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天皇の御歌(44)―初代皇后・伊須氣依比賣 [神武天皇]

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今日は、第一代・神武天皇の大后(おほきさき)、初代皇后・伊須氣依比賣(いすけよりひめ)の御歌を学びます。

伊須氣依比賣は「古事記」におけるお名前ですが、日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)いうお名前になっています。

以下の説明は、日本書紀と書いた一部を除いて「古事記」に拠ります。

伊須氣依比賣、すなわち比売多多良伊須氣依比賣(ひめたたら いすけよりひめ)は、神武天皇が橿原で即位されてから、大后、すなわち正式な皇后として迎えられました。神武天皇の御子様は、日子八井命(ひこやいのみこと)、神八井命(かむやいのみこと)、神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)の3人でした。

話は遡りますが、神武天皇は、東征にお発ちになる前に、故郷の日向で阿比良比賣(あひらひめ)を娶(めと)っておられ、阿比良比賣との間に、多藝志美美命(たぎしみみのみこと)、岐須美美命(きすみみのみこと)のお二人のお子様がありました。

日本書紀によれば、多藝志美美命(たぎしみみのみこと)は神武東征に同行され、父君とともに戦われたとのことです。古事記では、東征に同行されたことは書かれていません。

神武天皇が崩御されて後、多藝志美美命は、神武天皇の皇后だった継母の伊須氣依比賣を妻とされました。さらに弟たちである3人の御子たちを殺そうと謀(はか)ったので、伊須氣依比賣は憂い苦しまれて、次のような御歌によって3人の御子たちに、謀(はかりごと)を知らせました。


☆☆☆


“狭井河(さゐがは)よ 雲立ちわたり 畝傍山(うねびやま)
木の葉 騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす

畝傍山 晝(ひる)は雲とゐ 夕(ゆふ)されば
 風吹かむとぞ 木の葉騒(さや)げる“(p90)

(倉野憲司校注『古事記』岩波書店)


☆☆☆

1首目大意。狭井河に身を寄せている息子たちよ 雲が畝傍山に立ち渡って 木の葉がざわざわしている 風が吹きそうですよ

2首目大意。畝傍山の昼は雲がかかっているだけですが、夕方になると風が吹いて、木の葉がざわざわというでしょう

この御歌を聞いた御子たちは、多藝志美美命のはかりごとを知り、末弟の神沼河耳命は、次兄の神八井命と兵を率いて、多藝志美美命を討つように兄に勧めますが、兄は思い切ることができず、代わって、弟の沼河耳命が多藝志美美命を殺します。

兄の神八井命は、沼河耳命の功績を讃えて「私は兄だが敵を殺すことができなかった、お前は勇敢に殺すことができたので、天の下を治めてください。 私は、祭りを司ることによって、貴方様に仕えます」と言われました。

こうして、末弟の神沼河耳命が、第2代・綏靖天皇として御位につかれました。


この暗示的な歌のみで多藝志美美命の反乱を知ったとしたら直観力の鋭さに驚くばかりですが、もちろん日ごろからの何らかの話があったのでしょう。

日本書紀に書かれているように、東征で神武天皇に同行されたのであれば、その後の政務にも関わったでしょうし、自分は神武天皇の長子であるとの思いから、皇位を継ぎたい望みを持つことになったのでしょう。

しかし神武天皇が、出生地で娶(めと)った妻でなく、治める土地の神の血をひく伊須氣依比賣を正式な皇后とされたのは、大和の国を治めることを第一に考えられてのことではないかと思います。そこに、統治する土地との結びつきの強いお后との間に生まれたお子様に後を継がせるという、強い御意思が働いているように思われます。また、天皇および天皇に仕える人々が、次代の天皇になられる方の母方の血筋も重く見ていたとも云えるのではないでしょうか。日本の歴史においては、特に古代において、父方の血筋のみを重視してきたのではなく、母方の血筋も重要な意味を持っていたのではないかと思われます。


今日も読んでいただき有難うございました。

皆様にとって穏やかな一日でありますようお祈り申し上げます。

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