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シンポジウムに参加して―皇位の安定継承 [皇室典範改正]

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11月25日はシンポジウム「皇位の安定継承に向けて」(会場:参議院議員会館)に行って参りました。登壇者は君塚直隆氏、小林よしのり氏、高森明勅氏、矢部真紀子氏でした。

シンポジウムに参加して感じたのは、女性皇族が宮家の当主になることと、女性天皇のお子様が天皇になることは、世界の進歩に歩調を合わせることだということです。

日本は古き良き伝統・文化を持つ国だと海外に思われていますが、反面、欠点として、世界的な視野が狭い、島国根性、ガラパゴス化したところがある、因習を固守する国と見られることもあります。

そのガラパゴス的な因習が、何と皇室に残されていたことを知り、驚きました。

11月25日のシンポジウムでは、初めて耳にした、二人の登壇者、君塚氏と矢部氏の話が、印象に残りました。

その一人コラムニストの矢部真紀子氏は、週刊誌アエラの創設メンバーで現在はフリーランス。近著に「雅子様の笑顔――生きづらさを超えて」があります。

矢部氏は、女性宮家の創設について、公務に励んだ黒田清子さん(上皇陛下の長女)の姿勢から、「責任ある立場に就ける道を開く」という視点で皇室制度の変革を考えたとのことです。

皇室典範第12条に「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と結婚したときは皇族の身分を離れる」とあります。黒田清子さんが生まれて4か月の時、美智子様は「結婚までは皇族として生活させていただくのだから、それにこたえるような人になってほしいと思います」と語られたそうです。黒田清子さん(当時は紀宮清子内親王)は2002年の33歳のお誕生日に「内親王の立場」として次のように語られていたそうです。
“皇族という立場に於いて、男女の差やその役割の違いというものは特別に無いと感じています(中略)内親王という立場も、他の皇族と変わるところは無いでしょう(中略)ただ、内親王という立場は、先行きを考えるとき、将来その立場を離れる可能性がどうしても念頭にあるため、中途半端に投げ出してしまうことのないように、継続的な責任のある立場に就いたりすることは控えてきたということはあるかもしれません“(シンポジウム、レジュメより)

矢部氏は、皇室のご公務を普通の会社に例えるのは気が引けるのですが、と前置きしてから、次のような話をされました。

①皇族は、職業選択の自由がなく、就職先が一つに決められている。
②女性皇族は、結婚退職が決められていることが前提なので、仕事に於いて継続的な責任ある立場を選ぶことができない。

公務の上では、皇族に生まれた女性は皇族男性より、一段下に位置付けられているというお立場でいなければならないとも言えます。

また、愛子様は、小学生の時登校拒否されたり、中学で拒食症になられたりしました。女に生まれた自分を悲しむ気持ちがそうさせたのではないかとも、話していました。

矢部氏の話を聞いて、私は、次のような感想を持ちました。

日本には「男女雇用機会均等法」(「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」の通称)があり、1985年に制定され、1986年施行されました。

「結婚退職」はもちろん、「男女雇用機会均等法」違反です。皇室は別世界という考え方もあるでしょう。儀式の形式や装束はそうだとしても、「公務」という皇室外の世界に接する、公のお務めについては、国民の職業と同じ目線で見ることが、許されると思います。

国民が35年前から享受している「結婚しても仕事を続けられる。男性と同様に責任ある立場を選べる」権利が、35年間、まったくその恩恵にあずかれない若い女性が、よりによって皇室の皆様であったことに、ショックを受けました。

自分に置き換えて見れば、①の職業選択の際、「自分の能力を最大限に生かす職場」との期待を持って、就職先を選べたことを、当たり前と思っていました。②については、就職後、ほどなく、「男女雇用機会均等法」が施行されました。施行前の女性の仕事は、お茶くみ、コピー取り、それ以外でも男性の補助的な仕事がメインでした。やる気のある女性は昇進もできますが、結婚の代わりに仕事を選択した独身者が多数を占めていました。施行後は、出産、育児があっても希望により仕事が続けられ、仕事に男女の差別が無いことになり、責任ある仕事を引き受ける人も出て来ました。

それが、当たり前と思っていたのですが、皇室では35年前のまま時間が止まっていたのです。結婚したら必ず退職となっているのは、35年前の庶民よりも厳しい条件です。庶民は強く希望すれば仕事を続けることが出来ましたから、男女雇用機会均等法施行前でも、結婚して子供ができるまで仕事を続ける女性が何人かありました。

さらに今、政府が推し進めようとしている国家公務員として「皇女」職を設けるというのは、いわば、冒頭の職場で「結婚したらパート職員になれ」、と国が押し付けているようなものだと、矢部氏はいいます。これまでであれば、結婚したのちに自分が生涯続けたい他の仕事を自由に選んで就職することが可能だったのに、職種を一つに限定され、パート職員を続けなさいと言われるようなものだということに私も同感です。また、「皇女」という名称は、天皇の御子様のことですから、皇族女子でなくなった一般人が使用するのは言葉の混乱を招きます。

皇室を、せめて男女の扱いについて、日本国民と等しく差別の少ない空間にして差し上げたい、女の子に生まれたことを後悔するような空間であってほしくない、それが私の国民としての願いです。


もう一人は、君塚直隆(きみづかなおたか)氏です。君塚氏は、関東学院大学教授で、史学博士、専攻は世界の王室研究など。主要著作は『エリザベス女王』『現代世界の陛下たち』など、世界の王室研究者です。

皇族の減少(日本)や、「ヨーロッパのほとんどの王室が「絶対的長子相続制」に移行していることを話され、最後に、現イギリス女王エリザベス2世の配偶者であられるエディンバラ公(99歳)のお言葉を引用して、「21世紀は国民の支持あっての王室」で「時代に即した変革も必要」だと話されました。当日渡された君塚直隆氏が用意されたレジュメから、エディンバラ公の言葉を引用します。

「ヨーロッパの君主制の多くは、その最も中核に位置する、熱心な支持者たちによってまさに滅ぼされたのである。彼らは最も反動的な人々であり、何の改革や変革も行わずに、ただただ体制を維持しようとする連中だった」(エディンバラ公の言)

エディンバラ公は99歳、ギリシャ王室の出身で、ギリシャ王室廃止(1974年)を目の当たりにされてのお言葉には重みがあります。他の王室が滅びた理由も十分に調べられた上でのご発言だと思います。ギリシャ王室は1974年、国民投票により廃止されました。国民の大多数が「廃止」に投票したのは、国民の心が、王室から離れていたからです。エディンバラ公は、国民離反の原因が、「君主制の中核に位置する熱心な支持者が、改革・変革を行わず、体制の維持だけを考えた」からだと喝破しています。


「熱心な(天皇)支持者」が「男系男子継承を維持すること」だけを考えて改革・変革を拒否する行動が、結果的に皇室を、「女性は男性の一段下」、「女性は男子を産む機械」、「男女差別」、「男尊女卑」という、国民の意識とかけ離れた空間にしてしまい、皇室を滅ぼす方向に向かわせることを示唆しているのが、ギリシャ王室の先例です。

人類の進歩に歩調を合わせるためにも、女性を当主とする宮家制度の創設、女性である天皇のお子様が性別に関係なく皇位を継げるようにする、改革・変革により、皇室と国民の隔たりを少しでも小さくしたいと、切望する次第です。

今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって素敵な休日でありますことをお祈り申し上げます。

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天皇の御歌(56)―神功皇后(第14代・仲哀天皇の皇后) [神功皇后]

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[黒ハート]武内宿禰命(タケノウチスクネノミコト)わが家に残された5月5日の飾り旗です。


今日も第15代・応神天皇の母君、第14代・仲哀天皇の皇后、神功皇后の御歌について学びます。2回目です。

御在世:170~270(崩御・100歳)
摂政:200~270(30~100歳)


