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天皇の御歌(56)―神功皇后(第14代・仲哀天皇の皇后) [神功皇后]

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[黒ハート]武内宿禰命(タケノウチスクネノミコト)わが家に残された5月5日の飾り旗です。


今日も第15代・応神天皇の母君、第14代・仲哀天皇の皇后、神功皇后の御歌について学びます。2回目です。

御在世:170~270(崩御・100歳)
摂政:200~270(30~100歳)


☆☆☆

十三年の春二月(きさらぎ)の丁巳(ひのとみ)の朔(ついたち)甲子(きのえね)に、武内宿禰に命(みことおほ)せて、太子(ひつぎのみこ)に従ひて角鹿(つぬが)の笥飯大神を拝みまつらむ。癸酉(みづのとのとり)に、太子、角鹿より至(かへり)りたまふ。是の日に、皇太后(おほきさき)、太子に大殿に宴(とよのあかり)したまふ。皇太后、觴(みさかづき)を擧(ささ)げて大使に壽(さかほかひ)したまふ。拠りて歌(みうたよみ)して曰(のたまは)く、

此の御酒(みき)は 我が御酒ならず 神酒(くし)の司(かみ)
常世(とこよ)に坐(いま)す いはたたす
少名御神(すくなみかみ)の 豊壽(とよほ)き 壽(ほ)き廻(もとほ)し
神壽(かむほ)き 壽(ほ)き狂(くる)ほし
奉(まつ)り來(こ)し 御酒(みき)ぞ
あさず飲(お)せ ささ

武内宿禰命、太子(ひつぎのみこ)の為に答歌(かへりうた)して曰(まう)さく、

此の御酒を 醸(か)みけむ人は その鼓(つづみ)
臼(うす)に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも
この御酒の あやに うた楽しさ さ 

(pp351~350)
(『日本古典文学大系67、日本書紀 上』)

☆☆☆

言葉の意味

武内宿禰(タケノウチノスクネ):「古事記」によると景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と天皇家五代に渡って仕えたとされる伝説的な存在。360歳まで生きたとされている。

角鹿(つぬが):福井県敦賀。古代大陸文明の要地の一つ。

笥飯大神(ケヒノオオミカミ):気比神社の御祭神。もとは伊奢沙和気(いささわけ)大神といったが、太子(応神)が御食津(みけつ)大神と名を称えたので、今は気比の神となったとされる。


[大意]

(神功皇后)即位13年春2月8日。武内宿禰(タケノウチノスクネ)は皇后に命じられて、太子(ヒツギノミコ=応神天皇)に従い、角鹿(ツヌガ=現在の福井県敦賀)の笥飯大神(ケヒノオオミカミ)を参拝しました。17日。太子は角鹿から帰られました。
この日に皇太后は太子と大殿(オオトノ)で宴(トヨノアカリ=宴会)をしました。皇太后は觴(ミサカズキ=酒をなみなみついだ杯)を挙げて、太子に寿(サカホカイ=酒祝い=酒を飲み祝いあうこと)なさいました。そのときの皇后の御歌です。

このお酒は私だけの神酒ではありません。神酒の司で、常世の国におられる少名彦(=スクナヒコナ)神が、狂うように歌って舞って、醸(カモ)したお酒です。さあ、この酒を残さず飲み干しなさい。さあさあ。

武内宿禰命は、太子に代わって、お答えの歌を申し上げました。

このお酒を醸した人は、その鼓を、臼のように立てて、歌って醸したからでしょう。この神酒の、何とも言えず美味しいことよ。さあさあ。

参考:『日本古典文学67、日本書紀 上』


[感想]

武内宿禰(タケノウチノスクネ)は、延命長寿の神様、頭脳明晰な宰相とされますが、神功皇后が神田の溝を掘る際に、邪魔になった大岩を、祈る事によって雷を呼び寄せて岩を打ち砕いたなど超人的も力を発揮しているとのことです。長寿の神、宰相の神として、多くの神社に祀られています。

少彦名(スクナヒコナノ)神が狂うように歌って踊って神酒を醸したのは、ギリシャ神話の豊穣とブドウ酒と酩酊神ディオニュソス神を思い起こさせます。ディオニュソスも演劇と舞踏の神でもあります。歌って踊ると美味しいお酒ができるのは、共通しています。

神酒造りの司(リーダー)、少彦名神は、大国主神の国造りに参加した神です。
「古事記」では、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ=ガガイモの実で作った船)に乗り、鵝(ヒムシ=ガ)の皮の着物を着て波の彼方から来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加したとのことです。日本書紀では、蛾ではなく、ミソサザイの皮を着ていたことになっています。

