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天皇の御歌(44)―初代皇后・伊須氣依比賣 [神武天皇]

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今日は、第一代・神武天皇の大后(おほきさき)、初代皇后・伊須氣依比賣(いすけよりひめ)の御歌を学びます。

伊須氣依比賣は「古事記」におけるお名前ですが、日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)いうお名前になっています。

以下の説明は、日本書紀と書いた一部を除いて「古事記」に拠ります。

伊須氣依比賣、すなわち比売多多良伊須氣依比賣(ひめたたら いすけよりひめ)は、神武天皇が橿原で即位されてから、大后、すなわち正式な皇后として迎えられました。神武天皇の御子様は、日子八井命(ひこやいのみこと)、神八井命(かむやいのみこと)、神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)の3人でした。

話は遡りますが、神武天皇は、東征にお発ちになる前に、故郷の日向で阿比良比賣(あひらひめ)を娶(めと)っておられ、阿比良比賣との間に、多藝志美美命(たぎしみみのみこと)、岐須美美命(きすみみのみこと)のお二人のお子様がありました。

日本書紀によれば、多藝志美美命(たぎしみみのみこと)は神武東征に同行され、父君とともに戦われたとのことです。古事記では、東征に同行されたことは書かれていません。

神武天皇が崩御されて後、多藝志美美命は、神武天皇の皇后だった継母の伊須氣依比賣を妻とされました。さらに弟たちである3人の御子たちを殺そうと謀(はか)ったので、伊須氣依比賣は憂い苦しまれて、次のような御歌によって3人の御子たちに、謀(はかりごと)を知らせました。


☆☆☆


“狭井河(さゐがは)よ 雲立ちわたり 畝傍山(うねびやま)
木の葉 騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす

畝傍山 晝(ひる)は雲とゐ 夕(ゆふ)されば
 風吹かむとぞ 木の葉騒(さや)げる“(p90)

(倉野憲司校注『古事記』岩波書店)


☆☆☆

1首目大意。狭井河に身を寄せている息子たちよ 雲が畝傍山に立ち渡って 木の葉がざわざわしている 風が吹きそうですよ

2首目大意。畝傍山の昼は雲がかかっているだけですが、夕方になると風が吹いて、木の葉がざわざわというでしょう

この御歌を聞いた御子たちは、多藝志美美命のはかりごとを知り、末弟の神沼河耳命は、次兄の神八井命と兵を率いて、多藝志美美命を討つように兄に勧めますが、兄は思い切ることができず、代わって、弟の沼河耳命が多藝志美美命を殺します。

兄の神八井命は、沼河耳命の功績を讃えて「私は兄だが敵を殺すことができなかった、お前は勇敢に殺すことができたので、天の下を治めてください。 私は、祭りを司ることによって、貴方様に仕えます」と言われました。

こうして、末弟の神沼河耳命が、第2代・綏靖天皇として御位につかれました。


この暗示的な歌のみで多藝志美美命の反乱を知ったとしたら直観力の鋭さに驚くばかりですが、もちろん日ごろからの何らかの話があったのでしょう。

日本書紀に書かれているように、東征で神武天皇に同行されたのであれば、その後の政務にも関わったでしょうし、自分は神武天皇の長子であるとの思いから、皇位を継ぎたい望みを持つことになったのでしょう。

しかし神武天皇が、出生地で娶(めと)った妻でなく、治める土地の神の血をひく伊須氣依比賣を正式な皇后とされたのは、大和の国を治めることを第一に考えられてのことではないかと思います。そこに、統治する土地との結びつきの強いお后との間に生まれたお子様に後を継がせるという、強い御意思が働いているように思われます。また、天皇および天皇に仕える人々が、次代の天皇になられる方の母方の血筋も重く見ていたとも云えるのではないでしょうか。日本の歴史においては、特に古代において、父方の血筋のみを重視してきたのではなく、母方の血筋も重要な意味を持っていたのではないかと思われます。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって穏やかな一日でありますようお祈り申し上げます。

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天皇の御歌(43)―第1代・神武天皇 [神武天皇]

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一昨日は十五夜だったので、小さい団子とススキを飾りました。月は肉眼ではよく見えたのですが、上手に撮れなかったので、写真はお供えだけです。晴れた空とお月様に感謝します。

