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男系、女系の定義とは? [皇室典範改正]

20220830blogDSC_0466.JPG今日は、皇位継承における、男系、女系の定義を考えます。
いつ頃、決められたのか?
決まった定説があるのか?
どういう見方で定義が決められたのか?
などです。

天皇の皇位継承に関連して男系、女系という言葉が口にされ、2021年12月22日の政府の有識者会議報告では、女性天皇、女性宮家(女性が当主の宮家)は認めても良いが、一代限りで、配偶者や子孫は一般国民のままとすることが考えられるとしています。

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“女性皇族が皇族でない男性と婚姻しても皇族の身分を
保持するという新しい制度を導入した場合、その子は皇位継承資格を持たな
いとすることが考えられます。また、配偶者と子は皇族という特別の身分を
有せず、一般国民としての権利・義務を保持し続けるものとすることが考え
られます。”(p10)

(報告 令和3年12月22日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案
に対する附帯決議」に関する有識者会議)
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/taii_tokurei/pdf/houkoku_honbun_20211222.pdf

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産経新聞に“「愛子天皇」待望論の危うさ”というタイトルで、施光恒(せ・てるひさ)氏が、愛子天皇反対の文章を載せています。

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“皇統の系図をみれば、男系でつないできたのは明らかである(宮内庁ホームページにある系図がわかりやすい)。われわれの先祖は時に苦労して男系継承を守ってきた。いくたびか大きな危機もあった。例えば、第25代武烈天皇から第26代継体天皇への継承である。武烈天皇ののちの継承者がなかなか見いだせず、このときは応神天皇(第15代)まで約200年血統をさかのぼり、越前国三国(現在の福井県坂井市)で暮らしていた子孫を見つけ出し、即位願った。”
(中略)
“倫理学者・和辻哲郎がかつて指摘したように、日本の歴史では「国民の統一、国民の総意は、いつも天皇において表現された」(『国民統合の象徴』)。「国民の総意」とは、ある一つの時代を生きる日本国民だけの意思ではない。過去に存在した歴代の日本人の意思も含まれる。われわれは皇室の伝統を学び、先人の思いを汲(く)み取らなければならない。”
(【施光恒の一筆両断】「愛子天皇」待望論の危うさ 産経WEST 2022/8/29 19:26)
https://www.sankei.com/article/20220829-PRW2SF53QNN7PPOVO5OTL7RPZM/
+++++


施氏は、“先祖が苦労して男系継承を守ってきた”と述べますが、果たしてそうでしょうか。施氏の言う「先祖」は、悠久の日本の歴史から見ればつい最近の、明治時代以後の先祖ではないのでしょうか。

男系、女系の定義が一つであるように、多くの人が思っていられるかも知れませんが、実は、学者の間では、大きく分けても2つの定義があります。

男系、女系と、施氏が上げた、いわゆる「男系派」の定義は、平成17年(2005年)以降、世間に広められた定義で、それまで、男系、女系の定義に、学者の間で、定説はありませんでした。

私は施氏の定義とは別の定義を取ります。その定義から見れば、日本が昔から、「男系継承を苦労して守ってきた」のは、[双系=男系+女系で]「皇統継承を苦労して守ってきた」であり、日本建国の頃から、皇統は男性と女性が力を合わせて継承して来たのだと思います。

施氏は、第26代・継体天皇の例をあげていますが、第25代・武烈天皇に直系の内親王(女子)がいらっしゃれば、その方が皇位を継いだ可能性があったという学説もあります。継体天皇御即位に当たって、第24代・仁賢天皇の直系のお子様、手白香皇女(たしらかのひめみこ)とのご結婚がありました。すなわち、仁賢天皇の娘婿になられたから、天皇になれたのであり、男系の血筋だけで天皇になるのは、難しかったと言えます。


男系、女系の定義について、歴史学者の田中卓氏は、著書『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』で、次のように述べています。

☆☆

“皇統に関して男系とか女系とか言い出したのは、西洋の学問を摂取した明治以来のことで、管見(私の考え)では、それ以前に議論の対象となったことはないように思う。
 特に旧『皇室典範』でで「男系ノ男子」と見える。”

“この問題は、前例がないため、皇室法の学会でも定説はないようだが、歴史的には、皇祖神の天照大神が「吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地と神勅されている通り〝天照大神を母系とする子孫〟であれば、男でも女でも、皇位につかれて何の不都合もないのである。”
(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』(pp36-38)幻冬舎新書)

☆☆


日本古代史の泰斗、田中卓氏は、「男系、女系とか言い出したのは、西洋の学問を摂取した明治以来のこと」、「この問題は、前例がないため、皇室法の学会でも定説はないようだ」と述べます。

また、神道学者、高森明勅氏は、次のように述べています。双系派の定義です。

☆☆

“「女系天皇」について分かっているつもりの人でも、案外うまく整理できていないことが多い。「男系天皇」はもちろん、男性天皇の血筋をひく天皇だ。一方、女性天皇の血筋を引くのが女系天皇。ここまでは誰でも分かる。では、両親が共に天皇だった場合はどうか。具体的には、たとえば天智天皇・天武天皇のご兄弟は、父親が舒明天皇で母親は皇極天皇。こうしたケースでは〝男性優先〟の観念から、一般に〝男系〟の天皇と見られる。(中略)
ところが、父親が一般皇族で母親が天皇の場合はどうか。(中略この場合は、男女の性別よりも「天皇」という地位を重視して、女系と見るのが当たり前ではないか。そうでなければ〝天皇か皇族か〟という国家の公的秩序の根幹にかかわる区別よりも、「男尊女卑」の考え方を優先することになろう。
そして実際に、文武天皇・持統上皇の時代に制定された『大宝令』(継嗣令)では次のような条文があった。
「皇兄弟・皇子はみな親王とせよ(女帝の子もまた同じ)”
高森明勅『「女性天皇の成立」』pp118-119 幻冬舎新書

☆☆


すなわち、①男系、女系を「天皇の地位」を重視するか、②男女の性別(男尊女卑)を重視するかによって、定義が変わります。①なら、これまでの歴史の中で男系、女系の天皇がいらっしゃったことになり、②なら、すべての天皇が男系だったという、男系派の定義になります。

「皇兄弟・皇子はみな親王とせよ(女帝の子もまた同じ)

は、Aという方が天皇になられたら、A天皇の、御兄弟、皇子(男女)は、親王、内親王になられる。(A天皇が、女帝であっても、その子は親王・内親王になられる)

という意味です。御兄弟は、姉妹も含まれます。吉備内親王がそうです。


今年になって『続日本紀』を毎日少しずつ読んでいます。その中に次の文章を見つけました。

時は、靈亀元年(715年)3月、第44代元明天皇の御代です(『続日本紀』p143)。

☆☆

“丁丑(二十五日)〔天皇の〕勅があって、三品の吉備内親王の子女(父は長屋王)をすべて皇孫と同様に待遇させた。”(p161)

