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天皇の御歌(34)―第45代・聖武天皇 [聖武天皇]

DCP00067鴨0910blog.JPG今日も聖武天皇の御歌を
学びます。3回目です。

御在世:701~756(崩御56歳)、
御在位:724~749(24歳~49歳)

昨日は雁の話だったので、
雁の写真を探しましたが、
手元になかったので、カモで代用します。モドキですみません。


☆☆☆

“左大臣長屋王の佐保の家に御在(おほましま)して肆宴(とよのあかり)きこしめす天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)一首

あをによし 奈良の山なる 黒木もち 
作れる室(いへ)は 座(ま)せど飽(あ)かぬかも

(中略)

左大卿葛城王等(かつらぎのおほきみら)に姓橘氏(たちばなうぢ)を賜(たま)ひし時の、御製歌(おほみうた)一首 (天平八年-七三六)

橘は 實さへ花さへ その葉さへ
 枝(え)に霜ふれど いや常葉(とこは)の樹 

左大臣橘朝臣の宅に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)きこしめす時太上天皇(註・聖武天皇)の御歌(天平勝宝四年-七五二)

外(そと)にのみ 見てはありしを 今日見ては
 年に忘れず 思ほえむかも(萬葉集、巻第十九)“

(p55)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

1首目の言葉の意味

肆宴(とよのあかり):豊の宴。宴会。主として宮中で催される酒宴。「とよ」は豊かに満ち足りていることを表わして褒める意がある。「あかり」は酒を飲んで顔色が赤らむこと。

あをによし:奈良にかかる枕詞黒木:皮のついたままの木材

室:四方を囲い閉じた部屋や建物

1首目、
美しい奈良の山から採ってきた黒木を使って作ったこの建物は居心地がよく飽きないものだ

2首目の言葉の意味

常葉:常緑

2首目は、橘は実までも、花までも、その葉までも、枝に霜が降ることがあっても、枯れるどころかますます栄える常緑の木であるという御歌。

3首目は、遠くから見ていた家を今日は近くで見て、何年も忘れないで思うことだろうという意味。(しばらく会えなかった橘諸兄の家で親しく会えたことを、喜んで詠われたようです。)

1首目は、元正天皇の御歌でも詠まれていた長屋王の佐保の邸のことですね。聖武天皇も同じように長屋王の邸を讃える御歌を詠まれています。

『大仏開眼』は、長屋王の変の後の話でしたが、長屋王を陥れた藤原四兄弟が天然痘で病死したことが描かれていました。長屋王が無実の罪を着せられたことと重ねて、祟りと恐れられたとのことです。

2首目、3首目は、橘諸兄の橘氏のことを詠われています。『大仏開眼』を見ますと、皇族だった葛城王(かつらぎおう)が、臣籍降下されて橘姓を賜り、その橘諸兄を聖武天皇が頼みにしておられたことが描かれています。皇親勢力の政治が続いていたところに藤原氏が台頭してきた時代とのことで複雑な背景があるようです。歴史は奥が深いです。


今日も読んでいただき有難うございました。
残暑が厳しいですが、お身体にお気をつけてお過ごしください。

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天皇の御歌(33)―第45代・聖武天皇 [聖武天皇]

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今日も聖武天皇の御歌を
学びます。

御在世:701~756(崩御56歳)、
御在位:724~749(24歳~49歳)
です。





9月5日にはBSプレミアムで『大仏開眼』前編のドラマがありました。人間模様が興味深く、衣装が美しかったです。後編が12日にあるので楽しみです。


☆☆☆

“遠江守(とほつあふみのかみ)櫻井王(註・天武天皇の曾孫)天皇(すめらみこと)に「九月(ながつき)のその初雁(はつかり)の使(つかひ)にも思ふ心は聞こえ來ぬかも」と奉(たてまつ)る。天皇(すめらみこと)の賜へる報知(みこたへ)の御歌(みうた)一首

大(おほ)の浦の その長濱(ながはま)に 寄する波 
寛(ゆた)けく君を 思ふこの頃

天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)二首

秋の田の 穂田(ほだ)を 雁(かり)が音(ね) 闇(くら)けくに
 夜のほどろにも 鳴き渡るかも

今朝(けさ)の朝明(あさけ) 雁が音(かりがね)寒く 聞きしなべ
 野辺の浅茅(あさぢ)そ 色づきにける

(以上、萬葉集巻第八)