今日も第一代・神武天皇の御製を学ばせていただきます。

御在世はB.C.711~B.C.585、御在位はB.C.660~B.C.585です。

今日は、相聞歌(戀愛の歌)を学びます。

天皇が即位された後の御歌で、文章は「古事記・中巻」所載に拠るものです。



☆☆☆

“七媛女(ななをとめ)(註・七人の乙女)高佐士野(たかさじの)(註・香久山近くの野原)に遊行(あそ)べるに、伊須氣依比賣(いすけよりひめ)其の中に在りき。ここに大久米命(おおくめのみこと)、其の伊須氣依比賣を見て、歌を以ちて天皇(すめらみこと)に臼(まを)しけらく、「倭(やまと)の高佐士野(たかさじの)を七行(ななゆ)く媛女(をとめ)ども誰をし枕(ま)かむ「とまをしき。ここに伊須氣依比賣は、其の媛女等(をとめども)の前(さき)に立てりき。乃ち天皇(すめらみこと)。其の媛女等(をとめども)を見したまひて、御心に伊須氣依比賣の最前(いやさき)に立てるを知らして歌を以ちて答臼(こた)へたまひしく、

かつがつも(註・まあまあの意) いや先立てる
 兄(え)(註・よい乙女、または、年上の乙女の意)をし 枕(ま)かむ

とこたへたまひき。……其の嬢子(をとめ)「仕へ奉らむ」と臼(まを)しき。是に其の伊須氣依比賣命の家、狭井河(さいかは)の上に在りき。天皇、其の伊須氣依比賣の許(もと)に幸行(い)でまして、一宿(ひとよ)御寝(みね)し坐(ま)しき。後に其の伊須氣依比賣、宮の内に参入(まひ)りし時(註・お后として後宮にはいられた時)、天皇(すめらみこと)御歌(みうた)よみしたまひけらく、

葦原(あしはら)の しけしき小屋に 菅畳(すがたたみ)
 いや淸敷(さやし)きて 我が二人寝(ね)し

(*しけしき= 荒れた、きたない)

とよみたまひき。”

(p20)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味。

伊須氣依比賣(いすけよりひめ):比賣多多良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)。母は三島溝咋(みしまみぞくひ)の娘の勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)、父は大和三輪山の大物主の神だったため、神の御子と謂われました。

かつがつ:ともかく。何はともあれ。不満足ながら。

しけしき:荒れた、きたない


簡単に解説します。

古事記に拠れば、神武天皇が大后(おほきさき)を探していた時に、大久米命が伊須氣依比賣の話を聞きつけ、七人の乙女が野原で遊んでいるところに天皇をご案内し「七人の乙女がおりますが、どの乙女を妻になさいますか」とお尋ねしました。天皇は、先頭の乙女が伊須氣依比賣だとお知りになったので、次のような御歌で答えられました。

とりあえず 先頭に立つ 一段と美しい年長の乙女と 枕を共にしようか

と答えました。……乙女は「天皇に仕え奉ります」と申し上げました。伊須氣依比賣の家は狭井河の上にあり、天皇は比賣の家に幸行(い)でられて、一夜枕を共にされました。後に、伊須氣依比賣が宮中に入内されたとき、天皇はその時のことを思い出されて御歌を詠まれました。

葦原の中にある粗末な小屋で、菅で作った清々しい畳を敷いて 二人で寝たことだったね

とよまれました。


神武天皇が即位されたのは51歳のときですから、伊須氣依比賣よりだいぶ御年上でいらしたと思います。即位があったのでふさわしい大后を迎える習わしがあったのでしょう。恋の歌といっても、余裕が感じられます。

美しい乙女を后にお迎えするのに、「とりあえず」とか、初めて一夜を過ごした家を「しけしき」とか、そこまでおっしゃらないでも、などと思ったりしますが、正直なことがかえってよいのかと思います。

「しけしき」は、ほめ言葉ではありませんが、その後に来る「いや淸敷(さやし)きて」の「淸(さや)」を引き立てています。真新しい菅畳の香が匂ってくるようです。

古事記では、天皇の使いで訪れた大久米命の入れ墨で強調された眼に伊須氣依比賣が驚いて、鳥の名前を連ねる和歌が収録されていますが、山の神の娘らしい野性味と、若々しい比賣の無邪気さ、愛らしさが感じられます。

胡鷰子(あめ)鶺鴒(つつ)  千鳥(ちどり) ま鵐(しとと)  何故(など)黥(さ)ける利目(とめ)

