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天皇の御歌(67)―第121代・孝明天皇(5) [孝明天皇]

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今日も第121代・孝明天皇の御歌を学びます。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)

「近世日本国民史」百巻の著者である徳富蘇峰は、孝明天皇が、「維新の大業を立派に完成した其力」と以下の様に述べています。


☆☆☆

“孝明天皇が、当時の破局的な内外諸情勢に際して、常に国民の上に御心を馳せつつ「澄まし得ぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」の御歌に拝せられるごとき捨身の大御心をもって、時局に相対され、しかも賢明な御措置を次々に打たれたことについては、「近世日本国民史」百巻の著者である徳富蘇峰が、「孝明天皇和歌御會記及御年譜」の「序」に次のやうに書いてゐることにつきてゐると思ふ。

「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない。又当時の志士でもない。畏多(おそれおお)くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。――しかるに維新の歴史を研究する人々は元勲(げんくん)とか何とか言って、臣下の働きを彼此(かれこれ)申すが、この運動の中心とならせられた孝明天皇に感謝し奉ることのないのを、はなはだ遺憾と思ふのである。……実は私も歴史を書くまでは、孝明天皇が左程(さほど)まで国のために御尽くし遊ばされたことを、充分には承知しなかったが、今日に至って実に恐入(おそれい)って居る。……孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御蔭(おかげ)であることを知らねばならぬ。」
と。実に適切な指摘である。”(pp317~318)

“さて、ここに謹選申上げた御製は、今日われわれが知りうる天皇ご在世中の御製総計一、二四五首の中からのものであるが、その一首一首に大御心のほどが御歌の高いリズムを伴って伝はってくるごとき思ひがする。事実、当時の大名・志士たちの中には、これらの御製の一首を伝へ聞くことによって、大御心を感受し、大御心にお応へ申し上げてその心懐を和歌に詠み上げたことなどが、いくた史実の上に記されてゐる。それゆゑに、幕末日本の動乱の実相を孝明天皇の御製を中心に学ぶことは、幕末史のみならず、歴史教育の上においても、決して軽視してはならぬ要点であると思はれる。”
(p321)

“たやすからざる世に武士の忠誠のこゝろをよろこびてよめる(十月九日守護職・松平容保(かたもり)に宸筆の御製を賜ふ)
和らぐも たけき心も 相生の まつの落葉の あらず栄えむ

武士(もののふ)と こゝろあはして いはほをも つらぬきてまし 世々のおもひで”
(p339)

述懐
天がした 人といふ人 こゝろあはせ よろづのことに おもふ*どちなれ(*どち=仲間)

述懐(九月十日春日社御法楽の和歌)
さまざまに なきみわらひみ かたりあふ 國をおもひつ 民おもふため”

(pp340~341)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


「孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。」

宸翰(しんかん):天皇自筆の文書のこと。 宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。

孝明天皇は、自筆の文書で親王、関白などを激励され、明治維新の道を切り開かれました。幕末動乱の時代を日本が乗り切ることが出来たのは孝明天皇なくして語ることができないと小田村寅二郎氏も述べています。

その一端に触れるだけでも私など浅学菲才の者は大海を目前にした小魚のように呆然とするばかりです。それでも御製を通して少しずつそのお心を理解して参りたいと思います。

[言葉の意味]

元勲(げんくん):明治維新に大きな勲功のあった人をいう。当初西郷隆盛(たかもり)、木戸孝允(たかよし)、大久保利通(としみち)らをさし、彼らの死後は伊藤博文(ひろぶみ)、黒田清隆(きよたか)、山県有朋(やまがたありとも)、井上馨(かおる)、大山巌(いわお)らも呼称された。1892年(明治25)成立の第二次伊藤内閣は、この5人に後藤象二郎(しょうじろう)も加え元勲総出の内閣といわれた。(コトバンクより)

駆使(くし):1 追いたてて使うこと。こき使うこと。「使用人を駆使する」、2 自由自在に使いこなすこと。「最新の技術を駆使する」(goo辞書)

鞭撻(べんたつ):強い励ましをこめて厳しく指導すること。(weblio辞書)

心懐(しんかい):心に思うこと。意中。

松平容保(かたもり):幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主(実質的に最後の藩主)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。(Wikipedia)

相生(あいおい)の松:雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。松は永遠や長寿を象徴することから、相生の松は特に縁結びや和合、長寿の象徴とされる。能『高砂』では、高砂の松と住吉の松とが相生の松であるとし、夫婦和合をうたっている。(Wikipedia)

どち:仲間(なかま)。連れ。
*接尾語の「どち」は、〔名詞に付いて〕…たち。…ども。▽互いに同等・同類である意を表す。「貴人(うまひと)どち」「思ふどち」「男どち」

参考「どち」は、「たち」と「ども」との中間に位置するものとして、親しみのある語感をもつ。


[大意]

徳富蘇峰文中:

「澄まし得ぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」

澄ますことが出来ない濁り水にたとえ私の身が沈んだとしても、すべての国民を濁り水で汚してはならないとのご決意を詠っておられます

1首目

互いに和する心と、勇猛な心とが、二つの株が同じ根から出る松のように一つとなれば、その葉が落ち葉にならない(青々として枯れない)ように、世も栄えるだろう

2首目
武士と(内裏、宮中が)こころを合わせれば、きっと固い岩を貫いて、時代を越えて遺る思い出となるはずだ

3首目
天下の人という人、すべての人々が心を合わせて、すべてのことを考える仲間であってほしいと切に願います

4首目
さまざまに泣いたり笑ったりして、語り合うのも国をおもいつつ、民をおもうからです


[感想]

「澄まし得ぬ…」は、終戦時の昭和天皇の大御心を思い出します。己の身はどうなってもよいから、国民の苦しみを除きたいとの大御心にただただ有り難く拝するのみです。

1首目は、和する心と勇猛な心の二つがそろってこそ、世が栄える道が必ず開けるとの御歌です。勇猛な心よりも、和する心を先に詠われているところに、歴代天皇の平和を愛する大御心が感じられます。

大河ドラマ『八重の桜』で見た松平容保率いる会津藩の孝明天皇を仰慕する心が偲ばれます。会津は明治維新では本当に気の毒な役回りだったと思います。

2首目は、「公武合体」ということになるのでしょう。武士と朝廷が心を合わせて明治という激動の時代を乗り越えたことがしのばれます。明治維新では多くの戦いがありましたがそれでも国が亡びることなく今日まで続いている原動力が孝明天皇の「和する心」にあったことを思わせられます。

3首目は、明治時代の自由民権運動に見られるように「人という人」が「万事を考える」その種子であるように思います。明治天皇の五か条の御誓文、第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」につらなるお考えを平易なお言葉で表されていると思います。

4首目は、孝明天皇が現実に親しい臣下と泣いたり笑ったり、国を思って語り合われた情景を詠まれたのでしょう。意見の対立を嘆かれたことも、意気投合して笑い合ったこともあったのでしょう。「泣きみ笑いみ」に孝明天皇の実感がこもっていて畏れ多いことですが、親しみと共感を覚えます。人は一度けんかしないと仲良くなれないよ(本気で向かい合わないと心の底から仲良くなれない)と教えてくれた友人があります。孝明天皇はお立場上、「けんか」という荒っぽいことはなかったでしょうが、「泣きみ笑いみ」に、人間らしさを感じて、実際にはどういう光景であったのだろうと、想像がふくらみます。


今日も読んでいただき有難うございました。
和やかな一日をお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げます。
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