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明治天皇は女系を容認されていたのか [皇室典範改正]

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男系維持を主張する人から、こんな質問をいただきました。

Q. たるとさんは、明治天皇が女系容認だったと言われますが本当ですか?

この質問者は、竹田恒泰氏を尊敬していて、竹田氏の主唱する、大御心とは「歴代天皇の御心」である、今上陛下が歴代の「大御心」に反する女系容認だったら尊重する必要が無い、という思想を信じる人でもあります。

A. そこで、私は次のように答えました

明治天皇は、女系を容認されていたし、明治天皇以来、今上天皇に至るまで(大正天皇、昭和天皇、上皇陛下、今上天皇)容認されていると、考えるのが自然です。それは大正天皇が側室を置かれなかったからです。側室が無ければ男系男子の継承が維持できないのは、明治天皇の時に、既に明らかでした。大正天皇は、明治天皇の庶子でしたから、大正天皇もそのことを十分知っておられながら、側室を置かなかったので、いずれは西欧と同様に、女系容認が必要と考えられていたと、拝察するのが自然だと思います。

また、女性天皇は、歴代天皇において、容認されていました。歴史上、8方10代の女性天皇がありました。 江戸時代の後水尾天皇による明正天皇への譲位、後桜町天皇の即位は、江戸幕府による女性が家督を継ぐことを禁止した「禁中並公家諸法度」を破って強行された女性天皇の即位でした。それが皇室の伝統です。

竹田恒泰氏の「大御心」における「歴代」は、例外だらけであり、一貫した「大御心」が、女性天皇禁止、女系天皇絶対反対、女系天皇になると日本が亡びるとのお考えである、と主張する竹田氏は、真の「大御心」を理解しているとは、到底思えません。

本題に入ります。

明治天皇が「女系天皇、女統を容認」とのお言葉を残しているという記録は、見つけることができませんでした。読者の方で、そういう記述があると知っている方は、ぜひ教えていただきたいと思います。

私の想像ですが、明治天皇も立憲君主たらんとされたので、直接のご発言は控えられ、大正天皇、昭和天皇、上皇様、今上陛下と同様に、記録が残されていないかも知れません。


しかし、旧皇室典範(明治22年)の制定過程において、「女系、女統」容認の案が、提出されたのは歴史上の事実です。それは「宮内省」案に記述されているので、明治天皇が容認されない内容が、そこに入れられるはずがない、仮に明治天皇が「何よりも男系優先、男系を護持しなければ国が亡ぶ」とお考えだったなら、宮家が数多くある中で、「女系、女統」が明記された案を、元老会議に検討させることは、考えられません。すなわち、明治天皇は「女系、女統」を容認されていたと考えるのが自然であり、当然であると思います。

以下、関連する資料からの引用を列記します。


☆☆☆

【明治典範制定に至るまでの女性天皇に関する議論】
①各種憲法試案の中に、皇位継承資格を男性のみとする案や女性の皇位継承も可能
とする案がある。
②制定過程における皇位継承資格の変遷
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〔日本国憲按〕(元老院による立案:明治9年~13年)
・明治9年案 …女性も皇位を継承できるとする案
・明治11年案…女性は皇位を継承できないとする案
・明治13年案…女統による皇位継承もできるとする案
〔皇室制規〕(宮内省による立案:明治18年~19年頃)
・女性・女系による皇位継承もできるとする案
〔井上毅「謹具(きんぐ)意見」〕(明治18年~19年頃)


(「皇室典範に関する有識者会議 報告書 平成17年11月24日」)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.html

(「参考資料」(pp34~35))
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/sankou.pdf

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[説明]

明治9年以来、元老院による立案が、何回かありました。
注目すべきは「日本国憲按」明治9年案、明治13年案、及び明治18年の「皇室制規」案に次の通り、女系、女統による継承を認める条文があったことです。


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1.日本国憲按
(1)明治9年案:女性も皇位を継承できるとする案。
第二章 帝位継承
第一条 現今統御スル皇帝ノ子孫タル可キ者ヲ以テ帝位継承ノ正統ノ裔トシテ帝位ヲ世伝ス
第二条 継承ノ順序ハ嫡長入嗣ノ正序ニ循フ可シ尊系ハ卑系ニ先チ同系ニ於テハ親ハ疎ニ先チ同族ニ於テハ男ハ女ニ先チ同類ニ於テハ長ハ少ニ先ツ