“二九 皇孫 吉備内親王の子女は、父系をたどると曾孫となる(天武―高市皇子―長屋王―子女)。母系をたどって皇孫とする優遇を与えたのである”(p172)
(直木孝次郎 他 訳注 『続日本紀1〔全4巻〕』東洋文庫)

☆☆

715年に、それまで「王」だった方々が、皇孫になられ、皇位継承権が与えられたことが書かれています。
吉備内親王(きびないしんのう)は、草壁皇子と第44代・元明天皇の次女で、第44代元正天皇の妹でした。第44代・聖武天皇(当時は皇太子)が病弱だったため、元明天皇の次女だった吉備内親王の子女にも、皇位継承の可能性があったので、元明天皇の孫として、皇孫とする、すなわち皇位継承権が与えられたと考えられます。

続日本紀に吉備内親王と書かれていますから、お子様方が皇孫になられる前に、内親王だったことが分かります。元明天皇のお子様で、元々皇位継承権があった吉備内親王ですが、715年から、そのお子様方も皇位継承できるように待遇させたということです。女帝の子を親王とする「継嗣令」の準用でしょうか。715年は、元正天皇即位の年ですから、それに合わせた皇孫待遇だと思います。ちなみに聖武天皇の立太子は、714年です。

吉備内親王の姉君、第44代・元正天皇の御歌について、当ブログでは4回、学ばせていただきました。よろしかったら、ご一読ください。拙文ですが、少しは、時代背景を知る手掛かりになると思います。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/archive/c2306218719-1

歴史を丁寧に見て行くと、施氏の言うように“先祖が苦労して男系継承を守ってきた”(だから女系継承は認めない)ということではなく「先祖は苦労して皇統継承をまもってきた、男系継承優先だったが、女系継承も重要だった」(男系継承が行き詰まったら、女系継承も認めるのが自然の成り行きである)というのが、事実に近いと思います。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。
朝晩秋らしく、涼しくなりました。数日前からカネタタキが鳴いています。皆様、夏の疲れで体調を崩されませんよう、お健やかにお過ごしください。

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上皇陛下のおことば―民主主義について [上皇陛下]

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ミョウガの花が咲きました。清楚で可愛いです。






今日は、上皇陛下(当時は皇太子殿下)のお言葉から、民主主義について、神道学者・高森明勅氏監修のご著書『天皇陛下からわたしたちへのおことば』から、学ばせていただきます。上皇陛下が、皇太子でいらっしゃった昭和43年のおことばです。

始めに引用します。

☆☆☆

“民主主義とは人と人との信頼関係である
(昭和51年12月17日 43歳の誕生日を前に)


「民主主義とは人と人との信頼関係であると思います。それがうまく行われることが望ましい」
 このお言葉は、天皇陛下(当時は皇太子)が43歳の誕生日を前に会見で述べられたものである。
この年は首相が賄賂を受け取るという戦後最大の汚職事件「ロッキード事件」が起き、国民の政治に対する信頼が大きく揺らいでいた時期である。
民主主義においては、信頼関係は非常に重要である。それが失われると、全体主義へと走っていく。先鋭的な主張を打ち出し、閉塞感や不信感を打破してくれそうなリーダーに対して熱狂的な支持が集まる。ワイマール憲法下のドイツでは、政治が安定していないところにヒトラーが登場して悲劇的な歴史を歩んでしまった。
しばしば民主主義と君主制は対立関係にあるかのように語られがちだが、(中略)実際に民主主義がうまく機能している国は、イギリスをはじ伝統ある君主国である。そして日本も、伝統ある君主制が民主主義を安定して機能させている国のうちのひとつである。

昭和天皇は昭和21年(1946)1月1日にGHQの要求で「新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)を出されている。これは天皇が神格を否定したものだとされているが、昭和52年(1977)、昭和天皇は記者団の質問に対して、それは二義的な問題で一番大事なのは冒頭に入れてある五箇条の御誓文だという発言をされている。
五箇条の御誓文の第一条はよく知られている通りだ。
「広く会議を興し万機公論に決すべし」(会議を開いて広く意見を聞き、すべての政治のことは世論に従って決めよ)
 この五箇条の御誓文は、昭和天皇ご自身が提案して入れられたもの。民主主義というものは日本が戦争に負けてアメリカから輸入したものでは決してない。明治天皇が国是として採用されたもので、元をたどれば五箇条の御誓文にさかのぼるというお考えを持たれていたからである。
「民主主義とは人と人との信頼関係であると思います。それがうまく行われることが望ましい」という天皇陛下のおことばは、それを踏まえてのものでもある。民主主義というものは民意を政治に反映させるという意味では非常に大切ではあるが、その基盤となる信頼感が失われると危険な暴走をはじめかねない。”
(高森明勅監修『天皇陛下からわたしたちへのおことば』36~38pページ 双葉社) 

☆☆☆


政治への信頼関係が大きくゆらいでいるのは、今もそうです。統一教会と自民党政権のズブズブの関係が、どのように解消され、政治の正道に戻せるかどうかが問題です。

安倍自民政権の野党との十分な審議を拒絶するような一方的なものごとの決め方は、全体主義に似ていました。五箇条御誓文の第一条、万機公論に決すべし、の精神に反します。育ちもいい、見栄えもいい、一見閉塞感と不信感を打破してくれそうなリーダーだった安倍晋三氏に過大な期待をかけ、甘やかし、欠点を見過ごしたことが、安倍政権の権力濫用を許してしまったのだとも言えます。

失われた政治との信頼関係を築くには、どうすればよいのでしょうか。

自民党の自浄作用に期待して指を加えて待つのではなく、実効性のある対策を求めることはもちろん大切です。弁護士の皆さんの活躍、報道機関の正しい報道に期待します。

私たちに国民にもそれぞれ出来ることがあるはずです。

日本でまだ発展途上の民主主義では、国民一人一人が国会議員に意見を表明することに意味があると思います。一昔前と違って、各政党の政策について、インターネットを通じて、意見を届けることが出来ます。ホームページにメールを送ることもできます。

厳しい対応を求めるメールを送ることや、アンケートを通じて、公正な対策を求めることも必要だと思います。

批判だけでなく、私たちの日ごろの願いを、地道に各議員や政党に届けることも必要だと思います。

私は女性天皇を可能にする皇室典範改正を長年、念願しています。その希望を届ける努力の中で、政治家との信頼関係が築けたらと、思います。信頼関係といっても、統一教会や一部派閥のような、ズルズルべったりの仲間意識を持ちたいということとは違います。この人となら、大人同士の対話ができる、この人なら日本の政治を任せられるといった、プラスの意味での信頼です。

