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天皇の御歌(76)―第77代・後白河天皇(2) [後白河天皇]

20220821blogDSC_1791.JPG猛暑のためか今年の朝顔は少ないです。これは昨年の朝顔です。









今日は、第77代・後白河天皇の御歌を学ばせていただきます。2回目です。

御在世:1127―1192(崩御・66歳)
御在位:1155―1158(29歳~32歳)

[以下における院政期間 1158~1192(32歳~66歳)]
第78代・二條天皇の御在位期間
第79代・六條天皇の御在位期間
第80代・高倉天皇の御在位期間
第81代・安徳天皇の御在位期間
第82代・後鳥羽天皇の御在位中期まで

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、後白河天皇の御歌(御製)を学び始めましたが、ブログを中断している間にドラマは進行し、第83代、順徳天皇の御代になってしまいました。大河ドラマを見ていらした方は、源頼朝の頃を思い出して、お読みください。

鎌倉幕府を開いた源頼朝に「日本一の大天狗」と言わしめた後白河天皇。保元の乱を経て、藤原家の摂関政治が力を失い、平家が実権を握るが、ほどなく源氏に敗れて、源頼朝が鎌倉幕府を開くという、権力が摂関政治から武家政治に移るとい、激動の時代を生き抜かれた天皇です。

国の政治体制変革の動乱を経ても、日本が分裂することなく存続した背景には、後白河天皇の神仏への祈りと叡慮に基づく差配があったのだと思います。

その一つのあらわれが、歴代上皇最多と言われる33回または34回の熊野詣ではなかったのではないでしょうか。

なお、熊野詣を始められたのは、上皇になられてからのことですが、天皇の御歌を学ぶというブログなので、文中では後白河天皇と表記します。どうぞご了承ください。


☆☆☆

“後白河院は、歴代の上皇のなかで最多の33回もしくは34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした。本地垂迹思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態なのでした。熊野を信仰することと仏教を信仰することになんら矛盾はなかったのです。”

(「歴代上皇最多となる33度もしくは34度に及ぶ熊野詣」みくまのネット)
https://www.mikumano.net/setsuwa/gosira.html

☆☆☆


今日は、その熊野詣の折に後白河天皇が詠まれた御歌を3首、学ばせていただきます。


☆☆☆

神祇のこゝろを

いはしろの 松のちぎりをむすび置きて 萬代(よろづよ)までの 恵(めぐみ)をぞまつ

熊野御幸(ごこう)(熊野三山への御参詣。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽各上皇は屡(しばしば)行幸あらせられた)三十二度(たび)の時、御前にておぼしめしつゞけさせ給うける

わするなよ 雲は都を へだつとも なれてひさしき みくま野の月(以上、玉葉集)

後白河院、熊野の御幸、三十三度になりける時、みもとといふ所にて、つげ申させ給ひける

有漏よりも 無漏に入りぬる 道なれば 是ぞ佛の みもと成(なる)べき
(*有漏=煩悩の世界 無漏=悟りの世界)(風雅集)

(pp103~104)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味:

神祇(じんぎ):① 天神(てんしん)と地祇(ちぎ)。天つ神と国つ神。天地の神々。(コトバンク)

いはしろの松:和歌山県南西部、みなべ町の浜の松。有間皇子にちなむ結び松のこと。(コトバンク)

萬代(よろづよ):限りなく長い年月。永久。永遠。(weblio)

みくま野:【三熊野】熊野三山の異称(goo辞書)

玉葉集(玉葉和歌集):第14番目の勅撰(ちょくせん)和歌集。20巻。(コトバンク)
鎌倉時代後期の勅撰和歌集(Wikipedia)

風雅集:『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。


[大意]

1首目:

有馬の皇子の故事にちなんで、由緒ある岩代の松の枝を結んで置いて、限りなく久しく続く世の恵みを待とう

2首目:

私のことを忘れないでおくれ 雲は都を熊野から隔てているが 何度も通って親しんだ 熊野三山の月よ


3首目:

みもとの地名は、煩悩の世界である有漏から悟りの世界である無漏に入る熊野の道の途上であるから 仏の御許(みもと)が成る「みもと」と名付けられたのであろうか 

[感想]

1首目

万葉集の有馬皇子の古歌が有名です。後白河天皇の本歌取りですね。


☆☆☆

“孝徳天皇の皇子 有間皇子が、謀反の罪に問われ、護送される途次、岩代で松の枝を引き結んで、
磐代の浜松が枝を引き結び
  真幸くあらばまた還り見む
家にあらば笥に盛る飯を草枕
  旅にしあれば椎の葉に盛る(万葉集)
と歌を詠み、岩代の神に自分の平安の無事を祈りました。岩代の地はその後、熊野街道の名所となりました。”
(「有間皇子結び松記念碑」みなべ観光協会)
https://www.minabe-kanko.jp/sightseeing/1130

