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天皇の御歌(73)―第77代・後白河天皇 [後白河天皇]

20220427blog DSC_2058.JPG今日は、第77代・後白河天皇の御歌を学ばせていただきます。

御在世:1127―1192(崩御・66歳)

御在位:1155―1158(29歳~32歳)





[以下における院政期間 1158~1192(32歳~66歳)]

第78代・二條天皇の御在位期間
第79代・六條天皇の御在位期間
第80代・高倉天皇の御在位期間
第81代・安徳天皇の御在位期間
第82代・後鳥羽天皇の御在位中期まで

大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で、後白河法皇は、西田敏行さんが演じています。その後白河法皇は、どういう方で、どんな御製を詠んでいらしたのだろうと、好奇心を覚えたので、学ぶことにいたしました。


第77代・後白河天皇は、第74代・鳥羽天皇の第四皇子。御践祚の翌年に保元の乱が起こり、御在位4年で御譲位なさったが、以後、二條・六條・高倉・安徳・後鳥羽の5天皇の三十余年間にわたって「院政」を御執りになり、66歳で亡くなられました。

保元の乱は、日本史でも学びました。簡単に説明すると、第77代・後白河天皇方と、崇徳上皇方(第75代天皇)との争いです。

“保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。 崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。”(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1

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“この「保元の乱」のもたらしたものは、源平二氏の武家としての実力が示され、政治に対する武家の比重を重からしめることになったとともに、公家勢力の衰兆を決定づけるものになって、以後700年に及ぶ武家ならびに幕府による政治が生まれ出る契機となってしまったものである。”(p102~103)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

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崇徳天皇と保元の乱については別の機会に書かせていただきたいと思います。

今回は、後白河天皇の御製をそのまま読ませていただきます。


☆☆☆

みこにおはしましける時、鳥羽殿(註・白河上皇が譲位と同時に京都の南、鳥羽に造営し給うた離宮)にわたらせ給ひける頃、池上花といへる心をよませ給うける

池水に みぎはのさくら 散りしきて 波の花こそ さかりなりけれ(千載集)

鳥羽殿にて、旅宿時雨(しぐれ)といふ事を

まばらなる 柴のいほりに たびねして 時雨にぬるゝ 小夜衣(さよごろも)かな(新古今集)(p103)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味:

みこにおはしましける時:皇子でいらしたとき

鳥羽殿:とばどの
1086年(応徳3)に白河(しらかわ)天皇の後院(ごいん)(譲位後の居所に定めた御所)として、洛南(らくなん)の鳥羽(京都市伏見(ふしみ)区・南区)に造営された離宮。鳥羽離宮ともいう。鳥羽作道(とばのつくりみち)(現鴨川(かもがわ))の東に180町もの地を占め、中島のある池や、北殿、南殿、東殿、馬場殿、泉殿などの殿舎があった。鳥羽上皇もこの離宮を居所とし、新たに田中殿御所を造営した。(日本大百科全書(ニッポニカ))

[註]第72代・白河天皇
御在世:1053―1129(崩御・77歳)
御在位:1072―1086(20歳~34歳)

みぎは:【汀】 水のほとり。 水ぎわ。 「み(水)きは(際)」から。(weblio)

柴(しば):柴とは特定の樹種をさすのでなく,山野に生えているあまり大きくない雑木やその枝をいう。(コトバンク)

いほり:(庵)1 草木や竹などを材料としてつくった質素な小屋。僧・隠者などが住む小さな住居や、農作業などの仮小屋。(goo辞書)

たびね(旅寝):自宅を離れ、よそで寝ること。旅さきで寝ること。たびまくら。たびぶし。(コトバンク)

時雨:(しぐれ):晩秋から初冬にかけて降る雨で、降ったりやんだりするにわか雨をいう。(コトバンク)

小夜衣:(さよごろも):① 身をおおう夜具。着物のような形で、大形で掛けるもの。多く真綿がはいっている。(コトバンク)


[大意]

1首目:

池の水の、水際までさくらの花びらが散り敷かれ、波の上の花が今盛りなのだろう

2首目:

隙間だらけの雑木の枝で屋根を葺(ふ)いた質素な小屋に、旅で泊まったので、冷たい雨に夜着の衣がぬれたことよ


[感想]

桜の花びらがいっせいに枝から散り落ちて、水面をおおいつくしていて、波の上がはなざかりであるように見える、桜の散る頃に、見られる光景です。梅のはなびらでは、このようにはなりません。


1首目が集録されている「千載集」を初めて知りました。勅撰集八代集の7番目に当たるそうです。

千載集(せんざいしゅう):千載和歌集(せんざいわかしゅう)。平安後期の勅撰和歌集。20巻。八代集の7番目に当たる。藤原俊成が1183年,後白河法皇の院宣を受けて撰し,1188年に奏覧した。平安中期から当代までの作,約1290首を収める。(百科事典マイペディア)


お恥ずかしいことに、和歌集といえば、万葉集、古今集、新古今集くらいしか思い浮かばないので、和歌の文化の深さと広さをあらためて知らされました。


勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう):
天皇の綸旨(りんじ)または上皇・法皇の院宣(いんぜん)下命に基づいて編集、奏覧された和歌集。10世紀初頭ごろ成った最初の『古今和歌集』から15世紀前半の『新続(しんしょく)古今和歌集』まで21集があるが、最初の3集を「三代集」、最初から『新古今和歌集』までを「八代集」、続く『新勅撰和歌集』から『新続古今和歌集』までを「十三代集」、全体を「二十一代集」とよんでいる。21集で総歌数は約3万3700首になる。(コトバンク)


2首目を読んで、鳥羽殿(鳥羽離宮)に泊まられたのに、屋根が隙間だらけで、時雨が夜着を濡らすことを不思議に思いました。離宮の手入れが行きとどかないでいるのか、それとも離宮の途上で、小屋に泊まられたのかと思いをめぐらしましたが、わかりません。

鳥羽離宮に最初に住まわれた白河上皇は、後白河天皇の曾祖父でいらっしゃいます。鳥羽上皇は、後白河天皇の御父君ですから、鳥羽離宮との呼び名は御父君に由来するのでしょう。皇子におわしますときに鳥羽離宮を訪れたのは、文中にはありませんが、鳥羽上皇にお目にかかるためだったのかも知れません。鳥羽上皇が、崩御されたのは、後白河天皇が即位された翌年のことでしたから、御対面されたのかも知れません。

時雨が小夜衣をぬらすということを、涙が袖をぬらすことと解釈する人もあります。もしも、鳥羽上皇に皇子でいらした後白河天皇が対面されたのなら、御父君・鳥羽上皇は、まつりごとにかかわる思いをお子様に伝えられ、感じ入って、後白河天皇が涙されたのかも知れないなどと、空想がふくらみます。

後白河天皇の御製を読みますと、平安時代の空気が伝わって参ります。私はこれまでどちらかと言えば、萬葉集に詠われる飛鳥・奈良時代ののびやかでおおらかな空気が好きでしたが、国づくりが進んだ後の平安時代の洗練された空気にも、趣き深いものがあります。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって、花々に恵まれた美しい日々が訪れますよう、お祈り申し上げます。
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