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皇后陛下、お誕生日おめでとうございます [皇后陛下]

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今日は、皇后陛下(雅子さま)の59歳のお誕生日です。心よりお祝い申し上げます。

ビデオを拝見しました。天皇陛下と微笑みを交わされるお姿に心が洗われる思いです。いつでも、天皇陛下を支えていらっしゃることが、感じられます。

私も国民の一人として、悲しい時、苦しい時、皇后陛下、天皇陛下、愛子内親王のお姿を拝見すると、それだけで、悲しみ、苦しさが消えて、癒されます。とても不思議です。

令和4年皇后陛下のお誕生日に際してのご近影(ビデオ)
https://www.kunaicho.go.jp/activity/gokinkyo/02/r04-1209-mov.html


「皇后陛下お誕生日に際してのご感想」を読ませていただきました。

☆☆☆
“この1年は、コロナ禍(か)も続く中、国際的な紛争や、世界各地での自然災害などが重くのし掛かり、心が痛むことの多い年であったように感じます。”
(「皇后陛下お誕生日に際してのご感想」)
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/58
☆☆☆


3年越しの新型コロナによる各種規制、2月からのウクライナ戦争、7月の安倍元総理襲撃事件、事件をきっかけに露呈した統一教会問題、時代が急展開を迎えているように思われます。

皇后陛下は、さらに世界的な視野で、水害や地震などの大きな災害に、着目されています。一人一人が、気候変動対策など、持続可能な世界を築くことに、眼を向ける必要性が感じられます。

☆☆☆
“水害や地震などの大きな災害も起きており、パキスタンでは、夏の期間の豪雨により国土の約3分の1が水に浸つかり、全人口の約15パーセントに当たる3,300万人が被災したと聞きます。洪水や干ばつによる被害は、ほかのアジアの国々やオーストラリア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカなど、世界各地で起きており、気候変動対策が急がれます。今後、持続可能な世界を築いていくためには、世界の人々が知恵を出し合い、共に手を取り合って、協力していくことが急務であると感じます。”
(「皇后陛下お誕生日に際してのご感想」)
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/58
☆☆☆

人類全体も、大きな岐路に立っている、それを乗り越えるために、知恵を出し合い、共に手を取り合うことを、願っておられます。


医師団の発表によれば、皇后陛下は治療中であり、ご回復の途上にあるとのこと、御快癒をお祈り申し上げます。

☆☆☆
“皇后陛下には、これまで同様、周囲の方々の理解と支援をお受けになりながら御治療を続けていただくことが大切ですので、引き続き温かくお見守りいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。”
(「皇后陛下のお誕生日に際しての医師団見解」)
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/d-kenkai-r041209.html
☆☆☆


29年と半年前、29歳と半年の、雅子さまは、天皇陛下の伴侶となられました。一般庶民でいらした雅子さまが、皇室に入られ、皇后陛下となられ、天皇陛下と心一つに、国民と喜びも悲しみと共にされるお立場を選ばれました。婚姻の神秘ということを、深く考えさせられます。

将来、愛子さまがご結婚なさり、お相手が一般庶民であっても、同じことだと思います。伴侶となられる男性が“婚姻の神秘”を経て、立派な皇族になられることと信じております。

今日も読んでいただき有難うございました。
皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
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雅子さまの東北を詠まれた御歌 [皇后陛下]

DSC_122020210319blog.JPG「女性自身 Yahoo News」( 3/17(水) 11:15配信)に、皇后陛下、雅子さまの東北を詠まれた御歌4首が掲載されました。