(3)明治13年案:女統による皇位継承もできるとする案。
第二章 帝位継承
第一条 今上皇帝ノ子孫ヲ帝位継承ノ正統トス
第二条 帝位ヲ継承スル者ハ嫡長ヲ以テ正トス如シ太子在ラサルトキハ太子男統ノ裔嗣ク太子男統ノ裔在ラサルトキハ太子ノ弟若クハ其男統ノ裔嗣ク嫡出男統ノ裔渾テ在ラサルトキハ庶出ノ子及其男統ノ裔親疎ノ序ニ由リ入テ嗣ク
第三条 上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未タ帝位ヲ継承スル者ヲ得サルトキハ皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣ク若シ止ム事ヲ得サルトキハ女統入テ嗣ク事ヲ得

2.皇室制規:女性・女系による皇位継承もできるとする案。
皇位継承ノ事
第一 皇位ハ男系ヲ以テ継承スルモノトス若シ皇族中男系絶ユルトキハ皇族中女系ヲ以テ継承ス男女系各嫡ヲ先キニシ庶ヲ後ニシ嫡庶各長幼ノ序ニ従フヘシ

(資料3-1「資料3-1-14」)

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai2/2siryou3-1.pdf

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[説明]

素人考えですが、明治9年の案は、「同族に於ては男は女に先立ち」とあるものの、男統の跡継ぎが無い(13年案)、男系が絶える時(19年案)という文言が無いので、女性が跡継ぎになることが、順序によって、自然に認められるようになっている気がします。最初の案が、そのようであったことは、皇室の伝統において、女性天皇継承が自然であったことを表わしているように思われます。

かなり難解な文章です。尊系と卑系の意味の違いがよく分かりません。細かいところの読みがすぐには分からないので、時間をかけてもう少し読み込もうと思います。もしも、読者の方でこの文章を読解できる方があり、また現代語訳がありましたら、お教えいただければありがたいです。

この経緯を、国史大辞典では、明治19年の案のみを、取り上げて以下のように解説しています。


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皇室典範
こうしつてんぱん
皇室および皇族の基本であり、皇位継承をはじめ、結婚・摂政・皇族などが定められている。明治二十二年(一八八九)非公式に発表され、明治四十年と大正七年(一九一八)に増補を加えた。第二次世界大戦後の昭和二十一年(一九四六)、現在のものに改正されている。明治十五年伊藤博文が欧州に赴いた際、オーストリアのローレンツ=フォン=シュタインから皇室の家法をつくるようすすめられた。伊藤は同十九年から皇室典範の取調べを始めた。最初の案は皇室制規で、シュタインの意見を参考とし、皇位継承・丁年および結婚・摂政・皇族について定めた。女系の継承権を認め、庶出の子女は皇族として待遇しないことにした。

(「国史大辞典」「皇室典範」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=132

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[結論]

2005年小泉政権による有識者会議の報告が提出されて以来、女系容認、男系固持の論が、取り交わされています。有識者会議では、色々と深いことが議論されていたのだなあと、資料を調べて、思いました。

明治時代の、欧州の識者に作成を薦められて、歴史始まって以来初めて作成された旧皇室典範成立の過程に於いても、既に、女系容認案、男系男子限定案の、押したり引いたりの議論があったのは、驚くべきことです。議論の過程を垣間見ても、今の議論とあまり変わりないことが問題にされています。歴史は繰り返すということですね。

明治時代の旧皇室典範制定において、宮内省が提出した明治9年案、13年案、19年案に、明治天皇のご意向が反映されていないはずがないので、明治天皇は男系固執ではなく、女系でもよい、すなわち女系を容認しておられたと拝察しても、間違いないと思います。

2005年の有識者会議の報告も同様に、当時の天皇(上皇陛下)のお考えが反映され、「女系容認」となっていたことも、間違いないと拝察いたします。


今日も読んでいただき有難うございました。
もうすぐオリンピックですね。皆様にとって良い一日でありますよう、お祈り申し上げます。
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