SSブログ

天皇の御歌(47)―第108代・後水尾天皇(1) [後水尾天皇(明正天皇)]

DSC_0729ダルマ20201016blog.JPG
今日は、第108代・後水尾(ごみづのを)天皇の御歌について学ばせていただきます。

御在世:1596~1680(崩御・85歳)
御在位:1611~1629(16歳~34歳)
です。
(1617年まで、御父・後陽成天皇の院政)


御水尾天皇は御退位後も院政をお取りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)、何と51年間に及びました。

御水尾天皇の院政期間:(第109代・明正天皇、第110代・後光明(こうみょう)天皇、第111代・御西(ごさい)天皇の各御在位全期間、第112代・霊元天皇御在位の3分の2まで)

実のところ、私は、御水尾天皇ではなく、御水尾天皇から御位を譲られた、女帝であられる第109代・明正(めいしょう)天皇の御歌を学びたかったのです。

明正天皇の御歌を学べば、日本の歴史上8人、十代の女性天皇の御歌を一通り、学んだことになります。

しかし、第109代・明正天皇の御製は、残されていませんでした。そこで父君の第108代・後水尾天皇を通して、明正天皇のことを学ばせていただくことにしました。

明正天皇は、
御在世:1624~1696(崩御・74歳)
御在位:1629~1643(7歳~21歳)
です。

第109代・明正天皇は、なぜ御製を残されなかったのでしょう。明正天皇の御在位期間は7歳~21歳でした。御幼少で即位されたとはいえ、同じ年齢の7歳で即位され22歳で崩御された第116代・桃園天皇は、御年8歳から御歌を詠まれ、短いご生涯でも、462首の御歌を残されています。御退位の後、74歳までご存命であられた明正天皇が、御製を1首も残されなかったことには、それ相応のわけがあったと思わずにいられません。

第108代・御水尾天皇は、第107代・後陽成天皇の第三皇子。16歳で践祚せられました。しかし後陽成上皇は崩御されるまで7年間、院政をお執りになられました。御水尾天皇も、34歳で、徳川幕府の専断に堪忍の緒を切られて突如御譲位になられましたが、御譲位された明正天皇から霊元天皇の御在位の3分の2の時期まで、4代の天皇の御代、51年間の長期にわたって、院政を続けられ、御年85歳で亡くなられました。

さらに、御水尾上皇の院政の後を継がれた第112代・霊元天皇も、御水尾天皇と同じ年齢の34歳で御譲位され、そのあとの東山天皇、中御門天皇の御二方の御代に、46年の長期にわたって院政をおとりになられ、御年70歳でお亡くなりになられました。後陽成院、御水尾院、霊元院、この御三方による院政存続の意義は、きわめて注目すべきことです。

『歴代天皇の御歌』の編者は、このことを

「徳川幕府の朝廷蔑視に対するご歴代の天皇方の、皇位継承と皇位保持についての、血のにじむやうな御心懐に基づくものと拝察すべきではなからうか」

と書かれています。

御心懐:お心に思うこと

徳川幕府の朝廷蔑視について、『歴代天皇の御歌』に次のように書かれています。

現代にも通じる非常に重要な内容だと思うので、長文になりますが、引用させていただきます。

前半3分の1ほど(p220)は、御水尾天皇の一代前、第107代・後陽成天皇の御代の説明です。後半(pp229~231)は、第108代・御水尾天皇の御代の説明です。
横書きにしたため、年号等数字の一部を、漢字でなく、算用数字といたしました。

