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古事記神話について―神話と歴史の区別(2) [歴史]

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先般、8月27日に、神話と歴史の区別という文章を書いたところ、質問をいただきました。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-08-27

私が神武天皇は神話であり、歴史ではないと書いたことに対して、それではあなたは神武天皇架空説を支持していて、神武天皇の実在を信じないのかというのが、質問の内容でした。

「歴史」ではないと書いたことに対して、神話を否定的に見ていると決めつけられたことにちょっと驚きました。しかし、そう受け取る人があったのは、私の書き方に、言葉が足りない所があったのでしょう。

「歴史的な証拠がない」と述べたことが、「架空である」となるのだろうかと、確認するため、「架空」の意味を辞書で調べてみました。

架空:根拠のないこと。また、事実に基づかず、想像によってつくりあげること。また、そのさま。

「架空」は、実在しない、根拠がないことが、断定される場合をいうようです。私は「実在しない」と断定したつもりはありませんでした。証拠がないから、実在したともしないとも断定はできませんが、それでも実在を信じたいというのが、私の考えです。


8月27日のブログで、私は以下のように述べました。


☆☆

現代において、『古事記』は神話であり、歴史ではありません。戦前では日本神話が全て正史であると教育されていて、弥生以前の研究をするのはタブーであるという風潮があったとのことです。

戦後はその反動もあり、考古学が盛んになったようです。「神話」は、時の権力者がでっちあげたものという見方もあり、神話が極端に軽視されていた時代もありました。

しかし、「神話」には、日本人の夢や理想が語られているので、心を豊かにする文学として、親しみ大切にして行きたいと私は思います。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-08-27

☆☆

確かにこれだと、神話が軽視されていることに対する、私の立場が曖昧かも知れません。

私は神武天皇を「実在が証明されていない」とも書きましたが、それは学問的に証明されていないと述べたまでで、「実在を信じるか」と聞かれたら、神話の一言一句そのとおりでなかったかも知れないが、「神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」と言われる方が日本を建国したという、古代の人々の言い伝えを私は素直に信じています、と答えます。古事記神話を編纂された時代の人々が、自分たちの都合の良いように勝手にでっちあげた架空の人物であるとは、決して思いません。

いつぞや聞いた話で、北極圏のイヌイットの話だったかと思います。ある西洋の学者が、昔からの口伝えで先祖の歴史を伝承してきたイヌイットにインタビューしたところ、先祖がマンモスと戦った話が含まれていたので、考古学と、イヌイットの伝承が奇しくも一致していることが証明されたという話を聞いたことがあります。

文字の無い時代に口承で、先祖代々、伝え続けられてきたことは、文字がある時代と同様に、あるいはそれ以上に丁寧に、細部を大切にして、伝承されてきたと、私は思います。

古事記の神話編纂に際しても、稗田阿礼という口伝えの伝承者からの話を聞いて編集したのですから、最も重要な建国神話の人物「神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」についても、間違いの無いよう、伝承されたままに出来る限り精確に語られたことを疑っていません。九州をはじめとする日本各地に、神武天皇東征に関わる様々な地名や伝説が残されているのも、記紀の記述を裏付けていると思います。

しかし、井戸からシッポのある人間が出て来たり、神と人が混然となっていたり、神武天皇の年齢が今の計算に合わないことなど、現代人の基準から言えば、言葉通りのことがあったと言い切ることにも無理があり、ある程度、象徴的に脚色された部分があるのは否定できません。だから、科学的な意味での「歴史」だと云えないけれども、「神話」であることそのものに、大いなる価値があると述べたいです。


神話について小田村寅二郎氏は次のように述べており、私も全く同感です。


☆☆☆

“なほ、神武天皇をはじめ三、四世紀までの天皇方は、全く架空に創られた人物であるかのごとき説が一般に信じられてゐるやうである。たしかに、天皇の御生誕御崩御の年月については、記紀の記載通りに信じられないところもあるが、だからといって、それがすべて後世の讖緯説による創作であるときめつけることには、まだ問題が残されてをり、その他、天皇の御事業についても、これを単なる創作として軽々しく否定することは許されないと思ふ。さらに以下にかゝげる御製がその天皇ご自身のものか否かについても、決定できない場合もあるが、かりに作者についてその間に微妙な変化が行はれてゐるにしても、それは決して恣意的なものではなく、長い民族の伝承の中に生まれた、古代の人々の表現である以上、われわれは、記紀が成立した当時の人々が信じてゐた伝承を、すなほに受けとって読んでゆくべきであると思ふ。”

(pp17~18)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


☆☆☆

「記紀が成立した当時の人々が信じてゐた伝承を、すなほに受けとって読んでゆく」という心でありたいと思います。「すなほに受け取って読んでゆく」のは、神武天皇の御製に限ることなく、記紀の記述全般についても、言えることです。そこに古代の先祖の魂と現代の子孫の魂の触れ合いがあります。


余談ですが、生長の家の谷口雅春氏は、存在の根本生命は“コトバ”であり、「存在」は「コト」であり、言葉と事は、“言事不二(ごんじふじ)”であると言われています。

“コトバ”が「存在」の根本にあるということ、運命は言葉が作るということ、色々と考えさせられます。

「神話」という生き生きとした言葉によって、日本国の魂が支えられていることを思うと、先祖の伝承を、大切にいとおしんで学んで行きたい、そこから何らかの教訓を得て、よりよい人生を送りたいと思うのは、その国に生まれた人間の自然な気持ちだと思います。


人間は、“コトバ”によって自分の人生を築いていきます。絶望のどん底で、もうだめだと思ったときでも、友人や家族の希望に満ちた一言によって、活気を取り戻すことができます。逆もありますが、そうならないよう、人に元気を与える言葉を発せられるように努めたいと思います。

コトバの使い方で、身近な話ですが、買い物で支払いのとき、何かのはずみで自分の気持ちが沈んでいるかなと思うときほど、「レジ係の、この人はいい人だ」と心の中で繰り返すようにしています。

コロナウィルスが騒がれているときにレジに立つこと自体がストレスかも知れないのに、そういう仕事をしてくれていることを思うと、普段以上に感謝の思いが湧いてきます。「私の前にいるこの人はいい人です」と、心で唱えると、自然にその人の良いところが見えて来て、自分の気持ちも楽になります。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。

皆様にとって良い人々に囲まれた楽しい一日でありますようお祈り申し上げます。


タグ:皇室
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