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第46代・孝謙天皇の御直筆を拝見して―法隆寺献物帳 [孝謙天皇・稱徳天皇]

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9月4日(金)、東京国立博物館 平成館で開催された「聖徳太子1400年遠忌記念 特別展 聖徳太子と法隆寺」を拝観して参りました。

前日、9月3日に急に思い立っていくことにしましたが、思い切って行って来て良かったと思います。

ネットでは事前予約が必要とあったので、当日券が残っているかと心配しましたが、冷たい雨の平日だったからか、ちょっと列に並んだだけですぐに入場することが出来て幸運でした。

前の日に「ぶらぶら美術館」の録画を視聴して、急に行ってみようという話になりました。国宝、重要文化財が多く展示され、見ごたえのある展覧会でした。期間が9月5日で終了するので、ぜひいらしてくださいと皆様にお薦めできないのが残念です。

聖徳太子のお像、釈迦如来像、菩薩像、ふだん目にすることのできない展示物はそれぞれに素晴らしかったですが、中でも、たぶん生涯忘れられない一つの体験がありました。


展示室は、A、B、C、D、E室と5つあり、それぞれにテーマが決められていました。

Bの展示室、テーマ「法隆寺の創建」に入った時、不意に、不思議な感覚に打たれました。

私は、時々こういうことがあります。例えば、古書店に入って、何か懐かしい感じにおそわれ、その方向に進むと、かねてから探し続けていた本があるとか、そういうことが時々あります。

それによく似た、何か懐かしい、慕わしい気持ちがふっと起こり、誰かに「こちらに来て見て」と招かれるような感じがしたのです。その方向に進むと、心惹かれた展示物の正体は、第46代・孝謙天皇ご直筆の「法隆寺献物帳(ほうりゅうじけんもつちょう)」でした。父君、第45代・聖武天皇の御遺品(遺愛品)を法隆寺に献納された時の目録です。

説明を国法・文化財のホームページから引用します。画像の拡大も出来るので、どうぞご覧ください。


☆☆☆

(指定名称)法隆寺献物帳(天平勝宝八歳七月八日) 1巻
紙本墨書 27.8×70.6 奈良時代・天平勝宝8年(756) 東京国立博物館
 聖武天皇は、天平勝宝8年(756)5月2日に崩御し、その皇女であった孝謙天皇は、同じ年の7月8日、聖武天皇遺愛の品々を東大寺以下18の寺に献納して冥福を祈った。「法隆寺献物帳」は、その際に法隆寺へ献納された品々の目録である。
 縹(はなだ)色の麻紙(まし)に薄墨の枠罫を引き、唐風の筆力のある端正な楷書が全22行に書かれる。もとは巻子本仕立であった。末尾に朝廷の有力者であった藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)、藤原永手(ながて)、巨萬福信(こまのふくしん)、賀茂角足(かものつのたり)、葛木戸主(かずらぎのへぬし)の5人の連署があるが、それぞれ個性にあふれる筆致である。全面に「天皇御璽(てんのうぎょじ)」の朱印が押されている。
 なお、東大寺に分納された聖武天皇の数多くの遺愛品は、正倉院宝物として有名であり、その目録『東大寺献物帳』が残っている。

(「法隆寺献物帳(ほうりゅうじけんもつちょう)」)
http://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100206&content_part_id=001&content_pict_id=001&langId=ja&webView=

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『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』には、孝謙天皇の御事績の中に「『正倉院北倉』に聖武天皇の御遺品が光明皇太后によって収蔵される(756年)」とされています。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-09-14

聖武天皇の御遺品(遺愛品)を法隆寺に献納されたとき、東大寺に分納された聖武天皇の数多くの遺愛品が、正倉院に収蔵されたということなのですね。

ガラスケースに入れられた「法隆寺献物帳」の、一字一字きちんと整った孝謙天皇のご直筆に息をのむ思いでした。孝謙天皇の字の美しさを比較するのは失礼かもしれませんが、小学校の頃、同級生にこんな風にきれいな字を書く女の子がいたことを思い出します。生真面目で、一途で、穏やかな心優しい同級生でした。字は人を現わすと申しますが、孝謙天皇が、生真面目で、一途で、秩序を大切になさった御方でいらしたことが、きちんと整った一文字一文字から、伝わって参ります。

孝謙天皇と道鏡は、後世の俗人がいうような関係では無かった、仏教を通した師弟愛があったとしても、清らかな精神的な愛であり、限度を越えることは決して無かったと、あらためて確信いたしました。