私もかつて色々悩んでいた時、皇居清掃奉仕に伺い、上皇后陛下、美智子さまに、近くでお目にかかる機会がありました。その瞬間、悩む心が一気に消えました。

皇后陛下にお会いした東北の被災者の皆様もおなじ思いで、悩みがいやされて、明日に向かう力を与えられたのではないかと、拝察いたします。

皇后陛下の「幸福の祈り」が、おことばと御まなざしの背後にあるからなのですね。

皇后陛下の御歌にはお気持ちのエッセンスが込められていると思います。雅子さまのお祈りの込められた御歌を拝読させていただきます。


☆☆☆

『《春あさき 林あゆめば 仁田沼の 岸辺に群れて みづばせう咲く》

’96年春、福島県土湯温泉町を訪ね、仁田沼周辺を散策された両陛下。震災の年に、その美しい自然に思いをはせ詠まれた御歌。

《悲しみも 包みこむごと 釜石の 海は静かに 水たたへたり》

岩手県釜石市をお訪ねの際、釜石湾が静かに凪ぐ様子をご覧になり、地域の人々の悲しみが癒されていくよう願われた。

《ふるさとの 復興願ひて 語りあふ 若人たちの まなざしは澄む》

事故を起こした福島第一原発に近い広野町の福島県立ふたば未来学園高等学校の授業をご覧になり、生徒たちの真摯ですがすがしいまなざしの印象を詠まれた。

《あたらしき 住まひに入りて 閖上の 人ら語れる 希望のうれし》

津波被害の大きかった宮城県名取市閖上地区などをご視察。新しい災害公営住宅に入居した被災者の喜びの声に安堵され、さらなる復興を願われて詠まれた御歌。』

(『雅子さまの東北を詠んだ御歌4選「込められた幸福の祈り」』「女性自身 Yahoo News」 3/17(水) 11:15配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/4c947f4077f282bedc4abedb4170b5e2f77efaa5

☆☆☆

1首目は平成24年の歌会始、2首目は平成26年の歌会始、3首目は平成30年の歌会始、
4首目は平成28年の歌会始の御歌です。

女性自身の解説は省略されているので、それぞれの解説を宮内庁ホームページからも、引用いたします。こちらの方がくわしいので、御歌の背景などがよく分かります。


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(1首目)
『平成八年四月下旬、両殿下は福島県土湯温泉町をお訪ねになりました。
春浅い信夫路(しのぶじ)のハイキングコースを散策なさった折に、芽吹き間近の樹林が開けて仁田沼に出られるとそこには白い包状の花が美しい十万本のみずばしょうの群落が広がり七分咲きの見ごろを迎えておりました。その時の光景をお詠みになられたものです。
昨年の東日本大震災による被害に心を痛められ、被災地の人々や福島県の美しい自然にも思いを馳せられてお詠みになられました』
https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/pdf/utakai-h24.pdf

(2首目)
『皇太子同妃両殿下には東日本大震災の被災地お見舞いのため昨年十一月に岩手県釜石市をご訪問になりました。
同市は平成二十三年三月の東日本大震災で地震と津波による甚大な被害を受け、現在は復興の途上にありますが、両殿下には、昨年五月に釜石市平田(へいた)で三年ぶりにウニ漁が再開されたことなどを現地でお聞きになり、嬉しくお思いになりました。
ご訪問になられた日の釜石湾は、静かに凪いでおりました。妃殿下には、その湾の様子をご覧になり、長年海とともに歩んできたこの地域の人々の悲しみが少しずつ癒やされていってくれているよう、そして、海が穏やかに人々の暮らしを守り、豊かな恵みをもたらしていってくれるよう、願いを込めてこの歌をお詠みになりました』
https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/pdf/utakai-h26.pdf

(3首目)
『皇太子妃殿下には皇太子殿下と御一緒に、昨年十一月に宮城県の名取市閖上(ゆりあげ)地区などの被災地をご訪問になりました。その折、津波被害の大きかった閖上地区に新しく建てられた災害公営住宅に入居された被災者の方々が、生活環境が少しずつ整いつつある中で、今後に向けての希望を見出されてきたことを語られたことに安堵され、嬉しくお思いになりました。
このお歌は、その時のお気持ちを、被災された多くの方々のこれまでの御苦労を思われながら、今後のさらなる復興を願われてお詠みになったものです』
https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/pdf/utakai-h30.pdf

(4首目)
『皇太子同妃両殿下には、昨年の十月、福島県に二年ぶりにお出かけになり、東日本大震災からの復興の様子をご視察になりました。その折、地域の復興を支え、社会に貢献する若者を育てることを目指して創立された県立ふたば未来学園高等学校をご訪問になり、地域の課題への取組についてのグループ学習の様子を御覧になり、生徒たちとお話になりました。このお歌は、そのときの生徒たちの真摯で清々しい目差の御印象をお詠みになったものです』
https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/pdf/utakai-h28.pdf

