天皇の御歌(65)―第124代・昭和天皇―「昭和の日」 [昭和天皇]
今日は「昭和の日」です。
コトバンクには、「昭和の日」が次のように説明されています。
『国民の祝日の一つ。4月 29日。昭和天皇の誕生日であったが,1989年の死去に伴いみどりの日として制定された。 2007年国民の祝日に関する法律の改正によって,みどりの日は5月4日に変更され,4月 29日は新たに昭和の日となった。「激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす」ことをその趣旨としている。』
2007年に「みどりの日」から「昭和の日」になりました。
激動の昭和を国民と共に乗り越えて来られた昭和天皇様を思いますと胸に迫る思いがあります。昭和天皇様に感謝と尊敬の意を込めて、御製を学ばせていただきます。
御在世:1901―1989(崩御・87歳)
御在位:1926―1989(26歳~87歳)
☆☆☆
“(昭和21年―1946―御年46歳
*新日本建設に関する詔書發布。極東軍事裁判開廷
戦災地視察(註・2月19日神奈川県を御巡幸、これより御巡幸全國に及ぶ)”
戦(たたかひ)の わざわひうけし 國民を おもふ心に いでたちて來ぬ
わざわひを わすれて われを出むかふる 民の心を うれしとぞ おもふ
國をおこす もとゐとみえて なりはひに いそしむ民の 姿たのもし
皇居内の勤労奉仕者
をちこちの 民のまゐきて うれしくぞ 宮居のうちに 今日もまたあふ”
(pp401~402)
“昭和22年―1947―御年47歳)”
帝室林野局移管
うつくしく 森をたもちて わざはひの 民におよぶを さけよとぞおもふ
こりて世に いだしはすとも 美しく たもて森をば 村のをさたち
(*こりて=木を伐って)”
(p402)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆☆
初めの3首は、昭和天皇の全国御巡幸を詠まれた御製です。
昭和天皇の全国御巡幸
https://ironna.jp/article/1303
4首目は、皇居勤労奉仕(現在の皇居清掃奉仕)の初めの時の御製です。
https://fng.or.jp/koukyo/2019/07/02/post_248/
5、6首目は、皇室の御料林が国有財産となり、帝室林野局が廃止になった時の御製です。
言葉の意味
御料林(ごりょうりん):明治憲法下で皇室財産であった森林
帝室林野局(ていしつりんやきょく):
『戦後の編入
GHQによる宮内省組織の縮小要求や農林省との林野行政を巡る対立を避けるための「林政統一」論に押される形で1947年3月31日に帝室林野局は廃止され、残された御料林は翌4月1日付で農林省林野局(後の林野庁)管轄の国有林に編入された。』(Wikipedia 「帝室林野局」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E6%9E%97%E9%87%8E%E5%B1%80
[御製について]
昭和天皇の御製は分かりやすいお言葉なのでそれぞれの大意は省かせていただきます。
1~4首目は、昭和天皇とお迎えした民の心、お応えする青年団の心の通い合いが生き生きと感じられます。
5首目は、森の木々を伐採し過ぎると水害などの元になるので、美しく森をたもってほしいとの御製、6首目は、それまで皇室の管理下にあった御料林が国有林になるに当たって、管理を託された村のをさ(長)、地域の首長に、利益を得るために森林を伐採することがあっても、森全体を美しくたもってほしいとの願いを託された御製だと思います。
[感想]
戦災地視察が、戦災で傷ついた人々の心にどれほど希望の灯をともし、その後の戦後復興につながったことかと、当時が偲ばれます。
特に感慨を覚えるのは、共産党系の一団が、天皇のひとことで全員泣きだし、後に天皇制護持論者に転向したとの記事です。
☆☆
九州巡幸のさいの24年5月22日、佐賀県基山町の因通寺境内の戦災孤児収容施設「洗心寮」をお訪ねになった。住職、調寛雅(74)が父から引き継いで運営しており、多くはフィリピンなどからの引揚孤児。天皇は「お健やかにね」と子供たちの頭をなでられ、山門を後にされた。
