天皇の御歌(50)―第108代・後水尾天皇(4) [後水尾天皇(明正天皇)]
今日は、第108代・後水尾(ごみづのを)天皇の御歌について学びます。4回目です。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)
御在位:1611~1629(16歳~34歳)
です。(1617年まで、御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇の院政は1629~1680年(34歳~85歳)の51年間
御父君、第107代・後陽成院崩御の時の「題知らず」の御歌です。
なお、後水尾天皇の生母は、大河ドラマ「麒麟がくる」に登場する、関白・近衞前久の娘の近衞前子で、後陽成天皇の女御として入内しています。そのことを、ちょっと念頭において、ドラマを鑑賞したいと思います。
☆☆☆
“後陽成院崩御、御いたみの御歌八首の次に、「又」として載せたる「題不知」御製十四首の中に(同右(元和三年ー一六一七ー御年二十二歳))
夕暮は いとどさびしき いろそへて 風にみだるゝ 庭のもみぢ葉
もみぢ葉を さそひつくして 吹く音は 木々にさびしき 夕嵐かな
かきくれぬ わかれし 今朝の面影の 立ちはなれぬも 落つる涙に
みちしばの 露の玉の緒 消えねたゞ 今朝のわかれに 何残るらむ
散りしくを また吹きたてて 夕風の 紅葉を庭に のこさぬもうし“
(pp232)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆☆
コトバの意味
いとど:ますますはなはだしい
夕嵐(ゆふあらし):夕方に吹く強風
かきくれぬ(掻き暮れぬ):「かきくれる」は心が暗くなる。悲しみに沈む。
みちしばの(道芝の):道ばたに生えている芝草。また、 雑草
玉の緒:生命、いのち
うし(憂し):つらい。苦しい
1首目。夕暮は、ますますさびしい色彩を帯びて、庭に散り敷いた紅葉の葉が、風に乱れている
2首目。紅葉の葉を、持ち運ぶ強い夕風の音が、木々にさびしく、吹き渡っていく
3首目。悲しみに沈んで別れた、今朝の父君の面影が、心から去らずに、涙となって落ちて行く
4首目。道端の芝の露のようにはかない生命よ、ただ消えないでおくれ、(父君との)今朝の別れに何が残るだろうか
5首目。庭に散り敷いた紅葉の葉を、夕風がまた吹きたてて、残さず飛ばしてしまうのを見るにつけても、別れをつらく思う
母君、近衛前子(後陽成の女御の中和門院)は、豊臣秀吉の「猶子」とのことです。
また、羽柴秀吉は、天正13年(1585年)、近衛前久の「猶子」となっています。
「猶子(ゆうし)」という言葉がよく出て来ます。「養子」に似ていますが、現代と、平安時代・戦国~江戸時代の使い方とは、意味合いが色々と違っているようです。ややこしいので、時間をかけて、丁寧に学んで行きたいと思います。
今日も読んでいただき有難うございました。
今日は良く晴れて気持ちの良い日でした。皆様、どうぞお健やかにお過ごしください。
天皇の御歌(49)―第108代・後水尾天皇(3) [後水尾天皇(明正天皇)]
今日も、第108代・後水尾(ごみずのお)天皇の御歌を学びます。3回目です。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)
御在位:1611~1629(16歳~34歳)
です。(1617年まで、御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇は御退位後も院政をお執りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)、51年間に及びました。
今日の御歌は御年37歳の時のものです。後水尾天皇の御譲位は34歳の時ですから、譲位後3年目、第109代・明正天皇の御代の時に詠まれている御歌です。
☆☆☆
“峰照射(寛永九年―一六三二―御年三十七歳)
明くる夜を 残す影とや 木のくれの 繁き尾上に ともしさすらし(聖廟御法楽)
秋里(同右)
秋さむき おのがうれへや わびかはす 暁ちかき しづがいへいへ(聖廟御法楽)
寄社祝(同右)
九重の ためならぬかは まもれたゞ 天津やしろも 国津やしろも(聖廟御法楽)
停年月(同右)
なかぞらに 月やなるらむ 呉竹のすぐなる影ぞ まどにうつれる
速(同右)
あづさ弓 いるにも過ぎて としごとに こぞ(去年)にさへ似ず 暮るる年哉(かな)
(pp232~233)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆☆
言葉の意味
峰:「み」は接頭語。「ね」は山の頂。山を神域とみていう語》、山の頂上。山頂。
影:かげ 【影・景】 (日・月・灯火などの)光
木のくれ(このくれ):木の暗れ・木の暮れ、木が茂ってその下が暗くなること。また、その時節・所。
尾上(おのえ、おのうえ、おがみ):「峰 (を) の上 (うへ) 」の意、山の上、山頂のこと。 また日本の苗字、地名。
ともし:ともし火。灯火。 明かり。
さす:「点す」、「射す」、まっすぐに光が照り入ること
わび:わびしく思うこと。気がめいること。気落ち。悲観。嘆き。悩み。
かはす:互いに通わせる。 やりとりする。
しづ:身分の卑しい。
しづがいへいへ:身分の卑しい人の家々
聖廟(せいびょう):聖人をまつった廟。日本では菅原道真をまつった廟。 特に京都の北野天満宮をいう。
