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歴史をなぜ学ぶのか [歴史]

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なぜ、私は歴史を学ぶことになったのでしょう。それは「歴史を学ぶことは自己を学ぶこと」という言葉に出会ったことによるものです。

人間は、横に広がる感覚、家族、身近な友人、地域共同体、所属する会社など組織に気を配ります。
同時に、縦の感覚、自分を誕生させてくれた父母、父母の父母である祖父母、祖父母の父母である……先祖代々も、自分の心の中に抱いて生きて行くものだと思います。先祖の誰か一人が欠けても自分が存在しない、そう考えはじめると、やがて、遠い星を仰ぐような神秘を覚えます。

https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2015-01-30

先祖が生きて来た時代をしのぶこと、先祖の身になって、共に喜び、共に悲しみ、乗り越えて来た苦しみを想像すること、それが歴史を学ぶことではないかと思います。

他人事として冷たく批評するのではなく、先祖の身になって想像力を働かせること、何よりもいのちをつないでくださったことの感謝が、その根っこに必要だと思います。

そんな歴史の学び方をすると、自分の生き方に自信が湧いてきます。

私が歴史を熱心に学ぶきっかけとなった、尊敬する山口悌治氏の文章をご紹介いたします。

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“もとよりわたくしは歴史家ではない。わが国の古代史を専門に研究している学究の徒でもない。しかしわたくしは人間であると同時に、先祖代々この国の中に生れ生活し、この国と運命を偕にし、われわれの存在の根源につながりわれわれを今日あらしめ、また今後もあらしめて行く日本国の、国民の一人であることの意義を忘れることはできない。

先祖代々この国の中に生活し運命をともにして来たといふことは、この国はもはや自分という存在の外にある他者ではなく、自分といふ存在の内部にわかち難く融合し、かつ自分を構成してゐる生命的一体者であるといふことである。国は自分の外にあるやうに見えて、同時に自分の内部にあるものである。自分は国の外にあるやうに見えて、同時に国の内部にあって一つのものとして生存を保ってゐる。われわれと国とは内外相即であって、次元を異にする二者として切離すことはできない。従って日本の歴史は自分の外にあるのではない。歴史の外に、自分がゐて勝手な生活をし、時には歴史に対して関心を持つといふが如き関係のものではない。歴史とは自分といふ存在の内包であり外延であるからである。ここに国に対する国民としての「権利」と「義務」の根拠がある。

歴史は決していはゆる歴史家や歴史学者のものではない。われわれ一人々々のものであると同時に国民全体のものだ。歴史とは決して歴史家や歴史学者の解釈や理論付けや体系化の中にあるのではない。そんなものとは関係なく、今現に数千年にわたる途方もないボリュームを持った巨大な力でこの日本国家を支へ、この国の国民の存在の基底として働き続けてゐるものなのである。”(pp118~119)

(山口悌治著『万葉の世界と精神(前篇)―日本民族の心の原点』日本教文社)

☆☆☆

言葉の意味:

相即:1 仏語。事物の働きが自在に助け合い融け合っていること。
2 二つの物事が密接に関わり合っていること。「相即する文化と言語」

内包:1 内部にもっていること。「多大のリスクを内包する計画」
2 論理学で、概念が適用される事物に共通な性質の集合。例えば、学者という概念の内包は「学問の研究者」など。⇔外延。

外延:論理学で、概念が適用される事物の集合。例えば、惑星という概念の外延は水星・金星・地球・火星・木星・土星など。⇔内包。

内包と外延:内包(Intension)はある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延(extension)は具体的にどんなものがあるかを指すものである。これらは互いに対義語の関係をもつ。

「日本の歴史は自分という存在の内部にあり、外部に様々な形をもって存在するものである」ということになりましょうか。

外部といえば、各地の史跡、お寺、神社、仏像、美術品(絵画、彫刻、書)、工芸品、数えきれないものがありますね。その文化の根元、源泉は、歴代の天皇陛下、皇室でありましょう。


歴史の中の良いことばかり書くと、「反省はしないのですか?」と聞く人もありそうですね。もちろん、反省すべき点に目をつぶる必要はありません。例えば戦争など、なぜ起こったのか、防ぐ道は無かったのか、そういう視点も必要です。しかしその場合でも、世界を見渡して、時間的、空間的にできる限りの広大な視野に立つことと、他人ごとでなく、自分だったらどうしたか、どこまで何が出来たかということを忘れてはならないと思います。自分に出来ないことを、祖先に要求しないという謙虚さが必要です。同じ立場に自分が立たされたとき、果たして信念に基づく勇気ある行動ができただろうかとか。できない弱い自分があれば、祖先を責める資格はないでしょう。といって、あっさりあきらめたり、絶望したり、自分を責めたりする必要もありません。少しずつでも、理想の自分に近づけばよいのです。祖先もそのようなあなたの努力を喜んでくれるはずです。

相手の立場に立つ、尊敬と思いやりを抱き、感謝を先立てて歴史に接することにより、先人のまごころに触れることができて、生き生きとした歴史に接することができて、それが今の自分の、明日を生きる栄養素、糧になるのだと思います。

今日も読んでいただき、有難うございました。

皆様が、ご先祖様のあたたかい愛に包まれて、今日一日つつがなく過ごされますようお祈り申し上げます。

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