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男系男子維持派との対話(四)―安定的皇位継承を願って [皇室典範改正]

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*タイサンボクの花は大きくておどろきました。つぼみは小さくてかわいらしいです。


昨日の、男系男子維持派の方からの2番目の質問の回答の続きです。

質問の趣旨は、秋篠宮様が立皇嗣の礼を行われ、秋篠宮様、悠仁親王という皇位継承の流れが出来ているのに、愛子様が皇太子に立たれることに固執するのは何故なのかいうことでした。また質問者様は「男系女子」天皇までは認めるが、女系天皇(女性天皇のお子様の皇位継承)は容認できないという意見です。

立皇嗣の礼については、秋篠宮様のお気持ちにかかわりなく(反して)行われたということを昨日のブログで説明しました。

今日は、なぜ愛子様への皇位継承の流れがベストだと考えるのかについて、そして女系天皇を認めないと、どのような問題が起きるかについての見解を述べます。

女系天皇を認めないということは、女性天皇のお子様、女性宮家のお子様を皇族と認めない、女性天皇も女性宮家も、配偶者(夫)が皇族でない限り、一代限りで終わらせることを意味します。

秋篠宮殿下、悠仁親王の流れを保持することは、女性天皇、女性宮家を一代限りとする結果になります。 それは問題の先延ばしとなる上に、将来の悠仁様の奥様と女性宮家のお子様方に、不自然なご生活と過度の精神的負担を強いることになります。


本題に入る前にひと言お断りしておきます。

天皇がご家族の幸福を願われるのは「公」です。「公」を忘れて私情に拘泥しているかのように評する一部の人々がありますが、それは間違っています。

天皇が皇太子でいらしたときに雅子様の「人格否定」のご発言がありました。その時、天皇が私的なことにとらわれ過ぎだとかマイホーム主義であるとか批判した人たちがいました。

しかし天皇が将来の皇后の身を案じるのは「私」であると同時に「公」でもあります。皇族は公務に携わる公人ですからその心身が健康でいられるように心遣いをなさることは「公」なのです。

ここで、一国民である私が将来の悠仁様の奥様、将来の女性宮家のお子様方のご不自由を取り除き、人生を実りある幸福なものとしていただきたいと願うのは、それが「公」のことであるからです。私的な、センチメンタルな同情による感情論ではないことを、お断りしておきます。


秋篠宮殿下、悠仁様が即位される流れを保持すると次の問題が生じます。

1、 今上天皇から弟宮への「傍系継承」になります。

2、皇室典範を改正しないか、又は女性宮家を一代限りという改正を行うことになります。


1、皇室典範改正がなければ、内親王はご結婚と同時に臣籍降下され、悠仁様世代の皇族は、いずれお一人になります。

2、一代限りの女性宮家を創設するとどうなるでしょう。

悠仁様が無事にご結婚されたとしても、悠仁様の元に誕生されるお子様次第で、皇室典範の再改正の必要性が生じるか生じないかということになります。

悠仁様の男子誕生を待って、お子様が女子ばかりだった時と、お子様に恵まれなかった時に、は女性天皇、女系天皇を再検討すること、典範の再改正は必然となります。

典範が再改正になるまでの30年余り、何が起こるでしょうか。


①悠仁様の奥様になられる方に、雅子様の時のように周囲の側近や国民から男子を産んでほしいという過剰な期待とプレッシャーが懸けられます。

このプレッシャーは昭和天皇のお后、香淳皇后もご経験されたことでした。香淳皇后は最初に4人の女子をお生みになりました。側室をという声も上がったのですが、昭和天皇はそうされませんでした。5人めに男子の上皇陛下が御誕生になり国民は安堵しました。

②女性宮家のお子様方の人生は、悠仁様の奥様にご妊娠の可能性がない年齢になるまでの30年余り、どうなるでしょう。

女性宮家が一代限りであれば、お子様方は皇族ではないことになります。皇族でない方が皇居に住むということになるということになり、制度としては男女ともにご結婚後に皇室を離れるということになることが、予想されます。

悠仁様に4人以上、男子が誕生すれば、一時的には男系男子は維持されるでしょう。しかし、大正天皇にも4方の男子がいらっしゃいましたが、4代後の今上天皇で男系男子は途絶えました。側室制度の無い中で、男系男子継承の安定的な維持が不可能なのは明らかです。

悠仁様のお子様が女子ばかりだった時や、お子様に恵まれなかったときは皇統が途絶えることになります。その時は、皇室典範を再度改正して、女系天皇を容認することになるでしょう。

女性宮家のお子様方は、次の典範改正の時には、大多数がご結婚により皇室を離れていらっしゃるかも知れません。

現代にあてはめますと、眞子様、佳子様は口に出されませんが、2005年以来、10代の多感な時期を、ずっと不安定なお立場で過ごされました。女性宮家のお子様方を、眞子様、佳子様、愛子様と同じ将来不安の中に突き落とすことを繰り返して良いのでしょうか。

さらに、男子を産めと責め立てられた雅子様のお悩みの深さは友納直子著『皇后雅子様物語』に書かれています。聡明で頭脳優秀、心身ともに健康だが繊細なお心を持った雅子様は、男子を産めなければ離婚せよとまでいう論者のバッシングを受けられるなどの悲しみとご心労が重なり、適応障害で十年以上苦しんでおられます。

悠仁様の奥様に、香淳皇后、雅子様と同じ苦しみ、悩みを負わせることが明らかであるのに、国民の無関心のために、それを繰り返して良いのでしょうか。

同じことを今後も繰り返すのは愚かなことです。

これらの不条理をいつまでも放置するようであれば、日本国民に皇室を戴く資格はないと思います。世界からも、日本はフェアーでない、公正でない、非人道的な国であると嘲笑されるのは必至です。

全ての人間は平等ではないのだから、完全平等は実現できないという論は理解できます。人間は生まれながらにして様々な差異があるのが現実ですから、完全な平等は無理です。

しかし、男女差別、人種差別をできる限り縮小して、学業、職業などの「公」において、公正、公平であること、フェアーであることは、人類が目指すべき目標です。

天皇、皇室には、日本国民が出来ない重責をお務めいただいています。たいへんなお務めを背負う方々に、人間としても、幸福になっていただきたいと、心から思います。

皇室典範は先延ばしできません。改正にあたって、近い将来、再度改正が必要になるような中途半端な形にせず、長期的展望に立って改正するのが道理にかなっていると考えるゆえに、女性天皇、女系天皇を認める改正を行い、それに則って、直系長子の愛子様に皇太子になっていただきたいと考える次第です。


なお、愛子さまが皇太子になられることを、「皇位の簒奪」というおどろおどろしい言葉で誹謗する知識人があるようです。「簒奪」というおどろおどろしい言葉を天皇直系の皇女に対して使用する非礼さは、私にとって少なからぬ衝撃でした。

戦後間もないころ、「朕はたらふく食っている…」とのプラカードをかついで天皇反対を叫んだ左翼を連想しました。八木氏の離婚もしくは廃太子論など、なぜこのような非礼なことを平気で口にできるのかと思った時と同様の衝撃を受けました。

天皇を尊崇すると自認する人々が、このような言葉を口にしていることに、驚きと悲しみを覚えました。

表現自体が衝撃である上に、事実に基づかない「簒奪」の言葉を口にするのは、デマの拡散に等しいと思いました。

仮に秋篠宮様がご自身と悠仁様の即位を熱願しておられるなら、そのお気持ちをかなえたいとの思いが余って「簒奪」と口走ってしまうのも、人情としては理解できます。

しかし、秋篠宮ご自身が愛子さまのご即位に同意しておられる可能性が高いとしたら、愛子さまが皇太子になられるのは秋篠宮のお気持ちに沿うことであり、「簒奪」という言葉は全く当てはまりません。事実にそぐわない言葉の使用は、厳に慎むべきだと思います。

重い話題になってしまいましたが、怒るべき時は怒っても良い、そこに人間らしさがあるという言葉に励まされて、思い切って書いてみました。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって今日も良い一日でありますようお祈り申し上げます。

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男系男子維持派との対話(三)―安定的皇位継承を願って [皇室典範改正]

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男系男子維持派の方からの2番目の質問は、秋篠宮様が立皇嗣の礼を行われ、秋篠宮様、悠仁親王という皇位継承の流れが出来ているのに、愛子様が皇太子に立たれることに固執するのは何故なのかいうことでした。






質問2、

(1)貴方の考えは今上陛下から秋篠宮皇嗣殿下と悠仁親王殿下という流れを断ち切って、今上陛下から一足飛びに、愛子様への皇位継承という流れにしたいとの立場に見えます。愛子様への皇位継承に固執するのはなぜですか。

(2)「立皇嗣宣明の儀の天皇陛下のおことば」(令和2年11月8日)で、天皇陛下から
「本日ここに,立皇嗣宣明の儀を行い,皇室典範の定めるところにより文仁親王が皇嗣であることを,広く内外に宣明します。」との「おことば」をいただきました。このお言葉の重みについて、貴方は、どう考えますか。

なお、私(質問者)は「男系女子」天皇までは認めますが、女系天皇(女性天皇のお子様の皇位継承)は容認できません。


答え2、

(1)愛子内親王の皇位継承を支持するのは女系容認を前提に、第119代・光格天皇以来続いて来た「、直系継承」(親から子への継承)を、断ち切りたくないからです

質問者様は「男系女子」天皇までは容認すると言われますが、女系天皇は容認しないというお立場ですね。

「女系天皇」を認めるか認めないかという一点が、質問者様と私との決定的な違いだと思います。この話は今のところ平行線です。前提が違うので私が愛子さまの皇位継承に固執していて、これまでの流れを断ち切るように見えるのだろうと思います。