私自身の体験として、選挙の時の候補者の事務所訪問、街頭演説で声をかけたことがあります。女性天皇実現のための皇室典範改正をお願いしたのです。大げさなことではなく、事務所を訪問して少し話をし、手紙を渡しただけでした。それでも候補者に思いを届けたという手ごたえがありました。街頭演説で声をかけたときも、政治家も人間なので、投票する人から話しかけられるのは喜ばれるのだと思いました。何の団体の後押しの無い小さな個人の声でも、積み重なれば大きな力になるのだと思いました。

前の選挙の時「愛子天皇への道」のサイトでは、この事務所訪問を呼びかけ、訪問し、最後は、当選の手紙で締めくくりました。
https://aiko-sama.com/archives/15466
https://aiko-sama.com/archives/15813

今は、各議員に女性天皇実現を呼び掛けています。
https://aiko-sama.com/archives/17090


天皇陛下はいつでも国民を信頼され、人と人との信頼関係に支えられた民主主義の実現を願っておられます。その天皇陛下のお気持ちに答える為に、模索と努力を続けて参りたいと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとってよい週末でありますようお祈り申し上げます。

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天皇のお気持ちを理解する [上皇陛下]

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行き詰まった時は、天皇陛下のお言葉を読むと、いつでも打開の指針が得られます。
宮内庁HPに発表される天皇陛下のお言葉は、短い中に、多くの示唆が込められています。

そんなわけで、今日は上皇陛下の平成28年(2016年)のビデオメッセージを、もう一度読み返してみました。

当ブログでは、2016年9月22日に、その年8月8日に御発表された上皇陛下のビデオメッセージについて、書かせていただきました。

「天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)を拝聴して(平成28年9月22日)」
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/archive/201609-1

自画自賛になりおこがましいですが、原稿作成に1週間かけただけあって、今読み返しても、天皇陛下のお言葉を細かく読み込もうと、一所懸命、努力していたと思います。

上皇陛下は、2010年頃から、退位と皇室典範改正のご意向を、時の政府に、宮内庁を通じて内々に示されていました。ところが、政府は一向に動こうとしなかったそうです。2016年のビデオメッセージは、頼みの綱として、国民に呼びかけられた、大げさに言えばSOSメッセージだったと、思います。政府が2010年に速やかに陛下のご意向を受けて皇室典範改正に取り組んでいれば、このような国民に宛てたメッセージは、発表されなかったのではないかと思われます。

皇位継承に天皇陛下のご意向があるという話を、ネット上で話題にしたところ、次のような質問を受けました。

「今までの皇位継承は、天皇陛下のご意向で決まってきたのでしょうか?」

今までと言われても漠然としているので、皇室典範に焦点を宛てて、明治天皇(大正天皇)以降の話をしました。

明治時代(明治22年、1889年)に制定された旧皇室典範は、皇室自律主義で、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされました。(議会の議決=国民の関与は不要でした。)


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“旧皇室典範の改正又は増補は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされ(旧皇室典範第62条)、この手続きに帝国議会の協賛又は議決は要しないとされた(大日本帝国憲法第74条)。これは、現在の日本国憲法及び同憲法の下にある皇室典範(昭和22年法律第3号)にはない皇室自律主義の表れといってよい。”

(「皇室典範 (1889年)」 Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E5%85%B8%E7%AF%84_(1889%E5%B9%B4)

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旧皇室典範は、明治天皇のご意向を熟知している皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定されました。

[言葉の意味]

〇枢密院
“枢密院(すうみついん、旧字体:樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮詢機関。憲法および憲法付属の法令、緊急勅令、条約等について天皇の諮問に応ずる機関でその性質上「憲法の番人」とも呼ばれた[1]。1888年(明治21年)に明治憲法草案審議のために創設され、1947年(昭和22年)5月2日、翌日の日本国憲法施行に伴い廃止。”
(「枢密院」Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E5%AF%86%E9%99%A2_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

〇諮詢(しじゅん)
“参考として他の機関などに意見を問い求めること。諮問。「案件について—する」”
(Weblio辞書)

〇勅定(ちょくじょう)
“天子がみずから定めたこと。また、天子の命令。勅命”
(Weblio辞書)

旧皇室典範は、皇族会議と天皇の諮問機関に意見を求めて、天皇の御命令(勅命)で決められたということです。

皇位継承は、側近が明治天皇のご意向を十分に汲んで検討された『旧皇室典範』に基づいて決まってきたので、大正天皇、昭和天皇、上皇陛下は「天皇陛下のご意向で決まってきた」と考えていいと思います。

天皇お一人の独断でないことは、五か条の御誓文第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」の精神で、皇族会議で皇族の意見、諮問会議で側近の意見を取り入れられたことは言うまでもありません。

現在の天皇(今上陛下)の御即位は、昭和22年に制定された「皇室典範」に基づいて決まりました。

旧皇室典範は「現在の日本国憲法及び同憲法の下にある皇室典範(昭和22年法律第3号)にはない皇室自律主義」とされ、大日本帝国憲法下の「帝国議会の協賛又は議決は要しない」典範でした。皇室の家法という性格のものでした。

言い換えれば、現皇室典範(昭和22年制定)の改正は「国会(議会)の議決を要する」ので、皇室自律主義ではないことになります。国民の代表が集まった議会の議決が必要だということです。

皇室(天皇)が女系天皇にしたいと思われても、国民の賛成(国会の議決)が無ければ、皇室の意向が通らないような皇室典範になっている、だから、天皇のご意向が通りにくくなっています。新皇室典範は、制定当時、日本を占領していたGHQの強い意向により、国民の意向で皇室のことを変えられる形になりました。


+++++

「昭和22年1月16日法律第3号」の法令番号を持つ2020年(令和2年)現在の皇室典範は「法律」として1947年(昭和22年)1月16日に公布された。他の法律と同様にその改正は国会の議決で行われることにより、皇室の制度そのものに国民の民意が国会を通じて関与することとなった。これは、制定当時、日本を占領していたGHQの強い意向によるものである。
(「皇室典範」Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E5%85%B8%E7%AF%84

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旧皇室典範は大日本帝国憲法から自律 → 国民は関与しない

現皇室典範は日本国憲法下にある → 国民の意向でどうにでもできる

という感じです。

つまり、国民が皇位継承のための皇室典範改正に関与するのは、今回が、歴史上、初めてだと言えます。

だから、国民一人一人が天皇のお気持ち(ご意向)を理解することが大切になります。

今上陛下は男性であり、現皇室典範で問題なかったのですが、天皇陛下の長子(愛子内親王)は女性です。このような現皇室典範の不備が明らかになり、上皇陛下が改正を望まれました。上皇陛下のご意向を受けて設けられたのが2005年に報告書を提出した「皇室典範に関する有識者会議」です。今上陛下も上皇陛下のご意向を共にされています。

