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天皇の御歌(38)―第50代・桓武天皇 [桓武天皇]

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今日も第50代・桓武天皇
の御歌を学びます。

第50代・桓武天皇
御在世:737~806(崩御・70歳)
御在位:781~806(45歳~70歳)

☆☆☆

“延歴二十年(801)春正月丙酉(ひのえとり)、曲宴あり、是の日雪ふり、上歌ひたまはく

梅の花 こひつつをれば 降る雪を
 花かも散ると 思ひつるかも

延歴二十二年(803)三月庚辰(かのえたつ)(二十九日)、遣唐大使葛野麿・副使石川道益に餞(はなむけ)を賜ひ、宴設の事、一に漢法に依る。酒酣(たけなは)にして上、葛野麿を御床の下に喚びて酒を賜いて歌ひたまはく

此の酒は おほにはあらず 平(たひ)らかに
 歸り來ませと いはひたる酒

葛野麿、涕涙(ているい)雨の如し、宴に侍る群臣流涕せざるはなし(以上、日本紀略)“

(p62)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

葛野麿:藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ)

石川道益:(いしかわのみちます)

おほにはあらず:大にはあらず。大はおおざっぱ、いいかげんの意味。


第一首目。梅の花を見たいと願っていたので、雪が降るのを、梅の花びらが散ったと思ったことよ。

梅の開花はまだかと待ちわびているところに、ふわふわと白い小雪が舞って来たのを見て、ふと梅の花びらかと思ったという御歌です。

第二首目。この酒はいいかげんなものではなく、道中が平らかで、無事に帰って来られるようにと、神が斎い給うお酒ですよ。

遣唐使に遣わされる藤原葛野麿に天皇御自らお酒を賜りながら、無事に帰る事を神に祈られた御歌です。御歌を聞いた葛野麿は涙を流し、同じ宴に侍っていた群臣も皆涙を流しました。葛野麿を思う御優しさのあふれた御歌です。

葛野麿は803年4月に唐に向かいますが、暴風雨のため渡航不能となり、翌804年、最澄、空海とともに、再度出帆します。色々困難がありましたが、翌805年には、唐の第十二代皇帝・徳宗に拝謁し、その子第十三代皇帝・順宗の即位にも遭遇し、無事使命を果たして帰国したそうです。良かったですね。

桓武天皇の皇位継承にあたり、初めて、「剣・爾」をうけつぐ「践祚(せんそ)の儀」が「即位式」に先立って行われました(781年4月、践祚(せんそ)の儀=3日、即位式=15日)「剣・爾」とは「三種の神器」のうちの剣(草薙剣の分身)と玉(八尺瓊曲玉)です。この時の儀礼の形は、先般、今上陛下が行われた「剣爾等承継の儀」と、ほぼおなじ形で、現代まで1000年以上も基本の形を変えずに今日まで伝わってきたそうです。

日本の歴史の奥深さをここにも感じます。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとってすがすがしい一日でありますようお祈り申し上げます。

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天皇の御歌(37)―第50代・桓武天皇 [桓武天皇]

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今日は、第50代・桓武天皇
の御歌を学びます。

第50代・桓武天皇
御在世:737~806(崩御・70歳)
御在位:781~806(45歳~70歳)

桓武天皇は、台9代・光仁天皇の第一皇子。御年45歳で皇位に就かれ、その後26年在位されました。はじめ首都を、京都に近い山背(山城)の長岡京に遷され(七八四)、のち京都(平安京)に遷されました(七九四)。小学生の時、年号を覚えるために「鳴くよウグイス平安京」と暗唱しましたが、これが平安時代の始まりです。

内政においては、坂上田村麻呂が「征夷大将軍」(註・これがわが国における「征夷大将軍」の称号のはじまり)に任ぜられて(七九七)、蝦夷を平定した(八〇一)。外交面では、七九五年に渤海国に使いを派遣することがありました。

佛教に対する天皇の御信仰は篤く、七八三年には、私に佛寺を造る事を禁止されると共に、最澄(傳教大師)・空海(弘法大師)を重んぜられました。最澄は比叡山に延暦寺を創建(七八八)し、空海と共に支那(唐)に渡りました(八〇四)。翌八〇五年、最澄は帰国して天台宗を伝へ、空海は一年おくれて、八〇六年(桓武天皇崩御後、平城天皇に代わられてから)に帰国して眞言宗を伝へました。

桓武天皇の時代までは、都(天皇のお住まいになる所)は、何回も遷都されました。平安京に遷ってからは、明治になるまで都が同じ場所にあったことは、考えて見たらとても不思議なことです。794年から1869年まで、まさに千年の都(1075年間)でした。