☆☆☆

十三年の春二月(きさらぎ)の丁巳(ひのとみ)の朔(ついたち)甲子(きのえね)に、武内宿禰に命(みことおほ)せて、太子(ひつぎのみこ)に従ひて角鹿(つぬが)の笥飯大神を拝みまつらむ。癸酉(みづのとのとり)に、太子、角鹿より至(かへり)りたまふ。是の日に、皇太后(おほきさき)、太子に大殿に宴(とよのあかり)したまふ。皇太后、觴(みさかづき)を擧(ささ)げて大使に壽(さかほかひ)したまふ。拠りて歌(みうたよみ)して曰(のたまは)く、

此の御酒(みき)は 我が御酒ならず 神酒(くし)の司(かみ)
常世(とこよ)に坐(いま)す いはたたす
少名御神(すくなみかみ)の 豊壽(とよほ)き 壽(ほ)き廻(もとほ)し
神壽(かむほ)き 壽(ほ)き狂(くる)ほし
奉(まつ)り來(こ)し 御酒(みき)ぞ
あさず飲(お)せ ささ

武内宿禰命、太子(ひつぎのみこ)の為に答歌(かへりうた)して曰(まう)さく、

此の御酒を 醸(か)みけむ人は その鼓(つづみ)
臼(うす)に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも
この御酒の あやに うた楽しさ さ 

(pp351~350)
(『日本古典文学大系67、日本書紀 上』)

☆☆☆

言葉の意味

武内宿禰(タケノウチノスクネ):「古事記」によると景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と天皇家五代に渡って仕えたとされる伝説的な存在。360歳まで生きたとされている。

角鹿(つぬが):福井県敦賀。古代大陸文明の要地の一つ。

笥飯大神(ケヒノオオミカミ):気比神社の御祭神。もとは伊奢沙和気(いささわけ)大神といったが、太子(応神)が御食津(みけつ)大神と名を称えたので、今は気比の神となったとされる。


[大意]

(神功皇后)即位13年春2月8日。武内宿禰(タケノウチノスクネ)は皇后に命じられて、太子(ヒツギノミコ=応神天皇)に従い、角鹿(ツヌガ=現在の福井県敦賀)の笥飯大神(ケヒノオオミカミ)を参拝しました。17日。太子は角鹿から帰られました。
この日に皇太后は太子と大殿(オオトノ)で宴(トヨノアカリ=宴会)をしました。皇太后は觴(ミサカズキ=酒をなみなみついだ杯)を挙げて、太子に寿(サカホカイ=酒祝い=酒を飲み祝いあうこと)なさいました。そのときの皇后の御歌です。

このお酒は私だけの神酒ではありません。神酒の司で、常世の国におられる少名彦(=スクナヒコナ)神が、狂うように歌って舞って、醸(カモ)したお酒です。さあ、この酒を残さず飲み干しなさい。さあさあ。

武内宿禰命は、太子に代わって、お答えの歌を申し上げました。

このお酒を醸した人は、その鼓を、臼のように立てて、歌って醸したからでしょう。この神酒の、何とも言えず美味しいことよ。さあさあ。

参考:『日本古典文学67、日本書紀 上』


[感想]

武内宿禰(タケノウチノスクネ)は、延命長寿の神様、頭脳明晰な宰相とされますが、神功皇后が神田の溝を掘る際に、邪魔になった大岩を、祈る事によって雷を呼び寄せて岩を打ち砕いたなど超人的も力を発揮しているとのことです。長寿の神、宰相の神として、多くの神社に祀られています。

少彦名(スクナヒコナノ)神が狂うように歌って踊って神酒を醸したのは、ギリシャ神話の豊穣とブドウ酒と酩酊神ディオニュソス神を思い起こさせます。ディオニュソスも演劇と舞踏の神でもあります。歌って踊ると美味しいお酒ができるのは、共通しています。

神酒造りの司(リーダー)、少彦名神は、大国主神の国造りに参加した神です。
「古事記」では、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ=ガガイモの実で作った船)に乗り、鵝(ヒムシ=ガ)の皮の着物を着て波の彼方から来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加したとのことです。日本書紀では、蛾ではなく、ミソサザイの皮を着ていたことになっています。

少彦名神が乗った船、ガガイモの実は写真で見ると、手のひらに乗るくらい、長さ10センチくらいの実です。中にふわふわした種の毛が入っていて、船床に敷いたら座り心地がよさそうです。

蛾の皮(羽)、またはミソサザイ(体長10センチの小鳥)の衣を着て、ガガイモの実の船に乗っていたという、とても身体の小さな神様です。

身体が小さくて鼓を持てないので、鼓を臼のように立てて、その上で歌い踊ったのでしょう。酒造の司(つかさ=リーダー)として、鼓の上で歌い、踊り、そのリズムに合わせて、配下の人々が酒造りの作業を行う光景が目に浮かびますね。トトン、トントンという、楽しいリズムに合わせて醸されて、美味しいお酒ができたのでしょう。

太子(後の応神天皇)は、この年13歳になりました。昔ならほぼ一人前になった頃で、気比の神には、そのご報告だったのでしょう。しかし、神功皇后は70年間、摂政をつとめられ、太子(応神天皇)が即位されたのは皇后崩御の後、御年70歳のときでした。神功皇后が、卓越した統治力が認められていた実質的な王(おほきみ)であられたことが伺えます。

今日も読んでいただき、有難うございました。
明日辺りからまた気温が低くなるようです。皆様お身体にお気をつけて、お健やかにお過ごしください。

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天皇の御歌(55)―神功皇后(第14代・仲哀天皇の皇后) [神功皇后]

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今日は、第15代・応神天皇の御母君、第14代・仲哀天皇の皇后、神功皇后について学びます。

御在世:170~270(崩御・100歳)
摂政:200~270(30~100歳)
*ご在世については、諸説あり。
『古事記』では息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされています。


神功皇后の御事績について、大宮八幡宮のホームページから引用させていただきます。

☆☆

“神功皇后は、第九代開化天皇の曽孫、息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の女(みむすめ)として、幼い頃より聡明で容貌麗しい方であったと日本書紀に伝えられ、仲哀天皇の二年、皇后となられました。

 仲哀天皇が熊襲征伐の際、筑紫国の橿日宮で崩御されますと、仲哀帝にかわって神功皇后は天津(あまつ)神(かみ)のご神託によって三韓の平定に向かわれました。この時、皇后は応神天皇を身籠っておられ(胎中天皇)、陣痛(出産)を抑える為に鎮懐石(ちんかいいし)を御裳(みもすそ)(袴)の腰帯に巻き付けられてのご出陣となりました。”

“参考までに、現存する高句麗の「広開土王碑の碑文」に倭軍(日本軍)が韓半島へ進出したことが記されていますが、神功皇后の時代と一致していると云われています。
 皇后は平定後に筑紫国にお戻りになり、応神天皇をご出産になりました。”

“応神天皇御降誕の聖地を人々は宇瀰(うみ)と名付け、そこには現在、宇美八幡宮が御鎮座。境内の摂社聖母宮(しょうもぐう)には神功皇后が祀られています。”

(「神功皇后祭」「大宮八幡宮境内案内」https://www.ohmiya-hachimangu.or.jp/4685

☆☆

言葉の意味

熊襲:現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称

三韓:新羅、百済、高麗

広開土王碑(こうかいどおうひ):好太王碑(こうたいおうひ)ともいう。高句麗の第19代の王である好太王(広開土王) の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑。

み軍(いくさ、軍隊)の先頭に立って指揮する姫君というイメージが私の中に幼い時からありました。手塚治虫の『リボンの騎士』は夢中になって読みました。物語の最初のところで、男の子として育てられたサファイア姫が、白馬に跨って颯爽と閲兵式に臨む場面の絵のりりしさ、美しさは今でも目の前にありありと浮かびます。

岸壁に立って髪をなびかせ、海を渡る風に立ち向かう少女の絵を描いたこともあります。これは幼いころに話を聞いた神功皇后から得たイメージだったのかもしれません。

摂政として70年間、国を統治され、亡くなられた後に、応神天皇が御位に就かれたので、その間は実質的に君主であられたと思われます。また新羅征討の時、身重であられた、御妊娠、御出産が統治に影響を与えなかったという点も特筆すべきことだと思われます。

