SSブログ

天皇の御歌に親しむ(2) [ブログについて]

DSC_0780どんぐり20201104blog.JPG昨日の続きで御製と和歌について、『歴代天皇の御歌』の「編集ノート」から、学びます。

ここに「和歌を詠む」ことは「やむにやまれぬ思ひを発露させるための大切なてだて」であり、「和歌を詠む」ことが、「日本人の誰もが践むことのできる道」と書かれていました。

和歌を詠むのは、日本語を書く人なら誰でもできます。それが道、歌道でもあるということですね。「和歌の前に平等」という言葉があります。新年の宮中の歌会始はそうです。国民の誰もが応募することができます。私はまだ応募したことはありませんが、お正月に中継を見られる時はできるだけ見ています。楽しみにしています。

昨日はこの言葉のお薦めに従い、3首ほど、和歌を詠んでみました。言葉を選ぶのが楽しかったです。

「編集ノート」、正確なタイトルは「編集にあたってのいくつかのノート」ですが、そこに次のような内容が書かれています。

天皇の皇位は、初代・神武天皇から昭和天皇まで124代にわたって継承されています。(出版当時の昭和48年のことです。令和2年、現在は126代です)

重祚(お一人が皇位に2回つかれること)が2度あるので、御人数は122人(令和2年現在は124人)、女性の天皇は8方おられます。このほか北朝の皇位が5代続いていて、「歴代外」とお呼びしています。「歴代外」の天皇方も、皇室の皇統譜に登録されています。

皇統譜(こうとうふ):天皇および皇族の身分に関する事項を記載する帳簿

歴代・歴代外あわせて127人(現代では129人)の天皇方がおられます。そのうち、20人の方々の御製は今日に伝わっていないので、107人(現代は109人)の方々の御製が今日まで伝わっています。

『歴代天皇の御歌』には、91人の方々の御製が集録されています。

この説明の後に、次の通り、書かれています。

☆☆☆

“わが日本に皇室が連綿として続いてゐることと、右のこととが、いったいどういふ関連性を持ってゐるかについては、軽々に論じ得ないが、せめて次のことだけはここに記しておきたいと思ふ。

日本最古の和歌としては、タケハヤスサノヲノミコトの

「八雲立つ 出雲八重垣 妻隱みに 八重垣つくる その八重垣を」(『古事記』・上巻)

の御歌があり、古くから五・七・五・七・七の句節をもった三十一文字(みそひともじ)といふ短歌形式が、日本に伝へられてきた。「古今和歌集」の編者の一人紀貫之(きのつらゆき)も、その「序文」にこのことに触れて

「やまとうた(和歌)は、人のこゝろ(心)を たね(種)として、よろづの こと(言)のは(葉)とぞ なれりける。 世中(よのなか)にある人、こと(事)わざ(業) しげ(繁)きものなれば、心におもふことを、み(見)るもの き(聞)くものに つけて、いひ(言)いだ(出)せるなり。花になく うぐひす、水にす(住)む かはづ(蛙)のこゑ(声)を き(聞)けば、いきとしい(生)けるもの、いづれか うた(和歌)を よ(詠)まざりける。 ちから(力)をも い(入)れずして、あめ(天)つち(地)をうごかし、めにみえぬ おに(鬼)神も あはれと おも(思)はせ、 おとこ(男)をむな(女)の なかをもやは(和らげ)、たけ(猛)き ものゝふ(武士)の心をも なぐさむるは うた(和歌)なり。」

と和歌とわが国民との深いつながりについて、懇切な説明をしてゐる。“ 

(p6)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

連綿:伸びる綿のように細くも長々と続く様

スサノオノミコトの和歌の解釈です。

「多くの雲が幾重にも重なって立ち上がる、めでたい出雲の地に、妻をこもらせるための新居をつくったよ、この新居を」

八重垣は、多くの垣根をめぐらすという解釈もありますが、必ずしもそうではなく、「新居」とシンプルに解釈している例がありましたので、そちらにしてみました。有名な和歌なので、色々な解釈があるようです。何しろ、日本最古の和歌ですから。

いずれにしましても、スサノオノミコトの、それこそ言葉にできないくらいのはじけるような、素直なよろこびが、何回も繰り返される「八重垣」にあらわされていると思います。

「貴子流離譚」という言葉があります。尊い身分に生まれた人が、故郷を離れ、諸国を放浪して、失敗や様々な困難に遭いながら、最後には、その困難を克服して幸せになるという話で、私の好きな話です。古代の、スサノオノミコトの伝承は、それを余すところなく、伝えています。

紀貫之の言葉も有名なので、知っている人も多いかと思います。

「和歌」は、人の心を種として、幾万の言葉となって、展開しているものである。世の中には、色々な事、色々な行いが、繁雑にあるものだが、心に思うことを、見るもの、聴くもの、何でも言葉に出すことで、ところを得させて、整えることができる。(梅の)花に鳴くウグイスも、池の水に住む蛙の声も、耳を傾けるなら、生きとし、生けるもの、すべてが和歌を詠んでいるではないか。力むこともなく、天を、地を動かし、目に見えない鬼神にも、あわれを、しみじみ心に染みる感動を、思わせ、男と女の中も和やかにして、勇猛な武士の心も慰めて安らかにするものが、和歌である」

だいぶ言葉を足した、私流の解釈です。どうぞ、ご了承ください。

「ウグイスも、蛙も、生きとし、生けるもののすべてが、和歌を詠んでいる」
なんてすてきな言葉でしょう! 

私の好きな、やなせたかしさんの歌では、「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ、友達なんだ」とありますが、虫も、きれいな声が出せる虫も、そうでない虫も、歌を歌っているのでしょう。草も花も、声は出せないけれども、人間が声をかけると、いっそうきれいな花を咲かせてくれます。そんなことも思います。

それらの生き物と人間が、通い合う心を歌に詠むこと、それは誰にとっても、無条件に楽しいことなのだと思います。

力を入れないでも、天地が動く、肉眼に見えない鬼神も感動する。さりげなく書かれていますが、天地が動くとは、驚くようなスケールの大きさですね。

雨乞いの歌、また源実朝の雨がやむようにとの和歌が思いおこされます。昭和天皇の頃は、「天皇晴れ」と言われましたが、外遊の時など行幸の先々で晴が続くことがよく聞かれました。舒明天皇の「国誉め」の和歌もあります。天地が和歌に感応するという、スケールの大きさに圧倒されます。

肉眼に見えない鬼神も、和歌で同じ感動を覚えて、心を鎮めるということも、考えて見たら、すごいことですね。男と女の仲も、ちょっとした言葉、真実の愛が込められた言葉で和らげられます。戦闘で荒んだ武士の心も、和歌によって慰められ、心の傷が癒されることも、紀貫之の体験に根差していることと思います。戦場に出た人も、社会生活で闘争に疲れた人も、音楽や歌に心が癒されるように、和歌で心が癒されるのではないでしょうか。

前回引用した部分に「編集にあたってのいくつかのノート」は、今日引用した部分の続きで、一続きの文章でした。

今日も読んでいただき有難うございました。

今日も素晴らしい一日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:皇室
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。