しかし私は女系天皇を容認いたします。さらに『皇室典範』を改正するなら、先延ばしせずに、できるだけ早い方が良いと考えます。

女系天皇を容認しない前提に立てば、質問者様の言われる通り、男系男子優先で、秋篠宮様、悠仁親王が皇位継承される流れが筋であるということになるでしょう。

しかし、双系継承に切り替える前提に立てば「直系継承」、「傍系継承」のどちらを優先するかという話になります。

秋篠宮様は天皇の弟君ですから、その継承は「傍系継承」です。

双系継承が認められれば、第119代・光格天皇以来、約200年続いて来て、明治の旧皇室典範でも重視されていた「直系継承」(実の親子の継承)により、天皇の長子である直系の愛子内親王が皇位に就かれるのが、筋であり秩序であることになります。

現皇室典範でも、皇位継承順位は、

「一 皇太子 二 皇太孫 三 その他の皇長子の子孫」、
「四 皇次子」

であり、皇長子、皇太孫、その他の皇長子の子孫となっており、皇長子系統が優先になっています。

愛子さまという個人の皇位継承に固執しているのではありません。

女系容認を前提に、皇室の伝統にのっとった「直系継承優先」の維持を支持しているのです。

(*直系継承について当ブログで取り上げています。よろしければご一読ください。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2021-03-02


(2)「立皇嗣宣明の儀の天皇陛下のおことば」は、国事行為であり、天皇のお気持ちが入る余地はありません。お気持ちに沿わなくても、天皇、秋篠宮は決められた国事行為に最善を尽くすことしかできません。

天皇は立憲君主として国会が決定した国事行為を、粛々と執り行われたのです。そこに天皇ご自身のお気持ちが入る余地はありません。お気持ちに沿わなくても天皇、秋篠宮は決められた国事行為に最善を尽くすことしかできません。

天皇陛下、上皇陛下、秋篠宮殿下の一致したお気持ちとは別に立憲君主のお立場を貫かれたのです。

天皇、上皇、秋篠宮の皇位継承のお気持ちは一致しているはずです。と申しますのは、平成24年春ごろから天皇、上皇、秋篠宮の御三方で、月に一回、会合を開かれることが決まり、会合は何年か続き、宮内庁長官も出席しているからです。(立皇嗣の礼が御三方のお気持ちに沿っていたと思えません。)

記者会見などのお言葉を注意深く読めば、御三方のお気持ちを拝察することが出来ます。


☆☆☆

問5 殿下にお伺いします。殿下は昨年春頃から月に1回程度,皇太子さまとともに御所を訪れ,天皇陛下と定期的に懇談されています。象徴天皇としてのお考えや皇室の活動のあり方,今後の課題などが話し合われる貴重な機会となっておられると思います。ご懇談のご様子とあわせ,殿下の心に残ったやり取りをお聞かせください。また,こうしたご懇談の機会を持つことの意義について,殿下はどのようにお考えでしょうか。
殿下
懇談の様子とか,やり取りというのは,お話しするのは控えたいと思います。

ですが,天皇陛下と皇太子殿下,それで私がいて,そこに宮内庁長官がいるという一つの意味は,例えば,天皇陛下のところ,皇太子殿下のところ,それから私も含めてそれ以外の皇族,これをつなぐことができるのは宮内庁長官だけであるわけで,その意味でいろいろな事柄について見解を共有するということは,私はそれ自体非常に意義があることだと思っています。少なくとも,そういうことがなかった時に比べれば,もちろんそれぞれ意見が違うこともこれは当然あるわけですけれども,そういうことも含めて宮内庁長官が知っていてくれるということは,私は非常にいいことだと思っております。

(「文仁親王殿下お誕生日に際し(平成25年)」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/03/kaiken/kaiken-h25.html

☆☆☆


この会合でお三方は皇位継承についてお気持ちを一致させられ、それは「愛子さまの皇位継承」、「女系天皇容認」であったと拝察いたします。女系天皇容認については前の投稿で述べた通り、様々な兆し、宮内庁から政権への働きかけを注視すれば、男系男子限定に固執されていないことが、推察できます。明治天皇が女系継承を容認されていたことも、天皇がそのお気持ちを継いでおられると考えるのが自然です。

秋篠宮殿下は非公式な場面で高齢になったご自身が天皇になることのご懸念を、お誕生日の記者会見では秋篠宮家のご公務に愛着があることを述べられて、即位を望まないお気持ちをほのめかされています。ご自身の即位を望まないなら悠仁様の即位も望まれていないことになります。悠仁様には宮家の公務を継いでいただくことを期待されていると拝察申し上げます。

その最大の理由は傍系継承よりも、直系継承を望んでおられるからだと思います。


☆☆☆

“関連質問2 殿下は秋篠宮家当主という立場を維持されました。当初の議論,皇室典範改正前の議論では,殿下が内廷皇族として皇太子もしくは皇太弟という地位といいますか称号を得て内廷皇族になられるという案も検討されていたわけですが,殿下の意向もしくは希望という面も踏まえて最終的には秋篠宮家当主という立場を維持されたという御指摘もありますが,殿下御自身はこの宮家当主という立場を維持されたということについて,どのようにお考えでいらっしゃいますでしょうか。
殿下
 私自身はやはり約30年間,秋篠宮という一つの独立した宮家が続いており,それに対しては非常に愛着を持っています。したがって,秋篠宮家当主ということについては,私自身もそれは維持していきたいと思っていました。一方,おっしゃった内廷皇族になるという話はどこかで出ていたのかもしれませんけれども,皇太子とか皇太弟とか名称はともかくとして,恐らく内廷皇族になるというのは少し違うのではないかというのは意見として結構あったと私は記憶しています。よろしいですか。”

(「秋篠宮皇嗣殿下お誕生日に際し(令和2年)」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/39

☆☆☆


繰り返しになりますが、立皇嗣宣明の儀の天皇のお言葉は、立憲君主として、国事行為を粛々と執り行われたのです。そこに天皇ご自身のお気持ちが入る余地はありません。

立皇嗣宣明の儀は、即位の礼に伴う一連の国事行為の一つです。国事行為は、日本国憲法上、天皇が行うものとして規定されている行為で、いずれも「内閣の助言と承認」が必要で内閣がその責任を負うものです。天皇は、政府の決定に従って最善を尽くすことしかできません。

お三方のお気持ちに反することを知りながら政府が日本の歴史上前例のない「立皇嗣の礼」を政府が強行したことに、私は忸怩たる思いでしたが、中止の願いは政府に届きませんでした。

(*関連する記事を書いたブログがあります。よろしければご一読ください。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-08-12


しかし、政府は有識者会議で現在の皇位継承順位を前提にしないで議論するという見解を表明しています。

政府は、(有識者会議では)予断を持たずに検討する(現在の皇位継承順位を前提にしないで議論する)と答弁しています。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

すなわち立皇嗣宣明の儀で宣明された継承順位にとらわれないで、有識者会議で検討するというのが、政府の見解です。

[政府への質問と見解の要点]

去る4月8日、退位特例法の附帯決議に応える為の有識者会議に関し、国民民主党の山尾志桜里衆院議員から、質問主意書が政府に提出されました。これに対して4月20日、皇位の安定的継承を検討する有識者会議における議論は、「現在の皇位継承順位を前提にしない」との政府見解が答弁書として示されました。
現在の皇位継承順位は皇嗣の秋篠宮様が第一位ですが、皇室典範が改正されれば、その順位が変更になり、愛子様が皇太子になって継承順位第一位になることも、有識者会議で検討されるということが示されました。

[議員質問]
①皇位継承の順位について、「現在の順位を変えない」ことが前提になっているのか?

これに対し、政府から4月20日に答弁書が示された。回答はおよそ以下の通り。
[政府答弁]

①「(附帯決議に示された課題について)予断を持つことなく議論していただきたいと考えている」。


予断を持つことなく、というのは、前もって判断することなく、という意味です。すなわち、現在の「皇位継承順位を変えることも議論できる」との政府見解を示しています。


現在の皇位継承順位は皇嗣の秋篠宮様が第一位ですが、皇室典範が改正されれば、その順位が変更になり愛子様が皇太子になって継承順位第一位になることも、予断を持つことなく、有識者会議で検討されることを意味します。


政府が「予断を持たずに検討する」と明言したのは、天皇、上皇、秋篠宮が一致したお考えとして、女系天皇容認であられること、秋篠宮殿下ご自身が、ご自身と悠仁親王のご即位を望んでおられないことを、政府が知っているからだと思います。


日本神話に遡り、律令制の時代、武家の時代、明治の欧化主義を越えてきた過去を顧みつつ、将来を見通した長期展望に立つ、皇室典範改正が望まれます。

この回答文は明日に続きます。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって良い一日でありますようお祈り申し上げます。

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男系男子維持派との対話(二)―安定的皇位継承を願って [皇室典範改正]