(以上、宮内庁ホームページ 歌会始 「お題一覧」より)

☆☆☆


中でも、《悲しみも 包みこむごと 釜石の 海は静かに 水たたへたり》の御歌がとても心に残っています。

『海が穏やかに人々の暮らしを守り、豊かな恵みをもたらしていってくれるよう、』という、雅子さまの海への祈りがあるからかも知れません。



東日本大震災の被災者訪問について、『皇后雅子さま物語』には、次のような話が書かれています。

2013年8月20日、皇太子ご夫妻(現在の天皇ご夫妻)は東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県七ヶ浜町を日帰りでご訪問されました。 仮設住宅には40人ほどの被災者が出迎えて、高齢者が椅子に座っての懇談となりました。

☆☆☆

『雅子妃はひざを折り、視線を合わされて、被災者が語る困難な状況に耳を傾けられた。東宮職は事前に雅子妃のお身体のことに触れないよう訪問先に伝えていたが、お年寄りのなかには、つい励ましていただいたお礼に「御病気のなか来ていただいてありがとうございます」と言葉にした人もいたという。
 それを聞いた雅子妃は、笑顔で「こちらの方がこられてよかったです。お互いに頑張りましょう」と述べられた。立場や状況は違っても苦しみを持つ人間同士の言葉が通じ合ったやりとりだった。
 翌月の22日には、福島県郡市をご訪問された。仮設住宅には、原発事故で双葉郡双葉町から避難している人たちが暮らしていた。雅子妃は、被災したひとたちの言葉にならない悲しみを心に重く受け止められていたという。』

(友納尚子著『皇后雅子さま物語』p474 文春文庫)

☆☆☆

ご自身がご病気をされているので、苦しみを持つ人間の心が本当にお分かりになるのだと思います。雅子様がご病気になられたことも、それを乗り越えようと努力を重ねておられることも、ご自身のお気持ちを深める糧となさったのだと思います。人生に無駄なことは何もないと言いますが、皇后というお立場の方が、御病気になられたこと、そこから立ち直りつつあるおすがたから、畏れ多いことですが、教えていただけることがたくさんある気がいたします。御全快を心よりお祈り申し上げます。

今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって、意義のある一日でありますようお祈り申し上げます。

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明治日本を支えた養蚕―昭憲皇太后から貞明皇后へ [皇后陛下]

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昨日の続きで、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)と英照皇太后(孝明天皇の准后(じゅごう)」)の富岡製糸場ご訪問について、またご養蚕を受け継がれた貞明皇后(大正天皇の皇后)について、書かせていただきます。





☆☆☆

“1873(明治6)年5月5日、皇居は失火で宮殿などが炎上し、養蚕は中止となります。明治天皇の皇后(昭憲<しょうけん>皇太后)はそれでも動きます。
同年6月、皇后は、明治天皇の父・孝明天皇の皇后だった英照(えいしょう)皇太后と共に群馬の富岡製糸場を訪ねます。「明治天皇紀」によると、6月24日、二人は場長の尾高惇忠(おだか・あつただ)とフランス人技師ポール・ブリュナの案内で製糸作業や機械室などを見て回りました。

鉄道もない時代。19日に皇居を出発し、埼玉の熊谷を経て富岡を目指しましたが、連日の雨で川が氾濫して足止めを食い、視察できたのは6日目でした。天皇は心配し、侍従を遣わして安否を確認させています。

視察を終えて皇后は歌を詠んでいます。

 「いと車とくもめくりて大御代の富をたすくる道ひらけつゝ」

「富をたすくる」という表現に時代の気分がよく表れているように思われます。”

(『皇室の養蚕と渋沢栄一 「皇室を最後の養蚕農家 にしてはいけない」という悲鳴【皇室コラム(下)】「日テレNEWS24」3月4日 1ページ目』
https://news.yahoo.co.jp/articles/e3494ff0116dc9c701042cbbd113122f16ecc484