このとき、調にはひとつ気になることがあった。沿道にシベリア帰りの共産党系の一団が戦争責任を追及しようと待ち構えていたのだ。
だが、天皇のひとことが、心配を吹き飛ばす。彼らの前で立ち止まられてリーダーのMに「長い間、外国で苦労をさせて申し訳ない。これからは日本再建のためにしっかり頑張ってほしい」と帽子を取られた。Mに感動の衝撃が走った。全員泣き出し、後に天皇制護持論者に転向した。
https://ironna.jp/article/1303?p=3
☆☆
同様の話が、九州だけでなく各地で起こったことと、聞いております。陛下のご慈愛あふれるひとことに、共産党系の人々、天皇制反対の人々が、一度に天皇制護持論者になってしまうことに深い感慨を覚えます。
平成の御代においても、同じことが各地で起こったのだと拝察申し上げます。ご慈愛あふれる大御心は、平成の御代になって上皇・上皇后様の、震災、水害の被災地ご訪問、海外の戦没者慰霊の旅になって引き継がれ、令和の天皇・皇后さまにも引き継がれています。
皇居勤労奉仕は、宮城県栗原郡青年団の自発的な荒廃している皇居内外の清掃奉仕を許してほしいとの申し出から始まりました。占領下にあって、身の危険をかえりみずに、清掃奉仕を発願した宮城県栗原郡青年団に、深く敬意を表します。昭和天皇様のお喜びも一入であったことと拝察申し上げます。
私も皇居清掃奉仕に何回か参加いたしましたが、その感激も、宮城県の青年団から初まったことを思い起こし、あらためて当時の青年団と関係者の皆様に、感謝を表したいと思います。
御料林が国有林になった時の御製は、上皇様、天皇様の全国植樹祭における、国民と共に、森林を大切になさる御心につながっていると拝察申し上げます。
今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって良い祝日でありますよう、お祈り申し上げます。
コトバンクには、「昭和の日」が次のように説明されています。
『国民の祝日の一つ。4月 29日。昭和天皇の誕生日であったが,1989年の死去に伴いみどりの日として制定された。 2007年国民の祝日に関する法律の改正によって,みどりの日は5月4日に変更され,4月 29日は新たに昭和の日となった。「激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす」ことをその趣旨としている。』
2007年に「みどりの日」から「昭和の日」になりました。
激動の昭和を国民と共に乗り越えて来られた昭和天皇様を思いますと胸に迫る思いがあります。昭和天皇様に感謝と尊敬の意を込めて、御製を学ばせていただきます。
御在世:1901―1989(崩御・87歳)
御在位:1926―1989(26歳~87歳)
☆☆☆
“(昭和21年―1946―御年46歳
*新日本建設に関する詔書發布。極東軍事裁判開廷
戦災地視察(註・2月19日神奈川県を御巡幸、これより御巡幸全國に及ぶ)”
戦(たたかひ)の わざわひうけし 國民を おもふ心に いでたちて來ぬ
わざわひを わすれて われを出むかふる 民の心を うれしとぞ おもふ
國をおこす もとゐとみえて なりはひに いそしむ民の 姿たのもし
皇居内の勤労奉仕者
をちこちの 民のまゐきて うれしくぞ 宮居のうちに 今日もまたあふ”
(pp401~402)
“昭和22年―1947―御年47歳)”
帝室林野局移管
うつくしく 森をたもちて わざはひの 民におよぶを さけよとぞおもふ
こりて世に いだしはすとも 美しく たもて森をば 村のをさたち
(*こりて=木を伐って)”
(p402)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首-』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
☆☆☆
初めの3首は、昭和天皇の全国御巡幸を詠まれた御製です。
昭和天皇の全国御巡幸
https://ironna.jp/article/1303