DSC_160020210529blog.JPG昨日の続きです。

(1)「一番大事なことは、天皇陛下のお気持ち(大御心)に思いを致すということ」

そのために、

① 各政権の提案、元侍従長の講演から拝察する

の続きとして、



・渡邊允(わたなべ まこと)元侍従長の講演をご紹介します。


Wikipediaより、渡邊允(まこと)氏の略歴・人物を転載します。

☆☆

略歴・人物
学習院初等科(1949年(昭和24年)卒業)、都立日比谷高校、東京大学法学部を経て、1959年(昭和34年)外務省入省。同期には松浦晃一郎ら。

外務省大臣官房審議官、中近東アフリカ局長(1989年(平成元年)3月7日- )、駐ヨルダン大使、儀典長(1993年(平成5年)11月2日 - 1995年(平成7年)8月4日)を経て、式部官長。

1996年(平成8年)12月12日から2007年(平成19年)6月15日まで侍従長。

宮内庁侍従職御用掛を経て、2012年(平成24年)4月1日から2020年(令和2年)6月18日まで宮内庁参与。

2007年(平成19年)、『プリンセス・マサコ』の出版に対して、宮内庁として容認できない記述に関する公式抗議状を送付。より近い立場にいる野村一成(東宮大夫)の対処との違いが際立って早かったと指摘されている。

2008年(平成20年)、瑞宝大綬章受章。退任後は皇室関連インタビュー・講演を多く行っている。

☆☆


渡邊允(まこと)氏は1996年12月12日~2007年6月15日まで10年半、侍従長を務められました。侍従長退任後も、宮内庁参与に就任されるなど、上皇陛下のご信任が厚かったと拝察申し上げます。

田中卓氏の著書から、渡邊允(まこと)氏の講演について、引用します。


☆☆☆

公開された渡邊前侍従長の講演
今年(平成二十五年)十月十九日、公益社団法人『國民會館』主催で渡邊允(まこと)氏の講演会が東京の国際文化会館で開かれた。(p275)

渡邊氏は、講演の最初の部分で、「皇位継承問題についても、これは法律の問題であり、法律の問題と言うことは政治の問題であるので、陛下はご意見を仰らないのである」と断っておられるが、最後の段階で、意を決した様子で、次のごとく話されたという。

皇位継承との問題の関係で、要するに跡継ぎの方がなくなるのであれば、いわゆる旧皇族、終戦後臣籍降下された旧皇族の方に復帰していただいて、その中から将来の天皇もあれしたらいいんじゃないかと議論をされる方があるんですけども、私はやっぱり、そういうもんじゃないと思うんです。と言うのは「血の一滴がつながっている」ことが大事なのか、それとも「陛下がずっと毎日毎日やって来られたことをお近くでずっと見て来られている」ことが大事なのかの問題に結局なるんじゃないかと思うんです。何もしない天皇で、血のつながりだけが、意味があるということであれば、それは要するにすごく長い遠い遠い親類の方をもう一遍持ってきてすると言うのは意味があるかもしれないけど、今、現在それから将来にわたっての天皇と皇族のお役割というのは、そういうただ名前だけで、私の先祖はこうだったと言っていることではだめなのです。客観的にそれじゃどうなんだと言われても困るんですけれど、私はまさにそういう背中を見て育っていないのですが、そういうことでなければいけないと思います。
 それからさらに言えば、女性の天皇は日本に八人おられたのであり、皆さん立派にやって来られたわけだし、女性の天皇ができないことはありえないのであり、女系かどうか言う話は、これは勿論歴史的な事実として一二五代男系で続いたということがあるけれど、それはその時の社会情勢がそうしたのであり、京都のお公家さんの世界の中の話であるし、それから何と言っても、いわば一夫多妻というと変だが、正妻以外の女性を子供を生ませるために近づけたことを許していた社会の話ですから、全然状況が違うわけですね。だから本当に皇室の将来を現実的に考えるならば、私はそういうことを考えるべきじゃなかと思っております。ただこれは一寸あれなので、私の個人の意見を、言わば独り言として申し上げたということで、聞いていただきたいと思います。

以上が、渡邊前侍従長の生の声そのままの書き移しである。高齢(昭和十一年生まれ)のお方の講演で、しかも慎重を期して区切り区切り話されているので、言葉の整っていない点もあるが、それだけに臨場感があり、論旨そのものは、前述の某氏の要約された通りと申してよい。
(pp278~279)

(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』幻冬舎新書)

☆☆☆


引用が長くなりました。以下の要約文もありますが、生の声の書き移しの臨場感があると思ったので、その部分を先にご紹介しました。


☆☆☆

間もなく発刊された『國民会館』の「講演会報告書」にも、要約ではあるが「皇位継承について」の項目に、次の通り書かれていた(なお、この報告書は渡邊氏にも送呈ずみ)。

これからは私見である。将来天皇に跡継ぎの方がおられなくなった場合のことを考え、戦後に臣籍降下された旧皇族に皇族へ復帰していただき、その中から天皇になっていただくべきと言う主張があるが、私はそれに与するものではない。
即ち「血の一滴が繋がっている」ことが大切なのか、「皇族として陛下が毎日なされることをお近くで見てこられている」ことが大切なのかの問題である。天皇の背中を直接見ていないのに、ただ血の繋がりだけで天皇になっても、現在および将来の皇室の役割は果たせないだろう。
従って過去に八名おられ、立派にその役割を果たされた「女性天皇」を可能とするべきであり「女系天皇」についても、確かに百二十五代男系が続いた歴史的事実があるが、それはその時の社会情勢がそうしたのであり、また一夫多妻が許されていたことが大きいことを考えるならば、同じく可能とするべきである。(pp276~277)

(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』幻冬舎新書)

☆☆☆


『講演の最初の部分で、「皇位継承問題についても、これは法律の問題であり、法律の問題と言うことは政治の問題であるので、陛下はご意見を仰らないのである」と断っておられるが、最後の段階で、意を決した様子で、次のごとく話された』

別の機会ですが、2010年頃、私は渡邊允(まこと)元侍従長のご講演を拝聴したことがあります。穏やかで品のある言葉遣い、余分なことを話さない慎重で誠実なお人柄が感じられました。決して軽々しい発言をする方ではないとお見受けしました。

法律の問題、政治の問題で、陛下はご意見を仰らないと断りながら、最後の段階で意を決した様子で話された、その言葉は信頼できると考えます。外部の批判等のリスクを承知の上で語らずにいられなかった渡邊元侍従長の胸中を思うと、胸に迫るものがあります。


②③は「天皇のお気持ちに思いを致す」ためにたどってきた私個人の学びの記録です。


② 天皇、皇族のお言葉から拝察する

私の学び方は以下の通りです。
・宮内庁ホームページ(お誕生日記者会見、歌会始御製、外国訪問・各式典のお言葉)
・TV「皇室アルバム」「皇室ご一家」「皇室日記」を必ず視聴する。
・扶桑社発行『わたしたちの皇室』」(後に『皇室』に改題)を創刊号から2010年頃まで毎号購読し、全文に眼を通しました。

③歴代天皇のお言葉(御製)、歴史から拝察する
・明治天皇御製、昭憲皇太后御歌の文庫本を持ち歩いて座右の書とする。
・『歴代天皇の御歌』『万葉の世界と精神上、下』をテキストに御製を学ぶ。これまで歴代天皇22代の御方、各1~10首の御製(計100首以上)に解釈を付し文章化。
・生前退位、皇位継承に関する書籍を読む(田中卓氏、高森明勅氏の著書など、書籍名は当ブログ末尾をご参照ください)


同じ御製やお言葉を拝聴しても百人百様の受け止め方があると思います。天皇のお言葉を自分の意見を強調する材料に利用することは厳に慎むべきです。

しかし、直接に利用するのでなく、天皇のお気持ちに思いを致したい、天皇の大御心に沿い奉りたい、天皇がどのようなお気持ちでいらっしゃるのかを知りたい、それは民としてきわめて自然な感情であり、天皇を仰慕する(仰ぎ見てお慕い申し上げる)者であれば、誰もが抱く願いであると思います。


私の場合は歴代天皇の御製を学ぶことで、初代・神武天皇からの一貫した大御心を上皇陛下、今上陛下が受け継いでいらっしゃるという確信を深めることができました。

また女性天皇7方の御製と、明正天皇の即位のご事情を学ぶことによって、女性天皇が男性天皇に遜色のないご事績を残されたことを知ることになりました。第109代・明正天皇は御製を残されませんでしたが、歴史上意味のあるお役目を果たされました。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-10-16
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-10-17

なお、後水尾天皇の御譲位の理由は以下の通りです。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-10-20


上記のことすべてを考察の上で、天皇は男系男子固執ではなく、女系天皇を容認されていると拝察申し上げております。


今日も読んでいただき有難うございました。
今日が皆様にとって生きがいのある一日でありますようお祈り申し上げます。


皇室典範改正のために読んだ、読んでいる書籍:

私は多読ではなく信頼できる少数の著者の本を何回も熟読することにしています。皇室典範改正に関連して読んだ、読んでいる主な書籍名は以下の通りです。

○小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社
○田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』幻冬舎新書
○高森明勅著『日本の10大天皇』(幻冬舎新書))
○高森明勅著『歴史で読み解く女性天皇』(ベスト新書)
○高森明勅著『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書、2016年11月)
○大前重雄 中島英迪 共著『皇室典範改正への緊急提言』新風書房
○山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』日本教文社
○倉野憲司校註『古事記』岩波文庫

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男系男子維持派との対話(一)―安定的皇位継承を願って [皇室典範改正]

DSC_163720210528blog.JPG私が女系容認について意見を述べたことに対して、男系男子維持派の方からいくつかの質問をいただきました。ご多用の中、安定的皇位継承について真剣に考えていただいていること、率直なご質問をいただいことに、感謝しております。

この件について、真剣な議論ができることはとても良いこと、有り難いことだと思います。

これらご質問への私なりの答えを順次、掲載させていただきます。


質問1、
今上天皇、上皇が女性天皇、双系天皇を容認されていると確認できますか?
天皇は、女系容認と言われたことがありますか?