☆☆☆

松の枝を結ぶのは「旅路や将来の平安無事を祈るまじない」とのことです。(Weblio 古語辞典)

松の枝を結んで後白河天皇は、世の安泰、限りない平安を祈られたのでしょう。
保元・平治という動乱を眼の前に、動乱が静まり平穏な世となってほしい、それが33回も熊野三山に詣でられた後白河天皇の切実な願いだったのだと思います。

2首目:

後白河天皇が熊野で仰いだ美しい月は冴えわたって慈愛深い神仏の象徴のように思われたのではないでしょうか。その月に、雲によってへだてられた都にいても見守っていていただきたいという御心ではなかったかと拝察申し上げます。


3首目:

熊野路でみもとという地に差し掛かり、「仏の御許」を連想なさって、煩悩の多い世俗から、悟りの世界に入る熊野参詣を心に刻まれたのだと思います。熊野詣の旅路の一歩一歩は、神仏に心を向かわせる旅路だったのでしょう。

天皇の御日常では宮中祭祀で神を祀られています。現代では、権威が天皇、権力が政府と政治体制がはっきりと分かれています。

しかし鎌倉時代は違いました。権力と権威の双方の頂点にいらした鎌倉時代の天皇は、公家と武家の政治の行く末、国の命運を一手に引き受けた御存在でした。如何にふるまえば国を分裂させずに治めることができるのか、ご自身の勅語や宣旨が世の中を動かしていく、誤りは即、国の行く末の誤りにつながる、そのようなお立場でした。日夜、御心を悩まされたことでしょう。その中で、都をしばし離れて神仏一筋に大御心を向けて祈られる、そういう時間のために、33度(34度)の熊野詣があったのではないかと拝察いたします。

天皇の御歌を思いつくままに学ばせていただいています。よろしかったら感想をお寄せください。また書かれている内容や用語で、疑問や訂正すべき部分がありましたら、どうぞご遠慮なくコメントをお寄せください。なお、コメントは承認制になっておりますので、公開されない場合があります。あらかじめご了承ください。


今日も読んでいただき有難うございました。
今日は少し涼しくなりました。暑い日でも、秋の気配が感じられます。
皆様にとってよい休日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:御製
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天皇の御歌(73)―第77代・後白河天皇 [後白河天皇]

20220427blog DSC_2058.JPG今日は、第77代・後白河天皇の御歌を学ばせていただきます。

御在世:1127―1192(崩御・66歳)

御在位:1155―1158(29歳~32歳)





[以下における院政期間 1158~1192(32歳~66歳)]

第78代・二條天皇の御在位期間
第79代・六條天皇の御在位期間
第80代・高倉天皇の御在位期間
第81代・安徳天皇の御在位期間
第82代・後鳥羽天皇の御在位中期まで

大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で、後白河法皇は、西田敏行さんが演じています。その後白河法皇は、どういう方で、どんな御製を詠んでいらしたのだろうと、好奇心を覚えたので、学ぶことにいたしました。


第77代・後白河天皇は、第74代・鳥羽天皇の第四皇子。御践祚の翌年に保元の乱が起こり、御在位4年で御譲位なさったが、以後、二條・六條・高倉・安徳・後鳥羽の5天皇の三十余年間にわたって「院政」を御執りになり、66歳で亡くなられました。

保元の乱は、日本史でも学びました。簡単に説明すると、第77代・後白河天皇方と、崇徳上皇方(第75代天皇)との争いです。

“保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。 崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。”(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1

☆☆☆

“この「保元の乱」のもたらしたものは、源平二氏の武家としての実力が示され、政治に対する武家の比重を重からしめることになったとともに、公家勢力の衰兆を決定づけるものになって、以後700年に及ぶ武家ならびに幕府による政治が生まれ出る契機となってしまったものである。”(p102~103)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


崇徳天皇と保元の乱については別の機会に書かせていただきたいと思います。

今回は、後白河天皇の御製をそのまま読ませていただきます。


☆☆☆

みこにおはしましける時、鳥羽殿(註・白河上皇が譲位と同時に京都の南、鳥羽に造営し給うた離宮)にわたらせ給ひける頃、池上花といへる心をよませ給うける

池水に みぎはのさくら 散りしきて 波の花こそ さかりなりけれ(千載集)

鳥羽殿にて、旅宿時雨(しぐれ)といふ事を

まばらなる 柴のいほりに たびねして 時雨にぬるゝ 小夜衣(さよごろも)かな(新古今集)(p103)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味:

