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天皇の御歌(35)―第46代・孝謙天皇、第48代・稱徳天皇 [孝謙天皇・稱徳天皇]

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今日は、第46代・孝謙天皇
重祚して第48代・稱徳天皇
の御歌を学びます。

第46代・孝謙天皇
御在世:718~770(崩御53歳)
御在位:764~758(32歳~41歳)

第48代・稱徳天皇(重祚)
御在位:764~770(47歳~53歳)


第46代・孝謙天皇は、第45代・聖武天皇の第二皇女。758年(天平宝字二年)大炊王(第47代・淳仁天皇)に譲位されたが不和になり、764年に淳仁天皇が廃されたため、重祚され、第48代・稱徳天皇となられました。

孝謙天皇の御代には、東大寺大佛殿竣工(751年)、大佛開眼供養(752年)、鑑真の来朝(754)、「正倉院北倉」に聖武天皇の御遺品が光明皇太后によって収蔵される(756年)などの事がありました。

我が国最初の漢詩集「懐風藻」の成立が751年、「萬葉集巻二十」にある防人の歌を大伴家持が収録したのが755年、ともに孝謙天皇の時代のことでした。

☆☆☆

“天平勝宝二年(七五〇)九月、従四位高麗(こま)朝臣福信に勅して、難波(なには)に遣はし、酒肴を入唐使藤原朝臣清河(ふじわらあそみ きよかわ)等に賜ふ御歌一首。短歌を幷(あは)せたり

そらみつ 大和の國は 水の上は 土行く如く
 船の上は 床(とこ)に坐(を)る如(ごと)
 大神の 鎭(しづ)むる國そ 四(よつ)の船
 船の舳(へ)並べ 平安(たひら)けく 早(はや)渡り來て
 返言(かへりごと) 奏(まを)さむ日に
 相飲まむ酒(き)そ この豊御酒(とよみき)は

反歌一首

四(よつ)の船はや 還(かへ)り來(こ)と 白香著(しらかつ)け 
朕(わ)が 裳(も)の裾(すそ)に 鎭(いは)ひて 待たむ
(以上、萬葉集、巻十九)

(*白香=麻や楮(こうぞ)の類を細かく裂いて白髪の様にして神示に使ったもの
 *鎭ひて=身をつゝしんで) “

(pp55~56)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

高麗(こま)朝臣福信:高倉福信(ふくしん)。高句麗(こうくり)王族と伝承される背奈(せな)福徳の孫。聖武天皇から桓武天皇まで6代の天皇に仕えました。

藤原朝臣清河(きよかわ):750年遣唐大使に任ぜられ,752年吉備真備(きびのまきび)らとともに入唐。帰国の途中安南(アンナン)に漂着,再び長安に帰り,以後唐朝に仕えて高官となり、帰国できず在唐のまま没しました。

そらみつ:やまとにかかる枕詞。空から見た

船の舳(へ):船のへさき

四(よつ)の船:遣唐使の船。通常、一行が4隻の船に分乗したところからいう。

返言(かへりごと):使者が帰って報告すること。

高麗(こま)朝臣福信(ふくしん):

裳(も)の裾(すそ):衣服の裾

鎭(いは)ひて:けがれを避け、身を清める。忌み慎む。

長歌は、神仏が空から見守り給う大和の國は水の上でも土の上を行くように、船の上でも床に座る如く安定した、大神の治め守る國である、遣唐使の四艘の船も、船のへさきを並べて平安に早く海を渡り、還ることができて、報告できるその日に、一緒に酒を飲みましょう。この美味しい御酒を、というほどの意。

反歌は、四艘の船が早く帰って来られるように神の印に白香を束ねて船に着けて、私も衣の裾に、けがれを避け、身を清めて、忌み謹んで待ちましょう、とのこと。

反歌の「裳(も)の裾(すそ)に」が、今一つ、よく分かりません。これは私の勝手な解釈ですが、連想したのは、ルネサンス以前のキリスト教の絵において聖母マリアが広い衣の中に人々を包み込んでいる描写でした。清浄な衣を身に着けること、神がその衣に人々を包み込んで守るという思いが、東西共通してあるのかも知れないとふと思いました。

このときの遣唐使・藤原清河(きよかわ)が結局、日本に帰国できないまま唐で没し、天皇と豊御酒を酌み交わすことができなかったことを思うと、切ない気持ちになります。当時の遣唐使は、帰国できない人もある、命がけの使いだったのですね。


天皇の重祚(ちょうそ)、二度天皇になられることは、日本全史を通じて2回だけあり、2回とも女性天皇であられました。(皇極・斉明天皇と、孝謙・稱徳天皇)

重祚後の稱徳天皇は、僧侶の道鏡を重用され、いわゆる道鏡事件が起こりました。
発端は「道鏡を天位につけたならば、天下太平ならん」、との九州の宇佐八幡宮の神託が都に届けられたことでした。稱徳天皇は、御信頼の厚い和気広虫(わけのひろむし)に神託の再確認を命じられ、姉の広虫に代わって弟の和気清麻呂が宇佐に出向きました。

和気清麻呂が「わが国ひらけてより以来(このかた)、君臣さだまりぬ。臣をもちて君とすることは、いまだあらず。天津日嗣(あまつひつぎ)(皇位の継承者)は必ず皇諸(皇統)を立てよ。無道の人はすみやかに掃(はら)い除くべし」との神託を受けて帰ってきたことにより、道鏡の即位は阻止されました。

宇佐八幡宮のホームページに、「和気清麻呂とご神託」という説明文が掲載されています。
http://www.usajinguu.com/wake/

「道鏡事件」については色々な解釈があるようで、事は複雑です。いずれにしても、「皇位の継承者は必ず皇統を立てる」ことが、広く人々の心に刻まれた出来事であったことと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。

だんだん秋らしくなってきました。暑さ寒さも彼岸までの言葉の通り、涼やかな秋を迎えたいと思います。

皆様もどうぞお元気にお過ごしください。

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