私が今上天皇も上皇も女系容認であるとネット上で述べたことに対して、男系男子維持派の方から今上天皇、上皇が女性天皇、双系天皇を容認されていると確認できるのか、女系容認と言われたことがあるのかというご質問をいただきました。

私はこの問いに次のようにお答えしました。


答え1、
(1)今上天皇、上皇ご自身が「女系容認」、と「発言」されたことはありません。
(2)しかし「一番大事なことは、天皇陛下のお気持ち(大御心)に思いを致すということ」だと考えます。


(1)今上天皇、上皇ご自身が「女系容認」、と「発言」されたことはありません。

天皇、上皇が「女系容認」と発言されない理由は、皇室典範が日本国憲法の下にあるために、憲法第4条の制約により、皇室典範改正に関する天皇のご発言は「政治的発言」とされてしまうからからです。

日本国憲法の条文は以下の通りです。

「第一章天皇

第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」

さらに憲法学者・宮澤俊義以来の戦後の憲法学では、「象徴」規定をGHQ以上に強調して、天皇の政治的権能を排除しようとしました。戦後憲法学者の、GHQよりも厳しい「象徴」解釈は、「保守」系と見られている知識人の頭脳も支配しているようです。
これらの「保守」系知識人が、天皇が「女系容認」という言葉を口にされたとたんに、天皇は国政に関する権能(政治的権能)を逸脱したと大騒ぎするのは眼に見えています。

そういう訳で、立憲政治を厳守される天皇が、女系容認と言葉で「言われた」、発言されたことはありません。


(2)しかし「一番大事なことは、天皇陛下のお気持ち(大御心)に思いを致すということ」だと考えます。

天皇が憲法の制約下にあって言いたいことが言えないとき、国民としてどのように考え行動するのがふさわしいのかが、問われます。

天皇が、憲法の制約でご発言できないとき、国民はどのように考え、行動するのか

私は、

「一番大事なことは、天皇陛下のお気持ち(大御心)に思いを致すということ」

だと、考えます。

こう申しますと、前述の「保守系」知識人らは

天皇陛下のお気持ちに思いを致すことなどできるはずがない。

というかも知れませんが、私はその意見に与(くみ)しません。


天皇が「言えない」ことも、天皇周辺の様々な兆しを注意深く見つめ、天皇、皇族の言葉を拝読して学び、祈りと真心を尽くせば、誰でも思いを致すことができます。


天皇のお気持ちに思いを致すには、3つの方法があります。

① 時々の政権の提案、元侍従長の講演から拝察する
②天皇、皇后始め皇族の記者会見などのお言葉から、拝察する
③歴代天皇の、お言葉(御製)、歴史から拝察する。


私はこの3つを学び、思索することにより、

今上陛下も、上皇陛下も、女系容認であることは、まず間違いない

という結論に至りました。


①各政権の提案、元侍従長の講演から拝察する
・小泉政権に於ける有識者会議報告書(平成17年(2005年)11月24日)
・野田政権に於ける女性宮家創設の提案(平成24年(2012))
・菅政権に於ける有識者会議ヒアリング聴取項目(令和3年3月25日、有識者会議初会合)
・渡辺允(まこと)元侍従長の講演

② 天皇、皇族のお言葉から拝察する

私の学び方は以下の通りです。
・宮内庁ホームページ(お誕生日記者会見、歌会始御製、外国訪問・各式典のお言葉)
・TV「皇室アルバム」「皇室ご一家」「皇室日記」を必ず視聴する。
・扶桑社発行『わたしたちの皇室』」(後に『皇室』に改題)を創刊号から2010年頃まで毎号購読し、全文に眼を通しました。

③歴代天皇のお言葉(御製)、歴史から拝察する
・明治天皇御製、昭憲皇太后御歌の文庫本を持ち歩いて座右の書とする。
・『歴代天皇の御歌』『万葉の世界と精神上、下』をテキストに御製を学ぶ。これまで歴代天皇22代の御方、各1~10首の御製(計100首以上)に解釈を付し文章化。
・生前退位、皇位継承に関する書籍を読む(田中卓氏、高森明勅氏の書籍など)

それぞれ説明します。

① 各政権の提案、元侍従長の講演から拝察する

・自民党の小泉政権、立憲民主党の野田政権が、独断の勝手な思い付きで皇位継承(女性天皇、女性宮家創設)を検討するでしょうか。野田佳彦氏は立憲民主党でしたが上皇の譲位実現に尽力した尊皇心の持ち主です。宮内庁を通して天皇の内々のご意思が各内閣に伝えられて、検討、提案したとしか考えられません。

・菅政権の有識者会議ヒアリング聴取項目では、男系男子関連は全10問の最後から2番目(9番目)で、優先順位が低く位置付けられ、さらに「旧宮家」の言葉が消えています。つまり聴取項目の文言は、旧宮家案は検討せずとの従来の政権発表を裏付ける文言になっています。


重要事項で事実と異なることが発表された場合、宮内庁が天皇に代わって何らかの表明をします。(皇室の報道が事実でないときなど)

小泉政権、野田政権の女性天皇、女性宮家創設の検討に天皇が反対であれば宮内庁を通して何らかの意思表示を各政権に伝えるはずです。それが一切無いことが各政権の検討、提案が天皇のお気持ちに反したものではないことの証(あかし)となります。


文章が長くなりますので、続きは明日にいたします。

今日も読んでいただき有難うございました。
安定的な皇位継承に関心を持っていただいている皆様に、心より感謝申し上げます。

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天皇の御歌(67)―第121代・孝明天皇(5) [孝明天皇]

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今日も第121代・孝明天皇の御歌を学びます。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)

「近世日本国民史」百巻の著者である徳富蘇峰は、孝明天皇が、「維新の大業を立派に完成した其力」と以下の様に述べています。


☆☆☆

“孝明天皇が、当時の破局的な内外諸情勢に際して、常に国民の上に御心を馳せつつ「澄まし得ぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」の御歌に拝せられるごとき捨身の大御心をもって、時局に相対され、しかも賢明な御措置を次々に打たれたことについては、「近世日本国民史」百巻の著者である徳富蘇峰が、「孝明天皇和歌御會記及御年譜」の「序」に次のやうに書いてゐることにつきてゐると思ふ。

「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない。又当時の志士でもない。畏多(おそれおお)くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。――しかるに維新の歴史を研究する人々は元勲(げんくん)とか何とか言って、臣下の働きを彼此(かれこれ)申すが、この運動の中心とならせられた孝明天皇に感謝し奉ることのないのを、はなはだ遺憾と思ふのである。……実は私も歴史を書くまでは、孝明天皇が左程(さほど)まで国のために御尽くし遊ばされたことを、充分には承知しなかったが、今日に至って実に恐入(おそれい)って居る。……孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御蔭(おかげ)であることを知らねばならぬ。」
と。実に適切な指摘である。”(pp317~318)

“さて、ここに謹選申上げた御製は、今日われわれが知りうる天皇ご在世中の御製総計一、二四五首の中からのものであるが、その一首一首に大御心のほどが御歌の高いリズムを伴って伝はってくるごとき思ひがする。事実、当時の大名・志士たちの中には、これらの御製の一首を伝へ聞くことによって、大御心を感受し、大御心にお応へ申し上げてその心懐を和歌に詠み上げたことなどが、いくた史実の上に記されてゐる。それゆゑに、幕末日本の動乱の実相を孝明天皇の御製を中心に学ぶことは、幕末史のみならず、歴史教育の上においても、決して軽視してはならぬ要点であると思はれる。”
(p321)

“たやすからざる世に武士の忠誠のこゝろをよろこびてよめる(十月九日守護職・松平容保(かたもり)に宸筆の御製を賜ふ)
和らぐも たけき心も 相生の まつの落葉の あらず栄えむ

武士(もののふ)と こゝろあはして いはほをも つらぬきてまし 世々のおもひで”
(p339)

述懐
天がした 人といふ人 こゝろあはせ よろづのことに おもふ*どちなれ(*どち=仲間)

述懐(九月十日春日社御法楽の和歌)
さまざまに なきみわらひみ かたりあふ 國をおもひつ 民おもふため”

(pp340~341)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


「孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。」

宸翰(しんかん):天皇自筆の文書のこと。 宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。

孝明天皇は、自筆の文書で親王、関白などを激励され、明治維新の道を切り開かれました。幕末動乱の時代を日本が乗り切ることが出来たのは孝明天皇なくして語ることができないと小田村寅二郎氏も述べています。

その一端に触れるだけでも私など浅学菲才の者は大海を目前にした小魚のように呆然とするばかりです。それでも御製を通して少しずつそのお心を理解して参りたいと思います。

[言葉の意味]

元勲(げんくん):明治維新に大きな勲功のあった人をいう。当初西郷隆盛(たかもり)、木戸孝允(たかよし)、大久保利通(としみち)らをさし、彼らの死後は伊藤博文(ひろぶみ)、黒田清隆(きよたか)、山県有朋(やまがたありとも)、井上馨(かおる)、大山巌(いわお)らも呼称された。1892年(明治25)成立の第二次伊藤内閣は、この5人に後藤象二郎(しょうじろう)も加え元勲総出の内閣といわれた。(コトバンクより)