みこにおはしましける時:皇子でいらしたとき

鳥羽殿:とばどの
1086年(応徳3)に白河(しらかわ)天皇の後院(ごいん)(譲位後の居所に定めた御所)として、洛南(らくなん)の鳥羽(京都市伏見(ふしみ)区・南区)に造営された離宮。鳥羽離宮ともいう。鳥羽作道(とばのつくりみち)(現鴨川(かもがわ))の東に180町もの地を占め、中島のある池や、北殿、南殿、東殿、馬場殿、泉殿などの殿舎があった。鳥羽上皇もこの離宮を居所とし、新たに田中殿御所を造営した。(日本大百科全書(ニッポニカ))

[註]第72代・白河天皇
御在世:1053―1129(崩御・77歳)
御在位:1072―1086(20歳~34歳)

みぎは:【汀】 水のほとり。 水ぎわ。 「み(水)きは(際)」から。(weblio)

柴(しば):柴とは特定の樹種をさすのでなく,山野に生えているあまり大きくない雑木やその枝をいう。(コトバンク)

いほり:(庵)1 草木や竹などを材料としてつくった質素な小屋。僧・隠者などが住む小さな住居や、農作業などの仮小屋。(goo辞書)

たびね(旅寝):自宅を離れ、よそで寝ること。旅さきで寝ること。たびまくら。たびぶし。(コトバンク)

時雨:(しぐれ):晩秋から初冬にかけて降る雨で、降ったりやんだりするにわか雨をいう。(コトバンク)

小夜衣:(さよごろも):① 身をおおう夜具。着物のような形で、大形で掛けるもの。多く真綿がはいっている。(コトバンク)


[大意]

1首目:

池の水の、水際までさくらの花びらが散り敷かれ、波の上の花が今盛りなのだろう

2首目:

隙間だらけの雑木の枝で屋根を葺(ふ)いた質素な小屋に、旅で泊まったので、冷たい雨に夜着の衣がぬれたことよ


[感想]

桜の花びらがいっせいに枝から散り落ちて、水面をおおいつくしていて、波の上がはなざかりであるように見える、桜の散る頃に、見られる光景です。梅のはなびらでは、このようにはなりません。


1首目が集録されている「千載集」を初めて知りました。勅撰集八代集の7番目に当たるそうです。

千載集(せんざいしゅう):千載和歌集(せんざいわかしゅう)。平安後期の勅撰和歌集。20巻。八代集の7番目に当たる。藤原俊成が1183年,後白河法皇の院宣を受けて撰し,1188年に奏覧した。平安中期から当代までの作,約1290首を収める。(百科事典マイペディア)


お恥ずかしいことに、和歌集といえば、万葉集、古今集、新古今集くらいしか思い浮かばないので、和歌の文化の深さと広さをあらためて知らされました。


勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう):
天皇の綸旨(りんじ)または上皇・法皇の院宣(いんぜん)下命に基づいて編集、奏覧された和歌集。10世紀初頭ごろ成った最初の『古今和歌集』から15世紀前半の『新続(しんしょく)古今和歌集』まで21集があるが、最初の3集を「三代集」、最初から『新古今和歌集』までを「八代集」、続く『新勅撰和歌集』から『新続古今和歌集』までを「十三代集」、全体を「二十一代集」とよんでいる。21集で総歌数は約3万3700首になる。(コトバンク)


2首目を読んで、鳥羽殿(鳥羽離宮)に泊まられたのに、屋根が隙間だらけで、時雨が夜着を濡らすことを不思議に思いました。離宮の手入れが行きとどかないでいるのか、それとも離宮の途上で、小屋に泊まられたのかと思いをめぐらしましたが、わかりません。

鳥羽離宮に最初に住まわれた白河上皇は、後白河天皇の曾祖父でいらっしゃいます。鳥羽上皇は、後白河天皇の御父君ですから、鳥羽離宮との呼び名は御父君に由来するのでしょう。皇子におわしますときに鳥羽離宮を訪れたのは、文中にはありませんが、鳥羽上皇にお目にかかるためだったのかも知れません。鳥羽上皇が、崩御されたのは、後白河天皇が即位された翌年のことでしたから、御対面されたのかも知れません。

時雨が小夜衣をぬらすということを、涙が袖をぬらすことと解釈する人もあります。もしも、鳥羽上皇に皇子でいらした後白河天皇が対面されたのなら、御父君・鳥羽上皇は、まつりごとにかかわる思いをお子様に伝えられ、感じ入って、後白河天皇が涙されたのかも知れないなどと、空想がふくらみます。

後白河天皇の御製を読みますと、平安時代の空気が伝わって参ります。私はこれまでどちらかと言えば、萬葉集に詠われる飛鳥・奈良時代ののびやかでおおらかな空気が好きでしたが、国づくりが進んだ後の平安時代の洗練された空気にも、趣き深いものがあります。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって、花々に恵まれた美しい日々が訪れますよう、お祈り申し上げます。
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