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天皇の御歌(58)―第52代・嵯峨天皇 [嵯峨天皇]

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今日は第52代・嵯峨天皇の御歌を学ばせていただきます。
御在世:786―842(崩御・57歳)
御在位:809―823(24歳~38歳)

今上陛下は、先日のお誕生日の会見で、天変地異、疫病の蔓延などの困難な時期に不安定な世を鎮めたいと大仏を作られた聖武天皇、般若心経を書写された平安時代の嵯峨天皇に始まり,戦国時代の後奈良天皇,正親町天皇など歴代の天皇のことを次のように述べておられます。

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“日本の歴史の中では,天変地異や疫病の蔓(まん)延など困難な時期が幾度もありました。これまでの歴代天皇のご事蹟(せき)をたどれば,天変地異等が続く不安定な世を鎮めたいとの思いを込めて奈良の大仏を作られた聖武天皇,疫病の収束を願って般若心経(はんにやしんぎよう)を書写された平安時代の嵯峨天皇に始まり,戦国時代の後奈良天皇,正親町天皇など歴代の天皇はその時代時代にあって,国民に寄り添うべく,思いを受け継ぎ,自らができることを成すよう努めてこられました。“
(「天皇陛下お誕生日に際し(令和3年)」宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/43

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拙ブログでは、聖武天皇、御奈良天皇、正親町天皇の御歌は学ばせていただきましたが、嵯峨天皇の御歌はまだ学んでいなかったので、今日は、第52代・嵯峨天皇の御歌を学ばせていただきます。

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嵯峨天皇は、第50代・桓武天皇の第二皇子で、第51代・平城天皇の御弟君。天皇御治世のはじめには「薬子の変」などがあって、政情不安の時であったが、後、天皇の御努力によって、その波も治まり、平安初期における文化の隆盛期を迎へた。天皇は、漢詩に秀でてをられ「凌雲集」などを撰ばしめられた他、書を良くせられ、空海・橘逸勢(たちばなのはやなり)と共にわが国三筆の一人と称せられる。
内政においては、御即位間もなく「蔵人所(くらうどどころ)」を置き(810)、重要文書を取り扱はさせられ、検非違使(けびいし)を置いて(816頃)、京都周辺の治安維持に当たらせられた。なほ、814年には渤海(ぼっかい)国から来貢(らいこう)の挨拶使が来てをり、816年には空海が高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を創建してゐる。
(御陵墓は、京都市右京区北嵯峨朝原山町にあり、嵯峨山上陵(さがのやまのへのみささぎ)[円墳]と申し上げる。)

大同2年(807)九月乙巳(きのとみ)、(御兄弟にあたる平城(へいぜい)天皇が)神泉苑に幸(みゆきま)しし時皇太弟(註・後の嵯峨天皇)頌歌して云はく

宮人の 其の香(か)に愛(め)づる ふぢばかま
君のおほ物 手折りたる今日

(p64)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

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言葉の意味:

『凌雲集』:(りょううんしゅう)は、平安初期の日本最初の勅撰漢詩集。1巻。嵯峨天皇の命により、小野岑守 (おののみねもり) ・菅原清公らが撰。弘仁5年(814)成立。延暦元年(782)から弘仁5年までの作者24人の詩91首を収める。凌雲新集。

三筆:(さんぴつ)著名な3人の能書家の意であるが,一般には平安時代初期の書家の代表として空海,嵯峨天皇,橘逸勢 ( たちばなのはやなり) の3人をさす。

蔵人所(くらうどどころ):蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。

令外官:(りょうげのかん)律令制において,令に規定されていない官をいう。律令時代,令に規定されたほかに新たに設けられた官職。奈良時代に置かれた内大臣・中納言(ちゅうなごん)・参議,平安初期の関白・蔵人(くろうど)・勘解由使(かげゆし)・検非違使(けびいし)など。平安以後実権を振るった。

検非違使:(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「 非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」の意。

頌歌:しょうか。ほめうた。ほめたたえる歌。賛歌。

宮人:(みやひと、みやびと)宮中に仕える人。多くは女官をさす。

ふぢばかま:藤袴(ふじばかま)キク科の多年草。
https://www.hana300.com/fujiba.html

おほ物:「おほ」は、大きい、広大な、意を表す。また、偉大なもの、貴ぶべきものを表す。
(天皇に奉るふぢばかまの花を、貴い物と、表わしたと思われる)

[御歌の大意]

宮中の人がその香(かおり)を愛でた藤袴(ふじばかま)を、天皇に奉る貴い贈り物として、手折りましたよ、今日この日に。


[感想]

この御製と対になる御製を、第51代・平城天皇が詠まれています。嵯峨天皇は平城天皇の同母弟であられます。兄君に美しく香りのよい花を献上される喜びを詠まれています。

藤袴は、花の色が藤(ふじ)色で、 花弁の形が袴(はかま)のようで あることから、この名前になり、全体に桜餅のような香りがするとのこと。神経痛に効く薬草(入浴剤)でもあるそうです。秋の七草でもあります。開花期は8~9月とのことです。


今上陛下が「嵯峨天皇が般若心経を書写された」と言われたことについて、2018年に嵯峨天皇の写経が初公開されたことを日本経済新聞が報道しています。皇太子でいらした今上陛下は、2017年の御誕生会見で嵯峨天皇の写経のことを話していらっしゃいました。

60年に一度開封する儀式があるのですが、一般公開はありませんでした。この年は、写経から1200年の節目に当たり、史上初めての一般公開だったそうです。儀式には、高円宮妃久子さまと絢子さまらが出席されたとのことです。金泥は墨より重いので、写経するのがたいへんとのこと、嵯峨天皇の疫病退散の御祈りが、ひと筆ごとに込められたこととしのばれます。

(「嵯峨天皇の写経を初公開 京都・大覚寺、平安の三筆」日本経済新聞 2018年10月1日https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35961070R01C18A0CR8000/


写経が奉安されている京都の大覚寺の案内文「大覚寺とは」には、次のように書かれています。
大覚寺は元々嵯峨天皇の離宮であったという、嵯峨天皇にゆかりの深いお寺なのですね。

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“弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。 正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。 平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。 嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)である。 弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。”

““弘仁9年(818)の大飢饉に際して嵯峨天皇は、弘法大師の勧めにより一字三礼の誠を尽くして般若心経を浄書され、その間、檀林皇后は薬師三尊像を金泥で浄書、弘法大師は嵯峨院持仏堂五覚院で、五大明王に祈願した。このときの宸筆・般若心経は、60年に一度しか開封できない勅封心経として現在も大覚寺心経殿に奉安されている。”

(「大覚寺とは」https://www.daikakuji.or.jp/about/

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京都に行けたら、参詣したいと思います。

今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって素晴らしい一日でありますよう、お祈り申し上げます。

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