今日も読んでいただきありがとうございました。
晩秋と思えない暖かい日が続いていますが、紅葉は着実に進み赤や黄色に染まっているのを見て、日本の四季のあることをありがたく思います。
皆様、どうぞ今日も希望を持ってお元気にお過ごしください。


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天皇の御歌(54)―第15代・応神天皇 [応神天皇]

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今日も、第15代・応神天皇の御歌を学びます。3回目です。

御在世:200~310(崩御・110歳)
御在位:270~310(70歳~110歳)

☆☆☆

“三十一年(300)の秋八月(はつき)、「枯野(からの)と名(なづ)くるは、伊豆国(いづのくに)より貢(たてまつ)れる船なり。是(これ)朽(く)ちて用ゐるに堪へず。然れども久(ひさ)に官用(おほやけのもの)と為りて、功(いたはり)忘(わす)るべからず。何(いか)でか其の船の名を絶たずして、後葉(のちのよ)に伝(つた)ふることを得む」とのたまふ。群卿(まへつきみたち)、……其の船の材(き)を取りて、薪として塩(しほ)を焼かしむ。……焼きし日に、餘燼(あまりのもえくひ)有り。その燃えざることを奇(あやし)びて、獻(たてまつ)る。天皇(すめらみこと)、異(あやし)びて琴に作らしむ。其の音(ね)、鏗鏘(さやか)にして遠く聆(きこ)ゆ。其の時に、天皇、歌(みうたよみ)して曰はく、

枯野(からの)を 鹽(しほ)に焼き 其(し)が餘(あまり)
琴に作り 掻き弾くや 由良(ゆら)の門(と)の 
門中(となか)の 海石(いくり)に 觸(ふ)れ立つ
なづの木の さやさや

(*なづの木=水の中につかってゐる木、海藻のことか)(日本書紀、巻第十))”(p25)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

伊豆の国:かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

由良の門:紀伊半島と淡路島の間の海峡。

海石(いくり):海中の岩。

なづの木:水につかっている植物(葦、萱)、海藻

文の説明と御歌の解釈

応神天皇の御代31年(300)の秋の8月(旧暦、新暦では8月下旬から10月上旬ごろ)枯野(からの)と名付けられたのは、伊豆の国から献じられた船であった。この船が古くなって使い物にならなくなった。けれども公用に功績があったものだから、どうしたらこの船の名を後世に残すことができるだろうと、天皇が仰せられた。群臣は…その船の材木を燃やして塩を焼かせた…焼いたときに燃え残りの木が出た。燃え残ったのを不思議に思って、天皇に奉った。天皇も不思議に思われて、その木材で琴を作らせた。琴の音は冴えて遠くまでよく聞こえた。その時に天皇は歌を詠まれた。

枯野(からの)の船の廃材を塩焼きに使ったら、その材が燃え残ったので、琴を作って爪弾(つまび)いたら、由良の海峡の真ん中にある、海中の岩に触れて立つ、水に浸かった草のように、さやさや、と音を立てたよ

感想:

天皇が愛用された献上船が、すっかり傷んでしまって用済みとなりました。船の功績を讃えて、何とかその名前を残せないかと思われたが、その方法が思いつかないまま、船は塩焼きの焚き木に使われることになりました。ところが全部燃えるはずの木材の一部が、不思議なことに燃え残ってしまったので、その木材を、天皇に奉りました。天皇も不思議に思われたので、その木材で琴を作らせたら、琴の冴えた美しい音色が由良の海峡まで、響き渡ったので、御歌を詠まれたとのことです。琴の名前は枯野(からの)となって、船の名が残ったのでしょう。

船にも、後世に名前を残してあげようと、人間のように見ているところが、素敵だと思います。

私も、海岸で船の行き交うのを見ていたことがありますが、じっと見ていると用途によって、形や大きさが様々で、色や形が楽しいです。商船同好会という商船模型を作る人々もあるようですが、少し、その気持ちが分かる気がします。

御歌の「なづの木の さやさや」で終わる、ことばの響きがきれいです。海の中の石、海水に浸かった草、どちらも船の「からの」にとっては、日ごろ親しんだ懐かしい石、忘れられない草木の擦れる音だったことでしょう。そんな船の身になりかわって、歌われているお優しい御歌だと思います。船にもいのちがあるのを感じておられたのですね。

今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって、素晴らしい秋の日でありますようお祈り申し上げます。

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愛子さま皇太子への道―眞子様のお気持ち表明に接して [秋篠宮家]

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「愛子さま 皇太子への道」のサイトに、「眞子様のお気持ち表明に接して」という記事が掲載されました。

秋篠宮眞子内親王のご結婚について国民の心配の声が聞かれる中、このように皇室への敬意あふれる良識的な記事を読みますと、心の底からホッといたします。筆者の冷静な語り方を見習いたいです。


☆☆☆

“文書の中で眞子さまは、「今後の予定等については、今の時点で具体的なものをお知らせすることは難しい状況」と、ご結婚の再延期を表明されています。

しかし同時に、「私たちにとっては、お互いこそが幸せな時も不幸せな時も寄り添い合えるかけがえのない存在であり、結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」と、ご結婚についてのお二人の強いご決意が改めて表明されており、国民の一人として嬉しく頼もしい気持ちになりました。

国民がご結婚の行方を心配する中若いお二人がお気持ちをまとめて公表したのですから、我々国民も、お二人が安心して新しい生活に踏み出せるよう環境を整えることでお二人にお応えしなければなりません。”

(「眞子様のお気持ち表明に接して」「愛子さま 皇太子への道」2020年11月14日
https://aiko-sama.com/archives/3990

☆☆☆

眞子様のお気持ち表明に接して、”ご結婚についてのお二人の強いご決意が改めて表明されており、国民の一人として嬉しく頼もしい気持ちになりました”とまっすぐに申し上げられることはすばらしいと思います。

“国民も、お二人が安心して新しい生活に踏み出せるよう環境を整えることでお二人にお応えしなければなりません”は、国民の皇室の方々にとるべき姿勢がはっきりと打ち出されています。

皇室典範を速やかに改正して女性宮家を創設し、上皇陛下の初孫であられる眞子様に女性宮家の当主になっていただくのが最善の選択枝です。そうなることを心から願っております。


眞子様は、平成30年にブラジルをご訪問されました。クリーム色のワンピースをお召しになり、ブラジルの日系人移住110周年記念式典において、皆様の前で、真心のこもったご挨拶をされる品位あふれるお姿をテレビで拝見したことを思い出します。

“日本からの移住者とそのご子孫が,大変な苦労と想像を絶するような困難を勤勉さと誠実さを持って乗り越えてブラジルの発展に貢献され,ブラジルの人々から厚い信頼を得て,日本・ブラジル両国の架け橋となってこられたことに,また,努力を積み重ねて今日の日系社会の発展を築きあげられたことに,改めて,心より敬意を表します。そして,この歴史が,未来を担う世代にも大切に引き継がれていきますことを願います。”

(「ブラジル訪問を終えて(平成30年8月8日(水))」https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/39

令和元年には、ペルー、ボリビアもご訪問され、国際親善に努められています。

若い女性として、どれほどのプレッシャーのもとに、海外のご公務に臨まれているのだろうと、そのご努力に深い敬意を覚えるばかりです。

また眞子様は学芸員の資格も取得され、東大博物館で”非正規"勤務を続行されています。
眞子様が非正規勤務を選ばれたことについて、週刊女性2016年3月15日号は次のように報じています。

☆☆☆

“秋篠宮家の長女・眞子さまは、国際基督教大学(ICU)時代から美術を学び学芸員の資格も取得され、レスター大学大学院の修士論文のテーマは「博物館における展示物の解釈の可能性」だった。

そんな眞子さまは現在、東京大学総合研究博物館と日本郵便がコラボした『インターメディアテク』というミュージアムに“就職”し、研究活動も続けられている。

 ただ、眞子さまは「客員研究員」という無給の“非正規雇用”的な契約で、私的事項としてこの勤務について公表されるつもりはないという。“

(中略)

