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天皇の御歌(46)―第106代・正親町天皇 [正親町天皇]

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今日も
第106代・正親町天皇の
御歌を学ばせていただきます。
3回目です。

御在世:1517~1593(崩御・77歳)
御在位:1557~1586(41歳~70歳)
です。

織田信長が、天正十年(1582年)京都の本能寺で自刃したのは、正親町天皇御在位30年間のうち、26年目のことでした。その後は、豊臣秀吉が頭角を現し、山崎の合戦、賤(しず)ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどを経て、天正十三年(1585年)四国を平定しました。 秀吉は天皇から従一位関白の位に任ぜられました。秀吉は関白の職を拝して、伊勢神宮遷宮の復興に努めました。

伊勢神宮の御遷宮は、天武・持統天皇の代に開始されて以来、ほぼ20年に一回、実施されていましたが、外宮は永享6年(1434年)、内宮は寛正3年(1462年)を最後に、御遷宮が途絶えていました。

織田信長も、天正十年(1582年) 、内宮、外宮の両宮に対して、造営費用3000貫の寄進を行っていましたが、本能寺の変により、御遷宮の実施は先送りになっていました。

天正十三年(1585)、正親町天皇の御意思を受けた秀吉の尽力により、内宮と外宮の御遷宮が、晴れて実施されることになりました。

豊臣秀吉は天下統一のあと、信長の皇居造営の志を継いで、内裏(皇居)の修造も実施しました。修造とはいいながら、ほとんど全殿舎の改築であったとのことです。

正親町天皇が、秀吉の尽力をお喜びになられたことが、天正十四年の御製から拝せられます。また秀吉も打てば響くように、和歌で天皇にお答えする素直さが見受けられます。

秀吉の絶頂期は、天正十六年、後陽成天皇*が聚楽第*に行幸された時でした。

後陽成天皇:第107代・後陽成天皇。第百六代・正親町天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第一皇子。

聚楽第:天正 13 (1585) 年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。天正16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる (→聚楽行幸記)。8年後に取り壊される。

この時、正親町上皇から関白豊臣秀吉に御製を賜り、秀吉も和歌を奉っています。

☆☆☆

“天正十四年(一五八六)二月十四日、豊臣秀吉参内の後、禁庭の桜花の木陰に暫時佇み、飽かず眺めて帰館せり。
正親町天皇、この秀吉の雅興を聞こし召され、二十六日、その花の枝に

立ちよりし 色香ものこる 花盛り ちらで雲ゐの 春やへぬべき

の御製を添へて賜ふ。秀吉、勅使をお待たせして、即時に申上げたる御返歌
(忍びつゝ 霞とともに ながめしも あらはれにけり 花の木のもと)
(以上、川田順「戦国時代和歌集」)

天正十六年(一五八八)四月、内のうへ(後陽成天皇)聚楽第に行幸ありける日、桜の御所(註・正親町上皇)、御製冊にかきて関白(豊臣秀吉)の許へおくらせ給ひける

萬代に またやほよろづ 重ねても なほかぎりなき 時はこのとき

(秀吉の御返歌 ― 言の葉の 浜のまさごは つくるとも 限りあらじな 君がよはひは)

同じとき、還幸の後、関白より内(註・後陽成天皇)に奏したりける歌(註・「時を得し 玉の光の あらはれて みゆきぞ今日の もろ人の袖」)どもをきこしめして

うづもれし 道もたゞしき 折にあひて 玉の光の 世にくもりなき

(以上、聚楽第行幸記)“

(pp217~219)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味

参内:宮中に参上すること。

禁庭:皇居。宮中

雅興(がきょう):風雅な興趣。風流なおもむき。雅趣

雲ゐ:大空、天上、雲、はるかに離れたところ、宮中、皇居。

冊:短冊

萬世(よろずよ):限りなく長い年月、永久、永遠。

やほよろづ:数が極めて多いこと。

還幸(くゎんかう):天皇が出先から帰ることの尊敬語。 [反対語] 行幸(ぎやうがう)

もろ人:もろもろの人、多くの人。

玉:宝石


[大意]

天正十四年(1586)2月14日、豊臣秀吉が宮中に参上したのち、皇居の庭の桜の花の木陰にしばらくの間、佇み、飽きない様子で花を眺めてから、帰って行きました。
正親町天皇は、秀吉の桜花を愛でる雅に興味を寄せていた話をお聞きになられ、12日後の26日に、桜の花の枝に、御製を添えて、秀吉に賜りました。


先日、あなたが立ち寄った色香が残る盛りの桜花が、まだ散らないように、宮中の春も穏やかに、年月を経てほしいものだ

秀吉は勅使(天皇のお使い)をお待たせして、その場で御返歌を詠み、お使いに託しました。

(天皇様の御ことを忍びながら、霞のかなたのこととながめておりましたが、桜花が開くように桜の木のもとに、目の前にあらわれられて、間近に拝することができました)


天正十六年(1588)4月、後陽成天皇が聚楽第に行幸された時に、正親町太上天皇は、御製を短冊に書いて、関白豊臣秀吉のところへ給われました。

永遠に、またさらに長い年月を重ねても、なお限りない(喜ばしい)時は このときです

(秀吉の御返歌 ― 言の葉の数多くが尽きることがあっても、君(上皇、天皇)の御寿命は尽きることがありません)

同じとき、天皇が聚楽第から皇居に御帰りになられた後に、関白秀吉が奉った和歌、(「時を得て、宝石のような天皇の御光が世の中に明らかになり、今日天皇がお出ましになり、大勢の人々が袖を振って喜んでいます」)を、正親町上皇がお聞きになられて、御歌を詠まれました。

うずもれていた道も、正しく善い時節にあうことができて、天皇の玉の光も、世の中にくもりなく照り輝きます。


この年、後陽成天皇は御年17歳、御祖父の正親町太上天皇は72歳でした。長年、宮中で窮乏を耐え忍んで来られ、国の行く末を案じておられたた正親町上皇の御喜びと御安堵はいかばかりだっただろうと、拝察申し上げます。

その正親町上皇の御心に応えて、当意即妙の和歌をお返しする秀吉の人間的魅力もいかんなく発揮されています。感激や喜びを素直に表現する人柄だったのでしょう。


今日も読んでいただき有難うございました。

秋を通り越して急に冷え込んでまいりました。皆様もどうぞ、着る物を調整して暖かく、お健やかにお過ごしください。

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