駆使(くし):1 追いたてて使うこと。こき使うこと。「使用人を駆使する」、2 自由自在に使いこなすこと。「最新の技術を駆使する」(goo辞書)

鞭撻(べんたつ):強い励ましをこめて厳しく指導すること。(weblio辞書)

心懐(しんかい):心に思うこと。意中。

松平容保(かたもり):幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主(実質的に最後の藩主)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。(Wikipedia)

相生(あいおい)の松:雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。松は永遠や長寿を象徴することから、相生の松は特に縁結びや和合、長寿の象徴とされる。能『高砂』では、高砂の松と住吉の松とが相生の松であるとし、夫婦和合をうたっている。(Wikipedia)

どち:仲間(なかま)。連れ。
*接尾語の「どち」は、〔名詞に付いて〕…たち。…ども。▽互いに同等・同類である意を表す。「貴人(うまひと)どち」「思ふどち」「男どち」

参考「どち」は、「たち」と「ども」との中間に位置するものとして、親しみのある語感をもつ。


[大意]

徳富蘇峰文中:

「澄まし得ぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」

澄ますことが出来ない濁り水にたとえ私の身が沈んだとしても、すべての国民を濁り水で汚してはならないとのご決意を詠っておられます

1首目

互いに和する心と、勇猛な心とが、二つの株が同じ根から出る松のように一つとなれば、その葉が落ち葉にならない(青々として枯れない)ように、世も栄えるだろう

2首目
武士と(内裏、宮中が)こころを合わせれば、きっと固い岩を貫いて、時代を越えて遺る思い出となるはずだ

3首目
天下の人という人、すべての人々が心を合わせて、すべてのことを考える仲間であってほしいと切に願います

4首目
さまざまに泣いたり笑ったりして、語り合うのも国をおもいつつ、民をおもうからです


[感想]

「澄まし得ぬ…」は、終戦時の昭和天皇の大御心を思い出します。己の身はどうなってもよいから、国民の苦しみを除きたいとの大御心にただただ有り難く拝するのみです。

1首目は、和する心と勇猛な心の二つがそろってこそ、世が栄える道が必ず開けるとの御歌です。勇猛な心よりも、和する心を先に詠われているところに、歴代天皇の平和を愛する大御心が感じられます。

大河ドラマ『八重の桜』で見た松平容保率いる会津藩の孝明天皇を仰慕する心が偲ばれます。会津は明治維新では本当に気の毒な役回りだったと思います。

2首目は、「公武合体」ということになるのでしょう。武士と朝廷が心を合わせて明治という激動の時代を乗り越えたことがしのばれます。明治維新では多くの戦いがありましたがそれでも国が亡びることなく今日まで続いている原動力が孝明天皇の「和する心」にあったことを思わせられます。

3首目は、明治時代の自由民権運動に見られるように「人という人」が「万事を考える」その種子であるように思います。明治天皇の五か条の御誓文、第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」につらなるお考えを平易なお言葉で表されていると思います。

4首目は、孝明天皇が現実に親しい臣下と泣いたり笑ったり、国を思って語り合われた情景を詠まれたのでしょう。意見の対立を嘆かれたことも、意気投合して笑い合ったこともあったのでしょう。「泣きみ笑いみ」に孝明天皇の実感がこもっていて畏れ多いことですが、親しみと共感を覚えます。人は一度けんかしないと仲良くなれないよ(本気で向かい合わないと心の底から仲良くなれない)と教えてくれた友人があります。孝明天皇はお立場上、「けんか」という荒っぽいことはなかったでしょうが、「泣きみ笑いみ」に、人間らしさを感じて、実際にはどういう光景であったのだろうと、想像がふくらみます。


今日も読んでいただき有難うございました。
和やかな一日をお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げます。
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天皇の御歌(66)―第121代・孝明天皇(4) [孝明天皇]

DSC_160020210526blog.JPG今日は第121代・孝明天皇が、御子様、明治天皇の御歌を御添削されたことについて学びます。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)

第121代・孝明天皇は、第122代・明治天皇の御父君であらせられます。天皇ご在世中の御製は1,245首とのことです。

御子様、122代・明治天皇は御一生を通じて10万首近くの御詠草を残され、不世出の歌聖と崇められましたが、その御幼時に孝明天応から和歌創作の手ほどきをお受けになり、親しく御添削を受けられたそうです。


☆☆☆

明治天皇が御年7、8歳の頃、父帝・孝明天皇に御機嫌伺ひに参上されるごとに、父君から和歌の習作が課せられ、親王が詠進されるのを待ってはじめて御父・孝明天皇は御子・親王にお菓子をお与へなさったことが、「明治天皇記」に見えてゐる。皇室に古来から踏み続けられた「しきしまのみち」の道統は、ここでもまた孝明天皇から明治天皇へと、御親(みずか)らの全心身的ご努力によって伝へられていったのである。萬世一系の皇位の相承と、「しきしまのみち」が絶えることなく踏み続けられたこととの深い関連性を、改めて切実に見る思ひがするのである。
孝明天皇が、お子様(後の明治天皇)の御歌にどのように御添削なさったかの一例を左にご紹介しておきたい。

ある時、親王(明治天皇の御幼時)は

あけぼのに かりかへりてぞ 春の日の こゑをきくこそ のどけかりけり

と書かれて天皇にお差し出しになられた。天皇は、この作品の中でいくつかの点にすぐお気づきになられた様に拝せられる。おそらくその一つは「春の日のこゑ」といふのは、正確ではない、「こゑ」は「いきもののこゑ」であってこそ「こゑ」だとお考へになられたのではなからうか。また、「あけぼのにかりかへる」といふのも、折角この作品の中に「春の日の」とあるのだから、「春の日のあけぼの」と詠む方が、いっそう具体的とお考へになられたのであらうか。第三句の「春の日の」を一番最初に移され「あけぼのに」の前に「空」を入れて「春の日の空」と一層具体的な情景の表現に改めてをられる。そして第二句の「かりかへりてぞ」といふ「ぞ」をもっと正確に詠むようにとの御配慮からか、「かりかへるこゑ」(雁が帰りながら鳴いてゐるこゑ)と御添削を進められ、

春の日の 空あけぼのに かりかへる こゑぞきこゆる のどかにぞなく

と御自筆で御添削なさってをられるのである。この一例にみる御添削を以上の様に私が評しまつることは、まことに畏れ多いことであるが、くりかへしくりかへしこの二首を比較して味はってゐると、御添削といふ作業を通して、御父君が御子様の御歌を現実体験に、より一層近づけた表現にする様にと、大変に緊張したお心で御添削なさってをられることに気づかれて来る。
 われわれ人間の心といふものは、ともすれば、自分が見た情景や、体験した事柄などをありのままに表現しないで、つい観念的に表現してみたり、概念的に走ってまとめてみたりするものであるが、それをより正確な、体験のままの言葉で表現する努力が、「しきしまのみち」の大切な修行のやうである。それが素直に出来るやうになることは、とりもなほさず、相手が大自然であれ、人間であれ、要するに相手そのものを正確に把握することを意味するのであって、このことは人間社会における人生観上の修行としても、政治に携わる者の基本的な心構へから言っても、人の上に立つべき者には一番大切な心の素養を意味することにほかならない。それは皇室に伝承された「しきしまのみち」の奥義に通ずることであらうと思はれる。いまだ三十歳にも及んでおられなかったであらう若き父君が、将来祖国日本の命運を御担当になる宿命を持ってをられる御子に対しての、たとへやうもない御期待を背景とした御添削であって、単に和歌が上手になる様にといふ意味での御添削ではなかったことが、しみじみと偲ばしめられる所である。

(pp321~323)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


「人間の心といふものは、ともすれば、自分が見た情景や、体験した事柄などをありのままに表現しないで、つい観念的に表現して見たり、概念的に走ってまとめてみたりする

「より正確な、体験のままの言葉で表現する努力が『しきしまのみち』の大切な修行」

「相手が大自然であれ、人間であれ、要するに相手そのものを正確に把握する」

そのように和歌が詠めて文が書ければ、自分の思いが深まり、心が鎮まるのだと思います。そのような文章が書けているのだろうかと思うと、まだまだほど遠いし、文章を書きながら、心のどこかが干からびているように感じる時もあります。

その様な時に天皇の御歌を拝読しますと、生き生きした何かがよみがえってきます。自分が見た情景や、体験した事柄などをありのままに表現するということが、心を整えるのだと思います。

日々の努力を積み重ねることで少しでも歴代天皇の御歌の世界に近づけるように、御製を学び続けて参りたいと思います。


今日も読んでいただきありがとうございました。
皆様が心豊かな日々を過ごされますようにとお祈り申し上げます。

タグ:明治天皇
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「人民の脳髄を〝男尊女卑〟の慣習が支配する我が国」が旧典範で女帝を立てない決定要因だった [皇室典範改正]

120612_12542620210525blog.JPG昨日の続きです。

宮内省が作成し、明治天皇のお気持ちを汲んでいた、女系の継承権を認めていた「皇室制規」案が否定され、男系男子限定継承とされたのは、井上毅が『謹具意見』を提出したことによるものでした。

井上毅(いのうえこわし):天保14年12月18日(1844年2月6日) - 明治28年(1895年)3月17日)は、日本の武士(熊本藩士)、官僚、政治家である。子爵。法制局長官、文部大臣などを歴任する。(Wikipediaより)