御法楽:仏法を味わって楽しみを生じること。神仏を楽しませること。(「法楽歌」は、神仏に捧げる短歌)
九重(ここのへ):(ものが)九つ重なっていること。また、幾重にも重なっていること。 宮中。皇居。内裏(だいり)
かは:だろうか
天津やしろ、国津やしろ:天津神の社、国津神の社
*天津神は高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称、国津神は地(葦原中国)に現れた神々の総称
なかぞら:空の中ほど
あづさ弓:枕詞、弓を引き、矢を射るときの動作・状態から「ひく」「はる」「い」「いる」にかかる
1首目。夜が明けて灯火が残っているが、木の茂ったところの先に、峰を照らす日光がほのかに射してきた
2首目。秋の里で、秋の寒さに自分の心配ごとをわびしく語り合っているのだろうか。身分の低い人の家々では。
3首目。宮中のためだけでなく、天津神のやしろも、国津神のやしろも、わが国を守り給えと祈る
4首目。空の中ほどに月があらわれたのだろうか。呉竹(くれたけ)のまっすぐな影が障子窓に映っている。
5首目。弓を射るように、年ごとに、去年と同じでなく、速くも年の暮れになってしまったことよ
徳川幕府の天皇の権威を、幕府の権力を強めるために利用する計画について、昨日、①外戚策と②法度で天皇を縛る、という2つの方法を取ったと書きました。昨日は②の「法度」で天皇を縛る方法について述べました。①の外戚策とは、後水尾天皇に、第2代将軍・徳川秀忠の娘和子(まさこ)を入内させたことを指します。
将軍・秀忠と江(ごう。お江与の方、崇源院(すうげんいん))の間に生まれた和子(まさこ)が6歳の時、1612年から御水尾天皇にとつぐための朝廷と幕府の交渉が始められましたが、なかなかまとまらず、1620年にやっと輿入れが実現しました。後水尾天皇は26歳、和子は14歳でした。
和子は聡明で心の優しい女性で、後水尾天皇との仲は、円満でした。
が、この結婚の後、9年後(1629年)に、紫衣事件が起こり、後水尾天皇の前ぶれなしの突然の譲位が執り行われました。
1629年(寛永6年)11月8日のことでした。当日の朝、朝廷からの口頭による連絡で、正式の装束を着用して御前に集められた貴族たちに、天皇の譲位が伝えられました。貴族たちにも、寝耳に水のできごとであり、もちろん幕府への通知は一切なく、譲位は決行されました。(高森明勅著『日本の十大天皇』pp359~360)
後水尾天皇の譲位の理由について、『細川家資料』には、幕府に報告書を提出した細川忠興の証言として、次の5つが挙げられています。
1、 貴族らに官位をさずけるにも、幕府の介入があって思うにまかせないこと。
2、 財政の収入・支出とも幕府にガッチリにぎられていること。
3、 皇室担当の武家の役人があまりの財源を天皇につかわせないどころか、私腹をこやすために民間に貸し付けて金利をむさぼっていること。
4、 紫衣事件へのいきどおり。天皇の勅許が一挙に70、80もくつがえされたこと。
5、 「隠し題」
「隠し題」とされた5、は、正妻である和子以外、つまり側室が生んだ子どもたちが、生まれたはしから、所司代が手を回して殺したということでした。
所司代:江戸時代に、京都に置かれた職。朝廷に関する事務や、京都・近畿(きんき)地方の民政などをつかさどった。京都所司代
むごい話ですが、当時の上流武家のあいだではふつうにおこなわれていたようです。
後水尾天皇の御子は、和子との結婚以後、譲位するまでのあいだ(1620~1629年)、5人生まれていますが、すべて和子の御子ばかり。ところが、譲位後は、側室から合計22名もの御子が次々と生まれています。どう見ても不自然で「隠し題」は事実だったと判断されます。しかしこのような残酷な風習は皇室や貴族のあいだにはありませんでした。天皇にとって耐え難いことだったにちがいありません。
この5つの理由によって、天皇の〝レジスタンス〟としての譲位の決意はゆるがぬものでした。
以上は、前掲書『日本の十代天皇』(pp365~368)を参考にさせていただきました。
なお、10月17日のブログで、中宮和子との間のお子様を6人と書きましたが、7人(2男5女)の誤りでした。17日の文章も訂正しましたので、ご了承ください。
話が横に飛びますが、日本の平成30年度(2018年度)の年間人工妊娠中絶数は、公式発表で16万2千人とのことです。文明国として憂うべきことですが、後水尾天皇の御ことを学ばせていただきながら、色々と調べたところ、江戸時代も、薬による中絶や誕生後間もない嬰児殺しは少なくなかったことを知りました。現代だけの問題ではないことを、考えさせられました。
江戸幕府の朝廷抑圧の問題について取り上げましたが、行き過ぎがあったとしても、江戸幕府の徳川家康も、二度と戦国時代に戻る事のない太平の世を築こうと、必死であったことと思います。その努力を後世の人間が一方的に断罪することはできませんが、問題点を学び、現代に通じるものがあれば、その知識と経験を生かすことは、必要であると思います。
今日も読んでいただき有難うございました。
今日は、朝は冷えましたが、秋晴れの気持ちの良い一日になりそうです。お元気にお過ごしください。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)
御在位:1611~1629(16歳~34歳)