このご直筆を拝見するために、今日の展示に導かれたといっても過言ではない、という不思議な感覚におそわれ、胸が熱くなりました。

巻末の藤原仲麻呂の「仲麻呂」という署名は、伸び伸びとした筆致で、孝謙天皇と対照的な豪胆な仲麻呂の性格があらわれている感じがいたします。9年後(天平宝字8年(764年))、藤原仲麻呂の乱を起こして斬首されたことを思うと、浮世の無常を考えさせられます。

孝謙天皇について、これまで2回、当ブログに書いています。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-09-14
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-12-22

どちらも道鏡事件に触れていますが、私は道鏡が俗説のような悪人ではなく、後世の作り話が尾ひれはひれをつけて、事実と異なった人物像が伝わってしまったと考えています。近年、そのように考える学者も多いようです。

先日、とりあげた漫画家、里中満智子さんについて、その後ファンの人から指摘がありましたが、里中さんの『女帝の手記』は、里中さん独自の見方に共感できないところもあるが、発表当時には珍しい「道鏡擁護論」とのことでした。機会があれば読んでみたいと思います。

孝謙天皇は、進取の気性に富んだ女性天皇として、女性の登用にも積極的だったとも言われています。律令が定着し、男性中心社会が確立されつつある時代の流れに対抗して、何かとご苦労が多かったのではないかと拝察申し上げます。

「道鏡事件」による誤った道鏡像の捏造は、近年の皇室バッシングに相通ずると思います。事実と異なった悪口雑言が、時の権力者の都合や無責任なマスメディアによって流布され、低俗な人々がそれに同調するという残念な光景が、孝謙天皇の時にもあったということですね。

「歴史は繰り返す」と申します。そうなりますと「歴史を学ぶことの大切さ」、高貴なものに心を寄せて、卑俗なデマにだまされない賢さを身に付けること、「正しい真実を見抜く眼を養うことの大切さ」を考えさせられます。そのような努力を続けたいと、今回の展示を拝見して、強く思いました。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって充実した一日でありますことをお祈り申し上げます。

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道鏡は国家の安泰に寄与した忠臣だった [孝謙天皇・稱徳天皇]

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男系支持派は、女性天皇反対の理由に、しばしば称徳天皇と道鏡の例をあげます。
しかし、道鏡事件の解釈と宣伝の仕方は、称徳天皇の評価をおとしめようという、後世の脚色が強く、ある意味、でっち上げに近いもののようです。
江戸時代に特にそれが広まったと言われています。


最近、NHKテレビなどの歴史番組で、称徳天皇と道鏡のことについて取り上げられているのを見ました。最近の学者の説は、称徳天皇が私情に流されたという通説とは、だいぶ違っているようです。

奈良県で「道鏡禅師像の真のお姿を伝えたい」という運動もあるそうです。
仏教を広めるのに大きな功績をあげられたとのことです。

☆☆☆

”弓削の道鏡は、歴史上、悪人として評価されています。しかし、当時の僧は、山岳修行によって特殊な能力を身につけ、その能力で多くの人達の病気や災いをしりぞけ、国家の安泰に寄与していました。中でも、道鏡はさまざまな評価はありますが、医師、薬剤師、霊能者としてすぐれた僧であったと考えられます。”
https://readyfor.jp/projects/doukyou

☆☆☆

真相は、称徳天皇が道鏡を「寵愛という私的な感情」で皇位に就けようとしたのではなく、「公的な意味合い」において中継ぎとして皇位に就ける案が浮上したけれども、宇佐八幡宮の御託宣を支持した和気清麻呂などの側近により、その案が退けられたということのようです。 

称徳天皇は、その際、「宇佐八幡宮の御託宣」と側近の判断を尊重し、正しい御選択により、きちんと天皇の役割を果たされました。

背景に道鏡が、天智天皇の皇子、志貴皇子の御落胤、すなわち天智天皇の孫だったという説もあるようです(『公卿補任』『七大寺年表』など)。そうでなければ、皇位継承の案が浮上するのは、それまでの歴史に鑑みて、あり得ないことのように思えます。

ちょっと話が飛躍しますが、御落胤というのが真実であれば、今日話題になっている、皇籍離脱した旧宮家の宮様の孫が皇籍復活するのも、同じような理屈になります。

つまり、宇佐八幡宮の御託宣『「皇統を離れて一般人になった元皇族(道鏡の場合は天皇の皇子の子)が、60年以上を経て、皇族に復帰することはできない』というご託宣は、そのまま『皇籍を離れて一般人になった元皇族の子孫が、70年以上を経て皇族に復帰することはできない』ということに当てはまるのではないでしょうか。

道鏡が本当に皇位簒奪を試みていたら厳罰に処せられたはずなのに、そうならなかったという史実を丁寧に追っていくと、道鏡は忠臣であり、天皇のご自覚が高く潔癖だった称徳天皇も、何ら道を外れたことはされていないことになります。