“眞子さまが正規ではない形で、勤務を続ける理由を前出・関係者(秋篠宮家を知る関係者)が明かす。

「内親王、皇族としての公的な活動を優先させるためです。やはり、博物館や研究機関の正職員や正社員になると、決まった日時での出勤や仕事となり、公務との両立が難しくなります。

 そこで、お給料も発生しないかわりに、時間の融通がきく“フリー”の形を続けることになったようです」“

(眞子さま、東大博物館で”非正規"勤務を続行される深い「理由」週刊女性2016年3月15日号、https://www.jprime.jp/articles/-/6778

☆☆☆

このように才能豊かで、なおかつご公務を優先されるため、「非正規雇用」的な契約を選んで研究を私的事項にされるという真摯な責任感を持つ誠実な方を、女性だからという理由で、皇室から失うのは、日本の国にとって大きな損失です。

眞子様のお幸せを心よりお祈り申し上げます。同時に皇室に残っていただきたいと切に思う次第です。

今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって幸多い一日でありますよう、お祈り申し上げます。

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天皇の御歌(53)―第15代・応神天皇 [応神天皇]

PICT1788お酒20201112blog.JPG今日も、第15代・応神天皇の御歌を学びます。2回目です。

御在世:200~310(崩御・110歳)
御在位:270~310(70歳~110歳)

昨日のブログでは応神天皇の御在世・御在位期間を間違えて掲載しており、本日訂正いたしました。深くお詫び申し上げます。

それにしても、御寿命が110歳、即位されたのが70歳でそれ以後110歳まで天皇であられたというのは、御年齢などの細部は史実と言い切れず、伝承であろうと思いますが、それで応神天皇の実在が否定されるわけではありません。そのお名前の方は実在されただろうし、その伝承が、古代の人々の心に生き続けて、今日まで生き生きと語り伝えられていることを大切にしたい、そういう気持ちで、学ばせていただきます。

 応神天皇の時代は、大和朝廷の勢力が、内外に飛躍的に発展した時期で、朝鮮半島の百済の国から貢物(みつぎもの)があり、これに対して、天皇は「品物もよいが、賢い人がいたら、そういう人をいただきたい」とご希望になり、それに応じて百済王から「王似(おに)」という学者が派遣されてきました。王似は、「論語(ろんご)」十巻(とまき)、「千字文(せんじもん)一巻(ひとまき)を日本に伝え、あわせて、機織・造酒などの大陸文明が、日本に伝来することになりました。

言葉の意味

論語:中国の思想書。20編。孔子没後、門人による孔子の言行記録を、儒家の一派が編集したもの。四書の一。

四書:「大学」「中庸」「論語」「孟子」の4 部の書。五経と並んで儒学の基本となる書。

千字文:子供に漢字を教え、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩。 1000の異なった文字が使われていて、全て違った文字で、一字も重複していない。

機織(はたおり):機で布帛を織ること。 また、その人。

造酒(ぞうしゅ):酒を醸造すること。 酒造。

☆☆☆

“天皇(すめらみこと)、百済(くだら)の国に、「若(も)し賢(さか)しき人有らば貢上(たてまつ)れ。」と科(おほ)せ賜(たま)ひき。故(かれ)、命(みこと)を受けて貢上(たてまつ)れる人、名は和邇吉師(わにきし)(註・王仁(わに))。即ち論語十巻(とまき)、千字文一巻(ひとまき)を是の人に付けて即ち貢進(たてまつ)りき。……又、酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦(また)の名は須須許理等(すすこりども)、参渡(まひわた)り来(き)つ。故(かれ)是の須須許理、大御酒(おほみき)を醸(か)みて獻(たてまつ)りき。是に天皇、是の獻(たてまつ)りし大御酒に宇羅宜(うらげ)て(註・心が浮き浮きされて)御歌(みうた)曰(よ)みしたまひしく、

須須許理が 醸みし御酒(みき)に 我(われ)酔(ゑ)ひにけり
事無酒(ことなぐし) 笑酒(えぐし)に 我(われ)酔(ゑ)ひにけり(以上、古事記、中巻)”(pp24~25)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味

大御酒(おほみき):神や天皇などに奉る酒

うらげ:「すゞろに心おもしろく、浮キ立ツを云と聞こゆ」(古事記伝)

事無酒(ことなぐし):コトナグシはコトナグクシの約で、憂鬱なことなどを慰めてくれる酒の意。

笑酒(えぐし) :ヱグシは飲めば微笑まずにいられない酒の意であろう。

*クシはクスリなどと同根の語で、霊妙なもの。ここでは酒のこと。

言葉の意味、解釈については、以下のネットを参考にさせていただきました。
(「千人万首」「応神天皇」
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/oujin.html


詞書と御歌の解釈:

天皇が百済の国に「もし賢い人があるなら、その人を私にいただきたい」とおおせられた。その命を受けて、百済から派遣された人があり、その名を和邇吉師(わにきし)と云った。論語十巻と千字文一巻も、その人と一緒に献上された。…また酒の醸(かも)し方を知っている人、名を仁番(にほ)、亦(また)の名は須須許理等(すすこりども)(すすこりが徒弟を連れて)、百済から海を渡って参った。この須須許理は、神や天皇などに奉る酒を醸して、天皇に献上した。その時、天皇は、この奉られた神酒を手に、心おもしろく浮き浮きとされて、御歌をよまれた

須須許理(すすこり)が醸したお酒に私は酔ってしまった、よく効く薬のように憂鬱なことをはらって、慰める酒に、飲めば微笑まずにいられない酒に、私は酔ってしまったよ

感想

詞書によれば、日本に論語と千字文が入ってきたのは、3世紀後半~4世紀前半ということですね。仏教の伝来は私が小学生の頃、「ほっとけほっとけゴミ屋さん」として538年と習っていました。儒教のことは記憶になかったのですが、仏教よりも100~150年ほど前に、王似(わに)が日本に伝えたという伝承があったことを今回初めて意識しました。

『論語』は、日本人の日常生活の中に浸透しています。母がよく口にしていた言葉に「己の欲せざる処を人に施すことなかれ」でした。「自分が人からされて嫌なことは、人に対してするな」という意味ですが、これも論語の中の言葉です。

儒教が本格的に日本に伝わったのは、第26代・継体天皇の御代で513年、百済より五経博士が渡日して以降とのことです。儒学の基本は四書五経で『論語』は、その一部ですが、それでも当時の日本人の目には新鮮な学問と映ったことでしょう。

書の手本となる千字文については、初耳でした。あるいは習っていても、右から左へ頭の中を通過していったのでしょう。千文字の漢字が一つの重複もなく、漢文の長詩になっているとのことで、「いろは歌」が漢字で千文字の詩になっているようなもので、これまたびっくりしますね。

Wikipediaによれば、ところが、千字文が成立したのは6世紀前半(梁 (502–549) の武帝の時代)とのこと、4世紀前半に王仁(和邇吉師(わにきし))が百済から持参したとの日本書紀の記述と矛盾を生じます。この時期的な矛盾について“記事自体をただの伝説であると捉えられたり、いくつかの事実を反映しているという意見や、別の千字の文が伝えられた”という意見があるそうです。私は“別の千字の文が伝えられた”というのが、夢があるように思いますが、その辺りは今後の考古学の研究の成果を待ちたいです。

機織りや造酒の大陸文明も、応神天皇の時代に伝わったとのこと、それまでも機織りや造酒が無かったわけではないと思いますが、飛躍的な工夫が凝らされた造酒、機織り技術だったということなのでしょう。大陸の造酒であれば、漢方薬の知識など生かした、格段に美味しい御酒ができたのだろうと思います。天皇がそれを大いに喜ばれたというのが、御歌にあらわされていて、ほのぼのとした感じがいたします。