2016年の上皇陛下(当時は天皇)のビデオメッセージにある「国民の理解を得られることを、切に願っています」の短い一言は、こうした旧皇室典範と、新皇室典範の位置づけに関連します。

☆☆☆

“象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを,切に願っています。“

(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(平成28年8月8日)宮内庁ホームページ」
https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

☆☆☆


上皇陛下は、そして、国民の皆さんは、皇室が存続した方がよいですか、存続を望まないですか、存続を望むなら、皇位継承の不安定な現状を知り、安定継承に何が必要なのか真剣に考えてくれませんか、と私達一人一人に問いかけていらっしゃるような気がいたします。

表面は、退位のお気持ちの理解を求め、皇室典範改正してほしいというメッセージですが、さらに安定的な皇位継承に向けた皇室典範改正のお気持ちにも国民の理解を得たいという、メッセージから、国民と共に歩まれる、皇室を理解してほしいという、天皇のお気持ちがひしひしと伝わって参ります。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。
朝晩、少し涼しくなりました。季節の変わり目、どうぞ皆様お健やかにお過ごしください。

タグ:皇室典範
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女系天皇排除は人種差別と同じ [皇室典範改正]

20220823blogPICT1133.JPG男系派は、「女系天皇は絶対ダメ」と言います。そして、国民は男系と女系の違いを理解していないから、女性天皇、女系天皇に賛成するのだと主張します。

実は「男系」と「女系」を歴然と区別し女系を忌み嫌う思想は、2005年小泉内閣の皇位継承を検討する有識者会議の報告に反対した男系派が大声で言い始めたことで、それまでは、専門家以外ほとんど耳にしたことのない区別です。

男系派の言う男系、女系の定義は以下の通りです。

「女性天皇」とは女性の天皇のこと
「女系天皇」とは「父親が皇統(天皇の血統)に属さない天皇」
「母親しか皇統(天皇の血統)に属さない天皇」のこと

実は、この女系の定義は、人種差別の定義と同じ考えに基づくものなのですが、それを指摘する人は、男系派にはいません。

女系反対と声高に言うのは、女性は男性より一段低いと考える女性差別思想であることに、気がついていないようです。

人種差別と、女系天皇の定義を比べて見ます。


白人の黒人差別を例に上げます。人種差別のことを書くのは本当に嫌です。私は、地球上からすべての人種差別が無くなってほしいと強く願っています。人種差別が無くなってほしいとの願いから、書かせていただきます。

ここに祖先がずっと白人で続いて来た家系があるとします。その家系に黒人の先祖が一人でも入ったら、その子孫はすべて「黒人」だとされます。逆を考えて、ずっと黒人で続いて来た家系に白人の先祖が一人あったら、その子孫は「白人」と言えるはずですが、現実はそうなっていません。子孫は「黒人」とみなされます。

なぜそうなるかというと、黒人は白人より一段劣っている、だから黒人の血が一滴でも入ったら、その子孫は「黒人」になるという人種差別があるからです。これをワンドロップ・ルールと言います。


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“ワンドロップ・ルール(one-drop rule)とは、黒人の血が一滴でも混ざっていれば、その人物を「黒人」と分類する法的な人種分類です。アメリカ合衆国の多くの州では1910年代から1960年代までこの制度を採用していました。”

“1924年の「人種純血保全法(Racial Integrity Act)」は白人と非白人の結婚を禁止する目的で作られた法律で、このとき黒人の血が一滴も混ざっていない者が「白人」となりました。”

(「【ワンドロップ・ルールとは】その意味・ジムクロウ法との関係を解説」リベラルアーツガイド)
https://liberal-arts-guide.com/one-drop-rule/

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黒人と白人が先祖であれば、子孫はすべて黒人であるというのは、どう考えても不条理なルールです。

男系派の言うところの「女系反対」は、このワンドロップ・ルールに酷似しています。

男系でずっと続いて来た天皇の家系を、一人でも女系で生まれた方が継げば、その子孫は、すべて女系の子孫であるとする。

もし、ここで男女差別、女性は男性より劣っているという心が無ければ、次のようにも言えるはずです。

女系で続いて来た天皇の家系を、一人でも男系で生まれた方が継げば、その子孫はすべて男系の子孫であるとする。

コトバ遊びのようになってしまいますが、それで初めて平等だと言えると思います。

細かく言えば、黒人の家系に白人が一人いても、白人の家系に黒人が一人いても、その子孫は、いずれも白人と黒人両方の血を継いでいることになります。いずれにしても、平等にものごとを考えてほしいと思います。

肌の色で差別するのはよくないことですが、男女の差別もよくありません。

ところが、男系、女系について、男女差別の概念を持ち込んだのが、男系派です。男系になったり、女系になったりする場合、精確には「双系」だということができます。

そして彼らの言うところの、これまで続いて来た男系継承は、近世以前は、男系→双系→双系→男系というように、両親とも天皇の血筋を引いている場合も多かったのです。


皇位継承において「男系継承は2000年続いた日本の伝統」と考えている人は多いと思います。

けれども、歴史を詳細に学びますと、男系継承は2000年以上続いてきたとしても、それが日本の伝統だったと言い切るのは、精確な表現ではありません。

おおざっぱに整理しますと、皇位継承を支えた社会の変遷は、次のようになります。

1、2600年前 ~ (日本誕生、神武天皇即位)双系社会
2、1400年前(西暦645年)~ 明治22年(1989年) (男女の法制定)男系優先社会
3、133年前(西暦1989年)~ 現在(旧皇室典範制定以後)男系優先社会、皇位について男系男子限定が決められる

1、は神話の時代なので、考古学的に証明されていない伝承ですが、歴史が記録される以前でも1000年以上の長い期間があったとされています。


前回のブログに書いた通り、皇位継承が男系男子に明文化されたのは、明治の皇室典範が始まりです。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2022-08-18


男系継承が2000年以上続いたのは、日本人の先祖が男系を何が何でも続けなければと死守して来たのではなく、男系優先社会が長年続いた中で、側室制度に支えられ、男系優先の「慣習」を続けることができたというのが、精確な言い方だと思います。

側室制度が廃止された時、男系限定継承も、いずれ続かなくなる運命だったのです。

明治政府もそれを見越して、女系容認案を皇室典範の原案に盛り込んでいましたが、明治時代には、一夫多妻が珍しくなかったこと、明治天皇に男子の皇太子(後の大正天皇)が既にいらして、その方に皇位を継いでいただくことを想定し、最終的に男系男子限定が採用されたのです。

令和では、一夫多妻などと言ったら、大変なことになります。そして、天皇陛下の直系のお子様の愛子内親王がいらっしゃいます。悠仁親王は、天皇陛下の甥御さまで傍系になります。お父様の礼宮殿下も素晴らしい方ですが、日々、天皇の背中を見て成長された愛子内親王に皇太子になっていただくのが、最も自然なことと、上皇陛下も考えていらっしゃったと、拝察申し上げます。


いずれにしても、男系派が主張する女系天皇絶対反対の考え方は、人種差別のワンドロップ・ルールと同じです。ワンドロップ・ルールに基づく女系天皇拒否の男系派の思想は、なんびとも差別されない天皇陛下の大御心に、ほど遠い思想なのだと思います。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。
また暑さがぶり返して来ました。皆様お身体にお気をつけて夏を乗り切ってください。お元気で!