です。(1617年まで、御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇は御退位後も院政をお執りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)、51年間に及びました。
今日の御歌は御年37歳の時のものです。後水尾天皇の御譲位は34歳の時ですから、譲位後3年目、第109代・明正天皇の御代の時に詠まれている御歌です。
☆☆☆
“峰照射(寛永九年―一六三二―御年三十七歳)
明くる夜を 残す影とや 木のくれの 繁き尾上に ともしさすらし(聖廟御法楽)
秋里(同右)
秋さむき おのがうれへや わびかはす 暁ちかき しづがいへいへ(聖廟御法楽)
寄社祝(同右)
九重の ためならぬかは まもれたゞ 天津やしろも 国津やしろも(聖廟御法楽)
停年月(同右)
なかぞらに 月やなるらむ 呉竹のすぐなる影ぞ まどにうつれる
速(同右)
あづさ弓 いるにも過ぎて としごとに こぞ(去年)にさへ似ず 暮るる年哉(かな)
(pp232~233)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆☆
言葉の意味
峰:「み」は接頭語。「ね」は山の頂。山を神域とみていう語》、山の頂上。山頂。
影:かげ 【影・景】 (日・月・灯火などの)光
木のくれ(このくれ):木の暗れ・木の暮れ、木が茂ってその下が暗くなること。また、その時節・所。
尾上(おのえ、おのうえ、おがみ):「峰 (を) の上 (うへ) 」の意、山の上、山頂のこと。 また日本の苗字、地名。
ともし:ともし火。灯火。 明かり。
さす:「点す」、「射す」、まっすぐに光が照り入ること
わび:わびしく思うこと。気がめいること。気落ち。悲観。嘆き。悩み。
かはす:互いに通わせる。 やりとりする。
しづ:身分の卑しい。
しづがいへいへ:身分の卑しい人の家々
聖廟(せいびょう):聖人をまつった廟。日本では菅原道真をまつった廟。 特に京都の北野天満宮をいう。
御法楽:仏法を味わって楽しみを生じること。神仏を楽しませること。(「法楽歌」は、神仏に捧げる短歌)
九重(ここのへ):(ものが)九つ重なっていること。また、幾重にも重なっていること。 宮中。皇居。内裏(だいり)
かは:だろうか
天津やしろ、国津やしろ:天津神の社、国津神の社
*天津神は高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称、国津神は地(葦原中国)に現れた神々の総称
なかぞら:空の中ほど
あづさ弓:枕詞、弓を引き、矢を射るときの動作・状態から「ひく」「はる」「い」「いる」にかかる
1首目。夜が明けて灯火が残っているが、木の茂ったところの先に、峰を照らす日光がほのかに射してきた
2首目。秋の里で、秋の寒さに自分の心配ごとをわびしく語り合っているのだろうか。身分の低い人の家々では。
3首目。宮中のためだけでなく、天津神のやしろも、国津神のやしろも、わが国を守り給えと祈る
4首目。空の中ほどに月があらわれたのだろうか。呉竹(くれたけ)のまっすぐな影が障子窓に映っている。
5首目。弓を射るように、年ごとに、去年と同じでなく、速くも年の暮れになってしまったことよ
徳川幕府の天皇の権威を、幕府の権力を強めるために利用する計画について、昨日、①外戚策と②法度で天皇を縛る、という2つの方法を取ったと書きました。昨日は②の「法度」で天皇を縛る方法について述べました。①の外戚策とは、後水尾天皇に、第2代将軍・徳川秀忠の娘和子(まさこ)を入内させたことを指します。
将軍・秀忠と江(ごう。お江与の方、崇源院(すうげんいん))の間に生まれた和子(まさこ)が6歳の時、1612年から御水尾天皇にとつぐための朝廷と幕府の交渉が始められましたが、なかなかまとまらず、1620年にやっと輿入れが実現しました。後水尾天皇は26歳、和子は14歳でした。
和子は聡明で心の優しい女性で、後水尾天皇との仲は、円満でした。
が、この結婚の後、9年後(1629年)に、紫衣事件が起こり、後水尾天皇の前ぶれなしの突然の譲位が執り行われました。
1629年(寛永6年)11月8日のことでした。当日の朝、朝廷からの口頭による連絡で、正式の装束を着用して御前に集められた貴族たちに、天皇の譲位が伝えられました。貴族たちにも、寝耳に水のできごとであり、もちろん幕府への通知は一切なく、譲位は決行されました。(高森明勅著『日本の十大天皇』pp359~360)
後水尾天皇の譲位の理由について、『細川家資料』には、幕府に報告書を提出した細川忠興の証言として、次の5つが挙げられています。
1、 貴族らに官位をさずけるにも、幕府の介入があって思うにまかせないこと。
2、 財政の収入・支出とも幕府にガッチリにぎられていること。
3、 皇室担当の武家の役人があまりの財源を天皇につかわせないどころか、私腹をこやすために民間に貸し付けて金利をむさぼっていること。
4、 紫衣事件へのいきどおり。天皇の勅許が一挙に70、80もくつがえされたこと。
5、 「隠し題」
「隠し題」とされた5、は、正妻である和子以外、つまり側室が生んだ子どもたちが、生まれたはしから、所司代が手を回して殺したということでした。
所司代:江戸時代に、京都に置かれた職。朝廷に関する事務や、京都・近畿(きんき)地方の民政などをつかさどった。京都所司代
むごい話ですが、当時の上流武家のあいだではふつうにおこなわれていたようです。