☆☆☆

英照皇太后(孝明天皇の准后(じゅごう))のお写真を検索していて、明治神宮崇敬会のホームページで、昭憲皇太后と御一緒に富岡製糸場を御視察されたときの絵がありました。そういえば以前に拝見したことがあるのを思い出しました。


☆☆☆

“明治6年6月19日、皇后は英照(えいしょう)皇太后(孝明天皇の准后(じゅごう))とともに馬車で皇居を出発し、24日、富岡製糸場を視察されました。

 いと車とくもめくりて大御代の

   富をたすくる道ひらけつゝ

糸車が速く回れば回るほど多くの生糸が紡ぎ上げられる。この明治の御代の産業が興り、わが国は富を増やすことができるのです、と皇后はお詠みになりました。”

(『昭憲皇太后 絵画と聖蹟「第26回 富岡製糸場行啓」、明治神宮崇敬会ホームページ
https://meijijingusukeikai.or.jp/meijitenno/3206.html

☆☆☆

言葉の意味:

とくも:早く

めくりて:めぐって、回って

文中に皇后とあるのは昭憲皇太后のことです。

昭憲皇太后の御歌の意味は、上記の引用文の通りです。

“糸車が速く回れば回るほど多くの生糸が紡ぎ上げられる。この明治の御代の産業が興り、わが国は富を増やすことができるのです”

昭憲皇太后の、養蚕に期待され、女工を励まされるお気持ちが感じられます。


それから6年後の明治12年(1879)、英照皇太后が、お住まいの青山御所に養蚕所を建て、明治6年の火災以来中断していた、養蚕が再び始まります。

青山御所での養蚕は、英照皇太后が崩御される前年、明治29年(1896)まで続けられました。

御崩御の後、中断されましたが、明治41年(1908)、皇太子妃節子さま(のちの貞明皇后)により、青山御所内御養蚕所での蚕の飼育が復活されることとなります。

節子さまは幼少のころから養蚕にご関心があり、青山御所で、大正元年(1912)までは皇太子妃として、大正2年(1913)からは皇后として「御親蚕」を行ないました。

今も使われている皇居内の紅葉山(もみじやま)御養蚕所は大正3年(1914)に新築され、それからは青山御所ではなく、皇居内で御養蚕が行われるようになりました。


☆☆☆

“「母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出―」(工藤美代子著、中央公論新社)には、蚕に対する貞明皇后の思いがうかがえるエピソードが紹介されています。貞明皇后は三笠宮さまの母。三笠宮妃の百合子さまは義母の貞明皇后から「これ持てる」と蚕を見せられ、そっとつまんでみせると、皇后は「それなら絹を着てよろしい」「お蚕さんを持てない人は絹を着る資格がないとお笑いになった」と。”

(『皇室の養蚕と渋沢栄一 「皇室を最後の養蚕農家 にしてはいけない」という悲鳴【皇室コラム(下)】「日テレNEWS24」3月4日 2ページ目』

☆☆☆


「お蚕さんを持てない人は絹を着る資格がない」は、貞明皇后らしいお言葉だと思います。そっとつまんだ三笠宮百合子さまも、勇気がおありでした。


元宮内庁総務課長筧素彦(かけいもとひこ)氏の著書『今上陛下と母宮貞明皇后』に、貞明皇后は、日本のために養蚕を奨励されたのはもちろんことですが、蚕の幼虫そのものがとてもお好きで、頬ずりをされるほどだったと書かれています(この著書の「今上陛下」は昭和天皇のことです)。


貞明皇后は、九条家のお生まれですが、公卿のご家庭の里子の風習により、御誕生の1ケ月後から5歳まで農家で養育されました。その家は、武蔵野の一角にあり、田や畑、森や林に囲まれた自然の中でお育ちになられたそうです。田や畑に囲まれた農家でご生活される中で、蚕の飼育もなさったのでしょう。


私事で恐縮ですが、私も子供の頃は、農家ではなかったですが、田や畑、森や林が近くにある中で育ちました。アゲハの幼虫を育てたり、オタマジャクシを飼って蛙にかえしたりしたのを、なつかしく思い出します。自然の中で育つことができたのは幸せなことでした。


