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天皇の御歌(29)―第44代・元正天皇 [元正天皇]

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このところ、過去の女性天皇の御歌を主に取り上げていますが、それには理由があります。

ブログを読んでいただいていれば見当がつくと思いますが、愛子さまに皇太子になっていただきたいのが、一つの理由です。女性天皇の時代がどういう御治世だったのか、歴史から学んで、他人の意見の受け売りではなく、過去の女性天皇がどのような役割を果たされたのか自分で確かめようと思いました。

女性天皇は「中継ぎ」に過ぎないとか、男子男系のみで天皇家は継承されて来たことを強調して、女性天皇、女系天皇に反対する人があります。

一方、女性天皇推進、女系天皇容認の人々は「中継ぎであったとしても、果たされた役目は重いものだった」「女系天皇と呼べる天皇が歴史上存在した」と述べています。

そのことを自分で納得したいと思い、推古天皇、皇極天皇、持統天皇、元明天皇と、順番は前後しましたが、学んで参りました。

その流れで、今日は元正天皇の御歌を学ばせていただきます。

元正天皇は、第43代・元明天皇の皇女で、第40代・天武天皇の御孫にあたられます。
御在世:680~748(崩御69歳)、御在位:715~724(36歳~45歳)です。

元正天皇の御代には、舎人親王(とねりのみこ)が『日本書紀』を献上しておられます(720年)。舎人親王は、天武天皇の皇子で、元正天皇の叔父君にあたり、『日本書紀』編纂の主宰者であられました。天武天皇以来の歴史編纂のご遺志を受け継いだものと云えます。「養老律令」が出来たのもこの時代でした(718)。「養老律令」は「大宝律令」に続いて制定された律令で廃止法令が出されなかったため、形式的には明治維新まで続きました。

『養老律令』に先立ち、701年に制定された『大宝律令』に収録された「継嗣令」には「皇兄弟と皇子は、みな親王とせよ。(女帝の子も、また同じ)」と規定されています。(女帝の子も、また同じ)の文言は、手本とされた唐の「封爵令(ほうしゃくりょう)」には、「皇兄弟と皇子は、みな親王とせよ。」としか書かれておらず、日本独自に変更・加筆した文言です。ほんの一言ですが、「女帝」の即位を前提とした日本と、「女帝」の即位を前提としない唐との違いが、明確に現れています。

この大宝律令に基づき、元正天皇は、元明天皇という「女帝の子」として(内)「親王」となりますから、「内親王」として、天皇に即位されたと解釈できます。

元正天皇は、天武天皇の皇子である草壁皇子を父とし元明天皇を母とする皇女ですから、父親は皇子で、天皇ではありません。男性天皇の皇女でない元正天皇が「内親王」として、天皇を継承されたのは、「女帝の子」という規定に基づくものということになります。

『続日本紀』では母の元明天皇に触れていないとのことですが、『続日本紀』はシナ男系主義の強い影響を受けているため後代の史書としてそのように記述しているのであり、御即位当時の『大宝律令』に拠れば、女帝から皇女への継承で、女系継承という見方ができます。歴史というものを、御即位当時の人の視点で見るなら、確かに女系継承と言えると私も思います。
(参考文献:高森明勅著『歴史で読み解く女性天皇』 ベスト新書)

日本はシナの男尊女卑の影響を受けましたが、シナに比較すると、家の継承等について、双系(父方、母方の双方の系統)を重視する伝統があります。 男尊女卑文化の流入の強い影響を受けながら、その背後に日本由来の双系重視の伝統が常に息づいており、歴史の節目節目にその姿を表出します。

前置きが長くなりましたが、元正天皇の御歌を謹写します。

☆☆☆

“天平十五年(七四三、次の聖武天皇の御代)、群臣を内裏に宴し、皇太子(註・後の孝謙天皇)、親(みずか)ら五節(ごせち)を舞ひたまふ。右大臣、橘宿禰諸兄(たちばなのすくねもろえ)、詔(みことのり)を奉じて太上天皇(おほきすめらみこと)(註・元正天皇)に奏(まを)す。因(よ)りて御製歌(おほみうた)に曰(のたま)はく

そら見つ 大和(やまと)の國は 神故(かみから)し
 貴(たふと)くあるらし 此の舞ひみれば

天つ神 皇孫(みま)の命の 取り持ちて
 此の豊御酒(とよみき)を 齋(い)み獻る(続日本紀)“(p52)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

そら見つ:大和にかかる枕詞。虚空から見た、空に満つるなど、神が空からヤマトを見ているという観念のあらわれとみることができるとのことです。
(國學院大學デジタルミュージアム、
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68645

五節は、朝廷で、「大嘗祭(だいじやうさい)」「新嘗祭(しんじやうさい)」のとき、四人(大嘗祭では五人)の舞姫による舞を中心にして行われた行事とのこと。

この場合は、聖武天皇の即位から15年後なので、新嘗祭でしょう。皇太子(後の孝謙天皇)は、25歳の時でした。美しくご成長された女性皇太子が、父君のためにお祝いの気持ちを込めて舞われたのでしょう。

1首目、虚空から見る大和の國は神ゆえにこそ 尊くあるのだろう この舞をみればそう思えます。

2首目、天の神の皇孫であられる天皇のご統治に この美酒を、身を清めて謹んで奉ります。

とういう感じでしょうか。

皇孫は、太上天皇の御孫であられる皇太子のことかと最初思ったのですが、「皇孫」という言葉は、天つ神と対になって「天皇」を表すとのことでしたので、そう解釈いたしました。

御子息の聖武天皇の治世を讃えると同時に、御孫・皇太子の成長をみそなわして、前途を祝う、元正太上天皇のお心がしのばれます。


今日も読んでいただき有難うございました。

今日一日が素晴らしい一日でありますよう、お祈り申し上げます。


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