(大意)アメツバメ、鶺鴒(せきれい)、千鳥、それとも頬白(ほおじろ)のように、なぜそんなに入れ墨をした鋭い目なの

大久米命は答えます

媛女(をとめ)に 直(ただ)に遇はむと 吾が黥ける利目

(大意)あなたのような美しい乙女と直接会おうとして、私は入れ墨をした鋭い目なのです


相聞歌といっても、伊須氣依比賣が直接神武天皇に詠いかける和歌ではないところが、伝承されてきた歌謡ということを思わせられます。

「たたかひの歌」も「相聞歌」も「久米」氏の働きが詠われています。

久米氏は、『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があったとのことです。


伝承では2680年前のこと、想像しても気が遠くなりそうな年月です。それでも時を超えて、戦いの悲しみ恋の喜びを、現代の私たちが、御歌を通して味わうことができるというのは、素敵なことだと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。

秋も深まり、庭の柿が色づいて参りました。毎年、柿をつつきに来るヒヨドリが、声高らかに柿の梢のてっぺんで鳴いています。縄張り宣言をしているのでしょうか。

皆様にとって実り豊かな一日でありますよう、お祈り申し上げます。

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天皇の御歌(42)―第1代・神武天皇 [神武天皇]

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今日も、第一代・神武天皇の御製を学んで参りたいと思います。

御在世はB.C.711~B.C.585
御在位はB.C.660~B.C.585です。

今日も「たたかひの御歌」を学びます。2回目です。



☆☆☆

“土雲(つちぐも)を打たむとすることを明(あか)して、歌曰(うた)ひけらく、

忍坂(おさか)(註・奈良県忍坂村)の 大室屋(おほむろや)に
 人多(ひとさは)に 來(き)入り居(を)り
人多に 來入り居りとも みつみつし 久米の子が
頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 撃ちてし止(や)まむ
みつみつし 久米の子等が 頭椎 石椎もち 今撃たば良らし

とうたひき、如此(かく)歌ひて、刀を抜きて、一斉に打ち殺しき。(*頭椎、石椎=刀の柄頭がそれぞれ頭の形、石の形をしてゐるもの)


登美比古(とみびこ)(註・トミのナガスネビコ)を撃たむとしたまひし時、歌曰ひけらく、

みつみつし 久米の子等が 粟生(あはみ)(註・粟畑)には
 韮(かみら)(註・臭ひのするニラ)一巠 そねが巠
 そね芽繋(めつな)ぎて 撃ちてし止まむ

とうたひき、又歌曰ひけらく、


みつみつし、久米の子等が、垣本(かきもと)に 植ゑし椒(はじかみ)(註・山椒)
 口ひひく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ

とうたひき。又歌曰けらく、


神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)に 
這(は)ひ廻(もと)ろふ 細螺(しただみ)の
い這ひ廻(もとほ)り 撃ちてし止まむ


兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)を撃ちたまひし時、御軍(みいくさ)暫(しま)し疲れき。ここに歌曰ひけらく、

楯並(たた)めて 伊那佐(いなさ)の山(註・奈良県伊那佐村)の 樹の間よも
 い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥
 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助(すけ)に來(こ)ね

 (*鵜養が伴=鵜を使って魚を捕らへることを職として天皇に仕へる人々)”

(pp19~20)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)


☆☆☆


言葉の意味

土雲:土雲(ツチグモ)は古事記での表記で、日本書紀では土蜘蛛。土蜘蛛、(つちぐも)は、上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。

大室屋:大きな、四周がきっちり囲われている部屋。

みつみつし:「久米」にかかる枕詞。「みつ」は「満つ」であるとも、「御稜威(みいつ)(=激しい威力)」で久米氏の武勇をほめたたえる語ともいうが、語義・かかる理由ともに未詳。

久米:久米部(くめべ)は古代日本における軍事氏族の一つ。『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。

這(は)ひ廻(もと)ろふ:這いまわる

細螺(しただみ):キサゴの古名。キサゴは本州、四国、九州の沿岸砂底に生息する巻貝。食用にもなる。

撃ちてし止まむ:「敵を打ち砕いたあとに戦いをやめよう」の意。敵を打ち砕かずにはおくものか。

楯並(たた)めて:楯 (たて) を並べて弓を射る意から、「射 (い) 」の音を含む地名「伊那佐 (いなさ) 」「泉 (いずみ) 」にかかる枕詞。

伊那佐(いなさ)の山:奈良県宇陀市街の南方にある山。宇陀盆地を流れる宇陀川沿いから見ると、ひときわ目を引く。

い行きまもらひ:「い」は、行くを強めることば。行ったり来たり守っていた


1首目。尾坂の大きな室に、人が多勢入ってきたぞ。多勢入ってきたが、人数も力も満ち満ちている久米の者どもが、柄頭(つかがしら)が槌の形の剣、石の形の剣を手に持って、敵を打ち砕き、戦いを終わらせよう