{コトナグシ}=事無くする薬、とか、「エグシ」=笑いの薬とか、お酒を讃えられて、酒を醸した須須許理(ススコリ)も、さぞ嬉しかったことでしょう。

日本人はお酒飲みに寛大と言われますが、大御酒が神や天皇に奉る酒であったという、日本の歴史に基づくものなのでしょう。私自身はお酒に弱く、ほとんど飲めないのですが、日ごろ無口だが、お酒を飲んで朗らかになる人と同席するのは、嫌いではありません。健康に良い飲み方は「百薬の長」として、大目に見たいと思います。私も、寝る前に梅酒をお湯割りするとよく寝られると勧められていただいたので、それを飲んで、身体を温めたいと思います。

今日も読んでいただき有難うございました。

今日一日が素晴らしい一日でありますように。
朝晩、寒くなってまいりました。寝るときは暖かくしてお休みください。

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天皇の御歌(52)―第15代・応神天皇 [応神天皇]

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今日は第15代・応神天皇の御歌を学びます。

御在世:200~310(110歳)
御在位:270~310(70歳~110歳)

応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)と申し上げ、第14代・仲哀天皇の第四皇子で、母君は、仲哀天皇の后、神宮皇后です。

神功皇后は「皇后」で、天皇ではないのですが、日本書紀には「天皇」との記述があり、明治時代までは、一部史書で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていたとのことです。そこで、女性天皇に準じて学びたいと思いまして、神功皇后の時代背景を知るために、お子様の応神天皇を先に学ぶことにしました。

応神天皇の3代前、第12代・景行天皇の御代に、皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征・征西があり、大和朝廷による国内の統一がほぼ達成せられました。

母君、神功皇后は朝鮮半島新羅に出征せられ、その間、応神天皇は神功皇后の胎中にあらせられたことから、「胎中天皇」とも言われました。



☆☆☆

“あるとき、天皇(すめらみこと)、近つ淡海(ちかつおうみ)の国に越え幸(い)でましし時、宇遅野(うぢの)の上(ほとり)に御立(みたち)したまいて、葛野(かづの)を望(みさ)けて歌曰(うた)ひたまひしく、

千葉(ちば)の 葛野(かづの)を見れば 百千(ももち)足(だ)る
家庭(やには)も見ゆ 國の秀(ほ)も見ゆ
(*百千たる=民家が満ち栄へてゐる)
とうたひたまひき。

(中略)(以上、古事記、中巻)”

(pp23~24)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味

近つ淡海:琵琶湖(びわこ)。 また、琵琶湖のある所の意で、近江(おうみ)の国(滋賀県)の古名。 近い淡海(=湖)の意。 「あふみ」は「あはうみ(淡海)」の変化した語。

宇遅野(うぢの):「宇遅」は今の京都府宇治市。

上(ほとり):付近

千葉:葛野の枕詞。「葉がたくさん繁る」という意を籠めた讃め詞

葛野(かづの):京都府宇治市の西

望(みさ)ける:遠く見やる。眺望する。

百千足る:十分に満ち足りている。

國の秀(くにのほ):国のすぐれた所。具体的には山に囲まれた平坦な広い土地を言う。

言葉の意味、解釈については、以下のネットを参考にさせていただきました。
(「千人万首」「応神天皇」
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/oujin.html


詞書と御歌の解釈:

ある時、天皇が近江の国に行幸されたとき、宇治のあたりに御立ちになって、葛野を遠く見渡しながら、歌われました。

葉がたくさん繁る葛(かつら)のように緑豊かな葛野を見れば、十分に満ち栄えている家々が見えるし、山に囲まれた広々とした美しい平野も見えるよ


感想:

これは「国見」の御歌だと思いました。

国見:天皇や地方の長 (おさ) が高い所に登って、国の地勢、景色や人民の生活状態を望み見ること。もと春の農耕儀礼で、1年の農事を始めるにあたって農耕に適した地を探し、秋の豊穣を予祝したもの。

天皇が高いところに上って、葛野の原や、各家の情景を歌い、良い言葉でほめたたえて、秋の豊かな実りと土地、人々の繁栄を祈ることが、古代から行われてきました。

現代に置き換えれば、天皇が日本各地に行幸されて、行く先々の土地や産業を見て、人々を励まし、ほめたたえることに、その伝統はつながっています。


日本武尊の御歌

『倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し』
(大和は国の中でも最もよいところだ。重なり合った青い垣根の山、その中にこもっている大和は美しい)

も、望郷の歌ですが、国をほめたたえる「国見」に相通ずる御歌とも思えます。


第34代・舒明天皇の御製

“大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ
天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば
国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ
海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ
うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は"

“大和には多くの山があるけれど とりわけ立派な天の香具山 その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国は”
 (http://manyou.plabot.michikusa.jp/yamatoniha.html

も、有名な国見の歌です。


私の実家は丘の上にあり、入居した頃は、建っている家がまだ少なかったので、2階の窓から丘の下の平地まで広く見渡すことができました。

晴れた日に窓から遠くを見ながら、「倭は国のまほろば~」とか「大和には群山あれど~」などと、一人で両手を広げて、家族には聞こえないような音量で、叫んでいました。「国を祝福する」「住んでいるところに感謝する」思いを込めて……。 実に気持ちがよかったです。

皆さんも、旅行に行ったときなど、山の上や丘の上で、周りに人のいないことを確かめて、この御歌を、目に見える土地や住人への祝福と感謝の思いとともに、朗誦してみたらいかがでしょう。爽快な気分になれますよ!

今日も読んでいただき、有難うございました。

秋晴れの日差しが気持ちのいい日です。皆様にとって快適な一日でありますよう、お祈り申し上げます。

註:ご在世と御在位期間を、昨日(11月11日)間違えて記載したので、本日(11月12日)に訂正いたしました。不注意をお詫び申し上げます。どうぞご了承ください。
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安定的な皇位継承のために、女系天皇容認を! [皇室典範改正]

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昨日の日本経済新聞に、以下のような記事が掲載され、菅首相が「立皇嗣の礼」の後に、「安定的な皇位継承策」を検討する考えを示したことが、報道されました。

皇室典範改正の議論が始まり、速やかに改正されることを、強く希望いたします。


☆☆☆

“首相、安定的な皇位継承策「立皇嗣の礼」後に検討

菅義偉首相は4日の衆院予算委員会で、安定的な皇位継承策について8日の「立皇嗣の礼」終了後に検討する考えを示した。2017年の皇室典範特例法の付帯決議で政府に速やかな検討を求めていることに触れ「決議の趣旨を尊重し対応したい」と話した。

国民民主党の玉木雄一郎代表の質問に答えた。天皇の代替わりに伴う一連の皇室行事は8日で一区切りとなる。

皇位継承策の検討では女性皇族が結婚後も皇室に残る「女性宮家」の創設や、女性天皇・女系天皇の是非が論点になる。首相は「先延ばしできない重要な課題と認識している」と言及した。”

(日本経済新聞2020/11/4 19:00
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65825240U0A101C2PP8000/

☆☆☆

文中にある、2017年の、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の「附帯決議」は、以下の通りです。

☆☆☆

“◎天皇の退位等に関する皇室典範特例法
(平成二九年六月一六日法律第六三号)

(中略)

○附帯決議(平成二九年六月七日)
一 政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、
皇族方の御年齢からしても先延ばしすることはできない重要な課題であることに鑑み、
本法施行後速やかに、皇族方の御事情等を踏まえ、全体として整合性が取れるよう検
討を行い、その結果を、速やかに国会に報告すること。
二 一の報告を受けた場合においては、国会は、安定的な皇位継承を確保するための方
策について、「立法府の総意」が取りまとめられるよう検討を行うものとすること。”

☆☆☆


政府は、本法を「平成 31 年4月 30 日」に施行し、すでに、それから1年半たっています。先延ばしせず、速やかに検討し、女系天皇も容認する決議をしていただきたいと切に希望します。

父方が天皇の家系である女性天皇は歴史的にあったのでよいが、父方の家系が一般庶民となる「女系天皇」はこれまでの日本の歴史になかったので、認められない、という意見があります。