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天皇の御歌(76)―第77代・後白河天皇(2) [後白河天皇]

20220821blogDSC_1791.JPG猛暑のためか今年の朝顔は少ないです。これは昨年の朝顔です。









今日は、第77代・後白河天皇の御歌を学ばせていただきます。2回目です。

御在世:1127―1192(崩御・66歳)
御在位:1155―1158(29歳~32歳)

[以下における院政期間 1158~1192(32歳~66歳)]
第78代・二條天皇の御在位期間
第79代・六條天皇の御在位期間
第80代・高倉天皇の御在位期間
第81代・安徳天皇の御在位期間
第82代・後鳥羽天皇の御在位中期まで

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、後白河天皇の御歌(御製)を学び始めましたが、ブログを中断している間にドラマは進行し、第83代、順徳天皇の御代になってしまいました。大河ドラマを見ていらした方は、源頼朝の頃を思い出して、お読みください。

鎌倉幕府を開いた源頼朝に「日本一の大天狗」と言わしめた後白河天皇。保元の乱を経て、藤原家の摂関政治が力を失い、平家が実権を握るが、ほどなく源氏に敗れて、源頼朝が鎌倉幕府を開くという、権力が摂関政治から武家政治に移るとい、激動の時代を生き抜かれた天皇です。

国の政治体制変革の動乱を経ても、日本が分裂することなく存続した背景には、後白河天皇の神仏への祈りと叡慮に基づく差配があったのだと思います。

その一つのあらわれが、歴代上皇最多と言われる33回または34回の熊野詣ではなかったのではないでしょうか。

なお、熊野詣を始められたのは、上皇になられてからのことですが、天皇の御歌を学ぶというブログなので、文中では後白河天皇と表記します。どうぞご了承ください。


☆☆☆

“後白河院は、歴代の上皇のなかで最多の33回もしくは34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした。本地垂迹思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態なのでした。熊野を信仰することと仏教を信仰することになんら矛盾はなかったのです。”

(「歴代上皇最多となる33度もしくは34度に及ぶ熊野詣」みくまのネット)
https://www.mikumano.net/setsuwa/gosira.html

☆☆☆


今日は、その熊野詣の折に後白河天皇が詠まれた御歌を3首、学ばせていただきます。


☆☆☆

神祇のこゝろを

いはしろの 松のちぎりをむすび置きて 萬代(よろづよ)までの 恵(めぐみ)をぞまつ

熊野御幸(ごこう)(熊野三山への御参詣。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽各上皇は屡(しばしば)行幸あらせられた)三十二度(たび)の時、御前にておぼしめしつゞけさせ給うける

わするなよ 雲は都を へだつとも なれてひさしき みくま野の月(以上、玉葉集)

後白河院、熊野の御幸、三十三度になりける時、みもとといふ所にて、つげ申させ給ひける

有漏よりも 無漏に入りぬる 道なれば 是ぞ佛の みもと成(なる)べき
(*有漏=煩悩の世界 無漏=悟りの世界)(風雅集)

(pp103~104)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味:

神祇(じんぎ):① 天神(てんしん)と地祇(ちぎ)。天つ神と国つ神。天地の神々。(コトバンク)

いはしろの松:和歌山県南西部、みなべ町の浜の松。有間皇子にちなむ結び松のこと。(コトバンク)

萬代(よろづよ):限りなく長い年月。永久。永遠。(weblio)

みくま野:【三熊野】熊野三山の異称(goo辞書)

玉葉集(玉葉和歌集):第14番目の勅撰(ちょくせん)和歌集。20巻。(コトバンク)
鎌倉時代後期の勅撰和歌集(Wikipedia)

風雅集:『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。


[大意]

1首目:

有馬の皇子の故事にちなんで、由緒ある岩代の松の枝を結んで置いて、限りなく久しく続く世の恵みを待とう

2首目:

私のことを忘れないでおくれ 雲は都を熊野から隔てているが 何度も通って親しんだ 熊野三山の月よ


3首目:

みもとの地名は、煩悩の世界である有漏から悟りの世界である無漏に入る熊野の道の途上であるから 仏の御許(みもと)が成る「みもと」と名付けられたのであろうか 

[感想]

1首目

万葉集の有馬皇子の古歌が有名です。後白河天皇の本歌取りですね。


☆☆☆

“孝徳天皇の皇子 有間皇子が、謀反の罪に問われ、護送される途次、岩代で松の枝を引き結んで、
磐代の浜松が枝を引き結び
  真幸くあらばまた還り見む
家にあらば笥に盛る飯を草枕
  旅にしあれば椎の葉に盛る(万葉集)
と歌を詠み、岩代の神に自分の平安の無事を祈りました。岩代の地はその後、熊野街道の名所となりました。”
(「有間皇子結び松記念碑」みなべ観光協会)
https://www.minabe-kanko.jp/sightseeing/1130

☆☆☆

松の枝を結ぶのは「旅路や将来の平安無事を祈るまじない」とのことです。(Weblio 古語辞典)

松の枝を結んで後白河天皇は、世の安泰、限りない平安を祈られたのでしょう。
保元・平治という動乱を眼の前に、動乱が静まり平穏な世となってほしい、それが33回も熊野三山に詣でられた後白河天皇の切実な願いだったのだと思います。

2首目:

後白河天皇が熊野で仰いだ美しい月は冴えわたって慈愛深い神仏の象徴のように思われたのではないでしょうか。その月に、雲によってへだてられた都にいても見守っていていただきたいという御心ではなかったかと拝察申し上げます。


3首目:

熊野路でみもとという地に差し掛かり、「仏の御許」を連想なさって、煩悩の多い世俗から、悟りの世界に入る熊野参詣を心に刻まれたのだと思います。熊野詣の旅路の一歩一歩は、神仏に心を向かわせる旅路だったのでしょう。

天皇の御日常では宮中祭祀で神を祀られています。現代では、権威が天皇、権力が政府と政治体制がはっきりと分かれています。

しかし鎌倉時代は違いました。権力と権威の双方の頂点にいらした鎌倉時代の天皇は、公家と武家の政治の行く末、国の命運を一手に引き受けた御存在でした。如何にふるまえば国を分裂させずに治めることができるのか、ご自身の勅語や宣旨が世の中を動かしていく、誤りは即、国の行く末の誤りにつながる、そのようなお立場でした。日夜、御心を悩まされたことでしょう。その中で、都をしばし離れて神仏一筋に大御心を向けて祈られる、そういう時間のために、33度(34度)の熊野詣があったのではないかと拝察いたします。

