聖徳太子の御歌―挽歌に見る死生観 [聖徳太子]
今日は、初期万葉の死生観を、聖徳太子の御歌から、学ばせていただきます。
万葉集には、挽歌(ばんか)、相聞歌(そうもんか)、雑歌(ぞうか)の三大部立てがあります。
挽歌(ばんか)は、人の死を悲しみ悼む歌。
相聞歌(そうもんか)は、恋の歌。また親子・兄弟姉妹・友人など親しい間柄で贈答された歌も含まれます。
雑歌(ぞうか)は、挽歌、相聞歌に属さないすべての歌です。
『万葉の世界と精神』の著者、山口悌治氏は、初期万葉の挽歌を通読して、上代におけるわれわれの祖先が、人間の死をどのように受け取ったかということを、次のように述べています。
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「それらを通読すると、死は現世から身を隠すこととみなされてゐる。肉体の死は人間そのものの死ではなく、したがって死者は虚無の彼方に消滅したのではなく、単に現世から身を隠したにすぎないのである。」(p286)
(山口悌治著『万葉の世界と精神(前篇)―日本民族の心の原点』。日本教文社)
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私は、「死」は、現世から身を隠しただけ、という見方が好きです。
「生長の家」という宗教がありますが、その講師が「死というのは、ふすまをちょっと開けて、向こう側に行ったようなもので、姿は見えなくなるけれども、人間のいのちそのものが、消滅したのではない」と話されました。「死は、現世に背を向けて、正面があの世に向いただけ」とも言われました。
ある講師によれば、寿命を全うした人は、あの世に行くと、先に亡くなった親族や友人が、赤ちゃんの誕生を祝うかのように、駆けつけてきて、歓迎してくれて、可愛がっていたペットも迎えに来てくれるそうです。そんな感覚が分かる気がする時があります。「千の風になって」の歌とも相通ずるものがありますね。
ただし、自殺だけは、してはダメと言われました。本当はまだ生きたいのに、不自然に命を絶つと、自殺によって自分が逃げ出そうとした現世の課題・問題を解決できないで、それを背負ったまま、あの世に移行するからです。きちんと解決しない限り、同じ課題・問題がいつまでも自分について回るので、生きていた時より楽になるということはなく、むしろ苦痛の程度が増すそうです。
だから、与えられた課題は、つらくても苦しくても、現世で解決するのが、一番であり、与えられた生命を最後までまっとうするのが、最善の道なのです。人間に解決できない問題は与えられない、八方ふさがりでも、天が開いています。必ず解決の道があります。希望を捨てないでください! と教えられました。
死は現世から身を隠しただけ、隠り身になっただけ、そんな初期万葉の死生観を、聖徳太子の御歌から、学ばせていただきます。
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“聖徳皇子、竹原の井に出遊(いでま)しし時に龍田山の死人(みまかりしひと)を見て悲しみて作りませる御歌一首
家にあらば 妹(いも)が手纒(たま)かむ 草枕(くさまくら)
旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ (巻三・四一五)”
“聖徳太子が、竹原の井(大阪府中河内郡相原町高井田の地)大和から河内への道筋で、大和川に面し、当時は行宮(あんぐう)があった由)の行宮へお出になられた時、竜田山のほとりに行倒れてゐる死者を傷んで歌はれたもの。太子の歌は万葉集にはこの一首しかない。ほかに『日本書紀』には長歌一首が載せられてゐる。
(語意)
家にあらば―自分の家に居ったならばの意。
妹が手纒(たま)かむ―妹(いも)はここでは妻のこと。
手纒(たま)かむは、妻の手を枕にすることができるであらうのに。
臥(こや)せる―臥してゐる、寝てゐるの意。
(大意)
ここが旅先でなく、自分の家であったならば、そこには優しい妻がゐて、いたれり尽くせりに介抱してくれて、よし息をひきとるにしても、優しい妻の手を枕とすることができたであらうに、旅先であるから、誰一人看病してくれる者もなく、淋しく死んでいったこの旅人は、まことに哀れにいたましいことよ――といふほどの意。(p287)
”
(山口悌治著『万葉の世界と精神(前篇)―日本民族の心の原点』日本教文社)
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言葉の意味:
行宮(あんぐう):天皇の行幸のときに旅先に設けた仮宮。行在所 (あんざいしょ)
龍田山:龍田山(たつたやま)は、現在の奈良県生駒郡三郷町(さんごうちょう)の龍田本宮(たつたほんぐう)の西、信貴山(しぎさん)の南にあたる山地とされています。龍田山(たつたやま)という名前は現在残っていません。
龍田山のほとりに行き倒れていた死者を「寝てゐる」と表現するやさしさ、そこに悲惨さはありません。妻の看病が受けられず気の毒だったという傷むお気持ちが表わされているだけです。
日本書紀でも、同じ情景を聖徳太子が詠った長歌があります。
太子は死に瀕している旅人に食べ物と衣服を与えますが、翌日、使者を遣わしたところ、亡くなっていたので、使者は手厚く埋葬しました。その数日後、太子が、使者に様子を見に行かせたところ、亡骸が消えて、与えた衣服がきれいなまま残されていたという話になっています。
旅人を埋葬させて数日後、聖徳太子は次のように仰せられます。
『先の日に道に臥(こや)せる飢えたる者、凡人(ただひと)に非(あら)じ。必ず真人(ひじり)ならむ』
「道端に飢えて臥せっていた人は、聖(ひじり)であるに違いない」と言われたのです。聖徳太子は使者を遣わして様子を見に行かせました。使者が帰って来て申すことには、
「墓所に行きましたら、封(かた)めて埋めたところは動いていませんでした。開けて見ると、亡骸は消えていて、太子様の衣服が、棺の上にたたんで置いてありました」
それで太子はもう一度使者を遣わしてその衣服を持って来させ、何事も無かったかのように着用されました。
当時の人々はこの話を聞いて、「聖(ひじり)の聖を知るということは、実(まこと)のことである」といよいよかしこまったとのことです。
キリスト教の、キリストの復活の話に似ていますね。これも、人間の肉体が消滅しても、人間そのものは消えたのではない、また旅先で不慮の死を遂げても、その人が、実は、聖(ひじり)であったという、死者に対するあたたかいお心が感じられます。
いずれにしましても、「亡くなったのではない、臥(ね)ているだけだ」という、死を自然のこととして、受けとめる感覚、人が他界しても、消えてしまうのではなく、別のところで生き続けているという、静かな感覚に、共感を覚えます。
今日も読んでいただきありがとうございました。
皆様にとって、生き生きとした楽しい一日でありますよう、お祈り申し上げます。
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