しかし、昨日も書いたように、昭和天皇の御英断により、古代からの日本の歴史になかった、皇室の「一夫多妻制の廃止」があったために、必然的に、父方が天皇の家系である「男系」による継承が続かなくなったという、歴史上かつてなかった、新規の事情があります。

愛子さまが女性天皇になられるのはよいが、愛子さまの御子様の皇位継承は認められない、という意見があります。また、女性宮家の創設は良いが、女性宮家に誕生した方の皇位継承は認めない、という意見があります。

そうなると、女性天皇が即位されても、女性宮家を創設しても、一代限りで終わりということになり、即位、創設の意味がありません。母方が天皇の家系である女性天皇の御子様、女性宮家の御子様の皇位継承も容認するほかに、今の危機を脱する手立てはありません。


旧宮家の復活という案を唱える人があります。

旧宮家の方々を、男系男子という視点のみで見た場合、どの天皇の男系子孫かと調べてみました。

今日の皇室と旧宮家の共通の先祖たる天皇は、北朝第3代・崇光天皇(すこうてんのう)です。

御在世:1334~1398(崩御65歳)
御在位:1348~1351(15歳~18歳)

すなわち、天皇の男系子孫ということを強調するなら、600年前の天皇の男系子孫ということになります。「男系男子の継承にこだわる」という主張ですが、600年前に分かれた家系につらなるとはいえ、皇籍を離脱して70年を経た方の子孫を、天皇陛下のいらっしゃる皇室に生まれ育った内親王方よりも重視することは、不自然ではないでしょうか。内親王方が男性でないというだけの理由で……。

仮に旧宮家の方を皇室に迎え入れたとしても、一夫一妻では、旧宮家もいずれ断絶します。現に、11あった宮家も、70年を経て、5つの宮家が既に断絶しています。男系男子の継承を保ち続けることは、どのような家でも、「一夫一妻」と両立できません。

これらのことを考えて、敬宮愛子内親王に、皇太子となっていただき、ゆくゆくは女性天皇になっていただくこととあわせて、眞子様、佳子様を当主とする女性宮家の創設、女性天皇、女性宮家の御子様方も皇位継承を可能とする「女系天皇容認」を取り入れた「皇室典範改正」を、政府に検討していただき、国会決議していただきたいと、切に希望いたします。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって、希望に満ちた一日でありますよう、お祈り申し上げます。


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天皇の御歌(51)―第122代・明治天皇 [明治天皇]

PICT0324青空20201105blog.JPGちょっと遅くなりましたが、11月3日の文化の日(戦前は明治節)に関連して、明治天皇の御歌を学びます。

御在世:1851~1912(崩御・61歳)
御在位:1867~1912(16歳~61歳)



「明治節」という歌があります。戦前生まれの母はこの歌が大好きで、私も一緒に歌います。歌詞は格調高く、メロディーは美しく、母が好きになるのはよく分かります。

戦後は、戦争と結び付けられて歌われなくなってしまったようですが、もったいないことです。長い歴史のスパンで見れば、明治天皇の御代は日本の転換期で大きな飛躍の時代でもありました。第二次大戦は痛切な悲しみの出来事で、反省すべき点も多々あり、あのような戦争が2度と繰り返されないことは肝要なことです。けれどもそのことと、明治時代が先人の切実な苦難と努力の時代であったことをしのぶことが、両立できないことはないと思います。「明治節」の歌も、歴史をしのぶよすがとして、歌われる機会があってもよいのではないでしょうか。

明治天皇は御生涯に9万2千32首の御歌(御製)を詠まれました。驚異的な数です。それだけ明治が凝縮された時代であったことと思います。


☆☆☆

“折にふれて

さまざまの うきふしをへて 呉竹(くれたけ)の
よにすぐれたる 人とこそなれ

うきふし―つらいこと、
へて―経て
呉竹―世(よ)にかかる枕詞
よ―竹の節と節との間(よ)と世間とにかけた用語。

竹の幹(みき)が多くの節(ふし)を持って、どんな風雪にも耐えられるように、人はさまざまの艱難辛苦(かんなんしんく)を凌(しの)いで、はじめて世の中に優れた人となるのです。”(pp22~23)


“折にふれて

世の中の ひとにおくれを とりぬべし
すすまむときに 進まざりせば

折にふれて―その場、その時に応じて、
おくれ―……よりあとになる、とりのこされる
とりぬべし―とってしまうはずである

世の中は日進月歩(にっしんげっぽ)で、絶えず進歩しています。もしも日ごろの努力を怠ると、進むべき時に進まれず、世間から取り残されてしまいましょう。”(pp24~25)


“天

あさみどり 澄みわたりたる 大空の
広きをおのが こころもとがな

あさみどり―うすい緑色

おのが―自分、自分の心

がな―希望の意をあらわす

あさみどり色に晴れて澄みわたった大空のように、広い大きな心を、お互の心として、日々の生活に励みたいものです。”(pp40~41)

『大御心 明治天皇御製 教育勅語 謹解』明治神宮社務所)

☆☆☆

第3首目を詠まれたのは、明治37年―1904年―御年53歳ですが、他の2首については、いつ詠まれたのか、手持ちの本では分かりませんでした。

それぞれに解釈が付されていますから、感想だけ述べさせていただきます。

1首目の感想
「呉竹」は、第117代・後桜町天皇も詠まれていました。明治天皇の皇后、昭憲皇太后の御歌にもあります。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-07-20

昭憲皇太后は素直な心を詠まれましたが、呉竹は、節(ふし)という苦難をのりこえる心でもあります。素直に努力することが、人生で次々に現れる苦難を乗り越える道でもあるのでしょう。それを乗り越えたとき、“艱難汝を玉にす”とのことわざのとおり、ほんとうの意味ですぐれた人になれるというお言葉から、御心労の多かった明治天皇の、どんな困難も乗り越えてこそ人格が磨かれるとの、強い御心が感じられます。強く生きようという勇気を与えられる御製です。

2首目の感想
「おくれをとる」を、最初は人類の進歩、科学技術などのことと思っていましたが、今読み返すとそれだけではなく、文化や伝統、生活習慣なども含まれることに気が付きました。

 天皇陛下は、伝統の守り手でありながら、科学技術でも、生活習慣でも、変えるべきと思われたら、先頭に立って新しいものを取り入れて来られました。生活習慣では、髪型、洋装、肉食の導入など、率先して洋風を取り入れられました。その御姿勢が、当時の日本に必要だった、急速な近代化と国際化を促したと思います。

生活習慣では、有史以来、続いてきた一夫多妻の慣習を廃止して、一夫一婦制に改められた昭和天皇の御英断が思われます。皇室における皇族や華族からお后を迎える慣習を止めて、一般庶民からお后(正妻)を迎えられた上皇陛下、その革新の延長線上に、女性天皇、男系男子に限定しない女性宮家創設があると思えます。

伝統を継承しつつ、時代とともに新しいことも躊躇することなく取り入れる斬新さ、それが皇室の特色であり、それがあったればこそ、2600年以上、絶えることなく続いてきたのだと思います。

進むべき時は、思い切って進まなくてはならない、そういう御製です。


3首目の感想
なんともいえないさわやかな御製ですが、このたびは、日露戦争開戦の年に詠まれたこと御製であることに思いをいたし、心打たれました。日本の存亡をかけた大きな戦争が始まった年に、このような御心を持っておられたことを、心に留めたいと思います。

“四海同胞
よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ“

は、よく知られた、明治天皇の御歌ですが、やはり明治37年の御歌です。この御製を拝誦し、世の中の種々の争い事を見聞きしますと、明治陛下の御悲しみが切々と伝わってくる心地がいたします。

形の上では、一時争うことがあっても、晴れ渡った大空のように澄んだ広い心をお互いに持つようにつとめれば、争いも最小限となり、早期に止むことでしょう。そのように願わずにはおれません。


今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって、晴れやかな一日でありますよう、お祈り申し上げます。

タグ:後桜町天皇
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天皇の御歌に親しむ(2) [ブログについて]

