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さよなら、ニャン [友情]

20220422blog DSC_0120.JPG2022年4月20日、長年飼っていたネコが、天寿を全うしました。推定年齢20歳10ヶ月~21歳、迷いネコだったので、正確な誕生日は分かりません。

以前、平成元年(1989年)から飼い始めたメスネコは、平成10年(1999)まで生きて、推定年齢11歳~12歳、同じく迷いネコで、屋外と屋内を行き来していたので、家の中では天使のようにおとなしいネコでしたが、外では、ネズミやスズメをとる、名ハンターでした。

今の、2匹目のニャンコは、平成13年(2001年)から飼い始めました。ネコ好きの友人が職場の受付に座っていた時、玄関の自動ドアを開けて(?)よろよろと入って来たそうです。仔猫だったので、自動ドアが開くのだろうかと不思議に思いますが、誰かが空けた隙間から、入ったのかも知れません。

私が「ネコのマザー・テレサ」とひそかに名付けた友人は、迷いネコに至れり尽くせりのケアをすませて、わが家に譲ってくれました。わが家は車道が近いため、初めての室内飼いとなりました。

あたらしいニャンコは、オスだったこともあって、実にワイルドな元気いっぱい、気かん坊ネコでした。細身で精悍で、屋外に出ていれば、名ハンターになれたと思います。ただ、生まれ育ったときによほどこわい目にあったのか、人間ギライで、飼い主以外の客が家に来ると、押し入れに隠れて、お客がいなくなるまで、絶対に姿を見せませんでした。

前に飼っていたネコは、軽く叱ればいうことを聞いたのに、新ニャンコはいくら叱ってもいうことを聞くどころか、テーブルの上にあるものを次々に落っことして反抗するという日々が、しばらく続きました。

そんな気かん坊も、15歳を超えたころから、人の気持ちを汲めるようになり、大人しくなってきました。化け猫といったら聞こえがよくないが、年齢を重ねると、ネコでも人の気持ちを読めるようになってきて、意思疎通ができるので、「来世は人間に生れて来るかも」と冗談が言えるくらい、人間臭くなってきました。

数年前からドライフードをまったく食べなくなり、だんだん痩せて来ました。けれども高齢ネコ用の缶詰に餌を変更し、それまで口にしなかった牛乳を飲むようになってから、元気を恢復し、食欲旺盛、排せつも順調ということで、20歳を迎えました。

食欲旺盛だったので25歳くらいまで生きるかと期待したのですが、歯周病で口中の痛みがひどくなり餌が取れなくなって、3日ほど絶食して、最後は水も飲めなくなりました。病院で痛み止めを注射してもらいましたが、食欲は戻らず、往年は3.5キロだった体重が1.88キロになって、静かに息を引き取りました。25歳の寿命はかないませんでしたが、何だかその分、私に+5年の寿命を分けてくれたような気がして、長生きできそうな気がしています。

ネコなどのペットは、飼い主が昇天したのちに、出迎えに来てくれるそうです。わが家のニャンコも、今ごろは、不自由な体を脱ぎ捨てて身軽になり、自由自在に飛んだり跳ねたり、歩き回って、49日の間は屋内、屋外の散歩を楽しんでいるのだろうと思います。

ペットを亡くした方にはそれぞれの思いがおありでしょう。わが家のネコは、20歳を超えて、自然に衰弱して、炎が少しずつ小さくなり、ふっと消えるような昇天でした。幸せな人生ならぬネコ生だったと思います。縁あってわが家に来てくれたニャンコに、お礼を言いたいです。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。
新芽の美しい季節になりました。ケヤキの新芽が一斉にふきだすとき、ことばにならない美しさを覚えます。皆様も、美しい花の芽吹きに祝福された日々をお過ごしください。

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本物を見る目 [友情]

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*私の尊敬する仏師 西村公朝師の仏画の描きかたを手本にしました。*

今日は本物を見る目について、日ごろ思っていることを書きます。

わたしはひところ白洲正子の作品を続けて読みました。その中に、骨董品の真贋を見分ける眼を養うには名品に数多く接することと書かれているのが、目に留まりました。

絵の勉強をしていた若かったころ、私は「本物を見る目」が無いことに悩んでいました。名作と言われる作品を目にしても心の奥から湧いてくる感動がなく、尊敬する先輩、先生方の評価を気にして、その人々の見方を真似しようとしたものでした。

