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天皇の御歌(48)―第108代・後水尾天皇(2) [後水尾天皇(明正天皇)]

DSC_0623紫花20201017blog.JPG今日も第108代・後水尾(ごみづのを)天皇の御歌を学びます。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)、御在位:1611~1629(16歳~34歳)
(1617年まで御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇は退位後も院政をお執りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)51年間に及びました。

昨日は、徳川幕府の朝廷蔑視と抑圧策について、『歴代天皇の御歌』から引用させていただきました。

昨日述べた幕府の朝廷抑圧策の項目を書き出してみます。

1、 幕府の朝廷抑圧策
○皇居への、幕府の藩兵の駐屯(天皇並びに公卿らの厳しい監視)
○皇族御一人を上野輪王寺座主(ざす)として江戸に迎える(朝廷に対する人質)
○禁中並びに公家衆諸法度(きんちゅうならびにくげしゅうしょはっと)」の制定(1615年)

徳川家康は、天皇の地位そのものを否定してしまわないことを大前提に、天皇の権威については、幕府の権力を強めるために活用し、利用する計画を立てました。

その方法として、①外戚策、②「法度(おきて)」で天皇を縛る、という、2つの策を採用しました。

②の「法度」で天皇を縛る、ことによって、前回述べた紫衣事件が起こりました。

幕府は「法度」により、天皇の宗教的権威を規制しました。

規制の一つは、元号の制定です。元号は、古代以来、かならず天皇によって定められる形式がうけつがれてきました。「法度」では天皇の元号制定権を否定していませんが、「シナの前例のうちからよいものを選ぶように」(第8条)という制限を設けた上、実際の改元は、幕府の同意や、発意でなされました。

さらに、天皇の宗教方面への栄典授与などの権限を、「法度」の第17条などによって、制約しました。

☆☆

“「紫衣を許される寺の住職は、以前は極めてまれだった。ところが近年はやたらと天皇によって許されている。これは僧の序列をみだし、公的なあつかいをうける寺院の名を汚すことによもなる。大変けしからんことだ。これからは、権力があり、経験をつみ、高い評価をうけた者だけにすべきである」(第17条)
さらに諸寺院を統制する「法度」が、これにつづいて出されています(ひとくくりに「元和令(げんなれい)」といわれる。)“

(高森明勅著『日本の十代天皇』(p350) 幻冬舎新書)

☆☆

寺院統制の法度が、江戸幕府により、実行にうつされたのが「紫衣事件」です。

僧侶の紫衣の着用は、それまで天皇の勅許によって、許されていました。ところが、幕府が、勅許については、事前に幕府の同意が必要だと言い始めたのです。天皇の勅許は、古代以来、伝統的に認められてきた権限ですから、後水尾天皇は、法度制定後も、以前の通り、幕府の同意を得ることなく、独断で勅許をつづけていました。

これに対して幕府は強権を発動し、1615年以降の紫衣勅許の取り消しを命じたのです。これによって、すでに発せられていた多数(70~80件)の勅許が、取り消されることになりました。

「綸言汗(りんげんあせ)のごとし」といって、君主がいったん表明した言葉は、身体から出た汗がふたたび体内にもどらないように、もとにもどることはないと言われていた時代に、その「綸言」が何十件もくつがえされるという「前代未聞中の未聞」の出来事は、後水尾天皇にとって耐え難い屈辱でした。

この事件が、後水尾天皇の突然の御譲位の理由の一つとなりました。

以上の説明は、(高森明勅著『日本の十代天皇』)を参考にしています。


これらの時代背景に思いを馳せながら、後水尾天皇の御製から御心をしのばせていただきます。


☆☆☆

“後陽成院崩御後、御追善の御製八首の中に(元和三年―一六一七―御年二十二歳)
(中略)

うけつぎし 身の愚(おろか)さに 何の道も 廃(すた)れ行くべき 我が世をぞ思ふ 

社頭祝(寛永二年―一六二五―御年三十歳)

松の葉は ちりうせずして すみよしや 守るもひさし 敷島のみち

いのりおく いま行く末も かぎりなく 猶ふきとほせ 五十鈴川かぜ

(孟冬の頃、式部卿宮御典)

(pp231~232)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

第1首目。天皇の位を受け継いだ、わが身の愚かさ未熟さに、どの道もすたれて行くのではないかと、我が世を思うことよ

第2首目。常緑の松の葉が散って、なくなってしまうことがないように、すみよし(住吉)の神がいつまでも久しく、敷島のみちを守ってくださることであろう

第3首目。祈ります、いまから末長くいつまでも、五十鈴川の神代の昔からの川風が、ますます吹きとおっていくように、神の御心が世に吹きとおって行くことを。


1624年、34歳の後水尾天皇は、興子(おきこ)内親王(明正天皇)に御位を譲られました。明正天皇は7歳~21歳まで、御位につかれました。

第109代・明正天皇
御在世:1624~1696(崩御・74歳)
御在位:1629~1643(7歳~21歳)

後水尾天皇と、徳川2代将軍・秀忠の娘である和子(まさこ)中宮との間には2男5女の7人のお子様がありましたが、男子の皇子方は、幼いうちに亡くなっていたため、女子の興子内親王が御位を継がれることになりました。

“「禁中並びに公家衆諸法度」の第六条に「女縁者の家督相続は古今一切これ無き事」”すなわち、「女性の縁者の家督相続を、古今(過去も今も)、一切ないことにする」という、女性が一切、家督相続をしてはいけないという条文がありました。

徳川家康・秀忠が制定した「女性の家督相続は古今にない」との「法度」を、後水尾天皇があっさり破られたわけですが、興子内親王が、徳川将軍・秀忠の直系の御孫であられたため、幕府は何も言いませんでした。

じつは、譲位の前に、天皇は譲位の希望を幕府に伝えており、将軍の家光は「まだ早すぎる」との態度だったものの、その返事に「女帝は昔もめでたい例が多かった」との一文が含まれていたので、後水尾天皇は、ある種の手ごたえを感じて、譲位を決行されたようです。(『日本の十代天皇』p362)

偶然の産物とは言え、「女帝でよい」と譲位をご決断された、後水尾天皇の「法度破り」について、いささか痛快な気がいたします。明正天皇にはお気の毒な気もいたしますが、幕府のかたくなな男尊女卑思想に縛られない自由さを感じます。


今日も読んでいただき有難うございました。

冷たい雨が降っています。皆様どうぞ着る物を暖かくして、お身体に気を付けてお過ごしください。


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