ご養蚕は、こうして昭憲皇太后がお始めになられ、英照皇太后、貞明皇太后、香淳皇太后、上皇后・美智子さま、皇后・雅子さまへと、受け継がれて、今日に至っています。


今日も読んでいただきありがとうございました。
今日は当地では、冬が戻ったような寒さでした。
皆様お身体にお気をつけて、お健やかにお過ごしください。


参考資料:

(『「天皇の稲作」と「皇后の養蚕」は、次代にどう引き継がれていくのか』現代ビジネス
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56263?page=2

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明治日本を支えた養蚕ー伝統文化の継承 [皇后陛下]

DCP0013320210307blog.JPG写真は蚕ではありません。アゲハの幼虫です。ボケボケ写真ですみません。幼虫つながりです。





日テレNEWS24で3月4日に「皇室の養蚕」についての日本テレビ客員解説委員・井上茂男氏によるコラムがありました。皇室の養蚕の全体像が分かって、読み応えのあるコラムでした。

養蚕は、明治時代の日本の経済を支えていたのですね。

☆☆☆

“小さな蚕(かいこ)が吐き出す細い糸が、この国を支えた時代がありました。富国強兵を目指して殖産興業が急がれた明治の頃です。時代の風を受けて明治天皇の皇后(昭憲<しょうけん>皇太后)が養蚕を試みます。1871(明治4)年。今からちょうど150年前のことです。「日本資本主義の父」として一万円札の顔になる渋沢栄一がその始まりに関わっていました。”

(『皇室の養蚕と渋沢栄一 「富国強兵」の風を受け て皇室の養蚕は始まった【皇室コラム(上)】「日テレNEWS24」3月4日 1ページ目) 
https://news.yahoo.co.jp/articles/56ebde243f4740d466d657290b0654b6cd247c69

☆☆☆


皇室の養蚕が始まったのは今から150年前の明治4年(1871)、昭憲皇太后(当時は皇后)が試みられたのが始まりとのことです。大河ドラマの渋沢栄一と養蚕との関係にも興味を覚えます。


コラムの映像は、昨年の皇后陛下のご養蚕のNEWS映像です。

蚕の幼虫が桑の葉を前足で挟んで頭を上下させながら食べる姿が、手を合わせて一心に祈っているように見えて、かわいらしいです。子供の頃に飼っていたアゲハ蝶の幼虫を思い出しました。

愛子さまも皇后陛下と御一緒に赤坂御所で、蚕を育てていらっしゃるとのことです。愛子さまは「虫めづる姫君」でいらっしゃるのですね。


明治4年(1871)に、昭憲皇太后に、養蚕に習熟した世話人を推薦したのが渋沢栄一でした。このことが、同コラムの2ページ目に書かれています。


☆☆☆

“蚕の伝染病で日本に熱い視線

徳川幕府が結んだ神奈川条約に基づき、1859(安政6)年、横浜(神奈川)など3港で外国との貿易が始まります。主要な輸出品は生糸、茶、蚕種。8割までが生糸でした。

ヨーロッパの養蚕はその頃、「微粒子病」と呼ばれる蚕の伝染病が蔓延し、長く壊滅状態にありました。フランスの細菌学者、ルイ・パスツールが予防法を確立するまで続きます。清(中国)も第2次アヘン戦争などで疲弊し、日本のシルクがイギリスやイタリアから注目されたのです。”

“良質な生糸を大量に作るために動力を使った「器械製糸」への転換が図られ、1870(明治3)年、新政府は官営の模範工場として製糸場を作ることを決めます。世界遺産に登録された群馬県の富岡製糸場です。指導者として招かれたのはお雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリュナ。設置主任として力を尽くしたのが政府に任官して間もない30歳の頃の渋沢栄一でした。”

“富岡製糸場の槌(つち)音に背中を押されるように、1871(明治4)年3月、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)が養蚕を始めます。天皇の活動を記した「明治天皇紀」によると、皇后は皇居内の吹上御苑で養蚕を思い立ち、養蚕に習熟した女性と世話人を選ぶよう命じ、選ばれた女性たちと一緒に桑を摘んで蚕を育てました。