後水尾天皇の御子は、和子との結婚以後、譲位するまでのあいだ(1620~1629年)、5人生まれていますが、すべて和子の御子ばかり。ところが、譲位後は、側室から合計22名もの御子が次々と生まれています。どう見ても不自然で「隠し題」は事実だったと判断されます。しかしこのような残酷な風習は皇室や貴族のあいだにはありませんでした。天皇にとって耐え難いことだったにちがいありません。
この5つの理由によって、天皇の〝レジスタンス〟としての譲位の決意はゆるがぬものでした。
以上は、前掲書『日本の十代天皇』(pp365~368)を参考にさせていただきました。
なお、10月17日のブログで、中宮和子との間のお子様を6人と書きましたが、7人(2男5女)の誤りでした。17日の文章も訂正しましたので、ご了承ください。
話が横に飛びますが、日本の平成30年度(2018年度)の年間人工妊娠中絶数は、公式発表で16万2千人とのことです。文明国として憂うべきことですが、後水尾天皇の御ことを学ばせていただきながら、色々と調べたところ、江戸時代も、薬による中絶や誕生後間もない嬰児殺しは少なくなかったことを知りました。現代だけの問題ではないことを、考えさせられました。
江戸幕府の朝廷抑圧の問題について取り上げましたが、行き過ぎがあったとしても、江戸幕府の徳川家康も、二度と戦国時代に戻る事のない太平の世を築こうと、必死であったことと思います。その努力を後世の人間が一方的に断罪することはできませんが、問題点を学び、現代に通じるものがあれば、その知識と経験を生かすことは、必要であると思います。
今日も読んでいただき有難うございました。
今日は、朝は冷えましたが、秋晴れの気持ちの良い一日になりそうです。お元気にお過ごしください。
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天皇の御歌(48)―第108代・後水尾天皇(2) [後水尾天皇(明正天皇)]
今日も第108代・後水尾(ごみづのを)天皇の御歌を学びます。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)、御在位:1611~1629(16歳~34歳)
(1617年まで御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇は退位後も院政をお執りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)51年間に及びました。
昨日は、徳川幕府の朝廷蔑視と抑圧策について、『歴代天皇の御歌』から引用させていただきました。
昨日述べた幕府の朝廷抑圧策の項目を書き出してみます。
1、 幕府の朝廷抑圧策
○皇居への、幕府の藩兵の駐屯(天皇並びに公卿らの厳しい監視)
○皇族御一人を上野輪王寺座主(ざす)として江戸に迎える(朝廷に対する人質)
○禁中並びに公家衆諸法度(きんちゅうならびにくげしゅうしょはっと)」の制定(1615年)
徳川家康は、天皇の地位そのものを否定してしまわないことを大前提に、天皇の権威については、幕府の権力を強めるために活用し、利用する計画を立てました。
その方法として、①外戚策、②「法度(おきて)」で天皇を縛る、という、2つの策を採用しました。
②の「法度」で天皇を縛る、ことによって、前回述べた紫衣事件が起こりました。
幕府は「法度」により、天皇の宗教的権威を規制しました。
規制の一つは、元号の制定です。元号は、古代以来、かならず天皇によって定められる形式がうけつがれてきました。「法度」では天皇の元号制定権を否定していませんが、「シナの前例のうちからよいものを選ぶように」(第8条)という制限を設けた上、実際の改元は、幕府の同意や、発意でなされました。
さらに、天皇の宗教方面への栄典授与などの権限を、「法度」の第17条などによって、制約しました。
☆☆
“「紫衣を許される寺の住職は、以前は極めてまれだった。ところが近年はやたらと天皇によって許されている。これは僧の序列をみだし、公的なあつかいをうける寺院の名を汚すことによもなる。大変けしからんことだ。これからは、権力があり、経験をつみ、高い評価をうけた者だけにすべきである」(第17条)
さらに諸寺院を統制する「法度」が、これにつづいて出されています(ひとくくりに「元和令(げんなれい)」といわれる。)“
(高森明勅著『日本の十代天皇』(p350) 幻冬舎新書)
☆☆
寺院統制の法度が、江戸幕府により、実行にうつされたのが「紫衣事件」です。
僧侶の紫衣の着用は、それまで天皇の勅許によって、許されていました。ところが、幕府が、勅許については、事前に幕府の同意が必要だと言い始めたのです。天皇の勅許は、古代以来、伝統的に認められてきた権限ですから、後水尾天皇は、法度制定後も、以前の通り、幕府の同意を得ることなく、独断で勅許をつづけていました。
これに対して幕府は強権を発動し、1615年以降の紫衣勅許の取り消しを命じたのです。これによって、すでに発せられていた多数(70~80件)の勅許が、取り消されることになりました。
「綸言汗(りんげんあせ)のごとし」といって、君主がいったん表明した言葉は、身体から出た汗がふたたび体内にもどらないように、もとにもどることはないと言われていた時代に、その「綸言」が何十件もくつがえされるという「前代未聞中の未聞」の出来事は、後水尾天皇にとって耐え難い屈辱でした。
この事件が、後水尾天皇の突然の御譲位の理由の一つとなりました。