☆☆☆

“後陽成天皇の御在位期間の後半3分の2は、徳川家康ならびに秀忠が登場する時期である。これより先、家康は、天正十八年(1590)江戸城に入って、秀吉に対決する本拠を確立、秀吉の死後3年目、慶弔五年(1600)には関ヶ原の合戦で勝利を収め、慶長八年(1603)に征夷大将軍に任ぜられることになり、こゝに徳川幕府は名実共に樹立し、以後慶応三年(1867)まで十五代・二百六十五年間存続することになった。その後家康は、京都に二条城を築き、己の武威を誇ると共に、朝廷に対して皇居を守護するという名目で、最も信頼するに足る藩兵を駐屯せしめ、厳に天皇ならびに宮中の公卿らの行動を監視させ、また皇族の御一人を上野輪王寺の座主(ざす)として江戸にお迎えし、これをもって朝廷に対する人質(ひとじち)とする挙に出た。さらに宮中に対しては、慶長二十年(1615)日本政治史上かつて類を見ない内容を盛りこんだ「禁中並びに公家衆諸法度(きんちゅうならびにくげしゅうしょはっと)」を制定して弾圧を制度化し、さらに「武家諸法度」(同年)によっていかなる大名も、幕府の許可なくして宮廷に奉伺することを厳禁したのである。これらの「法度」は、将軍職を秀忠に譲ったあとではあったが、未だに家康の存命、施政中の所業であった。(p220)

さて、御水尾天皇の御代のことに戻るが、践祚されて4年目の慶長十九年(1614)の「大阪冬の陣、その翌年の「大阪夏の陣」によって豊臣家は完全に亡びる。さらに後陽成天皇の項で述べた通り、慶長二十年(1615)幕府は「武家諸法度」を定めて武家に対するきびしい規制を強ひると共に、「禁中方御条目(きんちゅうがたごようもく)十七箇条」(別名「禁中並びに公家衆諸法度」)なるものを朝廷に押しつけた。かくて天皇から征夷大将軍に任ぜられている臣下が、逆に天皇に対して規制の文書を押しつけるといふ前代未聞の暴挙が起きたのである。しかもその法度の第一条は、「天子御藝能之事。第一御学問也」――天皇は御学問をなさらなければならぬ――と書き出されてゐるばかりか、「和歌は光孝天皇よりいまだ絶えず、綺語たりといへども我が国の習俗なり。棄て置くべからず……」とあった。だが光孝天皇は第58代目の天皇であられるが、その天皇から和歌をお詠みになってをられる、などとは無智も甚だしい。神武天皇以降、どれだけ多くの天皇方が、和歌を「しきしまのみち」としてその道を御つとめ遊ばされたことか。そればかりではない。幕府の「法度」は、和歌のことを「綺語たりと雖も」といふ。「綺語」とは、「巧みに表面だけを飾った言葉」、或ひは佛教が「十悪の一」とする「真実にそむいておもしろく作った言葉」といふ意味しかない。いづれにしてもそれは「しきしまのみち」として和歌が、日本の文化の中核を貫いてきた事実――まごころの表白――とは、全く正反対の意味であらう、しかもそれにつゞけて「棄て置くべからず」と書かれてゐるのであるから、家康・秀忠の皇室に対する不遜さは、こゝに極まると言へるのではなからうか。

やがて、六年後の元和六年(1620)には、二代将軍・徳川秀忠は、娘和子(まさこ)を皇室に入れ、その四年後の寛永元年(1624)には天皇は、和子を皇后とせられた。こういった御水尾天皇の忍耐強い御姿勢の折、高僧として名高い澤庵和尚に、天皇が紫衣(しえ)(註・勅許によって賜はる紫色の僧衣)を賜はった。これに対し幕府は、紫衣の「濫授」だとしてこれを奪ひ、さらに澤庵和尚を罰するという暴挙にさへ出た。天皇はいたくこのことに逆鱗あらせたまうたが、幕府が寛永六年(16629)、朝幕融和のためとの名目で春日局(三大将軍徳川家光の乳母)を参内させた直後、御水尾天皇は「葦原やしげらばしげれおのがまゝとても道ある世とは思はず」と詠まれて、突如、第二皇女、興子(おきこ)内親王(当時七歳)に位を御譲りになってしまはれた。ここで注意しておきたいことは、興子内親王は、二代将軍・秀忠の娘であった和子(皇后)のお生みになられた方であること。いま一つは、先に述べた「禁中並びに公家衆諸法度」の第六条に「女縁者の家督相続は古今一切これ無き事」とあり、これは公家についてのことではあらうが、皇室についても当然類推されるやうな書き方になってゐることである。すると、御水尾天皇が興子内親王といふ女の方に位を御譲りになられたといふことは、當然幕府に対しる御憤りのさまざまな意味が込められてゐたと言へよう。そして「法度」に抵触するやうな御水尾天皇のこの御行為を、幕府が不問に附したかげには、次の天皇が幕府の血縁の方であられたといふことから、自分に都合がよければ、自ら作った「法度」に抵触しても意義を申し立てない、といふ幕府の態度であったことはいなみ得ないであらう。(中略)
ついでながら一言加へると、さきの興子内親王は、天皇の位を継がれて第109代・明正天皇(女帝)となられた、御年七歳で践祚、御在位十五年ののち、二十一歳で御譲位、七十四歳まで、御存命であられたが、御歌は残されてゐない。御践祚、御譲位ともに御水尾上皇のご意向によることゝ拝せられる。(pp229~231) “