(p55)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味

1首目

遠江(とほつあふみ):琵琶湖(びわこ)を近江(ちかつあふみ:ちかつおうみ)に対して都から遠い浜名湖(はまなこ)のある国、遠江(とおとうみ)。今の静岡県の西部域。

守(かみ) :令制の官職。国司*(守、介、掾、目)の長官。

*国司:古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏


2首目、3首目

雁(かり):ガン。カモ目カモ科の水鳥のうち、ハクチョウ類を除いた大形の水鳥の総称。

初雁:秋になって最初に北方から渡ってきた雁

大の浦:静岡県磐田市の海岸にあった湖。天龍川、太田川の河道の変更と干拓により現存しない。

穂田(ほだ):秋になり、稲の穂が出そろった田。「秋の田の穂田を」は〈かり〉を導く序詞。

雁が音:ガンの鳴き声

闇(くら)けし:暗いのに

夜のほどろに:夜が明け始めるころ

朝明(あさけ):あさあけの音変化。夜明け

聞きしなべ:聞くにつれて、聞くとともに、聞くちょうどその時

浅茅(あさぢ):まばらに生えた、または丈の低いチガヤ。秋に葉先が紫に染まる。

1首目は、浜名湖(はまなこ)のある静岡県西部の遠江(とおとうみ)の国の国司の長官である櫻井王(さくらいのおおきみ)が、「九月に渡ってきた初雁を使わして私の気持ちを届けたいのですが」と詠んだ和歌に対して、聖武天皇が答えられた御製です。

静岡の大の浦の湖の長い浜に打ち寄せる波のように、ゆったりした頼もしいそなたを思っているこの頃である という程の意。

今だったら、琵琶湖のある近江と浜名湖のある遠江は一日で行き来できますが、昔は遠方の地だったのですね。遠い湖の国を治めている国司、近親者でもある櫻井王が天皇に思いを伝えたいという和歌に、私も思いを寄せていますよとこたえられた御製です。雁の群れに思いを託したり、湖の波のゆったりした様子を統治の有様に重ねたり、自然の鳥や湖にたとえて気持ちを伝える考え方が素敵だと思います。

2首目は、秋の田に穂がたわわに実り、刈穂も近くなったころ、雁の鳴き声が夜の明けきらぬ暗いうちから、響いているとの御歌です。雁も実りの秋に美味しいものを食べに行こうとして、早めに起きて餌をさがしに、ねぐらを出たのでしょう。

3首目、秋も深まり、冷え込むようになった明け方、雁の鳴き声を聞いていると、気温が低くなるのに合わせて、同じころに野原のチガヤの葉も紫に色づいていることだろうという御歌。「色づきにける」に、秋の紅葉の始まりの色を思わせられます。


ガンとカモの違いがよく分からなかったので、調べてみました。

以下のブログによれば、ガンは、カモより大きく、ハクチョウより小さいカモ科渡り鳥の総称。カモは主に夜間に活動するがガンは昼間に活動する。「ねぐら入り」と「ねぐら立ち」があり、V字飛行で雁が移動するのが見られるとのことです。また、カモの中にも、雁と呼ばれる種類があるそうです。なかなか複雑なようです。

(「ネイチャーエンジニア いきものブログ」「2020-01-11雁(ガン)の種類と魅力|ガンとカモは何が違う?雁行の由来になった鳥」
https://www.nature-engineer.com/entry/2020/01/11/090000#雁ガンと鴨カモの違い)


私は、雁の群れは記憶にありませんが、ムクドリの群れが朝夕、空を移動していくのは見たことがあります。また、一度限りでしたが、北海道の釧路でタンチョウヅルのV字飛行を目撃した感動は忘れません。飛行しながら、コーコーと鳴くのですね。雁も鳴きながら、飛んでいくのでしょう。一度、見て、聞いてみたいものです。


今日も読んでいただき有難うございました。

今日も皆様にとって良い一日でありますよう、お祈り申し上げます。

タグ:野鳥
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天皇の御歌(32)―第45代・聖武天皇 [聖武天皇]

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今日は聖武天皇の御歌を
学びます。

御在世:701~756(崩御56歳)、
御在位:724~749(24歳~49歳)
です。


第43代・元明天皇は急逝された第42代・文武天皇の皇位を継ぎましたが、元明天皇の御意志を継いで文武天皇のお子様である聖武天皇のご成長を待たれたのが、文武天皇の姉君だった第43代・元正天皇でした。元正天皇は、聖武天皇の伯母君にあたられます。

天武天皇直系で継承されたいという願いの元に、皇位はめでたく第44代・聖武天皇が継がれて、天平文化が花開きました。


なお、一昨日のブログで、「「もとつ人」は、元正天皇の夫君の草壁皇子か、お子様の文武天皇のことかも知れないという解釈する人もあります。」と書きましたが、元正天皇は、草壁皇子のお子様で、文武天皇の姉君なので、「夫君」、「お子様」は間違いでした。「元正天皇の父君、草壁皇子か、弟君の文武天皇」ということで、謹んで訂正いたしました。元正天皇は生涯不婚でいらっしゃいました。