以上の説明は、(高森明勅著『日本の十代天皇』)を参考にしています。
これらの時代背景に思いを馳せながら、後水尾天皇の御製から御心をしのばせていただきます。
☆☆☆
“後陽成院崩御後、御追善の御製八首の中に(元和三年―一六一七―御年二十二歳)
(中略)
うけつぎし 身の愚(おろか)さに 何の道も 廃(すた)れ行くべき 我が世をぞ思ふ
社頭祝(寛永二年―一六二五―御年三十歳)
松の葉は ちりうせずして すみよしや 守るもひさし 敷島のみち
いのりおく いま行く末も かぎりなく 猶ふきとほせ 五十鈴川かぜ
(孟冬の頃、式部卿宮御典)
(pp231~232)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆☆
第1首目。天皇の位を受け継いだ、わが身の愚かさ未熟さに、どの道もすたれて行くのではないかと、我が世を思うことよ
第2首目。常緑の松の葉が散って、なくなってしまうことがないように、すみよし(住吉)の神がいつまでも久しく、敷島のみちを守ってくださることであろう
第3首目。祈ります、いまから末長くいつまでも、五十鈴川の神代の昔からの川風が、ますます吹きとおっていくように、神の御心が世に吹きとおって行くことを。
1624年、34歳の後水尾天皇は、興子(おきこ)内親王(明正天皇)に御位を譲られました。明正天皇は7歳~21歳まで、御位につかれました。
第109代・明正天皇
御在世:1624~1696(崩御・74歳)
御在位:1629~1643(7歳~21歳)
後水尾天皇と、徳川2代将軍・秀忠の娘である和子(まさこ)中宮との間には2男5女の7人のお子様がありましたが、男子の皇子方は、幼いうちに亡くなっていたため、女子の興子内親王が御位を継がれることになりました。
“「禁中並びに公家衆諸法度」の第六条に「女縁者の家督相続は古今一切これ無き事」”すなわち、「女性の縁者の家督相続を、古今(過去も今も)、一切ないことにする」という、女性が一切、家督相続をしてはいけないという条文がありました。
徳川家康・秀忠が制定した「女性の家督相続は古今にない」との「法度」を、後水尾天皇があっさり破られたわけですが、興子内親王が、徳川将軍・秀忠の直系の御孫であられたため、幕府は何も言いませんでした。
じつは、譲位の前に、天皇は譲位の希望を幕府に伝えており、将軍の家光は「まだ早すぎる」との態度だったものの、その返事に「女帝は昔もめでたい例が多かった」との一文が含まれていたので、後水尾天皇は、ある種の手ごたえを感じて、譲位を決行されたようです。(『日本の十代天皇』p362)
偶然の産物とは言え、「女帝でよい」と譲位をご決断された、後水尾天皇の「法度破り」について、いささか痛快な気がいたします。明正天皇にはお気の毒な気もいたしますが、幕府のかたくなな男尊女卑思想に縛られない自由さを感じます。
今日も読んでいただき有難うございました。
冷たい雨が降っています。皆様どうぞ着る物を暖かくして、お身体に気を付けてお過ごしください。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)、御在位:1611~1629(16歳~34歳)
(1617年まで御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇は退位後も院政をお執りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)51年間に及びました。
昨日は、徳川幕府の朝廷蔑視と抑圧策について、『歴代天皇の御歌』から引用させていただきました。
昨日述べた幕府の朝廷抑圧策の項目を書き出してみます。
1、 幕府の朝廷抑圧策
○皇居への、幕府の藩兵の駐屯(天皇並びに公卿らの厳しい監視)
○皇族御一人を上野輪王寺座主(ざす)として江戸に迎える(朝廷に対する人質)
○禁中並びに公家衆諸法度(きんちゅうならびにくげしゅうしょはっと)」の制定(1615年)
徳川家康は、天皇の地位そのものを否定してしまわないことを大前提に、天皇の権威については、幕府の権力を強めるために活用し、利用する計画を立てました。
その方法として、①外戚策、②「法度(おきて)」で天皇を縛る、という、2つの策を採用しました。
②の「法度」で天皇を縛る、ことによって、前回述べた紫衣事件が起こりました。
幕府は「法度」により、天皇の宗教的権威を規制しました。
規制の一つは、元号の制定です。元号は、古代以来、かならず天皇によって定められる形式がうけつがれてきました。「法度」では天皇の元号制定権を否定していませんが、「シナの前例のうちからよいものを選ぶように」(第8条)という制限を設けた上、実際の改元は、幕府の同意や、発意でなされました。
さらに、天皇の宗教方面への栄典授与などの権限を、「法度」の第17条などによって、制約しました。
☆☆
“「紫衣を許される寺の住職は、以前は極めてまれだった。ところが近年はやたらと天皇によって許されている。これは僧の序列をみだし、公的なあつかいをうける寺院の名を汚すことによもなる。大変けしからんことだ。これからは、権力があり、経験をつみ、高い評価をうけた者だけにすべきである」(第17条)
さらに諸寺院を統制する「法度」が、これにつづいて出されています(ひとくくりに「元和令(げんなれい)」といわれる。)“
(高森明勅著『日本の十代天皇』(p350) 幻冬舎新書)