少彦名神が乗った船、ガガイモの実は写真で見ると、手のひらに乗るくらい、長さ10センチくらいの実です。中にふわふわした種の毛が入っていて、船床に敷いたら座り心地がよさそうです。

蛾の皮(羽)、またはミソサザイ(体長10センチの小鳥)の衣を着て、ガガイモの実の船に乗っていたという、とても身体の小さな神様です。

身体が小さくて鼓を持てないので、鼓を臼のように立てて、その上で歌い踊ったのでしょう。酒造の司(つかさ=リーダー)として、鼓の上で歌い、踊り、そのリズムに合わせて、配下の人々が酒造りの作業を行う光景が目に浮かびますね。トトン、トントンという、楽しいリズムに合わせて醸されて、美味しいお酒ができたのでしょう。

太子(後の応神天皇)は、この年13歳になりました。昔ならほぼ一人前になった頃で、気比の神には、そのご報告だったのでしょう。しかし、神功皇后は70年間、摂政をつとめられ、太子(応神天皇)が即位されたのは皇后崩御の後、御年70歳のときでした。神功皇后が、卓越した統治力が認められていた実質的な王(おほきみ)であられたことが伺えます。

今日も読んでいただき、有難うございました。
明日辺りからまた気温が低くなるようです。皆様お身体にお気をつけて、お健やかにお過ごしください。

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天皇の御歌(55)―神功皇后(第14代・仲哀天皇の皇后) [神功皇后]

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今日は、第15代・応神天皇の御母君、第14代・仲哀天皇の皇后、神功皇后について学びます。

御在世:170~270(崩御・100歳)
摂政:200~270(30~100歳)
*ご在世については、諸説あり。
『古事記』では息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされています。


神功皇后の御事績について、大宮八幡宮のホームページから引用させていただきます。

☆☆

“神功皇后は、第九代開化天皇の曽孫、息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の女(みむすめ)として、幼い頃より聡明で容貌麗しい方であったと日本書紀に伝えられ、仲哀天皇の二年、皇后となられました。

 仲哀天皇が熊襲征伐の際、筑紫国の橿日宮で崩御されますと、仲哀帝にかわって神功皇后は天津(あまつ)神(かみ)のご神託によって三韓の平定に向かわれました。この時、皇后は応神天皇を身籠っておられ(胎中天皇)、陣痛(出産)を抑える為に鎮懐石(ちんかいいし)を御裳(みもすそ)(袴)の腰帯に巻き付けられてのご出陣となりました。”

“参考までに、現存する高句麗の「広開土王碑の碑文」に倭軍(日本軍)が韓半島へ進出したことが記されていますが、神功皇后の時代と一致していると云われています。
 皇后は平定後に筑紫国にお戻りになり、応神天皇をご出産になりました。”

“応神天皇御降誕の聖地を人々は宇瀰(うみ)と名付け、そこには現在、宇美八幡宮が御鎮座。境内の摂社聖母宮(しょうもぐう)には神功皇后が祀られています。”

(「神功皇后祭」「大宮八幡宮境内案内」https://www.ohmiya-hachimangu.or.jp/4685

☆☆

言葉の意味

熊襲:現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称

三韓:新羅、百済、高麗

広開土王碑(こうかいどおうひ):好太王碑(こうたいおうひ)ともいう。高句麗の第19代の王である好太王(広開土王) の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑。

み軍(いくさ、軍隊)の先頭に立って指揮する姫君というイメージが私の中に幼い時からありました。手塚治虫の『リボンの騎士』は夢中になって読みました。物語の最初のところで、男の子として育てられたサファイア姫が、白馬に跨って颯爽と閲兵式に臨む場面の絵のりりしさ、美しさは今でも目の前にありありと浮かびます。

岸壁に立って髪をなびかせ、海を渡る風に立ち向かう少女の絵を描いたこともあります。これは幼いころに話を聞いた神功皇后から得たイメージだったのかもしれません。

摂政として70年間、国を統治され、亡くなられた後に、応神天皇が御位に就かれたので、その間は実質的に君主であられたと思われます。また新羅征討の時、身重であられた、御妊娠、御出産が統治に影響を与えなかったという点も特筆すべきことだと思われます。

今日も読んでいただきありがとうございました。
晩秋と思えない暖かい日が続いていますが、紅葉は着実に進み赤や黄色に染まっているのを見て、日本の四季のあることをありがたく思います。
皆様、どうぞ今日も希望を持ってお元気にお過ごしください。


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