称徳天皇の聖徳太子に習おうとした仏教重視政策により、利益が損なわれた藤原氏が自己保身のために、また天智天皇系の正当性を強調したい人々が天皇崩御後にデマを流し、その後、江戸時代には「男尊女卑」思想を徹底するために、女性が天皇になるのはまかりならんとの宣伝に利用されたというのが、真相のようですね。江戸時代の「禁中公家諸法度」における「女性に家を継がせない」施策を徹底するために、利用されたのかも知れません。


江戸時代は武家支配を徹底するために、男尊女卑が頂点に達し、明治時代にも、富国強兵のために男尊女卑が続き、大東亜戦争を経てもそれが尾を引いて、今日に至っているという感じがします。

しかし、日本は、政治家の世界や、社会的地位においては「男尊女卑」かも知れないが、実生活では女性が大切にされている国とも言われています。女性の側でも、社会に出ると男尊女卑の逆風にさらされるので、家庭や地域を主な活躍の場として安住して来たという面もあり、逆に男性は、社会で苦労して平均寿命が短く、妻に先立たたれると地域に居場所が無く、身辺のことも処理できず苦労するという面もあって、一概に男女平等とされる他国の方が幸福だとも言えませんが……。


それでも「心身ともに健康な女性が男子を産めないことを責め立てられて心を病んでしまう」異空間、「女性に生れたことで自分を責める」異空間が、皇室という、日本の中心にいつまでもあるという異常事態だけは、何とかしなければならないと感じております。

なお、女性天皇が結婚されると、皇統がその配偶者の家系に移ってしまうと心配する人がありますが、それは天皇の配偶者が皇族や華族に限定されていた明治時代までのことです。

例えば、孝謙天皇・称徳天皇は天武天皇系の子孫ですが、幼い時から皇太子でした。皇太子である孝謙天皇が、天智天皇系の子孫である男性皇族と結婚されれば、夫である天智天皇系の男性皇族にも、皇位継承の可能性が生まれます。それは、過去の女性天皇、推古天皇、斉明天皇、持統天皇が皇后から天皇になられたので、当然、女性天皇の配偶者にも皇位継承する方が現れるということです。

天武天皇系を守りたいと思えば、天智天皇系の皇族とは結婚できず、配偶者の範囲が限られてしまいます。独身を通されたのは、他にもそれぞれの理由があったようですが、称徳天皇の場合は、天武天皇系の継承を守るために、独身であられたということのようです。


現代において、一般庶民が夫になられれば配偶者が天皇になられるということはなく、女性天皇のお子様が皇統を継がれる「女帝の子も親王である」という意識が浸透すれば、一般庶民男性の家系に皇室が変わってしまうとの誤解は生まれません。

認識の仕方によるものですが、一般庶民の感情として、旧家に婿入りした父親が別の家系に生まれた人でも、婿入りした家に生まれた子孫は、その旧家の子孫であることに何ら変わりがないという、庶民感情に照らし合わせれば、何もさまたげにもならないと思います。

今日も読んでいただき有難うございました。
良い一日をお過ごしください。

参考資料:

高森明勅著『日本の十大天皇』幻冬舎新書、pp211~225


タグ:道鏡
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天皇の御歌(35)―第46代・孝謙天皇、第48代・稱徳天皇 [孝謙天皇・稱徳天皇]

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今日は、第46代・孝謙天皇
重祚して第48代・稱徳天皇
の御歌を学びます。

第46代・孝謙天皇
御在世:718~770(崩御53歳)
御在位:764~758(32歳~41歳)

第48代・稱徳天皇(重祚)
御在位:764~770(47歳~53歳)


第46代・孝謙天皇は、第45代・聖武天皇の第二皇女。758年(天平宝字二年)大炊王(第47代・淳仁天皇)に譲位されたが不和になり、764年に淳仁天皇が廃されたため、重祚され、第48代・稱徳天皇となられました。

孝謙天皇の御代には、東大寺大佛殿竣工(751年)、大佛開眼供養(752年)、鑑真の来朝(754)、「正倉院北倉」に聖武天皇の御遺品が光明皇太后によって収蔵される(756年)などの事がありました。

我が国最初の漢詩集「懐風藻」の成立が751年、「萬葉集巻二十」にある防人の歌を大伴家持が収録したのが755年、ともに孝謙天皇の時代のことでした。

☆☆☆

“天平勝宝二年(七五〇)九月、従四位高麗(こま)朝臣福信に勅して、難波(なには)に遣はし、酒肴を入唐使藤原朝臣清河(ふじわらあそみ きよかわ)等に賜ふ御歌一首。短歌を幷(あは)せたり

