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古代の双系社会と皇位継承―「愛子さま 皇太子への道」 [皇室典範改正]

DSC_164520210608blog2.JPG「愛子さま 皇太子への道」のサイトで4回シリーズだった「古代の双系社会と皇位継承」の第4回目が昨日掲載されました。

先日私は「父方が血筋を引く男系継承が維持されて来たのは色々な条件が重なった結果であって、男系の血筋ばかりが偏重されていたのではない」と書きましたが、そのことを各時代に対応させて簡潔明瞭に説明してくださっていて、脱帽いたします。

https://aiko-sama.com/archives/5784

一部引用させていただきます。

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“古代の日本は、双系(双方)社会を基盤に、直系男子に必ずしもこだわらない系譜意識および男女の性差よりも年齢・資質を重視する皇位継承システムが存在した(仁藤 2006)と考えるのが、最近の古代史研究の主流になっています。”
(中略)
“性差のない皇位継承システムから誕生した古代女帝の歴史は、(古代中国の)父系原理が律令官人制を通じて貴族社会に浸透し、官人を経た熟年男性の即位の連続によって8世紀後半に終焉します(義江 2021)。

そしてさらに、9世紀以降外戚である藤原氏が摂政・関白として統治権を代行することで、幼年での立太子や即位が忌避されなくなり、資質よりも血統を優先する父子直系継承が確立されました(佐伯 2019)。

このように皇位継承のあり方は、天皇と権力の関係、天皇の親族をめぐる問題と深く関わって、時代ごとに移り変わってきました(佐伯 2019)。

しかし、それでも女性天皇や女系による皇位継承は制度上否定されることはありませんでしたが、近代になって旧「皇室典範」が制定されることで制度上「廃止」となります。

古代女帝像の根本的な見直しを提起した研究者である荒木敏夫氏は、旧「皇室典範」について、前近代まで自身の進退・後継者について規制のなかった天皇を法の枠内に封じ込めた面をもち、その枠内で女帝即位の可能性が封じ込められたが、それは「前近代の天皇-王権が保持していた諸状況に対応する「柔構造」=フレキシビリティを確実に弱くさせた」と指摘しています(荒木 1999)。”

(「古代の双系社会と皇位継承(4)時代によって変わる皇位継承のあり方」「愛子さま 皇太子への道」https://aiko-sama.com/archives/5784

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加藤官房長官は『父方が血筋を引く男系継承が「古来例外なく維持されてきた重み」と政府の見解を述べています。
しかし「例外なく維持されてきた重み』の中身は男系継承が格別に重視されていたのではなく、各時代の状況に対応する中で続いて来ただけのことで、絶対に変えてはいけないほどの「重み」はないといえます。
近代になるまで、女性天皇や女系による皇位継承は制度上否定されていませんでした。近代になって、明治の旧皇室典範制定により、それまでなかった「男系男子限定」の規制がかけられました。
規制がかけられたことにより、「前近代の天皇=王権が保持していた諸状況に対応する「柔構造」=フレキシビリティが確実に弱くされた」ことこそ、注目すべきだと思います。

*ここでいう「女系による皇位継承」は女性天皇の実子が天皇になられたことを指します。

後水尾天皇のところで説明申し上げた通り、幕府が「禁中並びに公家衆諸法度(きんちゅうならびにくげしゅうしょはっと)」で禁じていた「女性の家督相続」を決行されたのが、江戸時代の皇室でした。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-10-17

時の権力者に屈しないフレキシビリティがあったのです。フレキシビリティがあったから皇室が2000年以上続いて来たことをよくよく考えて見る必要があると思います。


今日も読んでいただき有難うございました。
心の柔軟性を失うことなく楽しい人生を送って参りましょう。

タグ:女系天皇
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