この時、皇后に世話人を推薦したのが渋沢栄一でした。親戚の田島武平(ぶへい)を推したのです。後に旧宅が世界遺産になった田島家の弥平にとって武平は本家筋。弥平の妻も吹上御苑での養蚕を手伝いました。”

(「皇室の養蚕と渋沢栄一 「富国強兵」の風を受け て皇室の養蚕は始まった【皇室コラム(上)】」「日テレNEWS24」3月4日 2ページ目)
https://news.yahoo.co.jp/articles/56ebde243f4740d466d657290b0654b6cd247c69?page=2

☆☆☆

徳川幕府が1859(安政6)年、横浜(神奈川)など3港で外国との貿易が始めたとき、主な輸出品は生糸、茶、蚕種で、なんと輸出品の8割までが生糸だったとのことです。

群馬県伊勢崎市の島村という地域が、明治初期、ヨーロッパに聞こえた蚕種(さんしゅ=蚕の卵)の産地「シマムラ」であり、そこに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録された田島弥平旧宅があるそうです。

富岡製糸場の設置主任が渋沢栄一で、富岡製糸場の話を耳にされた明治天皇の皇后(昭憲皇太后)が宮城(皇居)内でのご養蚕を思い立たれたのですね。

ご養蚕は、大正天皇の皇后(貞明皇太后)、昭和天皇の皇后(香淳皇太后)、上皇后・美智子様と受け継がれ、昨年から皇后・雅子さまが受け継がれました。

「富岡製糸場」と「田島弥平旧宅」に興味を覚えました。コロナのために今は見学できないようですが、終息したのちに、機会があれば行ってみたいと思います。

富岡製糸場、田島弥平旧宅のどちらも、昭憲皇太后がご訪問されたとのことです。

上皇后陛下の育てられた「小石丸」は、正倉院御物、貴重な古代裂の復元、鎌倉時代の絵巻の修復に使われました。皇居のほかでは育てられていないのでしょうね。


天皇陛下は「稲作」を、皇后陛下は「養蚕」を、それぞれ伝統文化の継承として受け継がれています。

「稲作」は昭和天皇がお始めになられたとのことです。

(「天皇皇后両陛下のご活動」「伝統文化の継承」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/activity/activity/02/activity02.html#H2-04


今日も読んでいただき有難うございました。
今日が楽しい一日でありますようお祈り申し上げます。

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皇后陛下・雅子様、お誕生日おめでとうございます [皇后陛下]

20201208雅子様2DSC_0954blog.JPG今日、12月9日は、皇后陛下・雅子様の57歳のお誕生日です。
お健やかにお誕生日を迎えられたことを、心よりお祝い申し上げます。

宮内庁ホームページ「皇后陛下お誕生日に際してのご感想」から、本当は全文掲載したいほど深いお言葉なのですが、一部抜粋させていただきます。
国民に寄り添う、きめ細かいお気持ちが、ひと言ひと言に込められていて、心に響きます。


☆☆☆

“新型コロナウイルス感染症により,世界中で,そして日本国内でも多くの方が亡くなっていることに対し,この場をお借りしてお悔やみ申し上げます。世界の各地で,あるいは日本国内で,多くの方がこの感染症に苦しみ,懸命の治療にもかかわらず亡くなっていく現実は,本当につらいものです。”

“医療に従事される皆さんが,大勢の患者さんの命を救うために,そして,感染の拡大を防ぐために,、日夜献身的に力を尽くしてこられていることに,心からの敬意と感謝の意を表したいと思います。”

“私自身は,特に昨年来,全国の多くの皆様から寄せられた温かい祝意に感謝しつつ,国民の皆様の現在の困難な状況を思うとき,国民のお一人お一人が,幸せであっていただきたいかけがえのない存在であるということを身にしみて感じます。感染症の不安が渦巻く中,様々な面で自由が失われている日々の中で,多くのご苦労と努力を重ねてこられたものとお察しいたします。

また,新型コロナウイルス感染症により苦労をされている方々の置かれた状況をより良く理解し,心を寄せることができればとの思いで,様々な分野の専門家や現場で対応に当たられている方々から,陛下とご一緒に度々お話を伺ってきました。

