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明治時代の宮内省起草の「皇室制規」案では女系継承権が容認されていた [皇室典範改正]

DSC_148820210524blog.JPG最近あらためて気が付いたことですが、 明治時代の旧皇室典範作成過程で、明治天皇のご意向を反映した宮内省案では、女系の継承権が容認されていた、つまり女系天皇が容認されていたのですが、男尊女卑が要因で「男系男子限定」に定められたという経緯があるとのことです。

「女系の継承権」は、以下に引用する国史大辞典の記述の通り、明治の皇室典範作成過程では容認されていました。

女系容認は、文明開化を目指した明治天皇の御代に既に提案されながら、実現せずに先延ばしされていた課題であったのです。それが130年後の令和の御代で解決されることに、深い意義があります。これ以上先延ばししないで抜本的な対策を取るのが、賢明だと考えます。


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国史大辞典

皇室典範
こうしつてんぱん

皇室および皇族の基本であり、皇位継承をはじめ、結婚・摂政・皇族などが定められている。明治二十二年(一八八九)非公式に発表され、明治四十年と大正七年(一九一八)に増補を加えた。第二次世界大戦後の昭和二十一年(一九四六)、現在のものに改正されている。明治十五年伊藤博文が欧州に赴いた際、オーストリアのローレンツ=フォン=シュタインから皇室の家法をつくるようすすめられた。伊藤は同十九年から皇室典範の取調べを始めた。最初の案は皇室制規で、シュタインの意見を参考とし、皇位継承・丁年および結婚・摂政・皇族について定めた。女系の継承権を認め、庶出の子女は皇族として待遇しないことにした。ついで井上毅が女系の継承は祖宗の大憲に反するとの意見を提出した。そこで帝室典則案では女系の継承をやめ、皇庶子孫の継承を認めた。翌二十年柳原前光が皇室法典初稿という皇室財産・皇室経費などを含む大きくまとめた案をつくった。ついで井上がロエスレルに諮問したのち、柳原案を取捨した皇室典範と題する案をつくり、さらに柳原が再稿をつくった。同年三月伊藤が譲位は認めぬこと、皇位の尊号は天皇のみとすることなどについて裁定した。その後柳原がまとめた案ができたが、これを井上が検討して修正を行い、伊藤の決裁を経た。皇族臣籍に列するの規定などものちになって削られた。同二十一年四月皇室典範諮詢案ができ天皇に奉呈された。同年五月・六月と翌年一月の枢密院会議でいくらかの修正があったが、永久皇族の制は維持された。皇室典範の公示の方法については、起草当時から問題となっていたが、典範は皇室みずから家法を定めるものであって公式によりこれを臣民に公布するものでないとし、大臣も副署せず、官報に掲載することもなく、同二十二年二月十一日非公式に発表された。

(「皇室典範」国史大辞典
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=132

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国史大辞典によれば、「女系の継承権を認め、庶出の子女は皇族として待遇しないことにした。」というのが、皇室の家法「皇室制規」の案でした。

その理由は、旧皇室典範制定の過程にあると思います。旧皇室典範は、オーストリアのローレンツ=フォン=シュタインから皇室の家法をつくるようすすめられたことが発端でした。即ち、元々西洋の王室に家法があったことから、日本の皇室も家法が必要と云う考えで作成されたものです。その背景は日本の開国と同時に、和魂洋才、西洋の政治制度を採用する一環であったのだろうと思います。当然、西洋王室の一夫一婦制、実子による継承を見習うことが始まりだったはずです。

しかし、日本では、まだ江戸時代の一夫多妻、庶子による継承が、普通とされる社会でした。そのせめぎあいが、女系容認と、男系男子継承の差となって現れたのだと思います。

宮内省案(明治19年)の「皇室制規」

○女系の継承権を認める

○庶出の子女(正妻以外から誕生された子女)は皇族としない


しかし、井上毅が『謹具意見』を提出したことにより「女系の継承をやめ、皇庶子孫の継承を認める」、男系男子論の案がまとまりました。(明治22年)

○女系の継承権を認めない

○庶出子孫(を皇族として)その継承を認める

と変更されました。


大正天皇が明治12年に明治天皇のたったお一人の男子(庶出)として誕生されていたことも典範制定に影響を与えたと思われます。皇室典範制定に携わった柳原前光は、大正天皇の実母、柳原愛子の兄でした。そのことがどれほどの影響があったのか調べていませんが、関係者の気遣いは当然、あったと思います。

女系容認はもちろん女帝の即位も井上毅の反対により実現できませんでした。井上毅の反対の大きな理由として人民の頭脳を支配する男尊女卑の慣習が挙げられています。


「男尊女卑」と申しますと、男系男子維持派の男性方は「我々は男尊女卑ではない」と反発されると思います。私は妻をこんなに愛している、妻を大切にしているのに、と思われるのでしょう。私も、日本人の男性は愛妻家が多く、女性はおおむね大切にされていると思っています。個々人が取り立てて男尊女卑であるとは思いません。

ここで「男系男子限定継承」が「男尊女卑」によるというのは明治時代の皇室典範制定の過程において、人民の脳髄を支配する「男尊女卑」の慣習が決定的な要因であったという記録があることを指摘させていただくだけであって、現在の男子男系支持派の人々、一般の日本人男性が取り立てて男尊女卑であるという意味ではありません。

女系容認は、文明開化を目指した明治時代、明治天皇の御代から積み残されていた課題であり130年後の令和の御代で解決することに深い意義がある、今こそ、先延ばししないで抜本的な対策を取るのが、賢明だと信ずるものであります。

今日も読んでいただき有難うございました。

外を歩きますと紫陽花の花が色づきかけています。
雨にしっとりと濡れた紫陽花の美しさは格別です。
皆様、季節の変わり目ですから、お身体をお大切にお過ごしください。


参考資料:
*(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』p261 幻冬舎新書)

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