子どもの頃ピアノを習っていたときも、音楽を聴くことに興味が無いのに「精神一到何事かならざらん」と指を動かす練習を繰り返せば上手になれると思っていました。そんな練習が楽しいはずもなく、中学校でやめてしまいました。

学校の勉強が好きだったのは、同じことを何回も反復すればそれなりの成績をおさめることができたからですが、美術や音楽はそういう世界ではありませんでした。

絵を習っているころ、後に学んだ骨董に関する白洲正子の考えと同じこと「本物の探し方」を、友人から教えられました。

「あなたは、美術館に行くと、最初から最後まで一枚一枚の絵を丁寧に見ているけれど、それじゃあ疲れるでしょう。絵を見る時は、全体をざっと見てから、心に残った絵の前にもどって、それだけをじっくり見ればいいのよ。」

「心に響いたもの」に気持ちを集中するだけでよい、その見方を教わってから、美術館に行っても疲れなくなりました。自分はこういう絵が好きということも、だんだん分かってきました。

骨董品の真贋を見分けるのも同じことで、本物を手に取り、自分の心の動き方を見つめ、心地よい響きを自分の感覚で味わうこと、それが本物を見る目を培うことになるのだと分かってきました。

結局、私は、骨董品よりも音楽よりも絵画よりも、文章を味わうことが一番、好きなのだというのが、最近になってようやく分かりました。それで今は余暇には、ブログを書くことに力を入れています。

それでも美術を習ったことで教えられたことがあります。教えてくれた友人とも先生とも今は交流がありませんが、教えられたことはいつまでも、心に残っています。

1、美術品でも何でも「本物」に接する。

2、作品を創る時は、目の前の対象物をじっくり観る。(心の眼でも観る)

3、デッサンするときは、形がずれていても良いから、最初の線をまず引く。


1、 について
私にとって本物の文章は、天皇陛下のお言葉と御製です。的確で、あたたかくて深いお言葉は他に類を見ません。いつでも接していたい、それが天皇、皇室の方々のお言葉です。
それで天皇の御歌を続けて学ぼうと思ったのです。本物の文章に常に接していると、マスコミや言論人の皇室に関する論評などが的外れなときは、すぐに見抜くことが出来るように思います。


余談ですが、最近、男系派に対する辛口の言葉ばかり並べていたことに気付きました。男系派から質問されて、彼らの文章を読むようになって、あまりのいい加減さにかなり腹を立てていたのでしょう。偽物を見せられる苦痛に耐えながら男系派の質問に答えていたので、つい愚痴がたまってしまい、それをここに書いてしまったようです。具体的な文章をあげて論評しないで愚痴だけ並べるのはあまり良いことではないなと、ちょっと反省しているところです。今度からは、具体的な文章をあげて論評することにしようと思います。


2、について
目の前の対象物をじっくり見る訓練はいろいろな場面で役立っています。元々私は細かい生き物を観察するのは好きでした。顕微鏡でミジンコなど水中の生物を見るとか、昆虫や花の細部を観察するとか子供の頃から好きでした。

これを文章に応用すれば、第一次資料、つまり本人が書いた資料を丁寧に読むことにつながっていると思います。第二次資料、他人の伝聞記録は、伝え聞いた人の解釈が入り、元の文章と意味がずれていることがあるからです。そのために出来る範囲で元の文章を探し求めます。

さらに文章を書いた人が信頼に値する人なのかも調べます。学歴、肩書なども参考にしますが、それ以上に、筆者が誠実な人であるのか、金儲け主義でないかなどを、調べることにしています。


3、について
デッサンをするとき、真っ白な画用紙を前にして、そこに線を引くときに思い切りが必要です。子供の頃はむしろ気に留めなかったのですが、大きくなって上手に書こうという気持ちが高まれば高まるほど、いつまでも線が引けなくなる、間違った線を引くことが恐くなってしまうのです。
そんな時、先生が言いました。