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寺院統制の法度が、江戸幕府により、実行にうつされたのが「紫衣事件」です。
僧侶の紫衣の着用は、それまで天皇の勅許によって、許されていました。ところが、幕府が、勅許については、事前に幕府の同意が必要だと言い始めたのです。天皇の勅許は、古代以来、伝統的に認められてきた権限ですから、後水尾天皇は、法度制定後も、以前の通り、幕府の同意を得ることなく、独断で勅許をつづけていました。
これに対して幕府は強権を発動し、1615年以降の紫衣勅許の取り消しを命じたのです。これによって、すでに発せられていた多数(70~80件)の勅許が、取り消されることになりました。
「綸言汗(りんげんあせ)のごとし」といって、君主がいったん表明した言葉は、身体から出た汗がふたたび体内にもどらないように、もとにもどることはないと言われていた時代に、その「綸言」が何十件もくつがえされるという「前代未聞中の未聞」の出来事は、後水尾天皇にとって耐え難い屈辱でした。
この事件が、後水尾天皇の突然の御譲位の理由の一つとなりました。
以上の説明は、(高森明勅著『日本の十代天皇』)を参考にしています。
これらの時代背景に思いを馳せながら、後水尾天皇の御製から御心をしのばせていただきます。
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“後陽成院崩御後、御追善の御製八首の中に(元和三年―一六一七―御年二十二歳)
(中略)
うけつぎし 身の愚(おろか)さに 何の道も 廃(すた)れ行くべき 我が世をぞ思ふ
社頭祝(寛永二年―一六二五―御年三十歳)
松の葉は ちりうせずして すみよしや 守るもひさし 敷島のみち
いのりおく いま行く末も かぎりなく 猶ふきとほせ 五十鈴川かぜ
(孟冬の頃、式部卿宮御典)
(pp231~232)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
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第1首目。天皇の位を受け継いだ、わが身の愚かさ未熟さに、どの道もすたれて行くのではないかと、我が世を思うことよ
第2首目。常緑の松の葉が散って、なくなってしまうことがないように、すみよし(住吉)の神がいつまでも久しく、敷島のみちを守ってくださることであろう
第3首目。祈ります、いまから末長くいつまでも、五十鈴川の神代の昔からの川風が、ますます吹きとおっていくように、神の御心が世に吹きとおって行くことを。
1624年、34歳の後水尾天皇は、興子(おきこ)内親王(明正天皇)に御位を譲られました。明正天皇は7歳~21歳まで、御位につかれました。
第109代・明正天皇
御在世:1624~1696(崩御・74歳)
御在位:1629~1643(7歳~21歳)
後水尾天皇と、徳川2代将軍・秀忠の娘である和子(まさこ)中宮との間には2男5女の7人のお子様がありましたが、男子の皇子方は、幼いうちに亡くなっていたため、女子の興子内親王が御位を継がれることになりました。
“「禁中並びに公家衆諸法度」の第六条に「女縁者の家督相続は古今一切これ無き事」”すなわち、「女性の縁者の家督相続を、古今(過去も今も)、一切ないことにする」という、女性が一切、家督相続をしてはいけないという条文がありました。
徳川家康・秀忠が制定した「女性の家督相続は古今にない」との「法度」を、後水尾天皇があっさり破られたわけですが、興子内親王が、徳川将軍・秀忠の直系の御孫であられたため、幕府は何も言いませんでした。
じつは、譲位の前に、天皇は譲位の希望を幕府に伝えており、将軍の家光は「まだ早すぎる」との態度だったものの、その返事に「女帝は昔もめでたい例が多かった」との一文が含まれていたので、後水尾天皇は、ある種の手ごたえを感じて、譲位を決行されたようです。(『日本の十代天皇』p362)
偶然の産物とは言え、「女帝でよい」と譲位をご決断された、後水尾天皇の「法度破り」について、いささか痛快な気がいたします。明正天皇にはお気の毒な気もいたしますが、幕府のかたくなな男尊女卑思想に縛られない自由さを感じます。
今日も読んでいただき有難うございました。
冷たい雨が降っています。皆様どうぞ着る物を暖かくして、お身体に気を付けてお過ごしください。
天皇の御歌(47)―第108代・後水尾天皇(1) [後水尾天皇(明正天皇)]
今日は、第108代・後水尾(ごみづのを)天皇の御歌について学ばせていただきます。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)
御在位:1611~1629(16歳~34歳)
です。
(1617年まで、御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇は御退位後も院政をお取りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)、何と51年間に及びました。
御水尾天皇の院政期間:(第109代・明正天皇、第110代・後光明(こうみょう)天皇、第111代・御西(ごさい)天皇の各御在位全期間、第112代・霊元天皇御在位の3分の2まで)
実のところ、私は、御水尾天皇ではなく、御水尾天皇から御位を譲られた、女帝であられる第109代・明正(めいしょう)天皇の御歌を学びたかったのです。
