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天皇の御歌(63)―第121代・孝明天皇(2) [孝明天皇]

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今日も、第121代・孝明天皇の御歌を学びます。

御在世:1831―1866(崩御・36歳)
御在位:1846―1866(16歳~36歳)


☆☆☆

“嘉永元年―1848―御年18歳)
女御入内の折の宸筆の御製(12月15日)
かげならぶ 千世のくれたけ 河竹の 根ざしふかくも なかにちぎらむ

(嘉永6年―1853―御年23歳)
*米使ペルリ浦賀に来航

春朝日(正月22日水無瀬宮御法楽)
天のはら ふりさけ見れば 朝日影 かすむも飽かぬ 春のいろかも

煙(9月8日当座御会)
朝な夕な 民のかまどの にぎはひを なびく煙に おもひこそやれ”
(pp324~325)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味:

女御(にょうご):後宮(こうきゅう)に入り天皇の寝所に侍した高位の女官のこと
*この日付で入内(宮中入り)された女御は後の「英照皇太后」(孝明天皇の准后(じゅごう))。

宸筆(しんぴつ):天子の直筆(じきひつ)。勅筆。宸翰(しんかん)

かげ:(日・月・灯火などの)光。(人や物の)姿・形。

くれたけ:竹の一種。淡竹(はちく)。葉が細かくて、節(ふし)が多い。庭などに植える。清涼殿の前庭にも植えてあった。

河竹:①川のほとりに生えている竹。②まだけ、またはめだけの古名。
③②の、清涼殿の東側の庭の御溝水(みかわみず)のそばに植えてあるもの。◇「河竹」と書く。

千世:1000年のこと、あるいは抽象的に非常に長い年月を指す言葉。千代と同義。

根ざし:①地中に根を深く伸ばすこと。根の張りぐあい。

ちぎる:夫婦の約束をする


水無瀬宮(みなせぐう):水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。

天の原(あまのはら):1 広々とした大空。 2 日本神話で、天上界のこと。 高天原。

ふりさけ見れば:はるかに見渡す


朝日影(あさひかげ):朝日の光。朝日の色。

御会(ぎょかい):歌会あるいは宴会をうやまっていう語


御歌の意味:

1首目
清涼殿の庭に植えてある呉竹、河竹が深く根を張って並ぶ姿のように、いつまでも末長く仲睦まじい夫婦になろうではないか

2首目
広々とした青空をはるかにみわたせば 朝日の光がかすんでいる様子が飽きることのない春のいろであることよ

3首目
朝夕に民のかまどのにぎわいをなびく煙を見ると思いやられることだ


[感想]

1首目。女御(旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)、後の英照皇太后)は、この前年12歳で、3歳年上の東宮・煕宮(ひろのみや)統仁(おさひと)親王(のちの孝明天皇)の妃となられ、孝明天皇が16歳で践祚された年に13歳で入内されました。昔のことですから16歳といっても成人の御自覚を持たれて、孝明天皇は、末永く仲睦まじい夫婦になろうとの誓いを詠われたのでしょう。

2首目。「天のはらふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」は遣唐使阿部仲麿の和歌ですね。日本に帰ることなく唐で生涯を終えた阿倍仲麿。偶然なのか異国の使者ペリー提督来日の年でした。不思議な偶然の一致を思わせられる御歌です。

3首目。この御製は仁徳天皇の故事を思い出させます。「民のかまどはにぎわいにけり」と、煙が家々から立ちのぼる光景を御喜びになったことを思いつつ、御所の中から民の生活を思いやられた御歌です。

孝明天皇は夙子様の立后を望まれましたが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、嘉永6年(1853年)5月7日、夙子様は正三位・准三宮に上られました。準三宮は「準后」という皇后より下位の称号とのこと。江戸幕府は色々なことを干渉していたのですね。

嘉永3年(1850年)に第一皇女・順子内親王(1850年 - 1852年)、安政5年(1858年)に第二皇女・富貴宮(1858年 - 1859年)を出産されましたが、いずれも幼児期に夭折したため、万延元年(1860年)7月10日、勅令により中山慶子(なかやまよしこ)所生の第二皇子・祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王(当時9歳、後の明治天皇)を「実子」と称されました。明治天皇の嫡母(実母ではない)として皇太后に冊立されました。

孝明天皇崩御後、明治天皇即位後の慶応4年(1868年)3月18日、皇太后に冊立され、皇后を経ずして皇太后となられました。 

「明治日本を支えた養蚕」で、1873(明治6)年6月に、英照皇太后が昭憲皇太后と御一緒に富岡製糸場をご訪問されたことを当ブログで書かせていただきました。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2021-03-08

その時、私は英照皇太后を「孝明天皇の皇后」と書きましたが、正しくは「孝明天皇の准后(じゅごう)」でした。謹んで訂正させていただきます。

英照皇太后は能を好まれ、明治11年(1878年)には青山御所に能舞台が建てられました。明治14年(1881年)に誕生した日本最初の能楽堂「芝能楽堂」も、皇太后の鑑賞に供することが設立目的の一つだったとのことです。(Wikipediaより)

能は今や世界的に知られているそうです。まだ調べていないので確かではありませんが、その始まりは、もしかしたら英照皇太后だったのかと、想像が膨らみます。能を直接鑑賞したのは、靖国神社の奉納薪能の他、数えるほどですが、奥深く神秘的なところが好きです。

今日も読んでいただき有難うございました。
皆様どうぞお健やかに、楽しい週末を迎えられますよう、お祈り申し上げます。

タグ:英照皇太后
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