「線を一本引けば、その線が正しい形からずれていることが分かる。分かったらそれを基準にして正しい線を引き直せばよい、心配しないで最初の線を引くことだ」

文章もそうです。よいことを書こうと思うと、最初の一言が出ない。そこで手が止まってしまう。何でもよいから、気にせずに書き始めれば次の言葉が続いて出て来る。

いちばん書きやすいのはノートへのなぐり書きです。誰にも見せないので好き放題に書きなぐると、せき止められていた思いがほとばしり出て、次の言葉を見つけやすくなります。なぐり書きはそのままでは人に見せられませんが、言葉がつまっているときに、流れを導きだすのにはとても有効な方法です。

これまでの人生で、良い友人や先生に恵まれたことをあらためて感謝しています。これからも、リアルでもネット上でも、良い出会いがあることと期待しています。

本物の文章を深く味わうこと、対象をよく観ること、一歩踏み出す勇気を持つことの努力を、これからも続けて行きたいと思います。

今日も読んでいただきありがとうございました。
急に涼しくなりました。みなさまもどうぞお身体に気をつけて、お健やかにお過ごしください。

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秋のクラス会 [友情]

PICT1674bb.JPG
クラス会に行って来ました。

なつかしい元クラスメートの
顔、顔、顔。

話しているうちに、みんな
学校時代の顔に戻ります。

かけがえのないときを
一緒に過ごしたことを
思い出します。


乾杯の音頭をとった幹事のKさん。

はきはきと分かりやすい挨拶をされているので「こういう場に慣れている人なんだな」と
感心して聴き入っていました。

挨拶の終わりに元気よくさわやかに、「それでは、皆様 乾杯!」とKさん。

一瞬、静かになる会場。

全員、座ったままで、手にグラスを持っている人はいませんでした。

Kさんは乾杯の前に「皆様、グラスをご用意ください」というのを忘れていたのです。

沈黙のあとで、みんなで大笑いしました。

あらためてグラスを持ち、乾杯は和やかに、無事終了しました。

これも楽しい思い出の一コマです。


いろいろな友達と話していて面白いのは、「あの時、あなたにこうして親切にしてもらった」
と言われてはじめて、ああそんなことがあったと思い出すこと。
親切にした側が覚えていなくても、親切を受けた人が覚えていてくれるのは、
ありがたいことです。

記憶とは不思議なものですね。思い出している時の心は、十代と同じで若返っています。


「あなたがこんな話をしていた」というのも、自分がまったく覚えていないことでした。
「おじい様が、刺身に醤油をつけないという話をしていた」と言われて、その時の
自分を思い出してタイムマシンに乗ったようでした。


何十年ぶりに会う友もいて、その間の消息を話し合いました。
「楽しいことがたくさんあるから、何にでも興味を持って、いつまでも若々しい気持ちで
いたい」という言葉が、とても素敵でした。

本当に楽しいひと時でした。

離れてみて年月がたつほどに母校のありがたみが分かってきます。

クラス会を企画し、誘ってくださった幹事の皆様に、心より感謝いたします。


人を傷つけたら [友情]


(ダレト ダレガ トモダチ ナノカナ)

人間は生きている限り、思わぬことから、うっかり、人を傷つけて
しまうことがあります。

そんなとき、十代のころ、友達のHさんから教えられたコトバを
思い出します。

「つぎはぎだらけの友情だっていいじゃない」

時にはけんかして、時には誤解して、時には言い争って。でも、後から、
「ごめんね」とあやまって、仲直りして、前よりもっと親しくなる。
そんな友情が本物だよって、教えてくれたHさん。ありがとう。

「つぎはぎ」があったほうが、服でも靴下でも、強くなるんだそうです。

だから、人を傷つけたな、と思ったら、機会を見て、謝って、
傷つけた分の、何倍も親切にしてあげたら、問題がおきた前より、
もっと良い関係が築けそうですね。

だから、人を傷つけることを、おそれないでほしい。もちろん、
平気で傷つける人にはならないでほしいけれど。

傷つけた分の何倍も親切にして、もっと深く、人間関係を築けたら。

そんなことを思う今日この頃です。

                       

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