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天皇の御歌(64)―第121代・孝明天皇(3) [孝明天皇]

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今日も、第121代・孝明天皇の御歌を学びます。3回目です。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)


最初に当時の時代背景、「攘夷論」と「開国論」の違いについての説明文を学びます。

文頭に「これらの諸国」とあるのは「和親条約」を調印した相手国、米国、ロシア、フランス、オランダ国のことです。


☆☆☆

“これらの諸国は、表では日本に開港の決意を促し、日本の啓蒙に援助の手を差し伸べてゐるかの如くであったが、内実は、各国それぞれに日本国土日本国土への勢力扶植を、虎視たんたんとして狙ってゐたのである。この時期の日本は、文字通り一歩誤れば、支那の二の舞を踏んで西欧諸国に蹂躙される危機にさらされていたのである。

(中略)

幕末の日本を説明するのに、攘夷論と開国論の二つの思想の対立があったとだけごく簡単に割り切ってしまって説明したり、さらには、それを解説して、前者を固陋なる保守派、後者を賢明なる進歩派としての価値判断の基準にしたりすることは、全く軽率きはまりないことであって、もしもこの様な教へ方が、今日の日本で流行してゐるとすれば、それはわが青少年を誤らしめるも甚だしいものであると思ふ。すなはち、当時攘夷論を唱へたといはれる人々―-孝明天皇をはじめ吉田松陰その他幕末の諸大名・志士たち――は、幕府側の主唱する開港論よりも。はるかに強い開国進取の気象(ママ)[気性?]、をその心中に蔵してゐたのであって、その志を達成するためには、先づ自国の独立を堅持できなくてはそれがかなへられないことを痛感してゐたので、あへて譲位を唱えたのであった。祖国日本の独立の堅持といふこの一点における深浅が、いはゆる攘夷論と開港論との分かれ目であったのである。当時諸外国に脅かされて無定見に条約締結にはいっていった幕府側の開港論を尊王攘夷派が徹底的に糾弾したのは、決して正しい開港に反対したのではなく、いはれなき屈従の故にで、あった。” (p319~320)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味など:

啓蒙けいもう):人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと。

扶植(ふしょく):勢力などを、植えつけ拡大すること。

固陋(ころう):古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。


[感想]

私が子供の頃には、攘夷派は外国人を嫌って国に入れたくなかった頭の古い人々、開国派は時代に先駆けて鎖国を解こうとした人々と教えられました。

しかし、そんな単純な図式で明治の歴史を捉えると、攘夷派が明治時代になって積極的に開国政策に取り組んだこととの、つじつまが合わなくなってしまいます。

攘夷派の本心は、開国の必要性を承知しながら、日本の自主独立を保とうというものでした。開国にあたって、時の幕府のように西欧諸国の言いなりになることを嫌ったのです。


これは今の時代にも通じることですね。

攘夷派のように、日本の自主独立を志すのか。
開国派のように、グローバル化を無定見に取り入れて、日本占領以来の米国従属体制を堅持し続けるのか? 憲法改正にも、関わってくる事柄です。


御製の学びに移ります。

☆☆☆

“(安政4年―1857―御年27歳)
樹蔭流水(閏5月11日新造の御茶室・聴雪に渡御。和歌当座御会あり)

ときは木の かげをながるゝ 水の音に 心すゞしき 庭のおもかな”

“寄世祝(6月17日)
天地と ともに久しく 世の中の すゑがすゑまで 安けくもあれ”
(pp334~335)


(萬延2年、文久元年―1861―御年31歳)
6月2日長門藩主・毛利義親の臣・長井雅樂(うた)を以て義親へたまひたる

國の風 ふきおこしても あまつ日を もとの光に かへすをぞ待つ”
(pp335~336)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味:

ときは木:常磐木。松や杉などのように、年じゅう葉が緑色の木。常緑樹。

庭のおも:庭面。庭の表。

長門藩:長州藩

毛利義親(もうり たかちか/よしちか):長州藩の第13代藩主(安芸毛利家25代当主)。幕末の混乱期に有能な家臣を登用し活躍させ、若い才能を庇護することで長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名。