天皇の御歌を思いつくままに学ばせていただいています。よろしかったら感想をお寄せください。また書かれている内容や用語で、疑問や訂正すべき部分がありましたら、どうぞご遠慮なくコメントをお寄せください。なお、コメントは承認制になっておりますので、公開されない場合があります。あらかじめご了承ください。


今日も読んでいただき有難うございました。
今日は少し涼しくなりました。暑い日でも、秋の気配が感じられます。
皆様にとってよい休日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:御製
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天皇のお気持ちを拝察する [皇室典範改正]

20220819blogDSC_2140.JPG
わが家の庭で育った初ミョウガです。馬の顔みたい、といつも思います。


皇統継承を論じることについて、知人が次のような意見を述べました。

「天皇陛下の皇統継承は、天皇ご自身がお決めになることで、国民があれこれ議論する問題ではない」

この知人は、Y染色体などを持ち出すのはもってのほかという健全な常識を持ち合わせており、男系固執派の意見には批判的です。だから天皇陛下が女系で良いと思われるなら御心のままにという考えであると推測されます。

国民があれこれ議論する問題ではないというのは、国民が黙っていても、政府が天皇陛下のお気持ちのままに「安定的な皇統継承」を実現してくれるのなら、その通りです。しかし黙っていたら、天皇陛下のお気持ちを無視して皇室の存続を危うくする人々の思いのままになってしまい、陛下の御憂慮(ご懸念)を無くすことができないから、黙っていられないのです。

現に政府は、皇室典範改正を悠仁様ご即位まで先延ばししよう、先延ばししようとグズグズしています。88歳になられた上皇陛下がどれほど御心を痛めておられるか、一向に気に掛ける様子がありません。御譲位のお気持ちをにじませた平成28年(2016年)のビデオメッセージで、上皇陛下は次のように述べておられます。

☆☆☆

“始めにも述べましたように,憲法の下もと,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを,切に願っています。”
(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(平成28年8月8日)宮内庁ホームページ」
https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

☆☆☆


「象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,」というお言葉の中に込められているお気持ちを、政府はどのように受け止めているのでしょうか。

お言葉が発表されてから、早や6年が経過しましたが、「皇位継承の安定」を「皇族の減少対策」にすり替えて、安定継承は何十年も先延ばしにするつもりです。無為無策にもほどがあります。皇室が消滅して、天皇制が無くなっても、気に掛けていないと言っても過言ではありません。そうでなければ、有識者会議と政府は将来の見通しを立てることのできない無能者の集まりとしか思えません。

++++++

“現在、次世代を担う皇位継承者は秋篠宮さまの長男、悠仁さま(15)のみ。報告書は、悠仁さま以降の皇位継承は「機が熟していない」として、悠仁さまの年齢や結婚をめぐる状況を踏まえて、将来議論すべきだとした。皇族数を維持して、公的活動を維持したり、天皇の負担を軽減したりすることに主眼が置かれた。女性・女系天皇の是非などには触れなかった。”
(“女性皇族は結婚しても「皇族のまま」 皇位継承は先送り有識者会議”安倍龍太郎2021年12月22日 20時19分 朝日新聞デジタル)
https://www.asahi.com/articles/ASPDQ6D5NPDQUTFK00J.html

++++++


政府は、悠仁さまがいらっしゃるから、悠仁さまのためにと、もっともらしいことを言いますが、皇位継承者が一人だけで、その一人になられる方が、天皇制度の存続を一身に背負うのと、天皇にならなくても皇室の一員として天皇を御支えするのと、どれだけプレッシャーが違うか、想像力を働かせれば、理解できるはずです。また、典範が改正されても、悠仁様が皇位継承者候補(皇嗣)のお一人であられることに変りはありません。

上皇陛下と天皇陛下、秋篠宮殿下のお気持ちは一致しているはずです。秋篠宮殿下もお近くの方を通じて、そのお気持ちをほのめかされています。最近では、秋篠宮邸に合計37回通ったジャーナリストの江森敬治氏(『秋篠宮』の著者)が、8月7日放送の読売テレビ「そこまで言って委員会NP」で、秋篠宮殿下のお気持ちが拝察できる発言をしています。このことについて、高森明勅氏が、説明されています。


☆☆

“江森氏が、「その中に暮らしている方々が今どうお考えなのか…ということを…踏まえて」と述べておられる以上、ご自身としては“主に”秋篠宮家の方々の「お考え」を「踏まえて」いる、と理解しなければならない。


その上で、そのご意向を「踏まえた結果が」他でもない「将来的には『長子優先』を議論すべき」という問題提起になった-という脈絡になる(そもそも「長子優先」を“現在の”皇室に当てはめると、秋篠宮殿下より敬宮〔としのみや、愛子内親王〕殿下を優先することになるので、長年、秋篠宮家への密着取材を続けて来た江森氏が、そのご意向と無関係にこのような、ある意味では非礼とも言える発言をすることは、考えにくい)。


つまりストレートに言えば、秋篠宮家ご自身がそれを望んでおられることを意味する。

しかし勿論、それをテレビ番組の中で明け透けに語ることは出来ない。“

(“江森敬治氏の「長子優先」提起の背後あるものは何か?”2020年8月18日 高森明勅公式ブログ」https://www.a-takamori.com/post/220817

☆☆


天皇陛下、秋篠宮殿下のお気持ちを拝察するのに、このような間接的で遠回しなやり方しかないことを歯がゆく思います。陛下の後継者のことなのですから、ストレートなお気持ちを表明していただければありがたいと思う国民も少なくないと思います。

前向きに受けとめれば、この逆境は、天皇とは何か、日本の国にとって、国民である自分にとってどのようなご存在であるのか、一人一人が考えなければならない時だと考えることもできます。

上皇陛下のビデオメッセージのお言葉を再掲します。


☆☆☆

“皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,”
(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(平成28年8月8日)宮内庁ホームページ」
https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

☆☆☆


皇室と国民は、「相たずさえて」この国の未来を築くのであって、お客さんでいてはならない、当事者意識をもつことが、求められているのだと思います。

そういうわけで、私も国民の一人として、天皇陛下のお気持ちに応える為に、安定的な皇統継承を実現する皇室典範改正を強く望み、意見を発信し続けたいと、決意を新たにしています。

今日も読んでいただき、有難うございました。
新しい今日という日が、皆様にとって幸せな一日でありますよう、お祈り申し上げます。


参考資料:

「女性天皇の成立」高森明勅 幻冬舎新書

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男系男子限定は、日本古来の伝統ではない [皇室典範改正]

20220818blogDSC_2129.JPG一昨日と別な角度からのサルスベリ。ピンクがきれいです。

男系男子限定の皇位継承は、近代の産物で、日本古来の伝統ではありません。

男系固執派は、男系男子による皇統継承を、2000年(神話を含めれば2600年)以上、続いた伝統と言いますが、それは真っ赤なウソ、ウソといって悪ければ、完全な事実誤認です。

皇位継承が男系男子限定になったのは、明治22年(1889年)の皇室典範施行以来のことで、たかだか133年前、2600年の20分の1という、近世の出来事です。

いやいや男子限定は別としても、男系継承は2000年以上続いて来た、だから女系継承はダメと、言われますか?