明正天皇の御歌を学べば、日本の歴史上8人、十代の女性天皇の御歌を一通り、学んだことになります。
しかし、第109代・明正天皇の御製は、残されていませんでした。そこで父君の第108代・後水尾天皇を通して、明正天皇のことを学ばせていただくことにしました。
明正天皇は、
御在世:1624~1696(崩御・74歳)
御在位:1629~1643(7歳~21歳)
です。
第109代・明正天皇は、なぜ御製を残されなかったのでしょう。明正天皇の御在位期間は7歳~21歳でした。御幼少で即位されたとはいえ、同じ年齢の7歳で即位され22歳で崩御された第116代・桃園天皇は、御年8歳から御歌を詠まれ、短いご生涯でも、462首の御歌を残されています。御退位の後、74歳までご存命であられた明正天皇が、御製を1首も残されなかったことには、それ相応のわけがあったと思わずにいられません。
第108代・御水尾天皇は、第107代・後陽成天皇の第三皇子。16歳で践祚せられました。しかし後陽成上皇は崩御されるまで7年間、院政をお執りになられました。御水尾天皇も、34歳で、徳川幕府の専断に堪忍の緒を切られて突如御譲位になられましたが、御譲位された明正天皇から霊元天皇の御在位の3分の2の時期まで、4代の天皇の御代、51年間の長期にわたって、院政を続けられ、御年85歳で亡くなられました。
さらに、御水尾上皇の院政の後を継がれた第112代・霊元天皇も、御水尾天皇と同じ年齢の34歳で御譲位され、そのあとの東山天皇、中御門天皇の御二方の御代に、46年の長期にわたって院政をおとりになられ、御年70歳でお亡くなりになられました。後陽成院、御水尾院、霊元院、この御三方による院政存続の意義は、きわめて注目すべきことです。
『歴代天皇の御歌』の編者は、このことを
「徳川幕府の朝廷蔑視に対するご歴代の天皇方の、皇位継承と皇位保持についての、血のにじむやうな御心懐に基づくものと拝察すべきではなからうか」
と書かれています。
御心懐:お心に思うこと
徳川幕府の朝廷蔑視について、『歴代天皇の御歌』に次のように書かれています。
現代にも通じる非常に重要な内容だと思うので、長文になりますが、引用させていただきます。
前半3分の1ほど(p220)は、御水尾天皇の一代前、第107代・後陽成天皇の御代の説明です。後半(pp229~231)は、第108代・御水尾天皇の御代の説明です。
横書きにしたため、年号等数字の一部を、漢字でなく、算用数字といたしました。
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“後陽成天皇の御在位期間の後半3分の2は、徳川家康ならびに秀忠が登場する時期である。これより先、家康は、天正十八年(1590)江戸城に入って、秀吉に対決する本拠を確立、秀吉の死後3年目、慶弔五年(1600)には関ヶ原の合戦で勝利を収め、慶長八年(1603)に征夷大将軍に任ぜられることになり、こゝに徳川幕府は名実共に樹立し、以後慶応三年(1867)まで十五代・二百六十五年間存続することになった。その後家康は、京都に二条城を築き、己の武威を誇ると共に、朝廷に対して皇居を守護するという名目で、最も信頼するに足る藩兵を駐屯せしめ、厳に天皇ならびに宮中の公卿らの行動を監視させ、また皇族の御一人を上野輪王寺の座主(ざす)として江戸にお迎えし、これをもって朝廷に対する人質(ひとじち)とする挙に出た。さらに宮中に対しては、慶長二十年(1615)日本政治史上かつて類を見ない内容を盛りこんだ「禁中並びに公家衆諸法度(きんちゅうならびにくげしゅうしょはっと)」を制定して弾圧を制度化し、さらに「武家諸法度」(同年)によっていかなる大名も、幕府の許可なくして宮廷に奉伺することを厳禁したのである。これらの「法度」は、将軍職を秀忠に譲ったあとではあったが、未だに家康の存命、施政中の所業であった。(p220)
さて、御水尾天皇の御代のことに戻るが、践祚されて4年目の慶長十九年(1614)の「大阪冬の陣、その翌年の「大阪夏の陣」によって豊臣家は完全に亡びる。さらに後陽成天皇の項で述べた通り、慶長二十年(1615)幕府は「武家諸法度」を定めて武家に対するきびしい規制を強ひると共に、「禁中方御条目(きんちゅうがたごようもく)十七箇条」(別名「禁中並びに公家衆諸法度」)なるものを朝廷に押しつけた。かくて天皇から征夷大将軍に任ぜられている臣下が、逆に天皇に対して規制の文書を押しつけるといふ前代未聞の暴挙が起きたのである。しかもその法度の第一条は、「天子御藝能之事。第一御学問也」――天皇は御学問をなさらなければならぬ――と書き出されてゐるばかりか、「和歌は光孝天皇よりいまだ絶えず、綺語たりといへども我が国の習俗なり。棄て置くべからず……」とあった。だが光孝天皇は第58代目の天皇であられるが、その天皇から和歌をお詠みになってをられる、などとは無智も甚だしい。神武天皇以降、どれだけ多くの天皇方が、和歌を「しきしまのみち」としてその道を御つとめ遊ばされたことか。そればかりではない。幕府の「法度」は、和歌のことを「綺語たりと雖も」といふ。「綺語」とは、「巧みに表面だけを飾った言葉」、或ひは佛教が「十悪の一」とする「真実にそむいておもしろく作った言葉」といふ意味しかない。いづれにしてもそれは「しきしまのみち」として和歌が、日本の文化の中核を貫いてきた事実――まごころの表白――とは、全く正反対の意味であらう、しかもそれにつゞけて「棄て置くべからず」と書かれてゐるのであるから、家康・秀忠の皇室に対する不遜さは、こゝに極まると言へるのではなからうか。