4首目は、皇居勤労奉仕(現在の皇居清掃奉仕)の初めの時の御製です。
https://fng.or.jp/koukyo/2019/07/02/post_248/
5、6首目は、皇室の御料林が国有財産となり、帝室林野局が廃止になった時の御製です。
言葉の意味
御料林(ごりょうりん):明治憲法下で皇室財産であった森林
帝室林野局(ていしつりんやきょく):
『戦後の編入
GHQによる宮内省組織の縮小要求や農林省との林野行政を巡る対立を避けるための「林政統一」論に押される形で1947年3月31日に帝室林野局は廃止され、残された御料林は翌4月1日付で農林省林野局(後の林野庁)管轄の国有林に編入された。』(Wikipedia 「帝室林野局」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E6%9E%97%E9%87%8E%E5%B1%80
[御製について]
昭和天皇の御製は分かりやすいお言葉なのでそれぞれの大意は省かせていただきます。
1~4首目は、昭和天皇とお迎えした民の心、お応えする青年団の心の通い合いが生き生きと感じられます。
5首目は、森の木々を伐採し過ぎると水害などの元になるので、美しく森をたもってほしいとの御製、6首目は、それまで皇室の管理下にあった御料林が国有林になるに当たって、管理を託された村のをさ(長)、地域の首長に、利益を得るために森林を伐採することがあっても、森全体を美しくたもってほしいとの願いを託された御製だと思います。
[感想]
戦災地視察が、戦災で傷ついた人々の心にどれほど希望の灯をともし、その後の戦後復興につながったことかと、当時が偲ばれます。
特に感慨を覚えるのは、共産党系の一団が、天皇のひとことで全員泣きだし、後に天皇制護持論者に転向したとの記事です。
☆☆
九州巡幸のさいの24年5月22日、佐賀県基山町の因通寺境内の戦災孤児収容施設「洗心寮」をお訪ねになった。住職、調寛雅(74)が父から引き継いで運営しており、多くはフィリピンなどからの引揚孤児。天皇は「お健やかにね」と子供たちの頭をなでられ、山門を後にされた。
このとき、調にはひとつ気になることがあった。沿道にシベリア帰りの共産党系の一団が戦争責任を追及しようと待ち構えていたのだ。
だが、天皇のひとことが、心配を吹き飛ばす。彼らの前で立ち止まられてリーダーのMに「長い間、外国で苦労をさせて申し訳ない。これからは日本再建のためにしっかり頑張ってほしい」と帽子を取られた。Mに感動の衝撃が走った。全員泣き出し、後に天皇制護持論者に転向した。
https://ironna.jp/article/1303?p=3
☆☆
同様の話が、九州だけでなく各地で起こったことと、聞いております。陛下のご慈愛あふれるひとことに、共産党系の人々、天皇制反対の人々が、一度に天皇制護持論者になってしまうことに深い感慨を覚えます。
平成の御代においても、同じことが各地で起こったのだと拝察申し上げます。ご慈愛あふれる大御心は、平成の御代になって上皇・上皇后様の、震災、水害の被災地ご訪問、海外の戦没者慰霊の旅になって引き継がれ、令和の天皇・皇后さまにも引き継がれています。
皇居勤労奉仕は、宮城県栗原郡青年団の自発的な荒廃している皇居内外の清掃奉仕を許してほしいとの申し出から始まりました。占領下にあって、身の危険をかえりみずに、清掃奉仕を発願した宮城県栗原郡青年団に、深く敬意を表します。昭和天皇様のお喜びも一入であったことと拝察申し上げます。
私も皇居清掃奉仕に何回か参加いたしましたが、その感激も、宮城県の青年団から初まったことを思い起こし、あらためて当時の青年団と関係者の皆様に、感謝を表したいと思います。
御料林が国有林になった時の御製は、上皇様、天皇様の全国植樹祭における、国民と共に、森林を大切になさる御心につながっていると拝察申し上げます。
今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって良い祝日でありますよう、お祈り申し上げます。
タグ:皇居清掃奉仕
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