お出ましになる機会があり、皇居清掃奉仕では、直接お目にかかることもできます。幸せな時代に生まれることができたことをうれしく思います。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございました。

皆様にとって、幸福な一日でありますようお祈り申し上げます。




タグ:今上陛下
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天皇の御歌(20)―第105代 後奈良天皇 [後奈良天皇]

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今日は、第105代 後奈良天皇の御歌(おうた)を謹写します。

御奈良天皇の御在世は1496年~1557年、62歳で崩御されています。
御在位は1526年~1557年(御年31歳~62歳)です。

御奈良天皇の御代は、皇室の財政がもっとも衰微した年と言われ、後奈良天皇は歴史上もっとも貧しかった天皇だと言われます。

室町幕府は応仁の乱(1467年~1477年)以前から、機能不全に陥り、中央政権の実力がなく、ほとんど無政府状態に近かったそうです。

そんな中では朝廷を支える財源もなく、御即位の大礼は、即位後10年を経過してやっと行われました。大嘗祭は行われませんでした。

即位の大礼などが行われる建物の紫宸殿(ししんでん)の築地(ついじ、土塀)は破れ、三条大橋の上から、現在の皇居の賢所(かしこどころ)に当たる内侍所(ないしどころ)の燈火が見えたほどだったそうです。今では考えられないことです。

土塀が壊れてその隙間から、天皇の三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を祭る重要な建物の燈火(ともしび)が見えたとのことで、三条大橋から京都御所までどのくらいあるかと、地図で検索しましたら、何と2.3Kmでした。2Km余りの遠くから、燈火が見えたことに驚きました。

伊勢神宮の20年に1回の式年遷宮も、これに先立つ、第102代御花園天皇の時から、100年以上行われなかったそうです。そんな厳しい時代があったのですね。


☆☆☆

“神祗(大永元年―1521)

宮柱(みやはしら) 朽ちぬちかひを たておきて 末の世までの あとをたれけむ


田家(大永八年―1528)

傾ける 小田のかり庵(かりほ)は ますらおが 露霜ながら もりあかしけむ

(以上、御奈良院御製集)


独(ひとり)述懐(享禄二年―1529)

愚なる 身も今さらに そのかみの かしこき世世の 跡をしぞ思ふ

(御奈良院御製集拾遺)“(p210)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

「神祗」は 天の神、地の神のこと。

「小田」は、小さな田んぼ。

「かり庵(かりほ)」は、農作業のための粗末な仮小屋のこと。


1首目 宮殿の柱がしっかり立つように、天皇としての朽ちることのない誓いを立てて、後世に長く、跡を残し続けようということでしょうか。

2首目 傾いた小さい田んぼの作業用の仮小屋、ただでさえ粗末で、直しもできていなくて、露や霜が屋内にもみられるが、たくましいますらお(農夫)は、田んぼを守ってこの小屋の中で、夜を明かすのだろうという感じでしょうか。

3首目 愚かな身であるけれども、いまあらためて、昔からこれまでの天皇方のありがたい御事績が、まさに思われる、ということでしょうか。


手引書が特にないので、私なりに、解釈させていただいたところがあります。違っているところが、ありましたらお知らせください。

それぞれに、つつましい御生活の中で、天皇として後世に伝えるべきものを伝え続けるとの固い御決意が感じられます。

天皇陛下の御歌を学びたいと、あまり深く考えずに、文章を書き始めました。

天皇、皇后両陛下の御歌から、生き方を学ぶ、また心を癒されたい、そんな素朴な思いから始めたのですが、各時代の中で、むしろ、どんな困難にあっても、常に神々への祈りと共に、勇気をもって敢然と運命に立ち向かわれる天皇の御姿に出会うことになりました。

神々(ご先祖様)に祈る事、祈りながら不屈の精神で、運命に立ち向かうこと、そんな自分に少しでも近づけたら、嬉しいと思います。


今日も、読んでいただき、ありがとうございました。

皆様が、今日も一日、お元気でお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げます。



参考文献:

○高森明勅著『日本の十大天皇』幻冬舎新書


タグ:皇室
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