長井雅樂(ながい うた):江戸時代末期(幕末)の長州藩士。公武一和に基づいた『航海遠略策』を藩主に建白。一般的な呼び名である雅楽は通称で、諱は時庸(ときつね)

『航海遠略策』(こうかいえんりゃくさく):は、江戸時代末期(幕末)に浮上した政治・外交思想。(詳細は文末の参考資料参照)


國の風:国風は、その国や地方独特の風俗や習慣。 くにぶり。

吹きおこす:① 風をおこす。 ② 吹いて火を燃えたたせる。

天つ日:天の日。太陽。日。


御歌の大意:

1首目

常緑樹の青々とした下蔭を流れる水の音に耳を傾けると心が涼しくなってくる庭の面です

2首目

天地とともに世の中がいついつまでも、末の末の御代までも安らかであってほしいものです

3首目

国(藩など)の風俗や慣習を吹きはらう風を起こして、太陽の光をもとのとおりにかえすのを待っています


[感想]

1首目。

新しく造られた茶室で和歌の会が開かれ、5月の新緑の時期に、その木陰をちょろちょろと流れる水の音に耳を傾けて涼しさを楽しまれる孝明天皇の御製。緊迫した世情を離れたつかの間の涼やかな時間をお過ごしになられたことを思うと心が和みます。

2首目。

(天地とともに久しく)「末が末まで」と繰り返されるお心持は如何ばかりだったことでしょう。一つ間違えば日本の国が西洋の国々に踏みにじられて大変な混乱が起こる。そのようなことにならないようにと祈られる大御心が切々と伝わって参ります。

3首目。

『航海遠略策』は『積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする「大攘夷」思想に通じる考えで、その精神自体は後の明治維新の富国強兵・殖産興業などにも影響を与えたとも言える』という策です。

孝明天皇は斬新なアイディアを進めるようにと、長井雅樂を遣わした長州藩主・毛利義親に御製でお答えになられました。新しい策を実行して日本を再び輝かせるようにと願われたのでした。

長井雅樂は、文久3年(1863年)長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられました。

幕末には、惜しい人材が処刑されたり、切腹を命じられたりしています。長井の切腹は二分された藩内を統一するという理由によるものでした。

明治維新に貢献した人々、とりわけ多くの人々を激励された孝明天皇のことの学びを重ねて、ご先祖のご苦労を偲びたいと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。
どうぞ良い休日をお過ごしください。


***

参考資料:

『航海遠略策』(こうかいえんりゃくさく):は、江戸時代末期(幕末)に浮上した政治・外交思想。後述するように長州藩の長井雅楽(時庸)が文久元年(1861年)頃に提唱したものが特に有名である。他に佐久間象山、吉田松陰や平野国臣ら先駆的な思想家も同様な主張をしていたが、具体的な建白書の形にし、政治運動にまで盛り上げたのは長井によるものである。異人斬りに象徴される単純な外国人排斥である小攘夷や、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破約攘夷ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする「大攘夷」思想に通じる考えで、その精神自体は後の明治維新の富国強兵・殖産興業などにも影響を与えたとも言えるが、この時点においては実行手段の具体性に欠け、また急速な尊王攘夷運動の高まりもあって、大きな政治運動となる前に挫折した。(Weblio辞書)


長井雅樂について(Wikipediaより)

文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤や久世らが坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。同年3月、再度入京したが、この頃には尊攘激派の台頭が著しく、岩倉具視や久坂らの朝廷工作もあり、長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、敬親により帰国謹慎を命じられた。同年6月に免職され、帰国。翌、文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。長井本人もこの措置には納得しておらず、また長井を支持する藩士はいまだ多くいたが、藩論が二分され、内乱が起きることを憂いて切腹を受け入れ、同年2月、萩城下、土原(ひじはら)の自邸にて、検視役正使国司親相の下に切腹した。享年45(満43才没)。長女・貞子は後に富岡製糸場で勤務した。

長井雅樂の辞世の句

今さらに何をか言わむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば
君がため捨つる命は惜しからで ただ思はるる国のゆくすえ

以上

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