日本が男性優位の社会になったのは、奈良時代以降のことで1300年前です。その前、1300年間は、女性も男性と肩を並べて活躍していました。女性首長、女性家長は珍しくなく、結婚も妻問い婚で、妻の実家が強い力を持っていました。

奈良時代以降、江戸時代まで、確かに日本は男性優位社会でした。諸条件が重なって、自然な流れとして、男系継承が続いてきました。

けれども男系が女系がと、問題視されるようになったのは、実は、極めて最近のことです。

男系継承が「日本古来の伝統」というのは、現代の人々、正確に言えば皇室典範改正の議論が始まった2005年以降に、男系固執派が作り上げて、大々的に宣伝し、世間に浸透させた幻想です。

これまで諸条件が重なって続いて来たから、未来永劫続けなければならないとは限りません。男系継承は、側室が当たり前だった時代だからこそ、続けられた慣習に過ぎません。

これまで続いて来たから止められないというなら、神武天皇以来、複数の奥様を持つことが、明治天皇まで、当たり前のこととして、続いてきた側室制度も止めてはいけないことになります。しかし、大正天皇から奥様(お后)はお一人になり、昭和天皇の強いご意向により、女官制度も廃止され、お后がお一人という、新しい「伝統」が始まりました。

複数のお后を持たなければ、男系のみの継承が行き詰まるのは、生物たる人間には避けられないことです。当然の帰結として、男系限定の継承も時代とともに変わらざるを得ません。

だからこそ、ヨーロッパの王朝は、次々に、男女問わず長子優先の継承に舵を切ったのです。なぜ、日本だけ、それをためらうのでしょうか?

男系固執派は、なんだかんだと言いますが、説得力のある回答を出すことはできていません。

明治の皇室典範は、何故、男系男子限定に定められたのかということについて、神道学者・高森明勅氏が、分かりやすくブログで書いてくださっています。

高森氏のブログによれば、「男系限定」、「男子限定」はそれぞれ、日本書記とサリカ法にのっとって決められたそうです。

(“皇室典範が「男系男子」限定を採用したのはサリカ法の影響” 2022年2月20日 高森明勅ブログ)
https://www.a-takamori.com/post/220221


高森氏のブログを読んでいただければ一目瞭然ですが、私なりの要約と感想を述べて行きたいと思います。

1、 男子限定の根拠は、西欧(プロイセン、ベルギー、スウェーデン)のサリカ法(キリスト教カトリック思想に則った王位継承の考え方)

2、男系の根拠は、シナ文明の男系優先思想を取り入れた『日本書紀』

どちらも、日本古来の思想ではなく、外来思想です。

日本が外来思想を取り入れて、次々に改革を行ってきた国柄は、美点でもあります。
しかし、それを「日本古来」と思い込んでは、事実を見誤ります。

日本が新しい外来思想を取り入れるときでも、日本本来の個性を失いませんでした。

日本本来の個性は、男系至上主義でも、男子絶対優先でもありません。男性も女性も等しく尊重するのが、日本古来の伝統です。双系継承は、日本古来の伝統に深く根差した改革なのです。


追って続きを書きます。


今日も読んでいただき、有難うございました。
今日も明日も、皆様にとって素晴らしい一日でありますよう、お祈り申し上げます。


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男系固執派論客と統一教会 [皇室典範改正]

20220817blogPICT0572.JPG統一教会については、安倍元総理を狙撃した山上容疑者が、親族が統一教会に入信したために家庭を破壊され、絶望のあまり犯行に及んだこと、統一教会の霊感商法が多くの人々を不幸に陥れていること、与党自民党議員への選挙協力、約100人の秘書が統一教会から送り込まれるという政治家との関係など、多くの問題が報道されています。

全国弁連によれば、統一教会の被害相談は、1987年から2021年の24年間で計3万4537件、被害総額は1237億円、2010年以降でも相談件数2875件、被害額は138億円に及ぶそうです。(毎日新聞)

山上容疑者の家族のように破壊された家庭が、何万件もあると思うと、心が痛みます。

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“全国弁連は、87~21年に全国の消費者センターへの相談と合わせて計3万4537件の被害相談があり、被害額は約1237億円に上るとしている。コンプライアンス宣言後の10年以降でも2875件の被害相談があり、被害額は約138億円に及ぶという。”
(旧統一教会被害「法令遵守宣言後も138億円」 全国弁連指摘 8/15(月) 17:36配信
毎日新聞)
https://news.yahoo.co.jp/articles/11eabd8ab7d458441f848e082e09a4c8cc588a83

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献金の根拠として、統一教会が説く教えは、韓国はアダム国家であり、日本はエバ国家である。エバ国家たる日本は妻として、夫である「アダム国家」韓国に尽くす使命があるというものです。


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“「世界基督教統一神霊協会の関連用語」の記事における「エバ国家」の解説

日本は再臨主である文鮮明とその祖国、韓国を迫害した神にとって最も悪い国であるが、文鮮明が自分がその怨讐である日本を愛すると言って、反対する神を説き伏せて、「エバ国」という使命を与えたと言う。それが、戦後の日本の目覚しい経済発展を遂げた理由だとされる。「エバ国家」は妻として夫である「アダム国家」の韓国に尽くし、さらに「母の国」として、子供である全世界の国々を教育し、経済貢献する使命があるとされ、どこの国よりも大きな献金の要請がされる理由とされている。
(「エバ国家」Weblio)
https://www.weblio.jp/content/%E3%82%A8%E3%83%90%E5%9B%BD%E5%AE%B6

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この教えに基づいて、エバ国たる日本人から搾り取った献金が、男系維持派、自称保守論者の講演料となったのです。

さらに、統一教会は、天皇陛下が文鮮明教祖に拝跪(はいき)する儀式を執り行う、宗教団体です。


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“「文鮮明氏」を「メシア」「王の王」とみなす象徴的な、不愉快な儀式が統一教会にあることも書いておく。統一教会が四大名節と呼ぶ記念日には、早朝五時からの敬礼式という儀式があり、そこでは聖壇に座った「文氏」とその家族に対し、統一教会の主要幹部が三拝の拝礼を行う。場所はだいたい「文氏」の私邸であるアメリカ・ニュ一ヨ一ク州のイ一ストガ一デンである。その際、天皇陛下をはじめ、レ一ガン大統領、全斗換大統領ほか主要国の元首の身代りを、それぞれその国の教会幹部が担当し、文教祖一族に拝跪して全世界の主権者が文教祖に拝礼したという儀式を行うのである。”