DSC_0780どんぐり20201104blog.JPG昨日の続きで御製と和歌について、『歴代天皇の御歌』の「編集ノート」から、学びます。

ここに「和歌を詠む」ことは「やむにやまれぬ思ひを発露させるための大切なてだて」であり、「和歌を詠む」ことが、「日本人の誰もが践むことのできる道」と書かれていました。

和歌を詠むのは、日本語を書く人なら誰でもできます。それが道、歌道でもあるということですね。「和歌の前に平等」という言葉があります。新年の宮中の歌会始はそうです。国民の誰もが応募することができます。私はまだ応募したことはありませんが、お正月に中継を見られる時はできるだけ見ています。楽しみにしています。

昨日はこの言葉のお薦めに従い、3首ほど、和歌を詠んでみました。言葉を選ぶのが楽しかったです。

「編集ノート」、正確なタイトルは「編集にあたってのいくつかのノート」ですが、そこに次のような内容が書かれています。

天皇の皇位は、初代・神武天皇から昭和天皇まで124代にわたって継承されています。(出版当時の昭和48年のことです。令和2年、現在は126代です)

重祚(お一人が皇位に2回つかれること)が2度あるので、御人数は122人(令和2年現在は124人)、女性の天皇は8方おられます。このほか北朝の皇位が5代続いていて、「歴代外」とお呼びしています。「歴代外」の天皇方も、皇室の皇統譜に登録されています。

皇統譜(こうとうふ):天皇および皇族の身分に関する事項を記載する帳簿

歴代・歴代外あわせて127人(現代では129人)の天皇方がおられます。そのうち、20人の方々の御製は今日に伝わっていないので、107人(現代は109人)の方々の御製が今日まで伝わっています。

『歴代天皇の御歌』には、91人の方々の御製が集録されています。

この説明の後に、次の通り、書かれています。

☆☆☆

“わが日本に皇室が連綿として続いてゐることと、右のこととが、いったいどういふ関連性を持ってゐるかについては、軽々に論じ得ないが、せめて次のことだけはここに記しておきたいと思ふ。

日本最古の和歌としては、タケハヤスサノヲノミコトの

「八雲立つ 出雲八重垣 妻隱みに 八重垣つくる その八重垣を」(『古事記』・上巻)

の御歌があり、古くから五・七・五・七・七の句節をもった三十一文字(みそひともじ)といふ短歌形式が、日本に伝へられてきた。「古今和歌集」の編者の一人紀貫之(きのつらゆき)も、その「序文」にこのことに触れて

「やまとうた(和歌)は、人のこゝろ(心)を たね(種)として、よろづの こと(言)のは(葉)とぞ なれりける。 世中(よのなか)にある人、こと(事)わざ(業) しげ(繁)きものなれば、心におもふことを、み(見)るもの き(聞)くものに つけて、いひ(言)いだ(出)せるなり。花になく うぐひす、水にす(住)む かはづ(蛙)のこゑ(声)を き(聞)けば、いきとしい(生)けるもの、いづれか うた(和歌)を よ(詠)まざりける。 ちから(力)をも い(入)れずして、あめ(天)つち(地)をうごかし、めにみえぬ おに(鬼)神も あはれと おも(思)はせ、 おとこ(男)をむな(女)の なかをもやは(和らげ)、たけ(猛)き ものゝふ(武士)の心をも なぐさむるは うた(和歌)なり。」

と和歌とわが国民との深いつながりについて、懇切な説明をしてゐる。“ 

(p6)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

連綿:伸びる綿のように細くも長々と続く様

スサノオノミコトの和歌の解釈です。

「多くの雲が幾重にも重なって立ち上がる、めでたい出雲の地に、妻をこもらせるための新居をつくったよ、この新居を」

八重垣は、多くの垣根をめぐらすという解釈もありますが、必ずしもそうではなく、「新居」とシンプルに解釈している例がありましたので、そちらにしてみました。有名な和歌なので、色々な解釈があるようです。何しろ、日本最古の和歌ですから。

いずれにしましても、スサノオノミコトの、それこそ言葉にできないくらいのはじけるような、素直なよろこびが、何回も繰り返される「八重垣」にあらわされていると思います。

「貴子流離譚」という言葉があります。尊い身分に生まれた人が、故郷を離れ、諸国を放浪して、失敗や様々な困難に遭いながら、最後には、その困難を克服して幸せになるという話で、私の好きな話です。古代の、スサノオノミコトの伝承は、それを余すところなく、伝えています。

紀貫之の言葉も有名なので、知っている人も多いかと思います。

「和歌」は、人の心を種として、幾万の言葉となって、展開しているものである。世の中には、色々な事、色々な行いが、繁雑にあるものだが、心に思うことを、見るもの、聴くもの、何でも言葉に出すことで、ところを得させて、整えることができる。(梅の)花に鳴くウグイスも、池の水に住む蛙の声も、耳を傾けるなら、生きとし、生けるもの、すべてが和歌を詠んでいるではないか。力むこともなく、天を、地を動かし、目に見えない鬼神にも、あわれを、しみじみ心に染みる感動を、思わせ、男と女の中も和やかにして、勇猛な武士の心も慰めて安らかにするものが、和歌である」

だいぶ言葉を足した、私流の解釈です。どうぞ、ご了承ください。

「ウグイスも、蛙も、生きとし、生けるもののすべてが、和歌を詠んでいる」
なんてすてきな言葉でしょう! 

私の好きな、やなせたかしさんの歌では、「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ、友達なんだ」とありますが、虫も、きれいな声が出せる虫も、そうでない虫も、歌を歌っているのでしょう。草も花も、声は出せないけれども、人間が声をかけると、いっそうきれいな花を咲かせてくれます。そんなことも思います。

それらの生き物と人間が、通い合う心を歌に詠むこと、それは誰にとっても、無条件に楽しいことなのだと思います。

力を入れないでも、天地が動く、肉眼に見えない鬼神も感動する。さりげなく書かれていますが、天地が動くとは、驚くようなスケールの大きさですね。

雨乞いの歌、また源実朝の雨がやむようにとの和歌が思いおこされます。昭和天皇の頃は、「天皇晴れ」と言われましたが、外遊の時など行幸の先々で晴が続くことがよく聞かれました。舒明天皇の「国誉め」の和歌もあります。天地が和歌に感応するという、スケールの大きさに圧倒されます。

肉眼に見えない鬼神も、和歌で同じ感動を覚えて、心を鎮めるということも、考えて見たら、すごいことですね。男と女の仲も、ちょっとした言葉、真実の愛が込められた言葉で和らげられます。戦闘で荒んだ武士の心も、和歌によって慰められ、心の傷が癒されることも、紀貫之の体験に根差していることと思います。戦場に出た人も、社会生活で闘争に疲れた人も、音楽や歌に心が癒されるように、和歌で心が癒されるのではないでしょうか。

前回引用した部分に「編集にあたってのいくつかのノート」は、今日引用した部分の続きで、一続きの文章でした。

今日も読んでいただき有難うございました。

今日も素晴らしい一日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:皇室
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天皇の御歌に親しむ [ブログについて]

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ブログの第一の目標を「天皇陛下のことを気楽に話題にできるようにしたい」と書きましたが、その「よすが」として、なぜ「天皇の御歌(御製)」を学ぶことにしたのか、そのことを少し詳しく書いてみたいと思います。

天皇陛下のことを話題にするときに、一つの落とし穴があります。

それは、自己顕示欲のために、もしくは自分の属するグループを宣伝するために、天皇陛下の話題を利用するという落とし穴です。自分がそういう失敗をしてきたので、そのことを深く反省しています。

また、学問的に天皇陛下のことを調べると、とかく観念論に陥りがちです。ことに、天皇陛下についての意見が自分と対立する人との議論になると、互いに、理屈だけではなかなか納得できず、つい感情的になりがちです。皇室典範改正の問題について人と話すとき、そのことが感じられます。

そういうときに、天皇陛下の御歌(御製)を拝すると、一定の品位が保てるように思います。天皇陛下の御心に照らして、自分の言葉遣いを反省することができ、ことの本質に迫った会話ができます。