2首目。人数も力も満ち満ちている久米の者どもが、粟畑にある一本の韮(にら)の、その韮の芽も根もひとまとめに抜くように、敵を打ち砕き、戦いを終わらせよう

3首目。勇ましい久米の者どもが陣営の垣の下に植えた山椒を、口にして口中がヒリヒリ痛むような痛み、悲しみを、私は忘れない。敵を打ち砕き、戦いを終わらせよう

この戦いに先立つ、ナガスネビコのとの最初の戦いで、神武天皇の兄君・五瀬命(いつせのみこと)が命を落とされました。その時の痛み、悲しみを山椒の実の辛さ、ヒリヒリする痛みに重ねた御歌なのでしょう。

4首目。神風が吹く伊勢の海の大岩を囲むほどに這いまわるキサゴ貝のように 隙間なく、敵を囲んで打ち砕き、戦いを終わらせよう

5首目。楯を並べて敵に備え、伊那佐(イナサ)の山の木々の間を行き来して戦ったので、お腹がすいてしまった。島の鳥、鵜飼たち。助けに来ておくれ

山の中を行ったり来たりして疲れた兵士たちを、励まそうとして天皇が詠われた御歌です。

神武天皇の「たたかひ」の御歌が「久米歌」、「久米舞」となって、現代まで伝えられていることの意味を考えさせられました。国を平定するためには武力があり、立ち向かう敵を容赦なく討ち果たす。日本の建国の成り立ちに、そのような戦いがあったことを学ぶ意味は何だろうと思いました。

戦いで人々が見せた勇気、決断、そして痛みと悲しみ、そういうことのすべてが学びの種であると思います。古代の戦いは敵も味方も、それぞれの名前が残り、個性が遺憾なく発揮された「英雄物語」の側面もあります。

それでも戦いの描写を続けて読みますと、「戦いを重ねる人間の哀しさ」を、思わずにいられません。

現代における戦争は、どうでしょうか。兵器の発達とともに、それぞれの英雄の個性など、ミサイル一発で吹き飛ばされてしまう、非人間的な戦いの有様を思いますと、国と国との間の「戦争」は、各地における小規模な紛争も含めて、武器による殺し合いを無くして欲しいと切に願わずにいられません。

人間が「戦い」を好む心は、スポーツに昇華して、思う存分、発散したらよいと思います。ボクシングなどの格闘技でも、球技でも相手を殺傷することなく、「命がけで戦う」経験をいくらでも積むことができます。

友人の一人が「国と国との戦争は止めて、スポーツの試合で勝ち負けを決めたらよい」と云っていたことがありました。まさか、国と国との間の交渉事のあり方を、スポーツの勝敗で決めるわけにはいかないでしょうが、国と国との「対抗心」、「競争心」はスポーツを通して表現することができますし、思いっきり戦った後は、互いの健闘を讃えて、握手することもできます。

また、古代の人々の死生観は、現代人より生と死の距離が近く、「死」が身近であったようにも思われます。平和の中にいて、過去の戦いの歴史を学ぶ意味はそのあたりにも、あるのかも知れません。


2020-08-11付の当ブログで、上皇后・美智子さまの「争いの芽を摘み続ける努力」と、内親王・愛子さまの「日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないでしょうか」とのお言葉について書かせていただきました。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-08-11


皇室の2680年の歴史を背負っておられるお二方の、切実に平和を希求されるお言葉は、神武天皇建国の「たたかひの歌」を学んだことで、いっそう強く心に響く気がいたします。

平和のありがたさ、平和というものは黙って何もしないで築かれたものではない、ご先祖様、先人の皆様が努力を重ねて来られた結果であることを考えさせられます。 あらためて「日常生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやること」を心にとどめ、「平和」について、考えて参りたいと思います。


今日も読んでいただき、有難うございました。

皆様にとって幸せに満たされた一日でありますようお祈り申し上げます。


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天皇の御歌(41)―第1代・神武天皇 [神武天皇]