“御位ゆづらせたまへるとき(寛永六年―一六二九―御年三十四歳)(中略)

― 一説に澤庵和尚を東堂に被勅□時、東部(註・幕府)より申し返す故に、本院へ御譲りの時、云々として―

葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまゝ とても道ある 世とは思はず“
(p232)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

御水尾天皇への幕府の朝廷蔑視、専断がこれほど酷いものとは知りませんでした。戦国の世を終わらせ、安定した世を築きたいとの徳川家康と江戸幕府の願いからとは言っても、皇室の歴史や伝統への無知、無理解に発する行き過ぎた政策には、憤りを覚えずにいられません。

徳川幕府の政策のマイナス面は、今日の一部国民に見られる、男尊女卑思想、皇室の政治利用、天皇は御簾の奥で祈っているだけでよいという閉鎖的な皇室を望む論調に、相通ずるものがあます。非人道的な政策は、時代の進歩とともに是正されなければならないと思わずにいられません。

御製について


葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまゝ とても道ある 世とは思はず

葦原は、元々小漁村に過ぎなかった江戸を暗喩する言葉でもあるとのこと。

江戸の幕府は、自分の好き勝手に、茂って栄えるがよい。私にはとても道義のある世の中とは思えない、というほどの意。

後水尾天皇の御憤りが感じられます。

「しきしまのみち」に対する幕府の無智と無理解に驚かされます。

○「しきしまのみち」は「第五十八代・光孝天皇より未だ絶えず」???

 神武天皇以来残されている第五十七代までの天皇の御製を、全部、なかったことにしようというのでしょうか??
 一体、何を根拠に、こんな無教養な文章を公にしたのか理解に苦しみます。

○「綺語たりといへども」のいいぐさにも、驚くばかりです。
 
綺語:「綺語」とは、「巧みに表面だけを飾った言葉」、或ひは佛教が「十悪の一」とする「真実にそむいておもしろく作った言葉」といふ意味

 “神武天皇以降、どれだけ多くの天皇方が、和歌を「しきしまのみち」としてその道を御つとめ遊ばされたことか。”

和歌―しきしまのみちが、日本の文化の中核を貫いてきた事実、まごころの表白であること、ご歴代天皇が「道」として和歌を詠まれ御心を修養されたこと、神様への真剣な祭祀、そういった歴史の積み重ねをなんだと思っているのか!!

と、本日、筆者は、徳川家康と秀忠に怒り心頭ですヽ(`Д´#)ノ

しかし、アンガー・コントロールも大切。ということで、深呼吸を十回。

とりあえず、日ごろの笑顔に戻りました(^^)

怒るのは身体によくないので、後に持ち越さないようにしましょう。(*^^*;)

長文になりましたので、その他の文章の解説と感想は、次回以降といたします。


今日も読んでいただき有難うございました。

人生万事塞翁が馬、人生苦もあり、楽もある。

なるべく良いことを多く見つけて、今日を楽しくお過ごしください。

タグ:明正天皇
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。