やがて、六年後の元和六年(1620)には、二代将軍・徳川秀忠は、娘和子(まさこ)を皇室に入れ、その四年後の寛永元年(1624)には天皇は、和子を皇后とせられた。こういった御水尾天皇の忍耐強い御姿勢の折、高僧として名高い澤庵和尚に、天皇が紫衣(しえ)(註・勅許によって賜はる紫色の僧衣)を賜はった。これに対し幕府は、紫衣の「濫授」だとしてこれを奪ひ、さらに澤庵和尚を罰するという暴挙にさへ出た。天皇はいたくこのことに逆鱗あらせたまうたが、幕府が寛永六年(16629)、朝幕融和のためとの名目で春日局(三大将軍徳川家光の乳母)を参内させた直後、御水尾天皇は「葦原やしげらばしげれおのがまゝとても道ある世とは思はず」と詠まれて、突如、第二皇女、興子(おきこ)内親王(当時七歳)に位を御譲りになってしまはれた。ここで注意しておきたいことは、興子内親王は、二代将軍・秀忠の娘であった和子(皇后)のお生みになられた方であること。いま一つは、先に述べた「禁中並びに公家衆諸法度」の第六条に「女縁者の家督相続は古今一切これ無き事」とあり、これは公家についてのことではあらうが、皇室についても当然類推されるやうな書き方になってゐることである。すると、御水尾天皇が興子内親王といふ女の方に位を御譲りになられたといふことは、當然幕府に対しる御憤りのさまざまな意味が込められてゐたと言へよう。そして「法度」に抵触するやうな御水尾天皇のこの御行為を、幕府が不問に附したかげには、次の天皇が幕府の血縁の方であられたといふことから、自分に都合がよければ、自ら作った「法度」に抵触しても意義を申し立てない、といふ幕府の態度であったことはいなみ得ないであらう。(中略)
ついでながら一言加へると、さきの興子内親王は、天皇の位を継がれて第109代・明正天皇(女帝)となられた、御年七歳で践祚、御在位十五年ののち、二十一歳で御譲位、七十四歳まで、御存命であられたが、御歌は残されてゐない。御践祚、御譲位ともに御水尾上皇のご意向によることゝ拝せられる。(pp229~231) “
“御位ゆづらせたまへるとき(寛永六年―一六二九―御年三十四歳)(中略)
― 一説に澤庵和尚を東堂に被勅□時、東部(註・幕府)より申し返す故に、本院へ御譲りの時、云々として―
葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまゝ とても道ある 世とは思はず“
(p232)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
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御水尾天皇への幕府の朝廷蔑視、専断がこれほど酷いものとは知りませんでした。戦国の世を終わらせ、安定した世を築きたいとの徳川家康と江戸幕府の願いからとは言っても、皇室の歴史や伝統への無知、無理解に発する行き過ぎた政策には、憤りを覚えずにいられません。
徳川幕府の政策のマイナス面は、今日の一部国民に見られる、男尊女卑思想、皇室の政治利用、天皇は御簾の奥で祈っているだけでよいという閉鎖的な皇室を望む論調に、相通ずるものがあます。非人道的な政策は、時代の進歩とともに是正されなければならないと思わずにいられません。
御製について
葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまゝ とても道ある 世とは思はず
葦原は、元々小漁村に過ぎなかった江戸を暗喩する言葉でもあるとのこと。
江戸の幕府は、自分の好き勝手に、茂って栄えるがよい。私にはとても道義のある世の中とは思えない、というほどの意。
後水尾天皇の御憤りが感じられます。
「しきしまのみち」に対する幕府の無智と無理解に驚かされます。
○「しきしまのみち」は「第五十八代・光孝天皇より未だ絶えず」???
神武天皇以来残されている第五十七代までの天皇の御製を、全部、なかったことにしようというのでしょうか??
一体、何を根拠に、こんな無教養な文章を公にしたのか理解に苦しみます。
○「綺語たりといへども」のいいぐさにも、驚くばかりです。
綺語:「綺語」とは、「巧みに表面だけを飾った言葉」、或ひは佛教が「十悪の一」とする「真実にそむいておもしろく作った言葉」といふ意味
“神武天皇以降、どれだけ多くの天皇方が、和歌を「しきしまのみち」としてその道を御つとめ遊ばされたことか。”
和歌―しきしまのみちが、日本の文化の中核を貫いてきた事実、まごころの表白であること、ご歴代天皇が「道」として和歌を詠まれ御心を修養されたこと、神様への真剣な祭祀、そういった歴史の積み重ねをなんだと思っているのか!!
と、本日、筆者は、徳川家康と秀忠に怒り心頭ですヽ(`Д´#)ノ
しかし、アンガー・コントロールも大切。ということで、深呼吸を十回。
とりあえず、日ごろの笑顔に戻りました(^^)
怒るのは身体によくないので、後に持ち越さないようにしましょう。(*^^*;)
長文になりましたので、その他の文章の解説と感想は、次回以降といたします。
今日も読んでいただき有難うございました。
人生万事塞翁が馬、人生苦もあり、楽もある。
なるべく良いことを多く見つけて、今日を楽しくお過ごしください。
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