それは、天皇陛下御自身が、深い御内省の元に、心の真実を和歌の形で詠われているからだと思います。このことは『歴代天皇の御歌』の「編集ノート」に、次のように書かれています。


☆☆☆

“今日では、「和歌」は一種の趣味的な教養のひとつに考へられがちであるのに対して、古代からの日本人は(歴代の天皇がたは率先されてそれをなされたのであるが)、「和歌を詠む」といふそのことをもって、「やむにやまれぬ思ひを発露させるための大切なてだて」と受けとめ、「和歌を詠む」ことが、とりもなほさず「人の践(ふ)むべき道」「日本人の誰もが践むことのできる道」と理解してきたやうである。
ふりかへって考えて見ると、「自己の心のうちに生まれた感動」を、喜びにつけ、悲しみにつけ、また憤(いきどほ)りにつけ、それらをありのまゝに素直な〝ことば〟で、五・七・五・七・七の三十一文字の中に詠みあげるといることは、さう簡単に出来ることではない。まづ第一には、素材となる〝心の感動〟が生まれないやうな弛緩した生活からは、まともな和歌は決して生まれて来ない。そのうへ、心の中の感動を〝ことば〟に表現すると言っても、それを〝虚飾無く言ひ表す〟といふことは、さらにむづかしいことで、よほど虚心坦懐な心境に立たなくては、容易にできることではない。それは〝我を他人に良く見せよう〟とし勝ちな信条とはまさに正反対の努力を必要とするからである。
 このこと一つ考へてみても、わが歴代の天皇がたが、この「和歌」の御修業をその御生涯を通じて、かくも熱心にご努力された。といふことは、とりもなほさず、天皇が、その御主観が独善化しがちなことをきびしく御自省なされ、万人にかよふやうな広く豊かな御心をお持ち続けなさらう、と目指され、〝私心〟を離れるために絶大な御努力を一貫して受け継いで来られたことを意味するであらう。“
(p7)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

古代からの日本人は和歌を詠むことを「やむにやまれぬ思ひを発露させるための大切なてだて」と受け止め、和歌を詠むことが「日本人の誰もが践(ふ)むことのできる道」と理解してきたようです。

践(ふ)む:守り行う

「ふむ」には色々な意味がありますが、この場合「守り行う」がいちばんふさわしいと思います。


生きていると、自分の感情の微妙な動きを、ありのままに表現できない場面がたくさんあります。悲しみや憤りが心の中にたまって、憂鬱になることもあります。「やむにやまれぬ思い」を閉じ込めなければならないときがあります。喜びでも、感動でも、日常の言葉では十分に表しきれないことがあります。

それらの「やむにやまれぬ思い」は、日常の言葉に出来なくても、和歌に詠うことならできます。

ふつうの文章でそういう思いを書きつらねることや、冥想などで、心の内を見つめ直すこともできるでしょう。しかし、和歌に詠うことによって、よりいっそう「腑に落ちる」形に、できる気がします。

「やむにやまれぬ思い」を何回も自分の中で反芻し、その思いに即した言葉を選び、書き留めて、心の中をありありと見つめ直すことができます。自然の山野、風雨、植物、虫などに、その思いを託すこともできます。

歴代の天皇がたは「やむにやまれぬ思い」を言葉に託すこと、和歌を詠むことを、御修業とされました。それは、「自分をよく見せよう」という思いをなくして虚心坦懐な心境に立ち、主観が「独善化しがちなことを自省」して、「万人にかよう」広く豊かな心を持ち続けるという、厳しい道です。

天皇陛下のように、和歌を詠むことを通して修業することは難しいかも知れませんが、天皇が詠まれた和歌を学ぶことで、少しでも当時の天皇の御心に近づくことなら、誰でも出来るのではないかと思いました。

そこで、歴代の天皇が詠まれた御歌を読むことを続けてみよう、それを人に勧める前に「自分から始めよう」と思い立ちました。

予想以上に、それは楽しい作業でした。天皇陛下の御歌を写し、分からない言葉の意味を調べて、自分なりに解釈して説明を考えて書きとどめるのは。夢中で過ごした3か月余りでした。

それぞれの天皇が果たされた御事績も、少しずつですが、学ぶことができて、天皇が生きて来られた時代に、これまでよりずっと、親しみを感じられるようになりました。

天皇の喜び、悲しみ、天皇としての御覚悟を、御歌(御製)を通して学ぶことを選んで、ほんとうによかったと思いました。美しいお言葉に日々触れられる幸せをしみじみとかみしめています。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。

皆様にとって、今日も明日も、さわやかな日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:御歌 天皇 皇室
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この3か月をふりかえって(2) [ブログについて]

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雨上がりの朝顔です。
左下に朝顔の種もでき始めています。
生命は、来年にそなえています。





前回の「この3か月をふりかえって」を読み返して、肝心な目標を書いていなかったことに気が付きました。


【目標】その3

「皇位の安定的継承」について考える。

これはブログの期間限定的なテーマです。

【目標】その2の「女性天皇・女系天皇について理解を深める」は、どちらかといえば、【目標】その3の基礎知識を得るための中間的目標であり、【目標】その3をその2に変えてもよいくらいです。


そもそも、皇位の継承のあり方は、天皇陛下のご意向をそのまま実行することがいちばん望ましいことだと思います。戦前の旧皇室典範は「皇室の家法」という位置づけで、大日本帝国憲法と同格の法規とみなされていました。天皇のお心が皇室のあり方に直接、反映される形になっていて、天皇がお決めになることができました。 

旧皇室典範の改正又は増補は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされ(旧皇室典範第62条)、この手続きに「帝国議会の協賛又は議決」は要しないとされていました。

皇族会議:かつて存在した国の機関である。日本の皇室に関する重要な事項を合議するために、天皇親臨のもと、成年男子皇族によって構成されていた。

枢密顧問(すうみつこもん):大日本帝国憲法の第56条に定められた重要な国務に関して天皇に意見を述べる職。 枢密院の構成員

*枢密院:枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。1888年(明治21年)創設、1947年(昭和22年)5月2日、翌日の日本国憲法施行に伴い廃止。

諮詢(しじゅん):参考として他の機関などに意見を問い求めること。諮問。

勅定(ちょくじょう):天子がみずから定めたこと。また、天子の命令。勅命。


皇族会議、枢密顧問の意見を問うて求めますが、天皇ご自身が、結論をお決めになる事が出来ました。

天皇ご自身のご家系の跡継ぎのことなのですから、天皇家の歴史も諸事情も、いちばんよく知っておられる天皇がお決めになるのは、当たり前のことだと思います。


しかし、日本国憲法制定当時、日本を占領していたGHQの強い意向により、皇室典範の改正は国会の議決で行われることにより、皇室の制度そのものに国民の民意が国会を通じて関与することとなりました。つまり、時の政権と、現政権に一票を投じた国民の意向なしでは、決められないことになっています。


戦前は、国民が黙っていても、皇室の存続は「お上」(天皇陛下)が、決めることができたのですが、戦後は、国民が黙っていて、皇室の存続について、積極的に意思表明しなければ、消滅してしまう恐れさえあると言えます。今まさに、その危機に直面していると言っても過言ではありません。

悲観的なことは申し上げたくないのですが、「皇位の安定的継承」を確実にする期限がせまっています。

悠仁様がいらっしゃるから、その代までは安心と思う人があるかも知れません。しかし、畏れ多いことですが、悠仁さまがつつがなく即位されても、その時、各宮家には、同世代の皇族、悠仁さまより年の若い皇族が一人もいらっしゃらない可能性さえ、否定できません。そのような心細い状態になることが目に見えているのに、手をこまねいて、何もせずにいても、よいのでしょうか。

国民の大多数は、女性天皇に賛成し、女系天皇も70%以上が容認しています。その方向での皇室典範改正を、向こう1年以内に実現してほしいと、切望しております。そのために出来るところで、国民として、意見表明をしてまいります。


今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって、幸多い一日でありますよう、お祈り申し上げます。


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