医療関係者の皆さんの置かれた環境やご苦労,お年寄りや障害を持った方々をめぐる状況,社会的孤立を深めやすい生活困窮世帯への影響や,そうした世帯の子供たちへの学習支援活動,感染対策と学習との両立に取り組む学校現場の状況など,現場に従事し,取組を進める方々から直接現状を伺うことができました。新型コロナウイルス感染症の感染拡大の中にあって,特に,ご高齢の方や基礎疾患のある方のご心配もいかばかりかと思いますが,そのような方々や障害のある方,あるいは生活に困窮している方や子供たちなど,社会的に弱い立場に置かれている人々を支える努力をされている方々の尽力にも大きなものがあると思います。

同時に,現在のこの状況の中で自分たちに何ができるかを考え,行動しようとする,若い人たちも含む多くの方の新しい試みや取組を目にするとき,勇気付けられ,心温まるとともに,人と人との絆きずなの大切さを強く感じます。

困難な状況に直面する人々を支え,力を尽くしている全ての方に深い敬意と感謝の意を表したいと思います。”

(「皇后陛下お誕生日に際してのご感想」https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/40

☆☆☆

ご感想では、このほか、新型コロナウイルス感染症の、経済社会活動への影響も、深く憂えておられます。このようなお言葉をいただけることに、深く感謝申し上げます。


私事ですが、皇后陛下のことを学ぼうと思い、友納尚子さんの著書『皇后雅子さま物語』を読み始めました。読み進むほどに、雅子様が、天皇陛下をお支えする最良のパートナーでいらっしゃることが思われ、よくぞ皇室に嫁いでくださったとの感を深くしております。

以下は、同著に書かれていた、雅子様の小学生、中学生の時の話です。

小学生の時は生物部に入られ、小学校の生物部顧問だった岸田先生は、

「静かなんだけど物事をはっきりというお子さんでした。生物に対しても筋道を付けて考えることができ、将来はお医者さんか理系の学者さんになるのかと思っていたので、外務省や皇室に入られた時には驚きました」

と言われたそうです。

中学に入られてから、お気に入りはもっぱら野球でした。お父さんと同じ巨人ファンで、高田繁選手のファンだったそうです。学校の近くに巨人軍の練習場があったので、野球好きの同級生と練習を見に行くことがありました。

当時、通っておられた田園調布雙葉(小、中、高一貫校)には、野球部がなかったので、部活で野球をしたいとの気持ちが高じて、小学校の時に友達と野球部を立ち上げようと約束し、中学入学と同時に同級生を誘って11人を集め、野球部は無理でしたが、ソフトボール同好会を立ち上げました。雅子様の、同好会での背番号は、高田選手と同じ8番を勝ち取り、体操着に8を貼り付けて妹たちに自慢されたそうです。

芸能界にはまったく関心がなく、友達が芸能雑誌『平凡』、『明星』を見ているのに、『プロ野球全選手写真名鑑』を読むのが好き、歌番組は見ないで、テレビ番組「プロ野球ニュース」を欠かさず見ていて、『巨人の星』、『あしたのジョー』などスポーツ漫画から手塚治虫の作品までよく読まれました。お父様(小和田恆さん)とキャッチボールをして、玉が速いので、恆さんは、手が痛くなったそうですが、知人には
「まさか娘とキャッチボールができると思っていなかった」
と、嬉しそうに語られたとのことです。

天は二物を与えずということわざがありますが、雅子様の場合は二物どころか、才色兼備、健康で、性格も明朗、クラスの人気者でいらしたとのこと、多くの才に恵まれた、皇室に入るために生まれて来られたような方なのだと思いました。外の世界でいくらでもご活躍できたでしょうに、皇室に入っていただけたことに、あらためて感謝申し上げたいと思いました。

医師団の発表によれば、

「皇后陛下には,依然としてご快復の途上にあり,ご体調には波がおありです。そのため,大きい行事の後や行事が続かれた場合には,お疲れがしばらく残られることもあります。」

とのことです。

いつの日か、小学生、中学生のときのように、活発で伸び伸びとした雅子さまになられますよう、心静かに、御快癒をお祈り申し上げたいと存じます。

今日も読んでいただき、ありがとうございました。

今日一日が、皆様にとって素晴らしい一日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:皇室
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