(「六マリアの悲劇・真のサタンは文鮮明だ」
11. これが『統一教会』の秘部だ
『文藝春秋』1984年7月 134-151頁
これが『統一教会』の秘部だ – 世界日報事件で『追放』された側の告発)
https://xn--u9j9e9gvb768yqnbn90c.com/%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8C%E3%80%8E%E7%B5%B1%E4%B8%80%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%80%8F%E3%81%AE%E7%A7%98%E9%83%A8%E3%81%A0/

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ここまで、日本国、天皇陛下を侮辱する宗教だったことを知って、驚いています。

さらに驚くべきことは、何人もの男系固執派論客、いわゆる保守派論客が、統一教会で講演を行ったことです。論客の名前と写真が「ゴー宣ネット道場ブログ」に、公開されています。講演内容は確かめていませんが、日ごろ強弁している女性天皇・女系天皇反対を説かないはずはありません。男系固執論は、統一教会の信者の純朴な脳に、浸透したことでしょう。

https://www.gosen-dojo.com/blog/36330/
(「統一教会で講演をした男系固執派論客2022.8.17 10:32」

反日・反天皇の教えを説く統一教会に、日本の皇室の後継者の決め方(皇統継承)という重大事について協力を求めるとは愚かの極みで、開いた口がふさがりません。なりふりかまわない恥ずべき行為だと言えます。

どんな所でも頼まれれば講演するというなら、例えば、反天皇で話題になっている表現の不自由展でも、講演を頼まれたら、顔を出すというのでしょうか。それは無いと思います。

その上、男系固執保守論者は、山下容疑者の母親のような日本人信者から搾取したお金から講演料をもらって、日本の国益を損なう団体の宣伝に協力して来たことにもなります。

統一教会が反日・反天皇を説いていることを知らなかったでは済まされません。本当に知らなかったのなら、お人好し、間抜けの極みです。言論活動を続けるつもりなら、各論者は統一教会との関係を説明すべきではないでしょうか。説明できないのなら、反日・反天皇団体である統一教会の広告塔になったことを恥じて、二度と保守を名乗らないでほしいと思います。

「ゴー宣ネット道場」ブログで、トッキー氏が次のように書いていますが、全く同感です。


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“統一協会が政治に浸透し、
女性天皇の誕生を阻止し、
皇統断絶目前の危機を招いてしまったか。“

(「有田芳生氏も読んだ『集金奴隷』、「空白の30年」は余りにも大きい!」2022.8.17 12:27)
https://www.gosen-dojo.com/blog/36341/

+++++

ネットで、女性天皇、女系天皇を話題にすると、多数の男系固執派が執拗に攻撃してきますが、統一教会の信者が少なからず、参戦しているのでしょう。

日本国民の8割が賛成し、容認している女性天皇の検討が一向に進まない裏に、男系固執論者に扇動された統一教会信者たちの妨害があり、政府案に影響を及ぼしているとは、想像もつきませんでした。油断も隙もありません。

皇室を滅ぼす男系固執派の策謀を打ち砕かなければ、日本の将来はありません。道は困難ですが、希望を持って前進して参りたいと思います。

「愛子天皇への道」サイトでは、【論破祭り】を開催しています。非常識な男系固執論者を論破する庶民の声がさく裂しています。ぜひ、ご一読ください。
https://aiko-sama.com/


今日も読んでいただき、有難うございました。
猛暑が続いています。無理せずに、十分な休養を取って、お元気にお過ごしください。

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心機一転 [ブログについて]

20220816blogDSC_2135.JPG街中、どこに行ってもサルスベリが目立ちます。落ちていた花をカップに入れたら、一週間くらい色が鮮やか。百日紅の名前にふさわしい、長持ちぶりです。


残暑お見舞い申し上げます。

ブログ更新が滞って、3か月経ちました。公私ともに色々なことがあって、更新できないでいました。

ロシアのウクライナ侵攻、新型コロナのワク後症候群、安倍元総理の銃撃事件、自民党の統一教会との問題発覚。変化の激しい昨今、新しく学ぶことが多すぎて、眼が回りそうです。

様々な問題が噴出する中、問題に真正面から解決に取り組む人々、例えば子供へのワクチン接種に警鐘を鳴らした勇気ある人々の姿に胸を熱くする日々でもありました。

言論の自由が保障されていると思っていたyou tubeが、言論統制を行っていたことも驚きましたが、言論統制にめげずに情報発信を続けた各国のyou tuberの工夫にも、感心しました。

困難なことが起こると、それを切り抜けようと努力する人々が現れる。困難な時代が人物を育てるとも言えます。こうして人類は歴史を積み重ねてきたのでしょう。


コロナ禍、ウクライナ侵攻、統一教会、皇統継承、様々な問題が起こる中で、漫画家小林よしのり氏の存在の大きさが、際立って感じられた日々でもありました。

小林氏が、漫画家だということ、個性が強いことで、今まで何となく控えめに書いてきましたが、私は、小林よしのりという思想家は、日本歴史に必ず残る大人物だと考えています。

小林よしのり氏の漫画は、「ゴーマニズム宣言」連載開始の頃から、ほとんど読んで来たと思います。「オウム真理教」に対峙した頃、薬害エイズ、「戦争論」、「天皇論」どれも、目からウロコが落ちる思いで読んできました。

というと、小林よしのり信者と冷やかされそうですが、盲目的信者ではありません。尊敬する思想家です。小林よしのり氏の主張が、一つ一つ腑に落ちるので、共感しているだけです。

小林よしのり氏が主宰する「ゴー宣ネット道場」の三大目標というのがあります。
https://www.gosen-dojo.com/blog/25460/

「男女双系皇位継承」・「女性の地位向上」・「国民の手による立憲的憲法改正」です。

どれも、心おどる目標です。できる範囲で、加勢して行きたいです。

世の中、色々ありますが、人間として生きていることは、楽しいことです。
今朝、ゴミ捨てに家を出た時、お隣さんの笑顔に心が癒されました。お年を召した方の柔和な笑顔は、仏様のように尊い気がいたしました。

今日から、心機一転、新しい希望を抱いて、日々、明るく楽しく生きて参りたいと思います。
同時に、間違っていると思うことは、これまで通り、率直に発信を続けて参ります。
心に思いをため込まないことは、生きる上で、必要なことですから。

今日も読んでいただき有難うございました。
暑い日が続きますが、どうぞお身体にお気をつけて、お健やかにお過ごしください。


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