明治19年に宮内省中心に起草された『皇室制規』(男系中心だが、男系絶ゆる時は、女帝も容認した)に対して、井上毅(こわし)が『謹具意見』を提出し、それが『典範』男系男子論に強く影響したと、田中卓氏は著書で述べておられます。


☆☆☆☆☆引用はじめ☆☆☆☆

『皇室典範』起草に関しては、明治十九年に宮内省中心に起草された『皇室制規』(男系中心だが、男系絶ゆる時は、女帝も容認した)に対して、井上毅(こわし)が『謹具意見』を提出し、それが『典範』男系男子論に強く影響したこともよく知られている。そしてこの点については、『謹具意見』の中で、島田三郎と沼間守一(ぬま もりかず)の発言記録を引用しており、それが「皇室典範起草過程に影響し、あるいは利用された」という指摘は『日本近代思想体系』2(岩波書店 昭和六十三年五月発行)の「解説」(五二五頁)に見える通りである。

田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』pp261~262 幻冬舎新書

☆☆☆☆☆引用終わり☆☆☆☆


井上毅の『謹具意見』の要(かなめ)は、

「男を尊び、女を卑しむの慣習、人民の脳髄を支配する我が国に於て女帝を立て皇婿を置くのは不可」

との沼間守一、島田三郎の意見です。

島田・沼間の意見は、自由民権結社の嚶鳴社における「女帝を立てるの可否」というテーマの討論筆記に書かれています。


☆☆☆☆☆引用はじめ☆☆☆☆

そこで改めて島田・沼間の意見を確認すると、これは、自由民権結社の嚶鳴社(おうめいしゃ)における「女帝を立てるの可否」というテーマの討論筆記であり、内容は全文、同上の岩波「大系本」に収められている(二七六~九九頁)。
 それによると、この討論会は、明治十五年(一八八二年)一月十四日に公開で行われ、嚶鳴社の社員十六人が出席し、議長高橋庄衛門のもと、討論の結果〝女帝を否とし男統の登極に限る〟と主張する発言者は、発議者の島田三郎をはじめ、益田克徳(ますだかつのり)・沼間守一(ぬまもりかず)の三名。それに対して〝女帝も可とする反対意見〟は、肥塚竜(こいづかりゅう)、草間時福(くさまときよし)、丸山名政(まるやまなまさ)、青木匡(あおきただす)、波多野伝三郎の五名であったが、最後に議長が裁決のため。〝女帝立つべしと思考する者〟を起立せしめたところ、総員十六名中、起立した者八人で。あたかも総員の半数となったので、議長の決によって〝女帝を立つべからざる〟という説に決まったというのである。
討論は発言者八名の中、女帝の〝賛否が五対三〟であったのに、議長の裁決で少数派の三名の意見に決まったのは、男統発議者の島田が、反対論に対する答弁を兼ねて三回も雄弁を振るい、沼間が、嚶鳴社の主要な創設者で、一番の年長でもあったので、風格と説得力があり、反対の起立者が八名にとどまったのであろう。これは島田の作戦勝ちと見るべきである。

(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』p262 幻冬舎新書)

☆☆☆☆☆引用終わり☆☆☆☆

討論で、〝女帝を立つべからず〟とする論者が三名、〝女帝を立つべし〟とする論者が五名と多数であったのに、十六名の出席者の内〝女帝を立つべし〟としたものが八人、議長の決で〝女帝を立つべからず〟という説に決まったとのことです。

島田三郎氏が三回も雄弁をふるったこと、沼間守一氏が嚶鳴社の主要な創設者であり一番の年長者で風格と説得力があったことという、〝女帝を立つべからず〟説に有利な条件が重なっていたのにも関わらず〝女帝を立つべし〟が半数を占めました。

議長の決が〝女帝を立つべし〟に賛同していれば〝女帝を立つべし〟が過半数を占めたであろうことは注目すべきことだと思います。将来の道筋として〝女帝を立つべし〟の正しさが、出席者の多数に認識されていたと推察できます。


その沼間守一氏、島田三郎氏の意見の要点はどのようなものだったでしょうか。

「男を尊び、女を卑しむの慣習、人民の脳髄を支配する我が国に於ては、女帝を立て皇婿を置くの不可なるは、多弁を費やすを要せざるべし」

これは、井上毅が『謹具意見』の中で29行を費やした沼間守一の文章の一部です。井上毅自身の文は55行、後述する島田三郎氏の文章は91行です。井上氏本人の文章の2倍を占めたのが沼間・島田両氏の意見でした。

そして『謹具意見』の「男系絶ユルトキハ女系ヲ以テ継承スル事」のタイトルにも拘わらず、「反対ノ論之ヲ略ス」とあり、女帝を可とする反対意見、肥塚竜(こいづかりゅう)、草間時福(くさまときよし)、丸山名政(まるやまなまさ)、青木匡(あおきただす)、波多野伝三郎の5名の文章は略されて、完全に無視されました。


以下は信山社出版の『日本立法資料全集』十六所収の『謹具意見』(三四七~五四頁)の「第一」「男系絶ユルトキハ女系ヲ以テ継承スル事」についての、沼間守一氏の「意見」部分です。田中卓氏の著書から引用します。

☆☆☆☆☆引用はじめ☆☆☆☆

此に男女の子を有する者あらん。其長子女にして次子男なる時は、其家を相続せしむるに男子を以てする乎。抑(そもそも)女子に譲らん乎。我国風、其長たり次たるの順序に拘らず、男子に相続せしむるにあらずや。是れ独り我国のみ然るにあらず、又民間のみ然るにあらず、立憲君制の諸国と雖も、亦このごときなり。王家と雖、亦このごときなり。然らばすなわち男女に区別なしと云ふ可らず、男女に階級なしと云ふ可らず。反対論者にして此簡単な見易き事実を暁(さと)らば、すなわち女帝を立るを可とするの謬見なるを覚らんとす。すでに此区別あるを見ば、何ぞ奇論を立てて反対を為すを要せんや。又男を尊び、女を卑しむの慣習、人民の脳髄を支配する我が国に至ては、女帝を立て皇婿を置くの不可なるは、多弁を費すを要せざるべし。(二八八~九頁)

(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』pp263~265 幻冬舎新書)

☆☆☆☆☆引用終わり☆☆☆☆


同じく井上毅が、91行を引用した島田三郎の文章は以下の通りです。


☆☆☆☆☆引用はじめ☆☆☆☆

我国今日の状態を見よ。男子にして妻妾を畜(たくわ)ふるも、社会未だ甚だしき侮蔑を此人に加へず。女子にして数男に見(まみえ)れば、社会は如何なる眼を以て之を見んとするか。また見よ、貴賤一般の相続法を見よ。また長女却て次男に位置を譲るにあらずや。又見よ、民間夫妻の関係を見よ。男戸主の妻を迎ふるはもちろん、女戸主にして夫を納るゝも、一旦結婚するの後は、内外の権一切夫に帰して、妻はその命唯聴(ただきく)に非ずや。是等の風俗慣習あるにもかかわらず、男女無差別と云ふは、政治上の観察に於ては、不可思議の見解と云ふべきなり。人情すでに此のごとく、現状も亦此の如し。皇婿を出して女帝に配侍せしむるに於て、人民は女帝の上に別の貴者あるがごとき思を為すを免るゝ能はず。是れ予が威厳に害ありと云ふ所以なり。(ニ九七頁)

(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』pp264 幻冬舎新書)

☆☆☆☆☆引用終わり☆☆☆☆


両氏の意見の要点は以下の通りです。


沼間守一:

○家督相続は男子に限る。それは我が国のみ、民間のみの話ではない、立憲君主の諸国も、王家もそうである。
○男女に区別なし、階級なしと云うべからず。
○既に階級があり、区別があるのだから(女帝、女系は)奇論である。
○男尊女卑の慣習が人民の脳髄を支配する我国では女帝を立てて皇婿を拝するのは不可である。

島田三郎:

○家督は必ず男子に限る
○男子は妻妾を蓄えても社会は侮蔑をその人に加えない
○女子は複数の男性に見えれば社会は如何なる眼を以て之を見るか(侮蔑が加えられるであろう)
○だから皇婿を迎えれば人民は女帝の上に貴者あるがごとき思を為すは免れない。(天皇の)威厳に害がある。


沼間、島田の意見の、どこを現代、さらに将来にまで持ち越すべきなのでしょうか。

○家督相続は男子に限る。立憲君主の諸国も王家もそうである。→ 現在は、立憲君主諸国、王家の継承は、男女問わず、長子優先がその趨勢になっています。

○男子は妻妾を蓄えても侮蔑されない。→ 現代日本では不可でしょう!