☆☆☆

“延歴十五年(七九六)四月丙寅(ひのえとら)の曲宴(註・天皇が宮中で臣下に宴を賜ふこと)に歌ひたまはく、

今朝の朝明(あさけ) 汝(な)をといひつる 時鳥(ほととぎす)
 今も鳴かぬか 人の聞くべく

延歴十六年(七九七)年十月癸亥(みづのとゐ)、曲宴に酒酣(たけなは)にして歌ひたまはく

此の頃の 時雨(しぐれ)の雨に 菊の花
 ちりぞしぬべき あたらその香を

延歴十七年(七九八)八月庚寅(かのえとら)、北野に遊猟して伊達親王(註・桓武天皇の第四皇子)の山荘に御し、飲酒高会したまひ、時に日暮る。天皇歌ひたまはく

今朝の朝け 鳴くちふ鹿の 其の聲を
 聞かずばいかじ 夜は更けぬとも(以上、類聚国史)“

(pp61~62)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

曲宴(きょくえん):宮廷などでの、正式でない内輪の宴会

朝明(あさけ):朝早く、東の空の明るくなるころ。 「あさあけ」の変化した語。夜明け

時雨(しぐれ):秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨

ちりぞしぬべき:「し」は「為(す)」の連用形。散ることをするな→「散ってはならない」。

あたら:《形容詞「あたら(可惜)し」の語幹から》惜しくも。もったいないことに。あったら。

高会(こうかい):盛大な会合。盛んな宴会。盛宴。

鳴くちふ:鳴くという

類聚国史(るいじゅこくし、るいじゅうこくし):編年体である六国史の記事を、中国の類書にならい分類再編集した歴史書。菅原道真の編纂により、892年(寛平4年)に完成・成立した。

1首目。今朝の夜明けに汝をと鳴くという時鳥は、今も鳴かないのだろうか、人が聞いているからか。

時鳥が鳴くのを、長鳴くといい、汝(な)が鳴く、(汝は親しみを込めた呼び方)と言う、恋の歌が古今集にあります。そういう恋心に重ねて、鳴き声が聞こえないだろうかと期待されるお心なのでしょうか。時鳥と云うのは身近な鳥で、その鳴き声に人間の様々な思いが託されていたのですね。


2首目。このごろの時雨のために菊の花よ、散ることをしないでおくれ。せっかくの芳香が惜しいから。

桓武天皇が遷都直後の宴席で詠まれた和歌です。この歌が貴重なのは「菊」が詠まれた最初の歌とされていることです。 万葉集に登場する「百代草」という名で詠まれた植物がおそらくそうではないかとされていますが、菊という名で詠まれた記録はないそうです。

http://blog.livedoor.jp/rh1-manyo/archives/52553015.html



3首目。今朝の夜明けに鳴くという鹿の、その声をぜひ聞きたいものだ、たとえ夜が更けたとしても。

この御歌を詠み給うたとき、たちまち鹿の鳴き声が聞こえたので、天皇は欣然として喜ばれて、群臣たちに歌を和するよう命じたという話が伝えられているそうです。御歌にこたえるかのように、タイミングよく鹿が鳴くとは、何とも楽しいお話ですね。

(参考:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanmu2.html)

時鳥、鹿、それぞれの鳴き声、菊の芳香に思いを託した豊かな世界が広がっています。


ところで『大仏開眼』の中で、演じられていた伎楽の赤い顔のお面を見て、お酒について、思った事があります。赤いお面は、たぶん「酔胡王」で酔った姿だそうです。

桓武天皇の御歌の中に「曲宴」、「高宴」の席での御歌があります。 称徳天皇のときは肆宴(とよのあかり)という宴もありました。

肆宴(とよのあかり):豊の宴。宴会。主として宮中で催される酒宴。「とよ」は豊かに満ち足りていることを表わして褒める意がある。「あかり」は酒を飲んで顔色が赤らむこと。

お酒を飲んで顔色が赤らんでいること、豊かに満ち足りた食事、そこで楽しく和歌を交わすということが、君臣の親愛の情を交わす場であり、時には神事の後の直来でもあったのだろうと推察申し上げます。

日本人は酔った人に寛大だと言われますが、良いお酒の飲み方というのはこういうことなのかなと何となくほのぼのとした思いになりました。


今日も読んでいただき有難うございました。
秋めいて参りました。秋の花を楽しめる季節ですね。
夏の疲れが出ないよう、皆様お健やかにお過ごしください。

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