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今日は、第一代・神武天皇の御製を学んでいきたいと思います。


御在世はB.C.711~B.C.585
御在位はB.C.660~B.C.585です。







☆☆☆

“神武天皇は、神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と申し上げ、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあへずのみこと)の第四皇子です。「古事記」「日本書紀」によれば、神武天皇の御東征は、九州、日向国高千穂から美々津(みみつ)の港を船出せられ、豊後水道から今の佐賀関を経て、豊前(大分県)の宇佐、筑紫(福岡県)の岡水門(おかみなと)、安藝(広島県)、吉備(岡山県)を経、途中諸準備を整へられて、皇軍「久米の子」を満載した軍船は、瀬戸内海を東へと進み、明石海峡を通って浪速(なには)のみさき、「青雲の白肩津(しらかたのつ)」に到着。大和へ直行しようとされてトミのナガスネヒコの軍勢と戦はれたが破れ、兄君五瀬命(いつせのみこと)の戦死と云う悲劇にあわれました。そこで紀伊半島を迂回して、熊野から大和に向かう作戦を断行。(今日学ぶ御歌は、熊野から大和に向かわれた時のことです)その後数々の苦闘を経て大和平定に至り、皇居を、畝傍の橿原に定めら、御即位されたのが、わが国の紀元元年(B.C.660)となりました。

御製は、大和平定の折のたたかひの歌と、御即位の後の、相聞(戀愛)の歌があります。
今日は「たたかひの御歌」を学びたいと思います。

「たたかひの歌」ということですが、昨年の大嘗宮の儀の祝宴「大饗(だいきょう)の儀」でこの歌詞の「久米歌」に合わせて舞う「久米舞」が、女性の舞である「五節舞」とともに、宮内庁楽部によって披露されていたことを知りました。以下は東京新聞の記事です。

☆☆

“天皇陛下の即位に伴って行われる大嘗祭(だいじょうさい)の中心儀式「大嘗宮の儀」(十四~十五日)の参列者を招き、十六、十八の両日に開かれる祝宴「大饗(だいきょう)の儀」で、日本古来の雅楽の歌舞「久米舞(くめまい)」と「五節舞(ごせちのまい)」が、宮内庁楽部(がくぶ)によって披露される。いずれも大嘗祭など皇室の重要儀式で行われる。”

(東京新聞 Tokyo web 勇壮 華麗 祝いの舞 大嘗祭で披露 楽部の稽古大詰め
2019年11月8日 16時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=18877&pid=23897

☆☆

「久米歌」は長くなりますので、複数回に分けて学ぶことにいたします。

以下の御歌の引用は「古事記・中巻」に拠るものとのことです。

☆☆☆

“宇陀(註・奈良県宇陀郡)に兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)の二人有りき。故(かれ)、先づ八咫烏(やたがらす)を遣はして、二人に問ひて曰(い)ひしく、「今、天つ神の皇子幸(い)でましつ。汝等(なれども)仕(つか)へ奉(まつ)らむや」といひき。是(ここ)に兄宇迦斯、鳴鏑(なりかぶら)を以(も)ちて其の使を待ち射返(いかへ)しき。……待ち撃たむと云ひて軍(いくさ)を聚(あつ)めき。……然れども軍(いくさ)を得集めざりしかば、仕へまつらむと欺陽(いつは)りて、大殿(おほとの)を作り、その殿の内に推機(おし)を作りて待ちし時に、弟宇迦斯、先づ参向(まひむか)へて拝(おろが)みて臼(まを)しけらく、「僕(あ)が兄、兄宇迦斯……殿を作り、其の内に推機(おし)を作りて待ち取らむとす……」とまをしき。ここに道臣命(みちのおみのみこと)、……大久米命(おほくめのみこと)の二人、兄宇迦斯を呼びて、罵言(の)りて云ひけらく、「伊賀(いが)作り仕へ奉(まつ)れる大殿の内に、意礼(おれ)先づ入りて、其の仕へ奉(まつ)らむとする状(さま)を明(あか)し臼(まを)せ」といひて、……追ひ入るる時、乃(すなは)ち己(おの)が作りし押(おし)に打たえて死にき。……然して其の弟宇迦斯が獻(たてまつり)し大饗(おほみあへ)をば、悉(ことごと)に其の御軍(みいくさ)に賜ひき。此の時に歌曰(うた)ひけらく、(伊賀・意礼=いづれも「お前が」の意)


