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天皇の御歌(77)―第82代・後鳥羽天皇 [後鳥羽天皇]

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今日は、第82代・後鳥羽天皇の御歌を学ばせていただきます。

御世位:1180―1239(崩御・60歳)
御在位:1183―1198(4歳~19歳)

(1192年まで御祖父・後白河法皇の院政が続く)
[以下における院政期間 1198~1221(19歳~42歳)]
第83代・土御門天皇の御在位期間
第84代・順徳天皇の御在位期間
第85代・仲恭天皇の御在位期間

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、来週が最終回となりました。最終回は承久の乱で終わるようですね。


☆☆☆

“第八十一代・安徳天皇は、第八十代・高倉天皇の第一皇子(御母は平清盛女・徳子=建禮門院)であられるが、御年三歳で践祚、御在位六年、御年八歳で平家の人々と共に、長門(ながと)の壇の浦に入水(じゅすい)せられた。まことに悲劇的な御生涯であられた。
(中略)
(安徳天皇の御陵墓は、山口県下関市阿弥陀町にあり、阿弥陀陵(あみだのみささぎ)(円墳))と申し上げ、御霊は祖茂の籍の赤間神宮に祀られてある。)
(中略)
第八十二代の後鳥羽天皇は、第八十代・高倉天皇の第四皇子。安徳天皇の御西下により
御年四歳で践祚されたが、御譲位の御年も、わづか十八という御若さであられた。しかし、土御門・順徳・仲恭三天皇の「院政」をおとりになったので、実質的には、三十九年間にわたる御政治をなさったことになる。しかしながら、源頼朝の死(一一九七)後、鎌倉幕府の実権は、執権・北条氏の手に握られるやうになり、朝廷の政権も鎌倉の手に移り、遂に「承久の変」に敗れたまひ、後鳥羽上皇は沖ノ島に遷され、十九年の歳月を孤島に過ごされ、延応元年(一二三九)六十歳で亡くなられた。まことに御痛ましいことであった。なお後鳥羽院は、宮中に「和歌所」を再興(一二〇一)して藤原定家(ていか)らに「新古今和歌集」を撰せしめられ、隠岐に赴かれた後も自ら「新古今和歌集」の切継を続行せられ、和歌の世界になみゝならぬ情熱をそそがれた。ご自身も二千首を超える和歌を遺してをられ、歌論書に「後鳥羽院御口傳」が残されてゐる。
なほ、頼朝は平氏滅亡の年に早くも「守護地頭」を置き(一一八五)、欧州を征伐し(一一八九)、「公文所」を「政所」に改め(一一九一)、征夷大将軍に任ぜられる(一一九二)、など、幕府の体制は着々と整備されて行った。
また、文化面では、僧、榮西が帰国して「臨済宗」を日本に伝へた(一一九二)のも、後鳥羽天皇の御代のことであった。
(御陵墓は、京都市左京区大原勝林院町にあり、大原陵(おおはらのみささぎ)〔十三重搭〕と申し上げる)”(p111~113)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


後白河上皇の院政の後に、院政を執り行われた後鳥羽上皇は、次に掲げる百人一首の和歌でも知られています。こうして、その御生涯を読み返すと、波乱万丈の人生を送られたことと拝察されます。


☆☆☆

“述懐(建暦二年-一二一一))

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世をおもふゆゑに 物おもふ身は“
(p115)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

隠岐の島に流された後の御歌かと思いましたが、意外にも、承久の乱の10年前の御歌でした。

“「新古今和歌集」の切継”とありました。切継の意味が良く分からなかったので、調べてみました。

切継:② 勅撰和歌集などで、撰歌後部分的に取捨、訂正を行なうため、削除したり増補したりすること。「新古今集」は後鳥羽院の手によって数回にわたり行なわれた。
(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E5%88%87%E7%B6%99%E3%83%BB%E5%88%87%E6%8E%A5-2030140

今で言えば、編集者のようなお仕事をされたのでしょうか。

政治の第一線から離れることを余儀なくされた後、“和歌の世界になみゝならぬ情熱をそそがれた。ご自身も二千首を超える和歌を遺してをられ、歌論書に「後鳥羽院御口傳」が残されてゐる。”とのことで、歴史に名を遺されたのは、後鳥羽院の優れた御事績だと存じます。


今日は、後鳥羽上皇の御歌3首を、学ばせていただきます。

☆☆☆
祝(建仁元年-一二〇一-内宮御百首)

四方の海の 浪に釣するあま人も をさまれる代の 風はうれしや


雑(同)

昔には 神も佛もかはらぬを くだれる世とは ひとのこころぞ


寄山雑(承元四年-一二〇八-住吉御歌合)

おく山の おどろが下も ふみわけて 道ある世ぞと 人に知らせむ
(*おどろ=草木の乱れ茂りあってゐるところ)

(pp113~114)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味:

四方の海:四海(しかい)
四海:1 四方の海。よものうみ。2 《四方の海の内の意》国内。世の中。天下。また、世界。「―を掌握する」「―同胞」3 仏語。須弥山 (しゅみせん) を取り巻く四つの外海。
(goo辞書)
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%9B%E6%B5%B7/

あま人:
あま 【海人・海士・蜑】①海で魚や貝を採ったり、塩を作ることを仕事とする人。漁師。漁夫。(Weblio古語辞典)
https://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%82%E3%81%BE

神祇(じんぎ):① 天神(てんしん)と地祇(ちぎ)。天つ神と国つ神。天地の神々。(コトバンク)


[大意]

1首目
海の浪に釣りする猟師も おさまった世の中の 風がうれしいだろう

2首目
昔には神も佛もかわっていないが 落ち目になるのはひとのこころによるものなのだろう

3首目
深い山の草木が乱れているところも踏み分けて道理のある世であると人々に知らせよう

[感想]

それぞれ、承久の乱(一二二一)年以前の御製です。

1首目

一二〇一年は平穏だったのかと言えば、そうでもなく、越後平氏の一族、城 長茂(じょう ながもち)による建仁の乱が起きています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
建仁の乱は、一二〇一年5月に鎮圧されたので、その後の御製ではないかと拝察いたします。

2首目

朝に夕に神を祀られる天皇は、神も佛も御代の根底に、世の移り変わりに左右されることなく変わらないという信念をお持ちだと拝察いたします。時代によって、移り変る人の心が、さまざまな争乱をもたらすと、見ていらっしゃるのではないでしょうか。

3首目

人と人が争う不条理が展開する世の中、正しい道理の通らない、混沌とした世の中を前に、変わらずにあるはずの道理を見出したいとの強い御意志が感じられます。


現代では、権威と権力が、天皇、政府と、はっきりと分かれています。鎌倉時代には、権威と権力が共に朝廷にあった時代が行き詰まり、権力が武家政権に移った時代だったと思います。権威と権力が距離を置くというのは、日本の歴史上、必要な事だったのかも知れません。そのため承久の乱で、後鳥羽院側が敗北されたではないでしょうか。

今年は色々なことがありました。3年越しの新型コロナのパンデミック、ウクライナ紛争、自民党と統一教会の問題など。様々な問題がありますが、歴史を長いスパンで見れば、必ず解決できると思います。


今日も読んでいただき有難うございました。
寒さが厳しくなってまいりました。年末、御多忙の折、お身体に気をつけてお過ごしください。皆様にとって楽しい日々でありますことをお祈り申し上げます。

タグ:御製
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