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『古事記』は天皇のお子様の呼び名を男女で区別していない [皇室典範改正]

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高森明勅氏のブログの紹介が続いています。日本が古来、男系も女系も尊重する、双系社会であったことを分かりやすく説いているので、つい紹介したくなります。

高森氏の6月7日のブログでは、古事記が天皇のお子様に同じ表記を使い、日本書紀がお子様の表記を書き分けていることについて、書かれています。




(「古事記の男女「王」から日本書紀の「皇子」「皇女」の書き分けへ」高森明勅公式ブログ)https://www.a-takamori.com/post/210607

古事記では、天皇の御子様の表記は男性も女性も「王」ですが、日本書紀では「皇子、皇女」となって男女が書き分けられています。

今、わが家では日本書紀の輪読を始めました。つっかえながら読み始めましたが、「読書百遍(ひゃっぺん)意(い)自ずから通ず」の精神でチャレンジして、だんだん慣れて参りました。ちょうど昨日から「欽明天皇」の巻に入ったところです。


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“「正妃(むかひめ)武小廣國押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)の女(ひめみこ)石姫(いしひめ)を立てて皇后(きさき)とせむ」とのたまふ。是二人の男(ひこみこ)・一人の女(ひめみこ)を生れませり。長(このかみ)を箭田玉勝大兄皇子(やたのたまかつのおほえのみこ)と臼(まう)す。仲(なか)ちを譯語田淳中倉太珠敷尊(をさたのぬなくらのふとたましきのみこと)と臼す。少(すなき)を笠縫皇女(かさぬひのひめみこ)と臼す。”(p64)

(『日本古典文学大系 日本書紀下』岩波書店)

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武小廣國押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと):宣化(せんか)天皇

[大意]
「正妃に宣化天皇の皇女、石姫を立てて、皇后にしよう」と[欽明天皇が]仰せられました。石姫は二人の男子、一人の女子をお生みになりました。長子を箭田玉勝大兄皇子と申します。中のお子を譯語田淳中倉太珠敷尊と申します。末子を笠縫皇女と申します

念のため、『古事記』の欽明天皇の項を確認しました。


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“天皇、檜垌(ひのくまの)天皇の御子、石(いし)比賣命を娶(めと)して、生みませる御子、八田(やたの)王。次に沼名倉太玉敷(ぬなくらふとたましきの)命。次に笠縫(かさぬひの)王。”(p206)

(倉野憲司校注『古事記』岩波書店)

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なるほど、『古事記』には、皇子、皇女の区別はありません。男子も女子も「王」です。

もう一つ気が付いたのは、後に天皇になられた御子は、日本書紀では「尊」、古事記では「命」とされています。沼名倉太玉敷(ぬなくらふとたましきの)命は、後の敏達天皇です。天皇になられた方は「みこと」と呼ばれたのですね。

欽明天皇は石姫皇后の他に、4人の妃を迎えられ、お子様は『古事記』によれば25方、そのうち4方が天皇の位に就かれたと書かれています。

余談ですが、欽明天皇の時代に仏教が伝来したと、小学校では習いました。仏教を伝えたとされる、百済の聖明王の名前が出て来たので、懐かしい気がしています。

高森明勅氏の書かれている通り、日本では、元々双系社会だったのが、儒教、仏教の伝来、唐の律令制度の採用によって、支那の男系主義が優位になってきました。


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“江戸時代の国学者・本居宣長は、長年、尊重されて来た『日本書紀』に見られる「漢意(からごころ)」への傾きを指摘して、それまで軽視されがちだった『古事記』に「大御国(おおみくに=日本)の古意(いにしえごころ)」(やまとごころ)が託されている点を、高く評価した。”

“シナのような男尊女卑の男系社会ではなく、双系の伝統を持つわが国では、元々、男女を区別しないで、同じ「王」だった(シナでは女子が「王」と称されることはない)。

ところが、シナ文明の影響が強まる中で、「皇子」「皇女」と書き分けられるようになった(それが恐らく飛鳥浄御原令〔689年〕からで、大宝律令〔701年〕からは「親王」「内親王」になる。
田中卓氏・虎尾達哉氏らの研究による)。”

(『古事記の男女「王」から日本書紀の「皇子」「皇女」の書き分けへ』2021.6.7 高森明勅公式ブログ)https://www.a-takamori.com/post/210607

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『古事記』(712年成立)は、日本最古の律令と言われる飛鳥浄御原令や大宝律令成立の直後に完成したので、律令の影響を受けなかったということのようです。

私見ですが、漢文で書かれた『日本書紀』(720年に完成)が、今日でいえば海外向けに、英語で日本の歴史記録を作成したようなものであれば、西欧的価値観の人が理解できるように書くでしょう。そのように、支那(古代中国)に理解してもらえるような書き方を選んだのかも知れません。それに比べて『古事記』は大和言葉で書かれていますから、日本国内の人々向けに、古来からの呼び名の通り、男女とも「王」のままにしたのではないかとも思いました。


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“「男系(父系)」「女系(母系)」「双系」という概念については、以下の説明が分かりやすい。

「生まれた子どもが父方の一族に属するのが父系社会、母方に属するのが母系社会である。
厳密な父系社会では、父系でつながる一族は同じ姓を称し、一族の内部での婚姻は禁じられる(族外婚/同姓不婚)。…中国は典型的な父系社会だった。

父方の親族だけが社会的に重んじられ、地位の継承は男子の血統を通じてのみ行われるのである(男系継承)。


それに対して双系的親族結合を基本とする社会では、父方と母方のどちらに属するかは流動的で、父方母方の血統が子の社会的・政治的地位を決める上で重要な要素となる。

人類学的な知見によると、こうした社会は東南アジアから環太平洋一帯に広がりをみせていて、日本列島もそこにつらなる。古代の倭/日本の社会はもともと双系社会だったのである」
(義江明子氏『女帝の古代王権史』)”

(『古事記の男女「王」から日本書紀の「皇子」「皇女」の書き分けへ』2021.6.7 高森明勅公式ブログ)https://www.a-takamori.com/post/210607

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この説明もとても分かりやすく、「父方と母方のどちらに属するかは流動的で、父方母方の血統が子の社会的・政治的地位を決める上で重要な要素となる」は、肌感覚でも、分かりやすいです。

「父方の親族だけが社会的に重んじられ、地位の継承は男子の血統を通じてのみ行われるのである(男系継承)」が浸透したのは、歴史のほんの一時代(江戸から明治、大正、昭和初期)の習わしだったのではないかと思われます。

物部守屋、蘇我入鹿が、母方の姓を名乗ったことがあったというのも、興味深いご指摘です。


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“私は以前、6世紀後半の人物で物部氏の族長だった物部守屋が、「物部弓削」(『日本書紀』敏達天皇89元年5月是月条ほか)「弓削」(『播磨国風土記』)などの姓を称している例を、示したことがある。

“弓削”は守屋の母方の姓だった(『先代旧事本紀』天孫本紀)。

蘇我入鹿の異名「林太郎」(『上宮聖徳法王帝説』)の“林”も、母方の姓による可能性が指摘されている(東野治之氏)。”

(『古事記の男女「王」から日本書紀の「皇子」「皇女」の書き分けへ』2021.6.7 高森明勅公式ブログ)https://www.a-takamori.com/post/210607

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今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとってすばらしい一日でありますようお祈り申し上げます。



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