○家督を継ぐのは男子のみ。 → そうでないケースが既に多々あります。又日本の歴史でも、江戸時代の禁中公家諸法度において女性が家督相続できないと定められていますが、江戸時代以前は必ずしもそうではありませんでした。

○男尊女卑の思想が人民の脳髄を支配する → 方向性として、男尊女卑ではなく「男も女も尊い」を目指すべきでしょう。

○皇婿を迎えた女帝の例は、イギリスのエリザベス女王を蔭で支え続けたフィリップ殿下が「女性を支えること」を使命とする皇婿を表現されています。日本でも女帝を支える皇婿が自然になる日が来ると思います。

なお、妻妾について、伊藤博文には、梅子夫人以外の女性が二人(女中と芸者)いました。井上毅も先妻(没)、後妻の他に側室(女子三人生む)がありました。幕末から明治初期に活躍した政治家の中には、公然と妾をたくわえていた実例が少なくないため、妾と庶子を公認せざるを得ないという伊藤、井上自身の事情もありました。

一夫一妻と、一夫多妻(庶子継承)は、両立できません。男子男系継承は一夫多妻なしでは続きません。

そのことを明治の旧皇室典範作成者は十分に承知していました。その上で、男系男子継承と庶子継承をセットにして、旧皇室典範を作成しました。

昭和22年に、庶子継承を典範から削った時に、男系男子継承も女系継承容認、すなわち双系継承に切り替えざるを得ないことは明白でしたが、当時は、男性の宮様が何人もいらっしゃったので、すぐに改正ということにならず、今日まで持ち越してしまいました。

現代において妻妾復活は、世界的潮流から見ても、人道的にも、あり得ないでしょう。

それでも明治時代の皇室典範で定められた男系男子継承を固守しますかと、男系男子維持派の皆様に問いたいと思います。どう考えても無理なのは火を見るより明らかです。


今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって良い一日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:女系天皇
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明治時代の宮内省起草の「皇室制規」案では女系継承権が容認されていた [皇室典範改正]

DSC_148820210524blog.JPG最近あらためて気が付いたことですが、 明治時代の旧皇室典範作成過程で、明治天皇のご意向を反映した宮内省案では、女系の継承権が容認されていた、つまり女系天皇が容認されていたのですが、男尊女卑が要因で「男系男子限定」に定められたという経緯があるとのことです。

「女系の継承権」は、以下に引用する国史大辞典の記述の通り、明治の皇室典範作成過程では容認されていました。

女系容認は、文明開化を目指した明治天皇の御代に既に提案されながら、実現せずに先延ばしされていた課題であったのです。それが130年後の令和の御代で解決されることに、深い意義があります。これ以上先延ばししないで抜本的な対策を取るのが、賢明だと考えます。


☆☆☆

国史大辞典

皇室典範
こうしつてんぱん

皇室および皇族の基本であり、皇位継承をはじめ、結婚・摂政・皇族などが定められている。明治二十二年(一八八九)非公式に発表され、明治四十年と大正七年(一九一八)に増補を加えた。第二次世界大戦後の昭和二十一年(一九四六)、現在のものに改正されている。明治十五年伊藤博文が欧州に赴いた際、オーストリアのローレンツ=フォン=シュタインから皇室の家法をつくるようすすめられた。伊藤は同十九年から皇室典範の取調べを始めた。最初の案は皇室制規で、シュタインの意見を参考とし、皇位継承・丁年および結婚・摂政・皇族について定めた。女系の継承権を認め、庶出の子女は皇族として待遇しないことにした。ついで井上毅が女系の継承は祖宗の大憲に反するとの意見を提出した。そこで帝室典則案では女系の継承をやめ、皇庶子孫の継承を認めた。翌二十年柳原前光が皇室法典初稿という皇室財産・皇室経費などを含む大きくまとめた案をつくった。ついで井上がロエスレルに諮問したのち、柳原案を取捨した皇室典範と題する案をつくり、さらに柳原が再稿をつくった。同年三月伊藤が譲位は認めぬこと、皇位の尊号は天皇のみとすることなどについて裁定した。その後柳原がまとめた案ができたが、これを井上が検討して修正を行い、伊藤の決裁を経た。皇族臣籍に列するの規定などものちになって削られた。同二十一年四月皇室典範諮詢案ができ天皇に奉呈された。同年五月・六月と翌年一月の枢密院会議でいくらかの修正があったが、永久皇族の制は維持された。皇室典範の公示の方法については、起草当時から問題となっていたが、典範は皇室みずから家法を定めるものであって公式によりこれを臣民に公布するものでないとし、大臣も副署せず、官報に掲載することもなく、同二十二年二月十一日非公式に発表された。

(「皇室典範」国史大辞典
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=132

☆☆☆


国史大辞典によれば、「女系の継承権を認め、庶出の子女は皇族として待遇しないことにした。」というのが、皇室の家法「皇室制規」の案でした。

その理由は、旧皇室典範制定の過程にあると思います。旧皇室典範は、オーストリアのローレンツ=フォン=シュタインから皇室の家法をつくるようすすめられたことが発端でした。即ち、元々西洋の王室に家法があったことから、日本の皇室も家法が必要と云う考えで作成されたものです。その背景は日本の開国と同時に、和魂洋才、西洋の政治制度を採用する一環であったのだろうと思います。当然、西洋王室の一夫一婦制、実子による継承を見習うことが始まりだったはずです。

しかし、日本では、まだ江戸時代の一夫多妻、庶子による継承が、普通とされる社会でした。そのせめぎあいが、女系容認と、男系男子継承の差となって現れたのだと思います。

宮内省案(明治19年)の「皇室制規」

○女系の継承権を認める

○庶出の子女(正妻以外から誕生された子女)は皇族としない


しかし、井上毅が『謹具意見』を提出したことにより「女系の継承をやめ、皇庶子孫の継承を認める」、男系男子論の案がまとまりました。(明治22年)

○女系の継承権を認めない

○庶出子孫(を皇族として)その継承を認める

と変更されました。


大正天皇が明治12年に明治天皇のたったお一人の男子(庶出)として誕生されていたことも典範制定に影響を与えたと思われます。皇室典範制定に携わった柳原前光は、大正天皇の実母、柳原愛子の兄でした。そのことがどれほどの影響があったのか調べていませんが、関係者の気遣いは当然、あったと思います。

女系容認はもちろん女帝の即位も井上毅の反対により実現できませんでした。井上毅の反対の大きな理由として人民の頭脳を支配する男尊女卑の慣習が挙げられています。


「男尊女卑」と申しますと、男系男子維持派の男性方は「我々は男尊女卑ではない」と反発されると思います。私は妻をこんなに愛している、妻を大切にしているのに、と思われるのでしょう。私も、日本人の男性は愛妻家が多く、女性はおおむね大切にされていると思っています。個々人が取り立てて男尊女卑であるとは思いません。

ここで「男系男子限定継承」が「男尊女卑」によるというのは明治時代の皇室典範制定の過程において、人民の脳髄を支配する「男尊女卑」の慣習が決定的な要因であったという記録があることを指摘させていただくだけであって、現在の男子男系支持派の人々、一般の日本人男性が取り立てて男尊女卑であるという意味ではありません。

女系容認は、文明開化を目指した明治時代、明治天皇の御代から積み残されていた課題であり130年後の令和の御代で解決することに深い意義がある、今こそ、先延ばししないで抜本的な対策を取るのが、賢明だと信ずるものであります。

今日も読んでいただき有難うございました。

外を歩きますと紫陽花の花が色づきかけています。
雨にしっとりと濡れた紫陽花の美しさは格別です。
皆様、季節の変わり目ですから、お身体をお大切にお過ごしください。


参考資料:
*(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』p261 幻冬舎新書)

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旧宮家案は憲法が禁じる「門地による差別」― 憲法第14条違反の疑いありとの学者の見解 [皇室典範改正]

DSC_151420210523blog.JPG男系男子限定を主張し、女系容認を断固拒否する人々が、主唱する旧宮家案。
昭和22年に皇籍を離脱した旧宮家系子孫の男系男子を皇族に復帰させるという案です。

男系男子限定継承を主張する人々の頼みとする、旧宮家案について、憲法学会を代表する2人の学者から、「門地による差別」という憲法上の疑義があると指摘がありました。


5月10日に開催された皇位の安定継承を目指す有識者会議の第4回会合において、現在の憲法学会を代表する2人の学者(京都大学名誉教授の大石眞氏、東京大学教授の宍戸常寿氏)が、「旧宮家案」(更に旧宮家に限らず、皇族ではない皇統に属する男系の男子に広く皇籍取得を可能にする案)に対し、揃って憲法が禁じる「門地(もんち)による差別」に当たるとして、憲法違反の疑いがあることを指摘されました。

これは私にとっても衝撃的なニュースでした。

旧宮家系の男子、竹田恒泰氏が、テレビの討論番組で討論相手に向かって「あなたと私は血筋が違う!」と叫んだことに違和感を覚えていました。が、その言葉が門地による差別につながることに思いが至りませんでした。

男系男子固執派の論者が人種差別的な言葉、女性差別的な言葉を口にすることが多いのも、そういう理由によるのかと思い当たりました。

憲法が禁じる「門地による差別」に該当する条文は以下の通りです。


+++++++++++

「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的関係において、差別されない」(第14条第1項)

++++++++++++

学校で習ったことを思い出します。実社会で色々な差別を見聞きしますが、先の竹田氏の言葉に感じた強烈な違和感はこの理想を大きく逸脱していたからだと分かりました。

旧宮家案が「門地による差別」との憲法学者の指摘について、高森明勅氏のブログから引用します。


☆☆☆☆☆

旧宮家案は憲法が禁じる「門地による差別」という決定的な指摘

5月10日に開催された皇位の安定継承を目指す有識者会議の第4回会合。


“憲法上の検討”を中心課題としたので、他の回とは異なる重要性を持つ。


そこで、現在の憲法学界を代表する2人の学者(京都大学名誉教授の大石眞氏、東京大学教授の宍戸常寿氏)が、「旧宮家案」(更に旧宮家に限らず、皇族ではない皇統に属する

男系の男子に広く皇籍取得を可能にする案)に対し、揃って憲法が禁じる「門地(もんち)による差別」に当たるとして、憲法違反の疑いがあることを指摘された。

この事実は重大だ。


参考までに、それぞれが提出された「説明資料」から、関連箇所の一部を掲げておく。


「(上記の案は)一般国民の間における平等原則に対して『門地』などに基づく例外を設け、『皇族』という継続的な特例的地位を認めようとするものである。そうすると…憲法上の疑念があると言わざるを得ない」(大石眞氏)