そらみつ 大和の國は 水の上は 土行く如く
 船の上は 床(とこ)に坐(を)る如(ごと)
 大神の 鎭(しづ)むる國そ 四(よつ)の船
 船の舳(へ)並べ 平安(たひら)けく 早(はや)渡り來て
 返言(かへりごと) 奏(まを)さむ日に
 相飲まむ酒(き)そ この豊御酒(とよみき)は

反歌一首

四(よつ)の船はや 還(かへ)り來(こ)と 白香著(しらかつ)け 
朕(わ)が 裳(も)の裾(すそ)に 鎭(いは)ひて 待たむ
(以上、萬葉集、巻十九)

(*白香=麻や楮(こうぞ)の類を細かく裂いて白髪の様にして神示に使ったもの
 *鎭ひて=身をつゝしんで) “

(pp55~56)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

高麗(こま)朝臣福信:高倉福信(ふくしん)。高句麗(こうくり)王族と伝承される背奈(せな)福徳の孫。聖武天皇から桓武天皇まで6代の天皇に仕えました。

藤原朝臣清河(きよかわ):750年遣唐大使に任ぜられ,752年吉備真備(きびのまきび)らとともに入唐。帰国の途中安南(アンナン)に漂着,再び長安に帰り,以後唐朝に仕えて高官となり、帰国できず在唐のまま没しました。

そらみつ:やまとにかかる枕詞。空から見た

船の舳(へ):船のへさき

四(よつ)の船:遣唐使の船。通常、一行が4隻の船に分乗したところからいう。

返言(かへりごと):使者が帰って報告すること。

高麗(こま)朝臣福信(ふくしん):

裳(も)の裾(すそ):衣服の裾

鎭(いは)ひて:けがれを避け、身を清める。忌み慎む。

長歌は、神仏が空から見守り給う大和の國は水の上でも土の上を行くように、船の上でも床に座る如く安定した、大神の治め守る國である、遣唐使の四艘の船も、船のへさきを並べて平安に早く海を渡り、還ることができて、報告できるその日に、一緒に酒を飲みましょう。この美味しい御酒を、というほどの意。

反歌は、四艘の船が早く帰って来られるように神の印に白香を束ねて船に着けて、私も衣の裾に、けがれを避け、身を清めて、忌み謹んで待ちましょう、とのこと。

反歌の「裳(も)の裾(すそ)に」が、今一つ、よく分かりません。これは私の勝手な解釈ですが、連想したのは、ルネサンス以前のキリスト教の絵において聖母マリアが広い衣の中に人々を包み込んでいる描写でした。清浄な衣を身に着けること、神がその衣に人々を包み込んで守るという思いが、東西共通してあるのかも知れないとふと思いました。

このときの遣唐使・藤原清河(きよかわ)が結局、日本に帰国できないまま唐で没し、天皇と豊御酒を酌み交わすことができなかったことを思うと、切ない気持ちになります。当時の遣唐使は、帰国できない人もある、命がけの使いだったのですね。


天皇の重祚(ちょうそ)、二度天皇になられることは、日本全史を通じて2回だけあり、2回とも女性天皇であられました。(皇極・斉明天皇と、孝謙・稱徳天皇)

重祚後の稱徳天皇は、僧侶の道鏡を重用され、いわゆる道鏡事件が起こりました。
発端は「道鏡を天位につけたならば、天下太平ならん」、との九州の宇佐八幡宮の神託が都に届けられたことでした。稱徳天皇は、御信頼の厚い和気広虫(わけのひろむし)に神託の再確認を命じられ、姉の広虫に代わって弟の和気清麻呂が宇佐に出向きました。

和気清麻呂が「わが国ひらけてより以来(このかた)、君臣さだまりぬ。臣をもちて君とすることは、いまだあらず。天津日嗣(あまつひつぎ)(皇位の継承者)は必ず皇諸(皇統)を立てよ。無道の人はすみやかに掃(はら)い除くべし」との神託を受けて帰ってきたことにより、道鏡の即位は阻止されました。

宇佐八幡宮のホームページに、「和気清麻呂とご神託」という説明文が掲載されています。
http://www.usajinguu.com/wake/

「道鏡事件」については色々な解釈があるようで、事は複雑です。いずれにしても、「皇位の継承者は必ず皇統を立てる」ことが、広く人々の心に刻まれた出来事であったことと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。

だんだん秋らしくなってきました。暑さ寒さも彼岸までの言葉の通り、涼やかな秋を迎えたいと思います。

皆様もどうぞお元気にお過ごしください。

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