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「人民の脳髄を〝男尊女卑〟の慣習が支配する我が国」が旧典範で女帝を立てない決定要因だった [皇室典範改正]

120612_12542620210525blog.JPG昨日の続きです。

宮内省が作成し、明治天皇のお気持ちを汲んでいた、女系の継承権を認めていた「皇室制規」案が否定され、男系男子限定継承とされたのは、井上毅が『謹具意見』を提出したことによるものでした。

井上毅(いのうえこわし):天保14年12月18日(1844年2月6日) - 明治28年(1895年)3月17日)は、日本の武士(熊本藩士)、官僚、政治家である。子爵。法制局長官、文部大臣などを歴任する。(Wikipediaより)

明治19年に宮内省中心に起草された『皇室制規』(男系中心だが、男系絶ゆる時は、女帝も容認した)に対して、井上毅(こわし)が『謹具意見』を提出し、それが『典範』男系男子論に強く影響したと、田中卓氏は著書で述べておられます。


☆☆☆☆☆引用はじめ☆☆☆☆

『皇室典範』起草に関しては、明治十九年に宮内省中心に起草された『皇室制規』(男系中心だが、男系絶ゆる時は、女帝も容認した)に対して、井上毅(こわし)が『謹具意見』を提出し、それが『典範』男系男子論に強く影響したこともよく知られている。そしてこの点については、『謹具意見』の中で、島田三郎と沼間守一(ぬま もりかず)の発言記録を引用しており、それが「皇室典範起草過程に影響し、あるいは利用された」という指摘は『日本近代思想体系』2(岩波書店 昭和六十三年五月発行)の「解説」(五二五頁)に見える通りである。

田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』pp261~262 幻冬舎新書

☆☆☆☆☆引用終わり☆☆☆☆


井上毅の『謹具意見』の要(かなめ)は、

「男を尊び、女を卑しむの慣習、人民の脳髄を支配する我が国に於て女帝を立て皇婿を置くのは不可」

との沼間守一、島田三郎の意見です。

島田・沼間の意見は、自由民権結社の嚶鳴社における「女帝を立てるの可否」というテーマの討論筆記に書かれています。


☆☆☆☆☆引用はじめ☆☆☆☆

そこで改めて島田・沼間の意見を確認すると、これは、自由民権結社の嚶鳴社(おうめいしゃ)における「女帝を立てるの可否」というテーマの討論筆記であり、内容は全文、同上の岩波「大系本」に収められている(二七六~九九頁)。
 それによると、この討論会は、明治十五年(一八八二年)一月十四日に公開で行われ、嚶鳴社の社員十六人が出席し、議長高橋庄衛門のもと、討論の結果〝女帝を否とし男統の登極に限る〟と主張する発言者は、発議者の島田三郎をはじめ、益田克徳(ますだかつのり)・沼間守一(ぬまもりかず)の三名。それに対して〝女帝も可とする反対意見〟は、肥塚竜(こいづかりゅう)、草間時福(くさまときよし)、丸山名政(まるやまなまさ)、青木匡(あおきただす)、波多野伝三郎の五名であったが、最後に議長が裁決のため。〝女帝立つべしと思考する者〟を起立せしめたところ、総員十六名中、起立した者八人で。あたかも総員の半数となったので、議長の決によって〝女帝を立つべからざる〟という説に決まったというのである。
討論は発言者八名の中、女帝の〝賛否が五対三〟であったのに、議長の裁決で少数派の三名の意見に決まったのは、男統発議者の島田が、反対論に対する答弁を兼ねて三回も雄弁を振るい、沼間が、嚶鳴社の主要な創設者で、一番の年長でもあったので、風格と説得力があり、反対の起立者が八名にとどまったのであろう。これは島田の作戦勝ちと見るべきである。

(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』p262 幻冬舎新書)

☆☆☆☆☆引用終わり☆☆☆☆

討論で、〝女帝を立つべからず〟とする論者が三名、〝女帝を立つべし〟とする論者が五名と多数であったのに、十六名の出席者の内〝女帝を立つべし〟としたものが八人、議長の決で〝女帝を立つべからず〟という説に決まったとのことです。

島田三郎氏が三回も雄弁をふるったこと、沼間守一氏が嚶鳴社の主要な創設者であり一番の年長者で風格と説得力があったことという、〝女帝を立つべからず〟説に有利な条件が重なっていたのにも関わらず〝女帝を立つべし〟が半数を占めました。

議長の決が〝女帝を立つべし〟に賛同していれば〝女帝を立つべし〟が過半数を占めたであろうことは注目すべきことだと思います。将来の道筋として〝女帝を立つべし〟の正しさが、出席者の多数に認識されていたと推察できます。


その沼間守一氏、島田三郎氏の意見の要点はどのようなものだったでしょうか。

「男を尊び、女を卑しむの慣習、人民の脳髄を支配する我が国に於ては、女帝を立て皇婿を置くの不可なるは、多弁を費やすを要せざるべし」

これは、井上毅が『謹具意見』の中で29行を費やした沼間守一の文章の一部です。井上毅自身の文は55行、後述する島田三郎氏の文章は91行です。井上氏本人の文章の2倍を占めたのが沼間・島田両氏の意見でした。

そして『謹具意見』の「男系絶ユルトキハ女系ヲ以テ継承スル事」のタイトルにも拘わらず、「反対ノ論之ヲ略ス」とあり、女帝を可とする反対意見、肥塚竜(こいづかりゅう)、草間時福(くさまときよし)、丸山名政(まるやまなまさ)、青木匡(あおきただす)、波多野伝三郎の5名の文章は略されて、完全に無視されました。