聖武天皇は、第42代・文武天皇の御長男であられ、文武天皇は、第40代・天武天皇の御孫の草壁皇子の御子なので、聖武天皇は、天武天皇の曾孫にあたられます。

この天皇の頃から、藤原氏の勢力が強大になり、他方、支那東北地区の渤海国がはじめて日本に朝貢しました(728)。聖武天皇の皇后・光明皇后は、施薬院、悲田院(730)を置かれ、病弱者、困窮者の救済に献身されました。光明皇后の御父は藤原不比等です。

施薬院(療病院):薬局、病院
悲田院:病者、身寄りのない老人、孤児などのための、社会福祉施設

にあたるそうです。どちらも貧窮者を救う施設です。



聖武天皇は「鎮護国家」の大御心から、「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発せられ(741)、743年に「大佛鋳造の詔」を745年には東大寺建立の発願をせられました。

天平時代は、聖武天皇を中心としたこの時代であり、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴旅人(おおとものたびと)、山上憶良(やまのうえのおくら)などの歌人が輩出したのもこの時代でした。


☆☆☆

“天皇(すめらみこと)の、酒を節度使(せつどし)の卿等(まへつきみたち)に賜(たま)ふ御歌(みうた)一首。短歌を并(あは)せたり(天平四年、七三二)

食國(をすくに)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)に
 汝等(いましら)し 斯く罷(まか)りなば 平(たひら)けく 
朕(われ)は遊ばむ 手抱(たむ)きて 
朕(われ)は御在(いま)さむ 天皇朕(すめらわ)が
うづの御手(みて)以(も)ち かき撫でそ 勞ぎたまふ
うち撫でそ 勞ぎたまふ 還(かへ)り來(こ)む日
相飲まむ酒(き)そ この豊御酒(とよみき)は 

(右の)反歌一首

丈夫(ますらを)の 行くとふ道そ おほろかに
 思ひて行くな 丈夫(ますらを)の伴(とも) (萬葉集、巻第六)

天皇(すめらみこと)、酒人女王(さかひとのおほきみ)を思(しの)ひます御製歌(おほみうた)1首

道(みち)にあひて 咲(ゑ)まししからに 降る雪の
 消(け)なば消(け)ぬがに 戀ふとふ 吾妹(わぎも)   (萬葉集、巻第四)

(pp54~55)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


1首目の言葉の意味

節度使(せつどし):奈良時代(8世紀)に軍団を統轄するために設置された臨時の官職(令外官)

食國(をすくに):天皇の治めたまう國

遠(とほ)の朝廷(みかど):天皇の遠方の政庁、天皇の治める国の遠くへ派遣された官人

罷(まか)る:命じられて、都から地方へ行く。

かき撫でる:あたまを撫でる。旅人の平安を祈る意味があるそうです。

豊御酒(とよみき:酒の美称

1首目。私が治めている国の遠方にある政庁に、そなたたちがこのように行ってくれたら平安に私は遊んでいるだろう、手を組んでいられるだろう、天皇であるわたくしは、    手で髪かきなでねぎらおう、頭をなでてねぎらおう、そなたたちが帰る日に、酌み交わしたい酒である、このすばらしい神の酒を


2首目の言葉の意味

行くとふ道そ:行くという道である

おほろかに:いいかげん

伴(とも):一緒に

2首目。勇者の行くという道をおろそかに考えてはいけない、勇者たちよ。行く道をおろそかに考えるな勇者たちよ


3首目の言葉の意味

咲(ゑ)まし:微笑む

3首目。道で出くわして、私が微笑んだというだけで、雪のようにはかなく、今にも消えてしまいそうな思いで私を恋い慕っていると言う可愛いあなたよ。

酒人女王は、天武天皇の子である穂積皇子(ほづみのみこ)の孫娘だそうです。萬葉集では、微笑むことを「咲まし」と「花が咲く」漢字を使っているのが素敵だと思います。積もらずにすぐ消えてしまう雪のように、消え入りそうになっている酒人女王も愛らしいですね。


1首目、2首目は、節度使への激励の御製で、派遣される人々の平安を祈って、再会を楽しみに待つお心が詠われています。渤海国のこともあり、国内の九州地方の守りを固める必要があったのでしょう。日本は大陸から離れた島国でしたが、朝鮮半島の影響を受け、国の守りに気を配っていたことが思われます。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって平安な一日でありますよう、お祈り申し上げます。


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