「法律(皇室典範)等で、養子たりうる資格を皇統に属する(皇族ではない)男系男子に限定するならば…一般国民の中での門地による差別に該当するおそれがある。

さらに、仮に旧11宮家の男系男子に限定する場合には、皇統に属する(皇族ではない)男系男子の中での差別に該当するという問題も生じる」


「内親王・女王との婚姻を通じた皇族との身分関係の設定によらず、一般国民である男系の男子を皇族とする制度を設けることは…門地による差別として憲法上の疑義があると考える」(宍戸常寿氏)


念の為に、憲法の該当条文を引用すると、以下の通り。


「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的関係において、差別されない」(第14条第1項)


「国民平等」の原則を定めた条文だ。この例外は唯一、憲法第1章に基づいて国民とは立場を異にする、天皇・皇族“のみ”。


皇統に属する男系の男子は旧宮家系に限らず、国民の中に多くいる。

しかし、皇族でない以上、この条文自体が改正されない限り(たやすく改正されるとは考え難いが)、例外扱いは許されない。


なお、「門地」とは一般に「家柄。家格」)(『明鏡国語辞典〔第2版〕』)のこと。


憲法の注釈書には以下のように説明している。


「『門地』とは『うまれ』あるいは『家柄』の意味で、正確にいえば、出生によって決定される社会的な地位または条件をいう」(宮澤俊義氏、コンメンタール)と。


旧宮家系男性(あるいは、広く皇族ではない男系の男子)の場合、まさにこれに該当する。

政府が密かに、旧宮家案を早々と現実的な選択肢から除外した最大の理由は、実はこの点にあったのかも知れない。

[『旧宮家案は憲法が禁じる「門地による差別」という決定的な指摘』2021.05.15 高森明勅公式ブログ https://www.a-takamori.com/post/210515 ]

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○大石眞氏の指摘:

「(上記の案は)一般国民の間における平等原則に対して『門地』などに基づく例外を設け、『皇族』という継続的な特例的地位を認めようとするものである。そうすると…憲法上の疑念があると言わざるを得ない」


○宍戸常寿氏の指摘:

「法律(皇室典範)等で、養子たりうる資格を皇統に属する(皇族ではない)男系男子に限定するならば…一般国民の中での門地による差別に該当するおそれがある。

さらに、仮に旧11宮家の男系男子に限定する場合には、皇統に属する(皇族ではない)男系男子の中での差別に該当するという問題も生じる」


「内親王・女王との婚姻を通じた皇族との身分関係の設定によらず、一般国民である男系の男子を皇族とする制度を設けることは…門地による差別として憲法上の疑義があると考える」


門地とは:

「門地」とは一般に「家柄。家格」)(『明鏡国語辞典〔第2版〕』)のこと

憲法の注釈書には以下のように説明している。
「『門地』とは『うまれ』あるいは『家柄』の意味で、正確にいえば、出生によって決定される社会的な地位または条件をいう」(宮澤俊義氏、コンメンタール)

[感想]

大石眞氏は、

一般国民の間の平等原則に「門地」に基づく例外を設けて「皇族」という特例的な地位を認めると、…憲法上の疑念がある。


という意見だと思います。


宍戸常寿氏は、

皇室典範等で、皇族の養子になれる資格を皇族でない皇統に属する男系男子に限定するなら、…一般国民の中での門地による差別に該当するおそれがある。

仮に旧11宮家の男系男子に限定するなら、皇統に属する男系男子の中での差別に該当するという問題も生じる

内親王・女王との婚姻を通じた皇族との身分関係の設定によらず一般国民である男系の男子を皇族とする制度を設けることは…門地による差別として憲法上の疑義があると考える

という意見だと思います。


まとめますと、

「内親王・女王との婚姻を通じた身分設定以外で一般国民である男系男子を皇族とする制度を設けることは、門地による差別として、憲法上の疑義がある」

ということだと思います。

言い換えれば、内親王・女王との婚姻が無いのに、一般国民である男系男子を皇族とする制度を設けることは、憲法上の疑義があるということですね。

旧宮家の子孫だから制度を設ければ皇族になれるということは、憲法上の疑義がある、憲法違反の可能性大であり、実現の可能性が無いという意見だと思います。


竹田恒泰氏の「あなたと私は血筋が違う!」は、旧宮家系男子の皇籍復活の門地による差別を端的に表現した言葉だったのですね。

「家格」、「家柄」、「うまれ」、「血筋」、あるいは性別、人種で人を差別するのは、旧来の陋習だと思います。 人々を苦しめる悪しき慣習にこだわるのはやめて、差別のない、誰もが伸び伸びと暮らせる世の中にしたいものです。


今日も読んでいただきありがとうございました。
梅雨入りした地方も多いですが街に花があふれる季節になりました。
皆様のご多幸をお祈り申し上げます。

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皇位継承を巡る有識者会議第3回ヒアリング―憲法は女系天皇を排除していないのが3人の憲法学者らの主流 [皇室典範改正]

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5月10日に開催された皇位の安定継承を目指す有識者会議の第4回会合では、憲法学者ら4人からヒアリングが行われました。

4人のうち3人が、憲法は女系天皇を排除していないとの共通理解です。

高森明勅氏の5月11日の公式ブログから引用いたします。



☆☆☆

『国士舘大学特任教授の百地章氏は「女系天皇は憲法違反の疑いがあり許されない」とされた。同氏は以前、「万一の場合には、皇統を守るために、女帝さらには女系の選択ということもあり得る」(『憲法の常識 常識の憲法』)と明言されていた。
その後、変説されたのだろうか。


それに対し、最高裁元判事の岡部喜代子氏は、「女系天皇を認めることが憲法違反であるとの説は採ることができない」と否定されている。
これは政府の見解も同様だ。


但し、「強固な反対」に配慮して、一代限りの女性(男系女子)天皇と女性宮家を主張されたようだ。


京都大学名誉教授の大石眞氏は、男系の伝統を尊重すべきことに触れつつ、「内親王・女王にも皇位継承資格を認めるとともに女系の皇族にも拡大するのが基本的な方向性としては妥当」とされ、東京大学教授の宍戸常寿氏も「憲法第2条の『世襲』は女系を排除するものではなく、国事行為およびそれに準ずる活動は女系の天皇でも可能」と述べておられたようだ。


両氏はそれぞれ、憲法学の主流を代表し得る学者だ。


以上について、現時点での大まかな感想を述べておけば、憲法・法律の専門家としての判断が、専門外の政治や歴史などを中途半端に顧慮することで、少し不透明化しているケースもあるように見受けられる。


男系の“伝統”と言われるものの実態については、これまでの歴史学の研究蓄積について、「やまとごころ(双系〔方〕)」「からごころ(男系)」というキーワードを用いて、私なりに整理したブログを以前、書いている(2月5日)。

https://www.a-takamori.com/post/210206



「強固な反対」をどう評価するかは、皇位の安定継承へのリアルな探究と、多くの皇室を敬愛する国民の思いに従って、結論を出すべきことだろう。


いずれにせよ、百地氏の孤軍奮闘は貴重ながら、憲法が女系を頑なに排除するものでは“ない”ことが、権威ある専門家の共通理解として、改めて確認されたことは意味がある。』

(『憲法は「女系天皇」を排除していないとの理解が憲法学者の主流』2021.5.11【高森明勅公式サイト】https://www.a-takamori.com/post/210511

☆☆☆



憲法学者ら4人の肩書、氏名、意見要点は以下の通りです。

① 国士舘大学特任教授 百地章氏

「女系天皇は憲法違反の疑いがあり許されない」
*高森氏は、百地氏は以前、「万一の場合には、皇統を守るために、女帝さらには女系の選択ということもあり得る」(『憲法の常識 常識の憲法』)と明言していたが、その後、変説したかと疑問を呈しています。


② 最高裁元判事 岡部喜代子氏

「女系天皇を認めることが憲法違反であるとの説は採ることができない」。

③ 京都大学名誉教授 大石眞氏

男系の伝統を尊重すべきことに触れつつ、「内親王・女王にも皇位継承資格を認めるとともに女系の皇族にも拡大するのが基本的な方向性としては妥当」とする。


④ 東京大学教授 宍戸常寿氏

「憲法第2条の『世襲』は女系を排除するものではなく、国事行為およびそれに準ずる活動は女系の天皇でも可能」と述べていたようだ。


憲法が女系を頑なに排除するものではないことが、百地氏以外の3人の専門家の共通理解であったことが改めて確認されたとのことです。


このことを時事通信社等が報道しています。記事タイトルは『「愛子天皇」論は憲法無視 皇位継承で百地氏主張』とされています。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f8b64a0bfe15c1791b40d254492b2dbd117af1d4


この記事タイトルが偏向していると読者がコメントで苦情を述べています。

『「愛子天皇」論は容認できると75%の法律家解答』

となるべきではないかとのことで、まともな意見だと思い、いいね!を押しました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f8b64a0bfe15c1791b40d254492b2dbd117af1d4/comments

4人のうち、1人の意見だけをタイトルにして、他の3人の意見を無視するのは不公平ですね。

国民の意見を反映して「愛子天皇」をぜひ実現していただきたいと思います。

今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって幸福な一日でありますようお祈り申し上げます。





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