以下は信山社出版の『日本立法資料全集』十六所収の『謹具意見』(三四七~五四頁)の「第一」「男系絶ユルトキハ女系ヲ以テ継承スル事」についての、沼間守一氏の「意見」部分です。田中卓氏の著書から引用します。

☆☆☆☆☆引用はじめ☆☆☆☆

此に男女の子を有する者あらん。其長子女にして次子男なる時は、其家を相続せしむるに男子を以てする乎。抑(そもそも)女子に譲らん乎。我国風、其長たり次たるの順序に拘らず、男子に相続せしむるにあらずや。是れ独り我国のみ然るにあらず、又民間のみ然るにあらず、立憲君制の諸国と雖も、亦このごときなり。王家と雖、亦このごときなり。然らばすなわち男女に区別なしと云ふ可らず、男女に階級なしと云ふ可らず。反対論者にして此簡単な見易き事実を暁(さと)らば、すなわち女帝を立るを可とするの謬見なるを覚らんとす。すでに此区別あるを見ば、何ぞ奇論を立てて反対を為すを要せんや。又男を尊び、女を卑しむの慣習、人民の脳髄を支配する我が国に至ては、女帝を立て皇婿を置くの不可なるは、多弁を費すを要せざるべし。(二八八~九頁)

(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』pp263~265 幻冬舎新書)

☆☆☆☆☆引用終わり☆☆☆☆


同じく井上毅が、91行を引用した島田三郎の文章は以下の通りです。


☆☆☆☆☆引用はじめ☆☆☆☆

我国今日の状態を見よ。男子にして妻妾を畜(たくわ)ふるも、社会未だ甚だしき侮蔑を此人に加へず。女子にして数男に見(まみえ)れば、社会は如何なる眼を以て之を見んとするか。また見よ、貴賤一般の相続法を見よ。また長女却て次男に位置を譲るにあらずや。又見よ、民間夫妻の関係を見よ。男戸主の妻を迎ふるはもちろん、女戸主にして夫を納るゝも、一旦結婚するの後は、内外の権一切夫に帰して、妻はその命唯聴(ただきく)に非ずや。是等の風俗慣習あるにもかかわらず、男女無差別と云ふは、政治上の観察に於ては、不可思議の見解と云ふべきなり。人情すでに此のごとく、現状も亦此の如し。皇婿を出して女帝に配侍せしむるに於て、人民は女帝の上に別の貴者あるがごとき思を為すを免るゝ能はず。是れ予が威厳に害ありと云ふ所以なり。(ニ九七頁)

(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』pp264 幻冬舎新書)

☆☆☆☆☆引用終わり☆☆☆☆


両氏の意見の要点は以下の通りです。


沼間守一:

○家督相続は男子に限る。それは我が国のみ、民間のみの話ではない、立憲君主の諸国も、王家もそうである。
○男女に区別なし、階級なしと云うべからず。
○既に階級があり、区別があるのだから(女帝、女系は)奇論である。
○男尊女卑の慣習が人民の脳髄を支配する我国では女帝を立てて皇婿を拝するのは不可である。

島田三郎:

○家督は必ず男子に限る
○男子は妻妾を蓄えても社会は侮蔑をその人に加えない
○女子は複数の男性に見えれば社会は如何なる眼を以て之を見るか(侮蔑が加えられるであろう)
○だから皇婿を迎えれば人民は女帝の上に貴者あるがごとき思を為すは免れない。(天皇の)威厳に害がある。


沼間、島田の意見の、どこを現代、さらに将来にまで持ち越すべきなのでしょうか。

○家督相続は男子に限る。立憲君主の諸国も王家もそうである。→ 現在は、立憲君主諸国、王家の継承は、男女問わず、長子優先がその趨勢になっています。

○男子は妻妾を蓄えても侮蔑されない。→ 現代日本では不可でしょう!

○家督を継ぐのは男子のみ。 → そうでないケースが既に多々あります。又日本の歴史でも、江戸時代の禁中公家諸法度において女性が家督相続できないと定められていますが、江戸時代以前は必ずしもそうではありませんでした。

○男尊女卑の思想が人民の脳髄を支配する → 方向性として、男尊女卑ではなく「男も女も尊い」を目指すべきでしょう。

○皇婿を迎えた女帝の例は、イギリスのエリザベス女王を蔭で支え続けたフィリップ殿下が「女性を支えること」を使命とする皇婿を表現されています。日本でも女帝を支える皇婿が自然になる日が来ると思います。

なお、妻妾について、伊藤博文には、梅子夫人以外の女性が二人(女中と芸者)いました。井上毅も先妻(没)、後妻の他に側室(女子三人生む)がありました。幕末から明治初期に活躍した政治家の中には、公然と妾をたくわえていた実例が少なくないため、妾と庶子を公認せざるを得ないという伊藤、井上自身の事情もありました。

一夫一妻と、一夫多妻(庶子継承)は、両立できません。男子男系継承は一夫多妻なしでは続きません。

そのことを明治の旧皇室典範作成者は十分に承知していました。その上で、男系男子継承と庶子継承をセットにして、旧皇室典範を作成しました。

昭和22年に、庶子継承を典範から削った時に、男系男子継承も女系継承容認、すなわち双系継承に切り替えざるを得ないことは明白でしたが、当時は、男性の宮様が何人もいらっしゃったので、すぐに改正ということにならず、今日まで持ち越してしまいました。

現代において妻妾復活は、世界的潮流から見ても、人道的にも、あり得ないでしょう。

それでも明治時代の皇室典範で定められた男系男子継承を固守しますかと、男系男子維持派の皆様に問いたいと思います。どう考えても無理なのは火を見るより明らかです。


今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって良い一日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:女系天皇
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