宇陀の 高城(たかき)に 鴫罠しぎわな)張る 我が待つや
 鴫(しぎ)は障(さや)らず いすくはし くぢら障(さや)る
 前妻(こなみ)が 肴(な)乞はさば 立枛棱(たちそば)の 實(み)の無けくを
 こきしひゑね 後妻(うはなり)が 肴(な)乞はさば 柃實(いちさかきみ)の多けくを
 こきだひゑね ええ しやごしや 此は伊能碁布曾(いのごふぞ)
 ああ しやごしや 此は嘲唉(あざわら)ふぞ

(pp18~19)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

八咫烏(やたがらす):八咫烏は、日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという導きの神。八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。
(参考資料:熊野本宮大社ホームページ。http://www.hongutaisha.jp/%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F/)


御歌に入る前の説明から書かせていただきます。

奈良県吉野の宇陀、宇迦斯(宇賀志村)に兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)という兄弟がいました。神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が「仕える気はないか」と八咫烏を遣わしますが、兄宇迦斯はぶんぶん音のする鏑矢で八咫烏を追い返します。 戦の準備をしようとするが兵が集まらない。そこで一計を案じて、「仕えますので私の御殿におこしください」と使いを出して、大きな御殿を作りますが、御殿には足を踏み入れると重しを付けた天井が落ちてきて殺されてしまう仕掛けを設けて待ち受けました。弟宇迦斯は、神日本盤余彦尊のところへ参り、兄の計略を伝えます。道臣命(みちのおみのみこと)と大久米命(おほくめのみこと)の二人は、兄宇迦斯を呼んで、「仕えるというその心を明らかにしなさい」と、御殿の中に追い込み、兄宇迦斯は自分の仕掛けに押しつぶされて死にます。弟宇迦斯は、大饗(おほみあえ)を設けて、神日本盤余彦尊の軍をもてなします。その時に歌われたのがこの歌です。


言葉の意味(御歌)。

高城:神武天皇が八咫烏に導かれて大和の国に入って来たときに、軍の休息のために築いたわが国最古の城跡。

立枛棱(たちそば):ソバノキの実が小さく少ないところから、「実のなけく」にかかる枕詞。

肴:酒を飲む際に添える食品。元々副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字を当てたことから、酒のための「な(おかず)」という意味。

柃(いちさかき):ヒサカキのこと。常緑高木でサカキでないがサカキの代わりになる。ヒサカキは実が多くつくので、柃實(いちさかきみ)は「多けく」にかかる枕詞。

こきしひゑね:「こきし」は下に言う「こきだ」と同じく「たくさん」の意であろうという。「ひゑ」は肉などを削ぎ取る意。たくさん(肉を)そぎ取ろう

こきだひゑね:たくさん(肉を)そぎ取ろう

伊能碁布曾(いのごふぞ):相手に攻め近づく時の声だぞ

嘲唉(あざわら)ふぞ:あざ笑う声だぞ

ええしやごしや、ああしやごしや:囃子詞(はやしことば)


御歌の意味。

宇陀の高城に鴫の罠を張っていたら、私が待っている鴫はかからず、思いもよらない鯨がかかった。
前妻がおかずを欲しがったら、肉の少ないところをたくさん剥ぎ取って与えるがよい。
後妻がおかずを欲しがったら、肉の多いところをたくさん剥ぎ取って与えるがよい。
ええ、しやごしや。これは相手に攻め近づく時の声だぞ。
ああ、しやごしや。これは、相手を嘲笑する時の声だぞ。


前妻は今で言えば、古女房、後妻は若い妻ということでしょう。現代人の感覚から見れば、古代のことで、複数の妻がいたことはともかく、食事に差をつけるなんて前妻がかわいそうと云いたくなるところですが、今ほど食料が豊富ではないので、これから子供を産み育てる若い妻に栄養のあるところを食べさせようという、当時の事情を反映したそのままを詠われたのだということでありましょう。コトバのリズムが、野性的で強さがあります。

昨年11月の祝宴「大饗(だいきょう)の儀」で「久米舞」として舞われていたというのが、私の大きな発見でした。初代・神武天皇の御歌です! 2600年以上の時を経て歌われ続けている、そのことだけで「すごいなあ!」と、感嘆いたしました。

今日も読んでいただき有難うございました。今日は十五夜でしたね。
秋晴れの日差しがさわやかです。皆様、どうぞお健やかにお過ごしください。

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