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天皇の御歌(59)―第52代・嵯峨天皇(2) [嵯峨天皇]

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今日も昨日に続き嵯峨天皇の御歌を学ばせていただきます。

御在世:786―842(崩御・57歳)
御在位:809―823(24歳~38歳)




☆☆☆

弘仁4年(813)夏4月甲辰(きのえたつ)、皇太弟(註・次の第53代・淳和(じゅんな)天皇)南池に幸(みゆき)し、文人に命じて詩を賦せしめたまふ。天皇和して曰(うたひたま)はく

時鳥(ほととぎす) 鳴く聲聞けば 歌主と
ともに千代(ちよ)にと 我も聞きたり(以上、日本逸史)

(p64)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味:

賦せしめる:賦するは漢詩などを作ること。漢詩などを作らせる。

歌主:(うたぬし)歌の作り手。 和歌の作者。

日本逸史:(にほんいつし)江戸中期の歴史書

[御歌の大意]

弘仁4年(813)夏4月甲辰(きのえたつ)、皇太弟(註・次の第53代・淳和(じゅんな)天皇)が南池に幸(みゆき)されて、文人に命じて詩(漢詩)を詠ませられました。嵯峨天皇は、その漢詩にお答えになり、御製を詠われました。

時鳥の鳴く聲を聞くと、和歌の作者である皇太弟の貴方と私が、永遠に一緒であると歌っているように聞こえます。


[感想]

昨日の御製は、御兄君の第51代・平城天皇にフジバカマを奉った時の御製で、今日の御製は、御弟君(皇太弟)、後の第53代・淳和天皇に、時鳥に託して、御弟君と共に皇室を永遠に支えたいとの御製だと拝察申し上げます。

しかし、仲睦まじい御製を交わした御兄君、第51代・平城天皇が、御退位後に平城天皇の譲位に反対していた仲成・薬子兄妹の強い要請を容れ、嵯峨天皇にかわって政権の掌握を図るという事件が起こりました。これを「薬子の変」と申します。薬子の変では、嵯峨天皇に機先を制せられて、平城上皇は政権掌握に失敗されて剃髪して仏門に入ります。その後も、平城上皇は、特に罰を受けることなく、上皇相応の待遇を受けられたとのことです。

この「薬子の変」により、嵯峨天皇の皇太子とされていた、平城上皇の御子様である高岳(たかおか)親王は皇太子を廃されてしまい、出家されます。高岳親王に代わって、嵯峨天皇の異母弟、大伴(おおとも)親王(後の淳和天皇)が皇太弟になられました。

そういう複雑な背景の中で、皇室の弥栄の深い祈りを込められた御製であるかと、拝察申し上げます。


嵯峨天皇は、御自ら般若心経を写経されたとのことです。天皇自筆の文書のことを宸翰と言いますが、宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいうそうです。

宸翰をWikipediaで調べますと、歴代天皇の書では、国宝に指定されている御宸翰がたくさんあります。

お恥ずかしながら今まで意識したことがありませんでしたが、歴代の天皇が多くの書の作品を残して来られたことは、私には新鮮な驚きです。

いつぞや、東京国立博物館で国宝になっている嵯峨天皇の御宸翰を拝見したと思いますが、機会がありましたら、また拝見したいと思います。


嵯峨天皇のお子様は系図などによれば49名の皇子皇女がいらしたと言われます。そのため多数に姓を賜り臣籍降下させました。その子孫が嵯峨源氏とのことです。49名の皇子皇女とは、現代では想像もできないことですね。

☆☆☆

“皇子皇女が多数おり[11]、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。”
(「嵯峨天皇 Wikipedia 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87

☆☆☆


今日も読んでいただき有難うございました。
今日が皆様にとって心豊かな一日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:今上陛下
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